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自分が好きなことをやり続ける自由を得るために

音楽雑誌『MUSICA』を発行する株式会社FACTや、さいたまスーパーアリーナで開催する春のメガフェス『VIVA LA ROCK』をオーガナイズするロック観光協会株式会社の代表・鹿野淳さんは、『ROCKIN'ON JAPAN』などの名だたる雑誌の編集長を歴任したほか、ロックフェス「ROCK IN JAPAN FES.」「ROCKS TOKYO」の立ち上げに関わった人物としても広く知られている。そんな鹿野さんが音楽を仕事にしようと思ったきっかけとはなんだったのだろうか。新聞記者になりたかった中学生時代からフードファイター時代を経て、業界に一石を投じ続ける音楽ジャーナリストになるまでの半生に迫った。

Profile

鹿野 淳

1964年、東京都生まれ。2007年に音楽専門誌『MUSICA』を創刊。これまでに『ROCKIN’ON JAPAN』、『BUZZ』、サッカー誌『STAR SOCCER』の編集長を歴任。各メディアで自由に音楽を語り注目を集め、音楽メディア人養成学校「音小屋」を開講。2010年には東京初のロックフェス『ROCKS TOKYO』、2014年にはさいたま初の大規模ロックフェス『VIVA LA ROCK』を立ち上げるなど、イベントプロデュースも手がける。

お金がないから、好きなレコードを買うために「フードファイト」する日々

―幼い頃から音楽や編集の仕事に就こうと思っていたのですか?

鹿野:父親が会計士をしていたので、中学生の反抗期に家族への反発で、数字に関係する仕事には就きたくないなと思い始めました。で、数字とは正反対の仕事を探していった結果、中学校の卒業文集に「早稲田大学の政治経済学部に入って、新聞記者になりたい」と書いていましたね。自分でも覚えていないんですけど、なぜか(笑)。たぶん、新聞記者の、自分の意見を表明し、アクションを起こしていく感じに憧れたんだと思います。

―では、音楽に興味を持ち始めたきっかけは?

鹿野 淳

鹿野:5歳からエレクトーンを習い始めたことが、音楽との出会いです。小学校の高学年では教員免許を取れるくらいの腕前になり、日曜日にデパートで頭にポマードつけられてデモ演奏をしていました。1日中演奏するものだから、家に帰ると疲れて寝てしまい、そのまま月曜日に登校すると「髪の毛に油つけてるよ」とからかわれる。それがイヤで仕方なくて、エレクトーンは中学に入ってすぐに止めてしまいました。でも、その頃に自分が弾いていた曲が、ビートルズの曲だということがわかったんです。「僕は一人でロックンロールしていたんだ」と思うと嬉しくなって、それからはロックバンドにハマっていきました。しかし、高校2年生くらいで父親が病気になり、家が大変になってしまいまして。母親が朝から晩まで看病に出るようになったので、1日1000円渡され、それを朝昼晩の食費としてやり繰りするようになりました。ちょうどその頃、トーキング・ヘッズの4枚目のアルバム『リメイン・イン・ライト』が発売され、これがどうしても欲しくてたまらなかったんですけど、1日1000円では手が届きませんよね。

—育ち盛りで食費を削るのはキツそうです。

鹿野:そこで思い付いたのが「大食い」にチャレンジすることでした。近くに焼きそば4人分を20分で食べたら無料という店ができて、ここで食事を済ませてしまえば1日1000円分がすべてお小遣いになると思ったんです。当時はアルバムが1枚2500円だったので、3日間大食いに成功して、念願の『リメイン・イン・ライト』を購入することができました。これに味をしめた僕は、ザ・クラッシュのアルバム『動乱』も同じ方法で購入して。無料になるだけではなく、成功したら賞金が出る店もあったので、1ヵ月に18万円稼いだときもありました。好きなレコードを買うためにひたすら飯を食べる。人生がまったくよくわからなくなりました(笑)。

—高校卒業後はどのような進路を?

鹿野:明治大学の夜学に入り、バンドや仕事に明け暮れていました。就活は、嫌な仕事だったら自分は絶対に続かないだろうと思ったので、自分が働きたいと思うマスコミと音楽関係の何社かだけを受けることにしたんです。僕は『SWITCH』という雑誌が好きだったのですが、雑誌の裏側を見ると「扶桑社」という出版社の名前が書いてあったんですね。その扶桑社の最終面接で「僕は日本一、『SWITCH』を作るのが上手い編集者になりたい」とアピールしたんです。だけど『SWITCH』は外部の制作会社がほとんど作っているって言われてしまって。他の出版社でも選考は進んでいたのですが、早く就職活動を終えて旅行に行きたいという思いが強かったので、「週刊SPA!、最高です!」とか誤摩化して、有り難く扶桑社に入ることになりました。

—扶桑社ではどのような仕事を?

