三島由紀夫が本当になりたかったのは劇作家? 『金閣寺』の世界

2014年、年明け早々、三島由紀夫が1963年のノーベル文学賞候補であったことが明らかになった。戦後の日本文学を代表する文豪として、衝撃の割腹自殺から40年以上を経ても、その名前を燦然と文学界に輝かせている三島由紀夫。『仮面の告白』『豊饒の海』『潮騒』と、緻密な構成と耽美的な文体で描かれた彼の小説は、幅広い読者を獲得し、日本のみならず海外での評価も高い。

小説家としての功績ばかりが注目されている三島だが、じつは『鹿鳴館』や『サド侯爵夫人』など多くの戯曲作品を執筆している。また、劇作家だけにとどまらず、文学座に在籍し、自ら演出や出演も果たすなど、演劇に対して並々ならぬ熱意を燃やしていた。そんな熱意を受け継いだ演出家・宮本亜門、そして柳楽優弥の主演によって、今年4月『金閣寺』が再演される。三島由紀夫にとって演劇とは何だったのだろうか? 今回の再演をきっかけに、彼の「演劇人」としての側面を浮かび上がらせてみよう。


実際のところ、三島由紀夫は舞台で何を描き出そうとしていたのか?

ファミレスの店員で、まあもちろんバイトで、さいとうさんっていう女の子がいて、そのファミレスのほとんど平日は朝のシフトにわりと毎日入ってる人なんですけど、その人の、話から、します。(チェルフィッチュ / 岡田利規『フリータイム』)
とんだお招きね。馬の稽古のかえりに、ちょっと立寄ってくれ、というたってのお頼みだから、こうしてはじめてのお宅に伺ってみれば、思う存分待たせてくださるんだわ。(三島由紀夫『サド侯爵夫人』)

これら2つは、いずれも「演劇」の脚本だ。後者が発表されたのは1965年。一方の前者は2008年に発表されたもの。どちらかと言うと、岡田の言葉遣いのほうが、我々にとって親しみやすく、三島の言葉遣いはあまり日常的に使われる言葉ではない。しかしこれは40年という時の経過が生み出したものというよりも、両者が舞台の上でなにを描こうとしているかの違い、あるいは「人間」をどのようにして捉えているかの違いだろう。岡田は前述のようなセリフで「何気ない日常に潜む過剰なイメージ」を描き出そうとした。では、三島はどんな舞台表現を念頭にこのセリフを書いていたのだろうか?

幼い頃から「芝居の世界」に憧れ、思春期の衝動として歌舞伎や能の世界に魅せられていく

芝居好きの祖母からしょっちゅう観劇の感想を聞かされ、「世の中にはそんな素晴らしいものがあるのか」と、幼少の三島は芝居の世界への憧れを募らせていく。しかし、子どもの教育に悪いという方針から、はじめて歌舞伎座に連れて行ってもらえたのは三島がようやく中学1年生になった頃。そこで観た作品は『忠臣蔵』だった。

大序の幕があいたときから、私は完全に歌舞伎のとりこになった。それから今まで、ほとんど毎月欠かさず歌舞伎芝居を見ているわけであるが、何と言っても旺盛な研究心と熱情を持って見たのは、中学から高校の時分であり、当時メモした竹本劇のいろんな型や要所要所やききゼリフは、今でもよく覚えているほどだ。(『芝居の媚薬』所収『私の遍歴時代』角川春樹事務所刊)

その後、能の世界にも触れ、ますます舞台芸術の世界にどっぷりとハマっていった三島。まるで「キース・リチャーズのファズギターが世界を変えた」とアツく語るロック少年のそれのように、三島は思春期の衝動として歌舞伎や能の世界に魅せられていったようだ。だが、意外にも現代演劇にその足は向いていない。

外国の台本は手あたり次第に読んだが、翻訳劇を見る気は起こらず、季節はずれの郡虎彦の戯曲などに夢中になっていた。(同)

