CINRA MAIL MAGAZINE連載コラム『全裸』

CINRA MAIL MAGAZINE連載コラム『全裸』2010年2月配信分(vol.261〜264)

vol.261 トイレ、その後に。つぶやく、その前に。(2010/2/1)

全裸

煙たがられるのを覚悟の上で、マイッターなあ、コマッターなあと晴れやかな笑みを浮かべてニコニコと、ツイッターとやらから逃げる日々を送っているのでありますが、どうして皆さんはそんなにつぶやくことがあるのでしょうか。その日につぶやきたいことなんて1つか2つ、しっかりと充電してからでないとつぶやけない性格も手伝ってか、渋谷でランチなう、とつぶやける精神性に感嘆するんであります。五反田のブックオフなう、浜松町のパーキングなう。だからどうしたと、私は思う。プライベートの報告を提出し合う状態が常に流れている豊かな通信網を体が全く欲しがらないもので、遅れているね、と言われるのだけれども、それでは貴君たちが進んでいるかとなれば決してそんなことは無い気はしていて、それはつまりこういうことさ、新しいことは新しい以外に魅力を持っていないのではないか、という疑い。話を聞く相手が、ああもううんざりという顔をしてアイフォンをいじっている。

これ以上聞いてくれなさそうだから、こちらで続ける。新しいこと=進んでいること、とは限らない。最新の何がしかに触れる時、人はそれを、ひとまずの最先端だと信じ込む。一本道の先頭だと。しかし、幹の頂点か、枝葉の1つにすぎないのかは、しばらく経ってみないと分からない。ミクシィでもブログでもツィッターでも、誰かとコミュニケートすることに一心不乱な印象を受ける。距離と時間の短縮作業をこれまでかと突き詰める。ややカッコつけてみると、ツィッターの導入によって、人は、自分のため息すらも自分で愛でずに外からの介入を受け付け始めたのである。喜怒哀楽のそれぞれを人に見てもらえる態勢を整えてしまった。そうなると、態勢の維持に奔走する。

便利だよ、と必ず言われる。便利なのだろう。だけど、こちとらにまだまだ存在する不便というのは、本当に可能性があるぞ。便利というのは、出来ないことを減らすことだ。しかし、その機具によって「減らされている」わけだ。出来ることが増えたと思うかもしれないが、「なう」の報告と情報の連係は、ただでさえ少ないそれぞれの道程の余白を塗りつぶすようにしか見えない。挙句、フォロー数の多少で胃を痛めているらしいじゃないか。

僕は柳沢慎吾が好きだ。その場合、ミクシィやら色々駆使すれば、すぐに柳沢慎吾ファンと出会えるのだろう。それはとても便利だが、ちっとも面白くない。スクランブル交差点を渡る大勢からたった1人の柳沢慎吾ファンを見つける作業は、もっと困難を極めなければならない。今更だけどキングコングの西野君ってカッコいいよねえ、オードリーの春日ってマジウケるんですけど、をさんざん浴びながら、柳沢慎吾を愛する1人を探す。その労苦が必要だ。すぐに柳沢慎吾のファンに出会える環境は決して正しくない。実作業的な便利は、感覚的な不便を呼び起こす。今すぐ柳沢慎吾のファンと語り合いたい人は急げばイイ。楽に急げる時代だ。でも自分はそうではない。地元の本屋に柳沢慎吾初の自伝本が4冊入荷していた。10日ほど経って出向くと2冊になっていた。僕はそこでは買っていない。少なくともこの街に、ハードコアな柳沢慎吾ファンが2人いるということだ。それを僕は、パソコンの前からではなく、自転車で駆け回ることで探す。とても、ロマンチックじゃないか。じゃないのか。

vol.262 サークルで数百人のメンバーをまとめた数百万人の皆様へ(2010/2/8)

全裸

さて寝ようかと歯ブラシを突っ込んでテレビ画面に目をやると、就活実践番組とやらが行なわれていて、スタジオに招かれたいくつかの企業の人事担当者と就職活動中の大学生が、向き合っている。面接でこんなことを聞かれたらどうするという問いかけに、大学ごとに答えを出し、その答えを人事部連中が評価する、という下品な番組であった。どうにも苦い。苦い歯磨き粉は苦手だから、歯磨き粉のせいじゃない。この番組のせいだ。

「希望の部署に配属されなかったら?」という問いかけにどう答えるべきか。ある大学生が、悩んだ挙句、「自分のやりたいことではないかもしれませんが、それが自分が成長するために与えられた仕事なのですから、一生懸命頑張ります」と答えた。もう少し自分がロックンロールな人物だったら思わず口の中の歯磨き粉を画面に吹き散らす所だったが、こういう安直な攻めでは会社なんぞ入れんからなと諭すのがこの番組なのだろうし、ひとまずなんとか堪えて、人事部の指導を待った。いくつかの意見が出揃った後で人事担当者は良き回答を出した大学名の札をあげる。驚いた。そして、ションボリした。人事担当者は揃って、その平凡なフォーマット回答を褒めたのである。