鹿野:「タイアップ部」に配属され、営業として広告代理店との付き合いがはじまりました。あるとき、上司から「20万円使って代理店を接待してこい!」との指令を受けたんですよ。その接待がとても好評だったらしく、上司からえらく褒められ、「お前を10年間かけて日本一の出版広告営業マンに仕上げてやる」と言われたんです。そこで30代になるまでの人生が決まってしまったと思ったことや、周囲のイケイケな雰囲気に馴染めなかったことなど不満が溜まってしまい……。そんな時に、『SWITCH』のような雑誌を探しに書店に行ったんです。そこで、当時創刊号だった『Cut』という雑誌を見つけ、裏を見たら「ロッキング・オン」と書いてあり、しかも求人を出していた。結局、扶桑社は1年で辞めて、ロッキング・オンに転職することになりました。

自分の人生を確信させた、読者からの1通の手紙

―ロッキング・オンにはすぐに馴染めましたか?

鹿野:それが、当時のロッキング・オンは地下組織みたいな雰囲気があって(笑)、なんか暗いなというのが第一印象でした。前職が華やかすぎたので、余計にそう思ったのかもしれないですけど(笑)。で、すぐに「こんな暗い会社は辞めたい」と思って再び転職活動をしたこともありましたが、辞め癖がつくのもダメだと思ったので、なんとか耐えて続けていきました。

―今までのお話を聞くと、くすぶっていた時期が続いていたという印象を受けます。どのようにして、「音楽ジャーナリスト・鹿野淳」が生まれていったのでしょうか。

鹿野:邦楽雑誌『ROCKIN’ON JAPAN』の副編集長を務めていた頃、「Spiral Life」というユニットがデビューしました。そのうち一人がアイドルバンド出身ということもあり「そういうアーティストをこの雑誌で取り上げるのはどうなんだ」と議論になったんです。でも、僕が「絶対、取り上げるべきだ」と啖呵を切り、本誌に掲載することに。そうした経緯もあって、彼らが素晴らしいミュージシャンだということを証明することが、自分のミッションだと思うようになりまして。2人のことを雑誌の中で盛り上げていくうちに、僕の文章が読者に認知され始めました。「鹿野さんの文章で彼らのインタビューを読みたい」という声もいただき、ファンが僕の文章を愛してくれるようになった。こういった感覚のエクスタシーを味わったのは初めてだったので、嬉しかったですね。こういうことが他のバンドでもできたらいいなと思うようになりました。

―読者の反響は何よりも励みになりますよね。

鹿野 淳

鹿野:当時、読者からもらった一通の手紙がすごく印象に残っています。そこには「鹿野さんのおかげで死ぬことを止めました。鹿野さんの書いた文章に興味を持ち、そこで紹介されていた音楽を聴いたところ、私の人生の支えが生まれました。本当に感謝しています」と綴られていて。僕は中学生の頃から記者になりたいと漠然と思っていましたが、本当にやりたいことがどういうことだったのか、このときに自分の頭と身体で実感することができました。書き手として自分が読者に認知され、そこからシーンが生まれて、人々の感動を呼んでいく。「この仕事は自分のアイデンティティになる」と確信した瞬間です。

編集長としての歩みのスタート

—その後はどのようなキャリアを?

鹿野:1998年に音楽専門誌『BUZZ』の編集長になりました。『BUZZ』は当時、休刊するのか否かという曖昧なポジションの雑誌だったのですが、僕はどうしてもこの雑誌を復活させたかった。というのも、当時、日本では電気グルーヴなどを中心にテクノが広がり、海外でもケミカル・ブラザーズやアンダーワールドといったクラブ系ユニットがシーンを作っていたんです。でも、『rockin’on』にテクノのミュージシャンを出しても「ハゲは載せるな」という反応が返ってくるだけ(笑)。だから新しい雑誌を使って、洋楽・邦楽の隔たりがない国境を超えたオルタナティブなロックを紹介したいと思うようになりました。2年間だけでしたけど、最高に楽しかったですね。外国のレイブパーティーに行って現場を当たり、それを生々しいドキュメンタリーにしたら、ちゃんと需要にもなって日本でも新しいシーンが生まれる。僕にとっての「仕事の思春期」はあの頃だったと思います。

—2000年には『ROCKIN’ON JAPAN』の編集長に就任されたそうですね。

鹿野:会社の中では、割とポップな嗜好性を持った人間でした。だから、『ROCKIN’ON JAPAN』のマーケットを拡大解釈して、もっとポップにすることを求められていたのだと思います。邦楽のマーケットが拡大し、洋楽雑誌より邦楽雑誌が売れるようになってきた時代だったこともあり、どこまでポップなロック雑誌を作れるかが一つの命題だったんです。しかし、僕が編集長になった時期にTHE YELLOW MONKEY、BLANKEY JET CITY、JUDY AND MARYなどのバンドが解散、もしくは活動停止に。表紙級のバンドが次々に消えて行ったんです。時代の変革期だったんですね、BUMP OF CHICKENが出て来たのもまさにこの頃で。そんな中、僕は浜崎あゆみさん、宇多田ヒカルさんを連続で表紙に起用するというパフォーマンスに打って出ることになったんです。

—反響はどうでした?

