CINRA

肩書きにはこだわらない。やりたいことをやってくのみ。

外資系広告代理店の株式会社サーチアンドサーチ・ファロンに所属する、荒木智子さん。広告業界で活躍しながらも「広告が好きなわけじゃない」と、まっすぐな瞳で言い切る。高校生のとき、福井県の片田舎からカナダへ単身留学した経験が、奇しくも彼女にとって、壮大なドラマの幕開けとなった。「好きなことしかやりたくない」という意志は、アメリカを生き抜こうとする中で、輪郭をいっそう鮮やかにしていく。両極端の環境を振り子のように激しく行き来しつつも、針路を操る清々しさは、彼女の着飾らない言葉と近しいものだった。

Profile

荒木 智子

1986年生まれ。福井県出身。高校からカナダケベックに留学する。大学はParsons the New School for Designでプロダクトデザイン科を専攻し、食器や花瓶などを制作。数多くのデザイン会社でインターンを経験し、デザイナー職から広告業界へ転身。 前職のUltraSuperNewではアシスタント・クリエイティブ・ディレクター、現職のサーチアンドサーチ・ファロンではインタラクティブプランナー&アカウントエグゼクティブとして在籍。プランニング、デザイン、アカウント等、広告という枠にとらわれず幅広く活動している。

ニューヨークで感じた、「アメリカンドリーム」

―荒木さんは高校へ上がるタイミングで、カナダへ留学されたそうですね。

荒木:はい。でも私、海外に憧れたことも全然ないし、英語が得意だったわけでもないんです。兄が先に留学したのを見送っていたら、突然親から「お前も行け」って言われて(笑)。日本で女子高生になりたいと思っていたのに、気づけばカナダにいくことになり。それも留学先がケベック州だったので、英語だけでなくフランス語も日常会話で飛び交う生活で、はじめは泣きそうな毎日でした。その後、アメリカの高校に転校したのですが、片言の英語とボディランゲージでがんばりましたね。そうしていたら不思議と、いつの間にか話せるようになっていて。

―自分の意志で留学を決めたわけではなかったんですね。でも言葉の壁を乗り越えたら、海外生活にも慣れてきたのでしょうか?

荒木 智子

荒木:初めてアメリカが好きになったのは、ニューヨークへ行った時でした。それまでアメリカ人って、「自分のことしか考えない人ばかりだし、最低だ!」と思ってたんですけど、ニューヨークは凄い人たちが集まる街だったんです。いわゆるアメリカンドリームのようなものを目指してる人も大勢いて、たくさん刺激を受けたし、「ここは自分が望めば夢が叶う場所なんだ」って思いましたね。ニューヨーカーは、決められたレールの上を生きる感じが全くなかったんです。その居心地の良さから、アメリカに残る決意をしました。

—そこから美大への進学を選んだ理由は何だったのでしょう?

荒木:もともと絵を描くことや、モノを作ることが大好きだったから、とりあえず美大に行こうかな、くらいでした。当時はデザインとアートの違いすらもわからないような状態だったんで。一年目はみんな同じように絵を描いたりして、そこから何を追求したいかによって専攻を決めます。私はそれまで平面的なものしか描いた事がなかったのですが、立体物を初めて作った時の興奮が忘れられず、プロダクトデザイン科を選びました。

—ものづくりに没頭する学生生活の中で、何か苦労はありましたか?

荒木:アメリカの大学では、ことあるごとにプレゼンをしないといけないんですよ。自分のアイデアを説明する上での、素材の決め手や、どういうコンセプトで作りあげたかといったストーリーと、自分の意見をちゃんと言わなければならない。だから授業中も発言をしないと、授業を受けていないと思われる。自己主張しないと何も始まらないんです。徐々に英語は話せるようになっていったけれど、もともと私はシャイなので、このしきたりにはかなり苦戦しましたね(笑)。でも、そういう状況で周りの友人を見ていたら、まったく喋れない人でも伝えたい気持ちがあって、一生懸命伝えれば必ず伝わるんだって気づいたんですよ。言語がすべてじゃなくて、それ以上に気持ちも大切なんだって。

履歴書には「特技:ウォーリーを探せ」

―美大を卒業後は、アメリカで就職を?

