世の中で一番必要の無いものはお世辞だと思っている。次に必要の無いものはネクタイである。その心は、と自分で問うてみれば「そんなもの無くても誠意は伝えられるっしょ」という真面目な返答でございます。高田純次の著書「適当論」や「適当教典」が売れているようだが、本音をオブラートに包んでデコレーションして小奇麗に手渡すよりも、本音など無いフリをして適当に放言するほうが、実は本音に近いしラクなんじゃないかと気付いたのではないかと深読みする。距離の問題なのだ。お世辞の応酬というのは、互いの懐からどんどん離れていく。その応酬は、それなりに高い位置へ互いを持ち出してくれるがそれを下からパチパチと拍手しながら観戦してくれる人はいない。いたとしたら、その上と下を離れた所から見やる親切さを外部は一切持ち得ない。サラリーマン社会や体育会系の社会が妄信するお世辞が持つ罠である。あとはその上下で肯定し合うしか道は無いのだ。これらが「ビジネスマナー」だとか何とか便利な言葉に変換されて「常識」になる非常識に敏感になっていかないと、ネクタイをすれば伝わる誠意があると真剣に思っちゃたりするらしい。気をつけねば。
会話力というものが贅沢に奮発される場面に遭遇すると興奮する。値踏み、というと言葉は悪いが、笑顔でユーモラスな話をしつつも、どこかで探り合っているのだ。雑誌の対談だとか座談会といったオフィシャルな会話であっても単なる日常の交渉事であっても、その探り合いが関係を柔和にさせたり緊迫させたりしていると気付ける場面はワクワクする。誘導尋問のテクニックが何層にも重なってくる。Aという返答を導き出すために、Bを聞き、そのためにCを匂わせておきながら、後々、最初のDはAを導くための複線だったかと知るのである。こうなるともう詰め将棋の世界である。その詰め将棋にハメられた側は「うん」とか「はい」しか話す口が無いのである。よれよれのスーツよりもシャキッとしたスーツ、30度のお辞儀よりも90度のお辞儀、そういったビジネスマナーの必要性は分かる。しかし、それはマナーであってテクニックではないとしておかないと、それだけ出来てふんぞり返ってしまう。もう噴飯ものである。
参院選が公示され、選挙ポスターや選挙カーが街を賑わせているが、どうしても感じてしまう一方通行に毎度の事ながら窮屈になる。この一方通行ではヤンキー先生や横峯パパという極上のジョークも可能となる。通行を許可するか塞き止めるかしか選択肢が与えられない。ダメならダメなだけというのは、候補者にとって決して難しい心地ではない。国民が政治と会話するのが選挙だというのなら、本来あちらもこちらも詰め将棋の盤上だというわけである。そんな感じがしない。でもまあ、投票ってのは行かなきゃいけない。タウンミーティングをやらせで行う皆々に対する答えは「とりあえず行ってやったぜ」でもいいのかもしれないが、それはあちらの詰め将棋の一環なのだという気もする。会話してから一票を投じたいのだが、会話って出来るのだろうかと思うわけである。具体例を探せないこちらも会話下手なのだとどこかで自覚しつつも、名前だけを連呼して通り過ぎる選挙カーに向かって「こいつはダメだ」と、とりあえず間引きに励むのだった。ワクワクする会話をしたいのだが。
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