鹿野:浜崎あゆみさんの起用については、特に賛否両論がありました。雑誌のコンセプト的にどうなのだと。その号だけレギュラー広告を取り下げた会社もありましたから。しかし僕は、曲は作らずとも自分自身をプロデュースして200万枚のマーケットに立ち向かう彼女の人生を聞きたいと思っていて。結果は雑誌の返品率2%と大反響。『ROCKIN’ON JAPAN』のマーケットを思いっきり揺さぶり、そして勝ったんじゃないかと思っています。一方で、次の年には月刊から隔週の発行に増やす策を講じましたが、これは大失敗。1年間で元の月1に戻すハメになってしまいました。

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独立の理由は「シミュレーションできない未来を選びたかった」から

独立の理由は「シミュレーションできない未来を選びたかった」から

—編集長就任中に、ロックフェス「ROCK IN JAPAN FES.」の立ち上げにも関わっていましたよね。大変じゃなかったですか?

鹿野:忙しかったですけど、そこまで苦労はしませんでした。当時はロックフェスが今ほどなかったので、動員も今よりもシンプルな戦略で出来たと思います。苦労したのは場所を探すことでしたが、茨城県ひたちなか市が見つかってからはスムーズにことが運びました。何でもそうですが、新しいものを作るときには、新しいマーケットを作れるかどうかを考えていて。既存のマーケットのなかで新しい何かを求めている人が、自分の作ったマーケットに流れてくるかどうかが重要なんです。イベンターが作るフェスと比べてアーティストやステージのノウハウには疎いかもしれないけど、雑誌メディアを運営している僕らはお客さんと一緒の目線と導線でライヴを楽しむじゃないですか。そのノウハウを生かしてお客さん目線のフェスを作る、そこに新しいマーケットがあると思ったんです。

—そんな順風満帆な鹿野さんはなぜ、ロッキング・オンを退社することに決めたのでしょう?

鹿野 淳

鹿野:編集長だけでなく、「ROCK IN JAPAN FES.」や「COUNTDOWN JAPAN」という二つのメガフェスの立ち上げに関わらせていただくなど、会社にはたくさんのチャンスをいただきました。でも40歳になる目前で、会社から「そろそろ暴れるパフォーマンスをする存在ではなく、会社に収まるパフォーマンスを出来る様になれ」と言われたんです。そこで、会社のスタイルに収まっていくというやり方で勝つことができるのか? 会社に貢献することができるのか? という不安もありました。一方で会社を辞めるとなると、40歳を過ぎてからでは精神的に自信を持つのが厳しいと個人的には思って。だから、パーフェクトなイエスマンとして機能する組織人になるか、会社を辞めて独立するかのどちらかにしようと思ったんです。どちらも苦しい選択でしたけど、シミュレーションができない未来を選ぼうと決心して、後者の道に進むことにしました。

—独立の道を選んだ、と。

鹿野:独立するとなれば、常に時代と自分との距離を測って仕事をしていかなければいけません。さらに、マスコミはアーティスト、読者の双方がいて成り立つ仕事なんです。アーティストはユーザーがいれば仕事が成り立つけど、僕たちは右に作り手、左に読者がいて、はじめて存在することができる。そして双方に挟まれつつ、自分がどれだけ客観的かつ無味無臭な立場でいられるかどうかを考えなければいけないわけですけど、考えれば考えるほどそれは無理だということに気がつくんですよ。自分はイタコにも、透明な存在にもなれない。だとしたら、自分は作り手と読者の間でどう振る舞うべきなのか。結果的に自分の色が仕事に出てしまうことを大前提として、どう取材対象にとって有益な媒介になり、どう読み手にとって人生の彩りになるコンテンツを生んでいく存在になれるのかということを、考えなければならないと改めて思って、独立しました。

—なるほど。

鹿野:そこで重要なのが、ストレスやフラストレーションを仕事に持ち込んだら絶対にダメだということです。それをやってしまうと、アーティストと読者の間で最悪のコミュニケーションが生まれてしまいます。つまり、自分は自分らしく、自分の好きな仕事をしているという自覚を持ってコンテンツを作っていくことこそが大切なんです。そうしなければ、コンテンツが濁ってしまいます。自分が好きなことをやり続ける自由を得るために、嫌なことやっているなと思ったらそれを排除していかなければいけない。自分が仕事に前向きな状態をキープして、なるべくブレーキを踏まないでアクセルを踏み続けていられる状況を作るということが大事だと思い、組織人とは真逆の生き方を選ぶことにしたんです。

『MUSICA』創刊

—会社を辞めてからはどのような仕事を?