荒木:はい。大学のときからいろんなデザイン事務所でインターンをしていたんですけど、卒業後は食器のデザインをする会社に入りしました。その頃、ちょうどリーマンショックの影響でアメリカの経済が不安定になり、社会的にも就職が難しい時期だったんです。でも、頑張ればきっと仕事が見つかると思って、いろんなところを受けて。その会社は特に思い入れがあったので、4回くらい書類を送ったんですよ。毎回返事が来ないから、「覚えてる? ねえ覚えてる?」っていう気持ちで(笑)。「今は不景気だから仕方ない」とチャレンジするのを諦めてしまう周りを見て、「なんで最後までトライしてないんだ?」って思っていました。私、物事は、願えば絶対叶うと信じているんです。何事も「その道を進むためにどうしよう?」って考えて、まずは行動しています。

―考えて行動する、と。

荒木 智子

荒木:気づいたら、すぐ行動に移していることが多いんですよね。はじめの会社では、お皿などの装飾デザインをしていたんですけど、徐々に「食器は食器でしかない」って限界を感じちゃって(笑)。ずっと小さいスタジオにこもり、外との触れあいもまったくなかった。「5年後もこうしているのかな?」と思ったときに、ふと、「日本に帰りたかった自分」を思い出したんです。高校生から留学をして9年も経っていたし、どこか日本に対しての憧れも感じ始めたんですよね。ビザを取ったばかりだったこともあり、周りから反対もされましたが、私の人生なんだからと割り切って帰国をしました。

―日本に帰ってきて、いわゆるカルチャーショックはありましたか?

荒木:まず、一番衝撃だったのが満員電車。海外だと、みんな他人にフレンドリーなんですよ。表面的とはいえ、列に並んでいたら「ヤア!」って声をかけるのが普通。なのに日本の満員電車ではこんなに人が近くにいるのに、心の距離がすっごく遠くて、それにずっと違和感がありましたね。あと、日本ではアメリカと違って、苗字で呼び合いますよね。でも、苗字ってあんまり個性が見えにくいというか、覚えられないんです。だからイメージと合わなくて「川崎さん」を「斉藤さん」って間違えて呼んだときは、自分でもビックリしました(笑)。

―(笑)。それほど文化の違う日本で、仕事を探すのもまた大変だったでしょう。

荒木:それがそんなこともなかったんです。いつもそうなんですが、私は就職活動で、自分を良く見せようとはしないんですね。なんというか、ありのままの自分を見せていこうと。履歴書も着飾るようなことは書かないですし、特技欄に「ウォーリーを探せ」って書いたりしてました(笑)。結局、私のことは会ったときにいろいろと説明して、知ってもらえばいい。だから会社に合わせて内容を変えることもなかったし、それで縁がなければそれまで。そうして日本で最初に入った会社があったんですが、結局1年くらいで辞めてしまって。その後は、この先どうしようと悩んで、50人くらいの友人に自分の進路について「どう思う?」って聞いてまわってました。風呂敷は広げるだけ広げて自分で選べばいい、と思っていたので、とにかく選択肢を増やしたかったんです。

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やりたいことで、キャリアを積み上げる

やりたいことで、キャリアを積み上げる

—その後、広告代理店に転職したとお聞きしました。それだけたくさんの人に話を聞いた結果、進路の決め手はどんなところに?

荒木:元々、モノを作るのは凄い好きなんですけど、プロダクトだけっていうのは嫌だったんです。グラフィックも好きだし、ファッションも好きだし、建築にも興味がある。新しいものを取り入れたり、コンセプトを紐づけたり、ジャンルに囚われず、いろいろな形でアウトプットができるのって、広告かもしれないと気づいて。だからデザインやアートは大好きだけど、広告が大好きって訳ではないんですよ。

—意外です。転職自体はスムーズに進んだんですか?

荒木 智子

荒木:入社したのは、UltraSuperNewというクリエイティブ・エージェンシーでした。そのとき募集していたのは、プロジェクトマネージメント職。私はほとんどデザイナーの経験しかなかったけれど、入ってしまえばなんとかなると思ってとりあえず面接に行ったんです。入ったときはクリエイティブディレクターと一緒に企画を考えるポジションでした。プレゼン資料を作ったり、クライアントに提案しに行ったり、デザイナーとアイデアを考えたりして。

—実際に入ってみて、広告業界はいかがでしたか?