三島にとって舞台芸術の魅力とは、歌舞伎や能などの様式がもたらす美の結晶。日本人が、日本人の身体で外国人を演じる翻訳劇は魅力に欠けたものに映ったのだろう。

『金閣寺』(2011年)
『金閣寺』(2011年)

「こんなに面白いことがあってよいものだろうか、というのが当時の私の正直な感想であった」(三島)

そんな三島の演劇デビュー作となった戯曲が『火宅』という一幕物だ。当時、三島は24歳。処女長編作『仮面の告白』を執筆し、すでにその名を文壇に轟かせていた。だが、川端康成の応援を受け、数々の小説を執筆してきた三島が、いざ戯曲を執筆しようにも「私は四百字の原稿用紙1枚をセリフで埋めるのすら、おそろしくて出来なかった(『私の遍歴時代』)」という。「七転八倒の苦しみで」三島は、ようやく原稿用紙30枚あまりの作品を書き上げる。そして、それが雑誌に掲載されると、俳優座から上演依頼が舞い込んだ。その初演の夜、三島はすっかり舞い上がってしまったようだ。

小説は書いたところで完結して、それきり自分の手を離れてしまうが、芝居は書き了(お)えたところからところからはじまるのであるから、あとのたのしみが大きく、しかも、そのたのしみにはもはや労苦も責任も伴わない。こんなに面白いことがあってよいものだろうか、というのが当時の私の正直な感想であった。(『私の遍歴時代』)

「劇場には少なくとも昂奮(こうふん)がある。私は昂奮や熱狂というものに無縁な人間でいることはできない」(三島)

以降、『サド侯爵夫人』『わが友ヒトラー』『鹿鳴館』『黒蜥蜴』などの名作戯曲を執筆し、生涯にわたって小説とともに演劇を仕事としていった三島。

それにしても私は心から芝居を愛する。それにもまして劇場を愛する。もし日本で劇作家たることが、アメリカのように十分引合う商売であったとしたら、私はとっくに小説家を廃業していたかもしれない。小説の制作は冷静な作業の一点張だが、劇場には少なくとも昂奮がある。私は昂奮や熱狂というものに無縁な人間でいることはできない。(『裸体と衣裳』)

三島は「戯曲というものは、あくまで構成的原理に基づくもので、構成さえ綿密に立ったら、あとは一気呵成に行く筈だ」とも述べている。つまり三島にとっての演劇とは、岡田利規(チェルフィッチュ)のように、日常を切り取ることでも、そこにキャラクターを描くことでもなく、それは表現における様式であり、構成であり、精神であった。三島は、それらを「戯曲をのせる」ことによって「昂奮」や「熱狂」を舞台上に出現させることを望んでいたのだ。

「日本の演劇界に三島を包容するだけの力がなかったというよりほかにない」(柳美里)

三島の筆から生み出された数々の小説は、戦後日本文学に深い影響を及ぼした。それと同様に、三島戯曲は日本の演劇界にただならぬ影響を与えている……と書きたいところだが、実際のところ、どこまで演劇界に影響を与えたかについてはやや疑問が残る。芥川賞作家であり、劇作家としても『岸田國士戯曲賞』を受賞した柳美里の言葉を引用してみよう。

三島劇の多くが新劇(ヨーロッパ流の近代的な演劇)の劇団によって上演されたとはいえ、本質的には新劇とは敵対関係にあった。その新劇に反旗を翻したアンダーグラウンド演劇も三島の調和的なドラマツルギーを嘲笑し、無視した。本来であれば三島劇は日本の現代演劇の正統に位置されるべきだったが、「喜びの琴」を反共劇だとして「文学座」が拒否したことを考えると、日本の演劇界に三島を包容するだけの力がなかったというよりほかにない。(『芝居の媚薬』解説「王の恵みと宿命」)

「新劇」と呼ばれる日本の近代演劇は、共産党をはじめとする左翼運動と密接に関わってきた。後年には右翼的な思想に傾倒し、「天皇陛下万歳!」と叫びながら割腹自殺を遂げた三島の思想とは真逆という他はない。一方、新劇を乗り越えようとしたアンダーグラウンド演劇は、能や歌舞伎を参照したという意味では、三島と同じ源流から影響を受けていたものの、彼らにとって、三島の形式主義や構成主義は破壊すべきものだったのだ。