鹿野:ロッキング・オンを退社してから、「自分へのご褒美だ」と思ってサッカーのヨーロッパ選手権を観戦しに、ポルトガルへ行ったんです。帰国してからは、4万字くらいに膨れ上がった現地での日記を「会社を辞めて独立しました」という暑中見舞いと共にメールで送ったりして。それがきっかけで、サッカーを中心としたライフスタイルマガジン月刊『STARsoccer』を創刊する話をもらいました。独立してからは、他にも一人で編集やライターをしたり、ラジオやテレビのパーソナリティをしたりしていたんですけど、サッカー誌を作る編集部が必要になり、初めて会社として人材を募集して。

—サッカーはもともと好きなんですか?

鹿野 淳

鹿野:大好きですよ。日本のワールドカップ初出場が決まった「ジョホールバルの歓喜」もマレーシアまで観に行きましたから。そもそも、UKロックが好きな人でサッカーを好きにならない人は、僕は認めません(笑)。サッカーとロックは地続きになっているんですよ。OASISが合唱できる曲を作るのは、彼らがサッカースタジアムに子どもの頃から通っていて、その雰囲気をロックで再現したいと思ったからですしね。『STARsoccer』はカルチャー誌としてのサッカー雑誌だったので、ロックの取材もしていたんです。あるとき、マンチェスターでロックの取材をしていた際、夜に一人でぼーっとしながら「やっぱり音楽雑誌を作りたいな」と思う瞬間があって。帰国した日、その足でそのままフジロックに行ったものだから、その思いが確信に変わり、会社のスタッフに「来年からは音楽雑誌も作る」と宣言しました。偶然、そのタイミングで『STARsoccer』が休刊することになり、入れ替わりのような形で『MUSICA』がスタートしたんです。

—『MUSICA』を作る際にこだわっている部分はありますか?

鹿野:『MUSICA』に関しては、音楽雑誌とは何なのかを問い直し、人物ではなく音楽にフォーカスを当てる雑誌にしようと考えて創刊しました。『MUSICA』が創刊されたのは2007年の初頭なんですが、その頃になるといよいよ洋楽マーケットが崩壊してきて、洋楽を聴かないで育ったアーティストもデビューし始めた。このままでは読者はどんどん音楽を聴かなくなってきてしまうという危機感もあり、音楽自体を見せる紙面構成にしたんです。広告費などの収益が入って来ない30ページ以上のディスクレビューでは、音楽ライターだけではなく、ミュージシャンやレコード会社の人にも執筆してもらうことにしました。インタビューでもアルバム全曲解説をしてもらったりしています。

—今回のインタビューでは、かなり多方面に話題が及びましたが、鹿野さんの人生をお聞きすると、共通する行動原理や価値観が深く根付いていると感じました。最後に、今後の目標をお聞かせください。

鹿野:僕は常々、50歳になったら会社を辞めると公言していたんです。辞めた後はロンドンに渡ってコロッケ屋を開店させようと思っています。これはかなり真面目な計画でして、本気で考えているんですが、会社の人間が許してくれなくて(笑)。僕がお役御免になる状態のためには、若い人が育たなければいけません。それを含めて、当初から若い人を中心に採用するようにしています。音楽ジャーナリストを育成する「音小屋」という講座を主宰しているのも、同じ発想からです。僕より遥かに若くて、僕と同じくらいのパフォーマンスをする人が現れれば、僕は食べていけなくなって、必然的に引退に追い込まれます。その状態を作るのが今のいたって前向きな目標です。

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『最高の離婚』

坂元裕二さんの脚本が素晴らしいドラマ。不器用でぎこちない人の人生こそがドラマになるんだという鉄則のもと、世界中のドラマや映画が作られていると思ってるんですが、大抵の場合、そのストーリーには派手なハプニングがあり、「勝ち」へ向かってゆくのが普通じゃないですか。つまり最終的な「勝ち」があるからこそ、ぎこちない人生という「負け」の設定が生きてくるわけです。しかし、『最高の離婚』は、「負け」のまま人生の幸せや感動を見出していくドラマなんです。だから、リアリティがものすごくある。今まで何回観直したかわかりません。主演の瑛太さんは、僕にとって世の中で今一番ラブな存在です(笑)。『最高の離婚』の舞台は中目黒なのですが、よくランニングしながらロケ地を堪能しています。
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