何だか寝付けなくなった。この不景気に企業は学生を執拗に選び抜くだろう。同じようにして、学生は選ばれ抜かれる為の作戦を磨くだろう。その苦境と、この回答の安直さと、その安直さの承認、相当なチグハグが露になっているのに画面の中は頷き合いだ。うんうん、そうか、そう攻めるべきなのかと、選ばれなかった学生諸君も納得の表情だ。これはどういうことなのか。

まず、彼の回答は本音ではない。企業の連中も本音だと捉えているわけではないだろう(本音だと信じ込んでいたら愚鈍の極みだ)。それなのにこの回答が認められるのは、何故なのか。それは、「その時々のフォーマットを瞬時に理解し、そこに当てはまる理由をいちいち問わない人物を求む」ということなのだろう。現代用語でこれを「素直」と呼ぶらしい。どこまでも空疎である。しかし問題はここからだ。そのくせ、企業も学生も何故だか熱い。ドライな査定なのに、周辺事項は熱苦しい。恐ろしいほど手垢の付いた「サークルで何百人をまとめた」やら「旅先で出会った異国の何ちゃら」みたいなエピソードを、か弱い腕力でシューカツに手繰り寄せて、企業と学生が頷き合っている。久しぶりにこんなことを思ったが、この人たち、ちょっと頭が悪いのではないか。

「イヤです」とか、本音でぶつかれば良いというわけでもないということは、経験上熟知している。「希望の部署に配属されなかったら?」と問われたら、自分ならこう答える。「配属が決まったその日は、ふて寝します。翌朝どう感じるか分かりませんが、ひとまず落ち込みます」。そこまでの対応しか、絶対に予測出来ない。エッヘン、おいらはどこだって頑張るよ、という気が利く立ち回りは、往々にして脆い。隣の歯車が止まれば止まる。その後で自家発電の方法は持たない。この手の脆さから逃れる為に使われる「気合い」「熱意」「挑戦」「成長」といった語句が、輪郭を持たずシャボン玉のようにシューカツに佇んでいる。それをかたどる為に、「サークルで数百人のメンバーをまとめた」というネタが有効だと未だに信じ、自分のセールスポイントだと疑わないのだ。ご忠告申し上げるが、「サークルで数百人のメンバーをまとめた」人を数百人見つけることなんて容易い。それを、企業も学生も知らないでいる。学生はまだしも、企業がそのことを「知らないフリ」ではなくて、どうやら本当に知らないようなのが、とてつもなく恐ろしい。無思想な発泡酒ピーポーの思考は、とことん停止しているようなのだ。

vol.263 「友達の友達を友達にするべきか」2010冬(2010/2/15)

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「友達の友達」が非常に有名な賞を受賞した。さて、どうしよう、方法としては「友達の友達」から「友達」に近づけて、あいつはやると前から思ってたよと澄まし顔をかましてみることも出来るのだけれども、この選択はとりわけ誰に何をもたらすわけでもないので、ひとまず一晩そのままにした。翌朝、新聞に彼の名前を見つけた。そういえば、「友達の友達」でいくのか、「友達」でいくのか、決めかねていたのだと思い起こす。冷凍されたご飯をチンしてお茶漬けをかっ込みながら、もう一度その記事を見る。ペラッペラのチラシで見かけていた名前が更にペラペラの新聞紙に載った途端、高尚な感触を得ている。政治経済スポーツ文化テレビラジオと彼の名が、おんなじ所に居る。

奥歯にすきっ歯があるもので、お茶漬けを食べると、必ず米粒がそこに忍び込む。食べ終わった後に、下先でレロッとやらないと歯磨き時に発掘されてしまい、こうなると、ややデンプン化した米粒と歯磨き粉とが妙に仲良くネチャネチャと、口内が形容しがたい中間生成物を仕上げてしまう。だから、かならずレロッと取る。今朝はどうもレロッが上手くいかない。「友達の友達」の受賞記事を見ているからだろうか。この手の新聞記事は、あらゆる余分を排除する。事実をいかに淡々とさせるかを突き詰めていく。感情が入り込んでいる箇所が一カ所も無い。めでたいのだが、めでたくなくてもいい、という佇まいだ。しかし、だからこそ高尚な感触が得られるのだろう。