『金閣寺』(2011年)
『金閣寺』(2011年)

レベルが高すぎて、演出家や俳優ですら理解できなかったという、三島作品をめぐる状況

さらに、生前から三島と懇意にしていた美輪明宏によれば、じつは三島作品は興行的にもふるわなかったという。

「三島さんの芝居は『鹿鳴館』以外は興行的にはあたらない」と言われたそうなんです。ものすごい侮辱ですけど、実際その通りで、文化シアターで上演された「弱法師」というのを私も観に行ったんですが、お客さんが入らなくて惨憺たる有様でした。レベルが高すぎたんです。(『「黒蜥蜴』のこと』美輪明宏)

美輪の証言によれば、三島の書く哲学的なセリフは、当時、観客だけでなく演出家や俳優ですら理解できないことも少なくなかったという。その後、三島たっての希望で美輪は『黒蜥蜴』で主演を演じ、その上演は現在にまで続く大成功を収めている。美輪ならではの三島作品への理解、解釈が、その支えの1つであることは間違いないだろう。また、『鹿鳴館』も劇団四季のレパートリーに加えられ、上演が続けられている。

柳楽優弥
柳楽優弥

世界の舞台芸術シーンに一石を投じた「BUTOH」誕生のきっかけとなった『禁色』

だが、三島自身も思わぬところで、日本、いや世界の舞台芸術史に残る作品も誕生させている。1959年、暗黒舞踏の創始者・土方巽と大野慶人によって上演された舞踏作品『禁色』だ。

『禁色』は、1951年に第1部が、1953年に第2部が出版された、三島にとって6作目となる長編小説。『仮面の告白』と同様に、タブーとされていた男色の主人公が登場するセンセーショナルな内容だ。土方と大野はこの物語を原作とした舞踊作品を舞台にのせる。同作品は大成功を収め、ここから「舞踏」という新たなジャンルが登場した。

じつは、この『禁色』の初演を三島は観ていない。人づてに噂を聞きながらも「どうせ文学青年くさい観念過剰の踊りだろう、とタカをくくっていた」のだ。しかし、その後、高まる評判を聞き、稽古場にまで足を運んだ三島は、「今のところ広い東京に、私はこれ以上面白い舞台芸術はないような気がしている」と絶賛するまでに至る。この『禁色』から「舞踏」という新たなジャンルが誕生し、今や日本が生み出した「BUTOH」は、世界中の舞台芸術シーンに広くその名を知られることとなる。

「中二病」と言われてもおかしくないような主人公の思考回路を、緻密な論理と美しい文体で文学作品の高みにまで押し上げた『金閣寺』

『禁色』と同じく、三島の代表的小説『金閣寺』は、前衛芸術家・村山知義演出による演劇や黛敏郎作曲によるオペラ、市川崑監督・市川雷蔵主演の映画『炎上』、あるいはラジオドラマなど、さまざまな分野のアーティストによって演出され、多くの世代の観客に楽しまれている。今回赤坂ACTシアターで再演される宮本亜門演出の『金閣寺』も、この系譜に連なる作品だろう。

三島由紀夫の書いた『金閣寺』は、1951年に発生した『金閣寺炎上事件』に着想を受けて執筆された。主人公である「溝口」という見習い僧は、金閣寺の持つ「美」に憧れ、その美を憎みながら放火する結末に至る。犯人の告白という体裁で、その哲学的な思考回路をめぐる本書を、文芸評論家の中村光夫は「三島氏の青春の決算であり、また戦後という1つの時代の記念碑である」と絶賛した。

『金閣寺』(2011年)
『金閣寺』(2011年)

この小説のもととなった金閣寺炎上事件の犯人・林養賢は、小説の主人公「溝口」と同様に吃音の障害を抱える。三島は創作ノートに「林養賢は書かざる芸術家、犯罪の天才」と認めるほど、林に対して深い思い入れを抱いていた。ただし、三島が書く「林=溝口」の思考回路は、現代でいえばあたかも「中二病」とそしられてもおかしくないような内容。三島は、緻密な論理と美しい文体で、彼の思考を文学作品の高みにまで押し上げている。

