「フジワラノリ化」論 −必要以上に見かける気がする、あの人の決定的論考− 第5回 優香 其の一 なぜ、わざわざ優香を論ずるのか

其の一 なぜ、わざわざ優香を論ずるのか

なんでこいつはそんなにテレビに出ていられるのか、と意外に思われる芸能人を解析しにかかるこの連載、今まで渡辺満里菜・中山秀征・軽部アナ・関根麻里を論じてきたのだが、ここにきて優香と向き合いたいと思う。そうすると聞こえてくる声が何故わざわざ優香を、という声である。優香は順調に芸能活動を重ねているではないか、どうしてわざわざ取り上げるのか、優香の安定感に対して何の異論も飛んでこないだろうと。その通りだ。優香が順調である、というのは確かである。97年にデビューして以降、浮き沈みなく活動してきた。巨乳グラビアアイドルという、旬の果実のごとく入れ替わるポジションで花開き、散る前にその「巨乳の意義」に見切りを付け、バラエティ・司会で食うようになった優香。この論考で問うあれこれは、優香の安定感を知った上である。優香には安定感がある、では何の結論にならない。どうして安定感があるのか、その部分である。優香について、その安定感がないがしろにされてきたのではないか。どうして優香をわざわざ論ずるのかと同じ温度で、どうして優香は浮上したままなのかという「承認」の作業を試みたい。優香というのは、この期に及んで、誰かから憧れられない人だと感じる。あの人のようになりたい、と人が言うとき、その後には、○○だから、と続く。優香にはそういう「○○」がないのだろうか。その理由が見つからないのだとしたら、本人からのメッセージは無いのだろうか。それこそ藤原紀香が突然言い出したエコ方面の何がしか的な。

まずは、2000年に出版された優香のエッセイ集「ひるねのほんね」(角川書店刊)に頼ってみたい。2000年というと、グラビアアイドルから女優への転身(というかスライド)を画策していた頃にあたる。ドラマ「20歳の結婚」では主演を務めている。姉役に安西ひろこ、恋人役に押尾学という、「月日の経過を知ることのできる」共演者の面々の中で、あくまでも女優を貫いた。「ザ・テレビジョン」の連載をまとめた一冊には、それなりに本音が紡がれている。こういった女性タレントエッセイの王道は、「今まで言えなかったけど、本音をたっくさん書いちゃいます」である。その王道に沿った一冊である。しかし、その沿い方がやや過剰なのである。仕事ばかりで休みが少なくストレスを溜め込んだ時には「電話越しに『ア〜〜!!』と思いっきり叫び、お互いに『ワァ〜〜!』『助けて〜〜!!』と吠えまくったりしています」「何かが心の底にズシンと残ってる」と書く。それをサラリと書く。重い口を開くように、もう…、みなさん…、聞いてくださいよ、ではなく、そうなんですよ〜、という軽いテンションで書いてしまう。

優香の仕事っぷりには、軽さが通底していやしないだろうか。そうはいっても、適当さから導かれる軽さではなく、テンションとかスタンスとか、そういった輪郭のぼけた軽さである。ぼけた輪郭から注がれるから、優香はなかなか掴めない。例えば、優香は頭が切れるのか、おっとりとしているのか、この選択肢を出されても即答は出来ないはずだ。どちらも感じる、と答えたくなるのだ。彼女が出演する代表的な番組となれば、「王様のブランチ」だろうか。この4月で司会を務めて丸6年になる。田中律子が2年間、さとう珠緒が5年間と考えると、優香の司会っぷりは内外問わず認められていると言えるのだろう。王様のブランチという番組は、何者にも束ねられていない所が売りである。みのもんたとか明石家さんまとか島田紳助とか、そういう枕詞みたいな存在がいない。一応、情報がニュートラルである、という空気を底に流しておかなければならない。選ばされずに自分が選んでいるんだ、と思わせる必要がある。優香は自分の意見を言う。取り上げられた本を、実は読みましたと切り出して感想を言う。どうやら本当に読んでいるようなのだ。しかし、その感想がとことん平凡。「最後は、涙が止まりませんでした」「勇気をもらいました」、そういう、本来口先だけで出てくるコメントを、顔に思いっきり表情を注入して語る。知ったかぶりでもバカでも天然でもない、適応するための軽さが流れているのだ。テレビに出るということは、わざわざその人である必要性に応える、着色をする、ということである。優香はそれをしようとしない。

第5回 優香

志村けんと夫婦役が出来てしまうのも、その軽さゆえである。コントに馴染もうとするアイドルは、結局馴染まないから面白いのである。普段とは違うコントというフィールドに投げられてあわあわするアイドルを映し出す、それこそアイドルがコントに参加する意味なのだ。しかし、優香は馴染む。その様を観ていると、なんでわざわざこれを優香がやってんだろうか誰でも良いじゃないかと思ってくる。しかし、そう思わせるのが優香なのだ。優香じゃなくても良いじゃんをやるのが、優香なのだ。

前出の「ひるねのほんね」には、彼女自身が写した自宅の本棚写真があった。そこにはよしもとばなやさくらももこと一緒に、望月峯太郎と古谷実のマンガが並んでいた。要するに、今回の論考で解きたいのは、ここら辺の未整理感なのだ。優香は、そのままにしておいたから今の優香になった。めずらしいことだと思う。しかし、その未整理をキチンと整理することで「優香とは」が表出するのならば、ちょいと整理してみても面白いだろう。次回は、「30歳を前にしてアラサーを固辞する優香」と題して、来年30歳を迎える優香を、世代論から捉えていきたい。



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