荒木:私は飽き症で、ずっと同じことを続けるのが苦手なので、「この仕事が合うのかも」と思いました(笑)。クライアントもデジタル部門、イベント部門、マーケ部門などいろいろあって、その人たちから依頼される内容も毎回すべて違う。それに合わせてアウトプットの形が変わってくるのは面白かったですね。たとえば、「Red Bull Circle of Balance」っていうレッドブルのイベントがあったんですが、メディアキットからイベントの会場まで考えました。やっぱり、元々プロダクトをやっていたので、リアルにできるものって感動が大きくて。アスリートが手にしているトロフィーも会場も、私たちが考えたんだよなって、すごい達成感がありましたね。

—お話を聞いていると、特に不満があるわけでもなさそうですが、そこからさらに転職を経験されるんですよね?

荒木:そうですね。でも、転職回数は多いけれど、これまでもずっと会社を嫌になって辞めたのではなく、次にやりたいことが見つかった時に仕事を変えてるだけなんです。前職では自分で企画を考えることができるし、焦りとか悪い意味での緊張感もないし、友達もたくさんいたし、すごく楽しかった。でも、私にとって企画だけを考えるのは仕事じゃないな、と感じたときがあって。あくまでもアシスタントという立場だった、というのも大きいかもしれません。アカウント(営業)からの依頼があっての仕事なので、自分で何かを作り上げてる感が半分しかないような感じなんですね。それで「じゃあこの先、何をしたいんだろう?」って考えたときに、自分にはもっと学ぶベきことがあると思ったんです。ひとりの人がひとつのスキルしか持たないのでは、この先は難しいんじゃないか、と思って。

会社って、新しいことを知るための学校

—もっと自分のスキルを増やしたいと?

荒木:そうですね。そのためには、いろんな経験をして、自分ができることを増やしたほうがいいと思いました。実は、今の会社には一度応募して断られているんですよ。でも、再びチャレンジすることにしたんです。結果無事に入社できて、初めは「インタラクティブ&アカウントエグゼクティブ」っていう、よくわからない職種に就きました(笑)。

—確かに聞き慣れない肩書きですね(笑)。

荒木 智子

荒木:でもこの肩書きには少しこだわりがあって。前職でお世話になったアカウントディレクターの方から、「アカウント(営業)でも絶対にクリエイティブ感が出るような肩書きにしてもらえ」って言われたんです。実際に業務が始まってみたら、本当にクライアントから「まあ、営業の姉ちゃんもそう言ってるからな」って言われたことがあって、肩書きの重要性を強く実感しました。自分の仕事をやり抜くためには、印象も大事なんだな、と。

—今の仕事で大事にしていることはありますか?

荒木:今まで経験してきた仕事とは違って、Googleさんやゴディバさんなど、お客さんも大規模なところが多い。そうなると、エンドユーザーの幅も広がるから、私の偏ったアイデアだけではうまくいかないこともあって(笑)。だから客観的な意見は、より大切にするようにはなりましたね。今はスケジュールとか予算とか数字のことも考えるし、以前よりも色んなことを考えなきゃいけない分、日々勉強の毎日です。それから、外の制作会社とのやりとりの重要さや面白さにも気づきましたね。そういう人に会うと、絶対新しい情報が入って来るし、その分野に専門的なので、質問したら想像以上のレスポンスが返って来る。それが、凄く刺激的なんです。

—まさに、荒木さんが求めていた環境ですね。

荒木:仕事の中で新しいことを知るのが、本当に好きなんですよね。私は、昔から内輪ノリとかは嫌いで、自分自身、常に変化していきたい。ひとつのことをやり続けるよりも、いろんなことをやった方が人のためにもなると思いますし。だから、10年後の自分を考えて行動するというよりは、今の仕事から繋がる2年後の計画を立てていくという方が合っているのかもしれません。

—では最後に、今後の目標を教えてください。

荒木:今は「とりあえずアイツに言ったらなんとかなるだろう」と思われるくらいの知識が欲しいなと思っています。その能力を円グラフにしたら、大きくてきれいな丸が一番バランスがよいので、目標は常に高めにしていて。私は会社って「新しいものを知るきっかけの学校」だと思っているんです。大学院よりもたくさん学べるし、得意不得意科目もある。だから、それぞれの仕事って学校の授業のようなものだと感じているんですよね。そこで学んで、次のレベルに進んでいくと言いますか。いずれは何でもできる「ひとり会社」みたいな感じになれたらいいな、って思っています。

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