こうして日頃私をさげすむ教師や学友を、片っぱしから処刑する空想をたのしむ一方、私はまた内面世界の王者、静かな諦観にみちた大芸術家になる空想をもたのしんだ。外見こそ貧しかったが、私の内界は誰よりも、こうして富んだ。(中略)この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待っているような気がしていた。(『金閣寺』より)
人に理解されないということが唯一の矜(ほこ)りになっていたから、ものごとを理解させようとする、表現の衝動に見舞われなかった。人の目に見えるようなものは、自分には宿命的に与えられないのだと思った。孤独はどんどん肥った。まるで豚のように。(『金閣寺』より)

社会に対する違和感、孤独、絶望を描きながら、「生きること」を描く

思春期に感じる孤独や、自己の存在に対する不安、自分と社会との違和感などは、多かれ少なかれ誰にでもあることだろう。たとえば、『金閣寺』を読み、「林=溝口」の思考を巡りながら思い起こされるのは、2008年に起こった「秋葉原通り魔事件」だ。事件を起こした加藤智大も、唯一の拠り所であったネット掲示板からはじき出され、世の中に対して絶望しながら秋葉原で事件を起こした。

社会的な死、孤立の恐怖は耐えがたく、それよりも肉体的な死のほうがまだ救いがあると思えた。(『解』加藤智大・批評社)

鶴川や柏木という学友と哲学的な議論をしながら、金閣寺を燃やさざるをえない心理的な状況に追い込まれる溝口。実際の事件では、林は金閣寺を燃やしたあと、山中で睡眠薬を飲み自殺を計った。一方、三島の『金閣寺』では、この場面は描かれないまま終わっている。とても長い小説の最後は、金閣寺を燃やした溝口の「一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った」という言葉で締めくくられる。

2011年にKAAT神奈川芸術劇場のこけら落とし公演として『金閣寺』を上演した際、演出家の宮本亜門はこの言葉をこう解釈していた。

僕には三島さんが最後に小説世界から抜け出てきて、読者に問いを投げかけているように思えます。日本は戦後六十余年、アメリカの庇護の元、淡々と資本主義中心の「平和」を味わってきた。そんな我々に三島さんは「今、生きるってどういうことですか?」って問うている気がする。

舞台に「熱狂」や「昂奮」を求め、「もし日本で劇作家たることが、アメリカのように十分引合う商売であったとしたら、私はとっくに小説家を廃業していたかもしれない」とまで言い放った作家・三島由紀夫。戦後日本を代表する文豪としての地位を確立した今となっても、劇作家としての評価については、日本演劇界に包容する力があると言いきることはできない。しかし、彼の生み出した言葉は50年という時を経て、宮本亜門という一人の演劇人に大きな「昂奮」を与えている。2014年という時代に生きている私たちだからこそ、今あえて三島作品に触れてみることで、見える世界があるのかもしれない。

イベント情報
『金閣寺-The Temple of the Golden Pavilion-』

2014年4月5日(土)~4月19日(土)
会場:東京都 赤坂ACTシアター
演出:宮本亜門
原作:三島由紀夫
出演:
柳楽優弥
水橋研二
水田航生
市川由衣
ほか
料金:S席8,500円 A席6,000円 U-25チケット4,500円(チケットぴあにて前売販売のみ取扱い、25歳以下対象、当日指定席券引換、平日限定、要身分証明書) 高校生以下2,500円 ※4月5日(土)18:30、6日(日)13:30公演のみ対象(チケットぴあにて前売り販売のみのお取扱い、高校生以下対象、当日指定席券引換、要学生証)

プロフィール
三島由紀夫 (みしま ゆきお)

1925年、東京生まれ。本名、平岡公威(きみたけ)。194年東京大学法学部を卒業後、大蔵省に入省するも9か月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月25日、『豊饒の海』第4巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。



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