ここはひとつ、「友達の友達」で行こうと、心に決めた。何だか一大決心をした時のような気持ちの解れがやってくる。決して「俺の友達がさあ」とは言わないぞ、と。言ったとしても「俺の友達の友達がさあ」にするぞ、と。でもそれじゃあ誰も興味持ってくれないじゃないかと、独りほくそ笑む。奇妙な決断がこうして自己完結する。

出かける前、歯磨きをしていると、歯の奥から米粒がこぼれて、ネチョネチョっと口内が粘り気に包まれる。結局、取るのを失念していた。お、これは決断し切れていないなと、自省を促す。オマエまだ、「俺の友達がさあ」のラインを諦めきれていないのではないか。そういえば5年くらい前だったか、お笑い芸人になった後輩に、満面の笑みで「そんなに仲良しでしたっけ」と言われた時の事を思い出した。そう、そんなに仲良く無かったのだった。あれは、独特の敗北感だった。有名になると、いろんな人が近づいてくるという。「友達」が途端に増えるという。しかし、その申し出をする側にも、躊躇はある。葛藤はある。自粛もあれば、冒険もある。友達ぶる、というのは、それなりに手間のかかる決断だ。今回、僕はそれを見送った。英断か憶断か分からないけども、簡潔な新聞記事に姿勢を正して、そう結論付けたのだ。

嘘をついた。どういうことか。僕はこれを、その「友達の友達」が読んでくれているかもしれないと期待して書いている。この堂々巡りは、自慰行為ながら、果てが無い。

vol.264 トンパリッコロコロチッポポン(2010/2/22)

全裸

トンパリッコロコロチッポポン、という音が上の部屋から聞こえた。夜中の2時に、何をどこからどんな感じで落としたのだろうか。を、考える。考え抜いて、 2時半に答えが出た。4色ボールペンだ。机から落ちる(トン)、その衝撃で本体が2つに割れる(パリッ)、中の4色のプラスチック棒がそれぞれ転がる(コロコロ)、転がったあとで、いくつかがぶつかりながら(チッ)、まとまりになった(ポポン)。

4色ボールペンというのは、とても華麗な存在のようでいて脆い。4色のうち1色が使えなくなると、アイツらはもう使えないと決めつけられる。わざわざ青ペンが入っている気配りに魅力があるのに、青が早々と出なくなったとなれば、4色ボールペンに対する期待感は途端に薄らぐ。この連帯責任は残酷である。緑色なんて、これで青の仕事がこっちに廻ってくるのではないかと一瞬期待した自分を恥じ始めている。

上の階が引越しをした。ある土曜日に引越屋が出入りする音を聞いて、それを知った。上に越してきましたと挨拶に来たのは10ヵ月くらい前のことだろうか。バイクあるんで、駐輪場とか、迷惑かけるかもしれないっすけど、と言われた。とても律儀な人だった。だから、もしかしたら出る時にも挨拶に来るんじゃないかと思ったのだけれども、来なかった。だから、彼と、あと一緒に住んでいた彼女の記憶は、トンパリッコロコロチッポポンが最後になった。

個人管理出来る範囲の思考は常にハチャメチャに飛躍する。仕事をしながら青ボールペンを持つと、大切な思い出をセンチメンタルに蘇らせるように、あのカップルはどこへ行ったんだろうと考える。極端な選択肢しか浮かばない。北海道で牧場、湘南で海の家、沖縄のドミトリーで住み込みバイト、北欧で雑貨屋。あまりにも貧相な壮大さで萎える。多分、三軒茶屋とか中目黒とか行ったんだと思う。

チョコンかズシンかは分からないけども、ただ座っているだけで、周りにいろんなことが起こる。くっついたり離れたり、どっかいなくなったり、辞めたり、始めたり、ハイスピードで走り出したり、木陰で休み始めたりする。その激変を、座っているだけでいる自分は、うぉ近えとか、わー遠いとか、距離感を測りながら観測しているだけで満腹感がやってくる。しかし、それでいいのかと、青ペンをカチカチさせる。引き続き、思考が深入りして、大げさな飛躍をしていくが、実生活には及んでいかない。

上に新たな住人が越してきた。どんな人なのか、まだ知らない。不思議な事に、夜、あの時と同じような音がする。トンパリッコロコロチッポポン。気付く。それはたぶん、部屋のドアを開けるとか、椅子に座るとか、単調な動きで生じる音なのだろう。それを僕はとてもイレギュラーな事柄だと、敢えて読んだ。誰かの実生活というのもホントはそういうものなのか。つまり、何だかとんでもなく珍しい事が起きている、と、「思おう」としているのではないか、という疑いが降り掛かってくる。色々と平淡なのかもしれない、当たり前なのかもしれない、そのノッペリに耐えられないから劇化しているのだとしたら、これは相当な小心者だ。



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