社会はゲームとしてもう一回出てくる(宇野)
東:それを言うなら「バトルロワイヤル系」の表現なんて、僕には非常に退屈だけど? だって、もともと世の中がそうなっているのを反映して寓話化してどうする、と――いや、これはロールプレイ的に言っているんだけど、こんなふうに、宇野くんが「セカイ系」について言っているのと同じことが宇野くんが薦める作品についても言えるんじゃないかなあ。そもそも、「バトルロワイヤル系」のほうが現実認識において「進んでいる」と主張するのって、意味があるのかしら。
宇野:「バトルロワイヤル系」は「セカイ系」と違って、まだどこに結論が行くかわからない想像力だと思うからですね。さっきも言ったように、「セカイ系」ってビッグ・ブラザーは死んだと確認するための想像力ですよね。その結論はわかりきっている。「バトルロワイヤル系」は、リトル・ピープル同士の相互関係をどうするかという想像力です。前者がなければ後者はないし、後者に関してはまだ明確な答えが出ていない。
限界小説研究会が出した本のタイトルになっている、「社会は存在しない」というキャッチフレーズがありますね。昔ながらのツリー型の統治社会は確かにないのかもしれない。それをもって「社会は存在しない」とは確かに言える。ただ僕が『ゼロ想』で書いたことはすごくシンプルで、「新しい社会は、既に対等のプレイヤー、つまりリトル・ピープルたちの相互関係のゲームの中でもう一回出てきてますよ」ということなんです。そして僕らは「新しい社会」について考える必要がある。

東:限界小説研究会の議論は、僕はすべては支持していません。なぜかというと、彼らのなかには「セカイ系」を時代の反映と捉えようとしているひとも多いからです。今の世の中をうまく反映していて、ちゃんと読者に対して何らかの問題提起を投げかけている小説だと。確かにそれは一つの基準としてはいいんだけど、しかしそれだと宇野くんと同じ視点になってしまうし、「セカイ系」はそもそもそういうものではない気がする。オタク的な想像力は最初から社会の反映を拒絶するところがあるわけですよ。だって『AIR』とか、何も反映しているわけがないじゃない。それを「反映していない」って責めることに、なんの意味があるのかな。
今こそロマンティシズムの復権を!
宇野:『AIR』のキャラ造形やストーリーって、僕は結構反映していたと思うんですよね。ファンタジーだって、表現上のアイテムが違うだけで、いくらでも反映してますよ。ガンダム、ナウシカ、エヴァンゲリオン、どれも思いっきり反映しているじゃないですか。そんなことを言えば、どんな作品だって時代を反映しているし、どんな作品だって時代には流されない普遍的な構造を持っています。そして僕の「セカイ系」批判は近過去ノスタルジィというか、むしろ時代に流されすぎていたことへの批判だと思うんですね。僕には「セカイ系」的な物語が東さんが言うほど特別なロマンティシズムには見えない。ありふれた小さなロマンティシズムの一つにしか見えないわけです。
東:あのね、僕は、佐々木敦さんが『ニッポンの思想』で言いたかったことが何となく分かるわけ。それはおそらく、「思想や文学を読むときのワクワク感がなくなっている」ということなんですよ。ゼロ年代がそう思われた時代だったのは確かですから。宇野くんがさっき言ったのは、それに対して「いや、これこそがゼロ年代のリアルなんだ」ということだよね。僕はそれもすごくよく分かるんだけど、でも、それじゃうまくいかないだろうとも思うわけ。何故かというと、思想や文学に社会的に与えられている役割は、そもそもがある種のロマンティシズムの提供だからなんですよ。それを自ら封じ込め、禁じ手だらけでやってきたのがゼロ年代なんだよね。それはやっぱり解除していかなきゃいけない。そもそも、ロマンティシズムの回避そのものも、一種のナルシシズムのような気がするしね。「こんなに不自由なおれって、かっこうよくね?」っていう。

宇野:なるほど、よく分かりますよ。だから僕は東さんとの活動に積極的に参画しているんですが、どういう回路をもってロマンを回復するかというと、僕と東さんでは考え方が違っている。僕はやっぱりリトル・ピープル、つまり断片が網状に関係している相互関係の中から、おそらく得体の知れないものが出てくるんじゃないかと思っているわけですね。そういう部分に奇跡やロマンを見出したいわけですよ。
東:うーん。まあわかるけど、それは批評家的なロマンじゃないのかな。世の中があって、向こう側で事件が起きているのを横目で見て、「お、けっこうおもしろいものが出てきたね」っていうタイプの楽しさ。そりゃそういうものはこれからも残るでしょう。しかし、いま必要なのは、そういうものではないと思うんだよね。たとえば、宇野くんが誰かに「愛って何ですか?」と訊かれたとしたら、「う〜ん、イタい奴が来たな」って感じでいきなりスルーしちゃうでしょう(笑)。
宇野:そんなことないですよ! 東さんは僕の印象操作をしようとしている(笑)。僕は愛について超語る男ですよ。人の内面ではなくて人と人の間にも、「愛」とかロマンはあるんじゃないですか?
東::あらそう! 新しいじゃん。宇野2.0!
宇野:というか、僕はもとから2.0ですよ(笑)。
東:もとから2.0ってなんだよ(笑)。話を元に戻すと、愛とは何か、家族とは何か、人が生きるとは何か、こういうのはもともと思想や文学が答える問題なんだよね。それが今の批評の語彙ではとことんできなくなっている。その不自由さを、ここ5年くらいずっと感じていたんです。だから、小説を書こうと思ったわけ。
同時に、思想でもそれを回復するべきだと思うんです。たとえばこの『思想地図』4号に、ほとんど事故のようなかたちで入ってしまった「父として考える」。僕と宮台さんのあの対談が好評なのは、意外といいことだと思うわけです。あの対談では、別に思想用語や外国人の名前を何も出していないけど、思想って本当はそういうものでしょう。そういう素朴なロマンティシズムを復権しないと、10年代、思想は回復しないんです。でも、宇野くんたちが「父として考える」を読むと、「東と宮台、衰えてね?」と思うわけだよね。あれが衰えてると思われてしまうところに、僕は罠があると睨んでるんだよ。
宇野:僕、あの本の編集者ですよ(笑)。衰えているなんて思いませんって。
東:思想や批評は、一人ひとりの個別の人間に働きかける力を持たないといけないわけですね。でも宇野くんは、人間を群衆として捉えているから、ちょっとそこで話がズレてるのかなと思った。
宇野:まあ、東さんはやっぱり人間の内面を考えるタイプで、僕は人と人の間に注目するタイプなんですよね。それはどっちの回路をたどってもいいと思うわけですよ、結果的にたどり着ければね。それぞれの持ち味を生かして『思想地図』2.0を作っていこうという話ですよ、僕が言いたいのは。
東:「持ち味を生かす」って…なんか急に普通の話になったね(笑)。それ、新しいよ。
宇野:僕は「常に新しい男」ですよ(笑)。
東:分かった分かった。もとから2.0だもんね(笑)。
東浩紀×宇野常寛対談収録の『Final Critical Ride 2』
宮台真司×東浩紀×宇野常寛鼎談収録の『ゼロ年代のすべて』
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