―お話を伺っていると、飴屋さんは頭で考えることだけを信じないで、感覚とか、人間の存在そのものを、逆にとても強く信じているといらっしゃるように感じました。これまでの作品にも、人間と機械、もしくは動物の違いがテーマになっているものが多いですね。
飴屋:そうですね。さっきも言いましたが、人間は、「イメージ」を持つという点、それから「言葉」・・・概念みたいなものを持つから「意識」というものの比重が高い、すごく特殊な動物だと思います。少し角度を変えて話すと、人間社会って、さまざまなものを分業しあいながら成立してるじゃないですか。で、人間の歴史って、紀元前/紀元後とか、産業革命以前/以後とか、インターネット以前・以後とか、いろんな分け方で語られますが・・・僕の関心の中で一番大きいのは、分業以前/以後という区分なんです。
―「分業」がもたらした大きいものとは何でしょうか。
飴屋:「分業」って、ある行為を半分バーチャルなものにする作業だと感じるんです。例えば、動物を食べることにしても、殺すことを分業化されているから、食べる行為の半分ぐらいはバーチャルなものになっている。しかし、脳内でのバーチャル化の比重が高すぎれば、その行為をめぐっての無意識の領域は、やせ細ってもいくだろう。これは、その行為について考えたり、個人として判断をしていくことを、どんどん不可能にしていく気がするんです。例えば死刑制度。死刑にする、つまり「殺す」という実作業は分業されているから、自分は手を下さないまま、死刑制度は必要と思う、という側に立つことになる。なんだかそこが気持ち悪い。だから僕はダーティーハリーは好きだけれど、必殺仕置き人は不気味なんです(笑)。そこにはすでに戦争の芽がある気がする。こういうこと、たくさんあると思うんです。だから僕は色々なことが、わからない、わかりたいと、言い続けていたいんです。

―今回の「フェスティバル/トーキョー09春」で公演される『転校生』でも、何かわかったことがありましたか?
飴屋:『転校生』は実際の女子高生に演じてもらっています。女子高生についても、誰しも何かしらのイメージが、とりあえず浮かんじゃうと思うんですが・・・。しかし実際に女子高生を目の前にして、そう・・・6日目くらいかな?自分の中にある変化があった。や、変化というか、初めて気づいた自分の状態があった。ここでは言いませんが(笑)。そういうことが驚きだし、面白いんです。
―演出をされていて、飴屋さんが最も感情を動かされた瞬間を教えてください。
飴屋:感情・・・感情ですか。ちゃんと答えになっているかどうか分からないのですが、僕は基本的に、頭で考えることをあんまり信用せずに物事を判断するので、そうしながら創っていると最終的に、ある種の特殊な状態になります。自分では「潜る」だとか適当な言葉を与えてますが・・そうすると、理由もなく稽古に行く電車の中で泣き出すこととかはあります。なんで泣いているのか、自分では一切わからない。いつの間にか、ある種の情動?のようなものが揺さぶられて・・・動いているんでしょうかね。
―演劇の上ではプロではない、現役女子高生の演技はいかがですか?
飴屋:僕には、プロも演技も、よくわかんないんです・・。そういう概念が、あんまり無いのかな? ま、彼女たちは楽しそうにやってますよ。ていう風に見えます。ていうか、3日続けて稽古場に通う足が重かったら、きっと来ない方がいいよ〜って徹底して言ってたら、本当に辞めたり休んだり・・(笑)。僕は演出家という立場なんですが、いわゆる演技指導とかもしないし、自分が何をしてるのかよくわかんない。たぶん、ただ見ているだけなんです。見るのが仕事? 見るという立場から、役者が乗ってる、まな板の方を動かす決定権みたいなものだけが演出家にある権利だと思ってるんです。まな板に乗ってる側には乗ってる側の権利がある。演劇に限らず、僕の活動全般に言えることなのですが、わざわざ他人と関わるわけですから、自分の個人思想や美学を提示するというよりも、あるまな板の上に、居合わせるはめになった複数・・・によって出来上がった、 バーチャルとリアルの混ざり合ったゴチャゴチャしたもの?・・それを味わってもらえればと思います。
―僕は、芝居を見に行くたびに、なにか複製ではない喜びというか、気持ちが高 揚する感じがあります。
飴屋:そういえば、僕の場合、ジャンルは変化しても、美術でも音でも、複製作品に関わることがほとんどないですね・・・。動物販売なんて最たるもので、1年とかかけて繁殖させ、死なせずに育てないと複数にならない(笑)。まあ、人間の存在自体は複製がきかず、人生っつうか、個人史みたいなのも複製きかないですしね。自分の関心ごとの足場は、その有限性の側にある、ということなんでしょうね。誰かのことを好きになるにしても、アイドルとか2次元に対する萌えだとか、そういうものを、強く、多層的に含みながらも、近場の肉体との交配によってしか次世代は造れない・・・。いわば文化的な遺伝子と身体的な遺伝子による、多層的な存在なんだろうと。グローバルとかネットとか言いながら、もう笑っちゃうくらい、同級生だとか職場の人とかローカルな人に惹かれてばっかり(笑)。体はそやって数メートルの情報に反応してしまう。この、どちらもが現実ですよね。で、人がそんな風に生きていることについての、なにがしかの謎に取り組むのに・・・、この重い重い身体での、わずかばかりのジャンプと着地を、繰り返し続ける演劇表現というものに、それなりに力があるんじゃないかなって、・・・・そう思ってるのかな。たぶん。
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『転校生』
演出:飴屋 法水
作:平田 オリザ
公演日:2009年3月26日(木)〜3月29日(日)
チケットの予約および詳細はコチラへ
http://festival-tokyo.jp/program/transfer/index.html
平田オリザの戯曲『転校生』に、演劇界で話題を集める飴屋法水が挑んだ衝撃作。出演するのは、静岡県全域からオーディションで選ばれた女子高校生たち。ある高校の教室、いつもと変わらない日常に、突然ひとりの転校生が現れる・・。単調な日常に潜む他者との出会い、人間の存在の不確かさが浮かびあがる作品。
制作:静岡舞台芸術センター -SPAC-
主催:フェスティバル/トーキョー























