できないことを、必死にやり続けたい 曽我部恵一インタビュー

今の日本の音楽シーンにおいて、曽我部恵一を誰か他のアーティストと比較したり、何かの文脈に当てはめて語ることはとても難しい。例えば、サニーデイ・サービスであれば、渋谷系の後期を出発点としながらも、はっぴいえんどに代表される日本語のロック / ポップスを見つめ直し、数々の素晴らしい作品を残しながら、くるりや中村一義といった後進の道を切り開いた、というような文脈で語ることができるだろう。しかし、2枚のアルバムをメジャーから発表し、2004年に自身のレーベルROSE RECORDSを設立後の曽我部は、曽我部恵一、曽我部恵一BAND、曽我部恵一ランデヴーバンドと様々な名義を用い、CD、CD-R、アナログ、配信と多彩な形態で膨大な量の音源を発表していて、そのキャリアを数行でまとめることは不可能だ。その唯一無二の存在を、何とかして言葉に落とし込もうとするならば、「パンクロックに魅せられて、『未完成という名の完成』というアンビバレンツな業を背負った、魂の歌うたい」といったところか……まあ、「ただただ最高のミュージックラバー」と言ってしまっても、全然間違いではないと思うんだけど。

そんな曽我部恵一が、ソロとしてはキャリア初のベストアルバム『曽我部恵一BEST 2001-2013』を、サニーデイ・サービスのベストアルバム『サニーデイ・サービスBEST 1995-2000』と同時発売する。そこで、今回CINRAではソロのキャリアに的を絞って、総括インタビューを試みた。「メジャーとインディー」「怒涛のライブ活動」「下北沢」「震災」といったキーワードから、10年以上にわたる歴史を紐解きつつ、今後の活動にも迫ったロングインタビュー。ぜひ、ゆっくり楽しんでいただきたい。

サニーデイが終わって一人になったから、とにかく自分のドキュメンタリーを出していかなきゃって。

―まずは今回、サニーデイ・サービスとソロのベストを同時に発表することになった経緯を教えてください。

曽我部:まずサニーデイのベストを出さないかっていう話が向こうのレコード会社(MIDI)からあったんです。過去にベストは1枚出してるんですけど、それからもう10年以上経ってるから、もう1回ちゃんと自分で選曲して、マスタリングの監修もやる形で出そうかってことになって、じゃあソロになってからのものも同時にまとめておこうかっていう流れですね。あと小田島(等)くんがジャケットを作ってくれて、サニーデイの方は桜の木の下にいるカップルの写真なんですけど、それを見たときに、「これの別バージョンもあったらいいな」と思って、「同じパターンでソロのも作ってよ」っていうのもありました。

―ソロのベストは、レア曲がたくさん入った2枚組で、非常に豪華な作品になってますね。

曽我部:僕のソロに関して言うと、アナログとか配信だけで出したものもあるので、全部持ってる人はほとんどいないと思うんですよ。あとライブが終わった後とかに、「あの曲どのCDに入ってますか?」ってよく訊かれるんで、「これだけ買ったらいいですよ」っていうCDがあると便利だと思ってて、今回はそういうものにもしたかったんですよね。

―1曲目を飾っている“ギター”はソロとして最初に発表したシングル(2001年12月)で、ちょうど9.11(アメリカ同時多発テロ事件)があったタイミングでのリリースになったわけですが、当時はどんなことを考えて曲を作っていましたか?

曽我部:サニーデイが終わって一人になったから、とにかく自分のドキュメンタリーを出していかなきゃって考えてました。自分が思うこと、自分が今日見た風景とか、今日感じたこととか、それをまずは歌わないとって。

曽我部恵一
曽我部恵一

―「生活と音楽の距離が近い感じ」っていうのは、その後のソロのキャリアにおいても活動の基盤になってますよね。“ギター”の<戦争にはちょっと反対さ>という歌詞も、まさにそれを表していたと思いますし。

曽我部:あれは当時、物議を醸しましたけどね。でも、今も一緒だな、震災後の話も。「原発にはちょっと反対さ」って感じになる。本当は戦争にも原発にも「絶対」反対なんだけど、「絶対反対!」って歌ってきたロックの歴史を踏まえて、「ちょっと」と歌うことが自分なりのドキュメンタリーだった。今も“ギター”は歌ってて、自分にとって不思議な曲です。「どうやって日記を歌にしよう」ってトライする中でできた曲で、ある日の全部の風景や感じたことをまず書き出してみたんです。だから最初はもっと長くて、ラップみたいに言葉数の多い歌詞だったんだけど、どんどん切り詰めて行って、そこから残ったものがこの曲になった。

(メジャーでも)何のしがらみもなく、レコーディングにもレコード会社の人は1人もおらず、すごく自由にやらせてもらってました。

―ソロになって最初の2枚のアルバム(2002年9月発表の『曽我部恵一』、2003年6月発表の『瞬間と永遠』)はメジャー(ユニバーサル)から発表されていましたが、メジャーを選んだことには何か理由がありましたか?

曽我部:「ここでいいんじゃないの?」って感じだったかな。最初のシングルは小西(康陽)さんのレーベル(READYMADE)でやらせてもらって、僕も自分のレーベルを立ち上げたいっていうのはあったんだけど、「それはまだ早いんじゃない?」ってまわりにも言われて。

―どうしてダメだったんですか?

曽我部:その頃はまだ、男性ソロシンガーとかでインディーで活動している人はほとんどいなかったんだよね。インディーっていうと、パンクとかダンスミュージックとか、わりとレフトフィールドな人たちのイメージで、「ソロシンガーがインディーでやるっていうと、ホントに自主制作みたいなイメージになっちゃう」って雰囲気だった。

曽我部恵一

―確かに、当時はハイスタの影響が大きくて、パンクのイメージが強かったかもしれないですね。

曽我部:それにまあ、サニーデイが所属していたMIDIも小さなレコード会社だったんで、「大メジャーってどんなもんだろう?」っていうのもあった。

―実際、メジャーはどんなもんでしたか?

曽我部:僕の場合は、特にメジャーだからどうってことがなかったですね。すごくプッシュしてくれて、コマーシャルとか、ドラマの主題歌とかになって、「ひょっとしてめちゃくちゃ売れちゃうんじゃない?」みたいなことも思ってたけど、別に何も変わんなくて(笑)、「これだったら自分でやっても変わんないんじゃないの?」っていうのが感想っちゃ感想かなあ。だから、メジャーですごく動きづらくて嫌だったっていうのも全然なくて、何のしがらみもなく、レコーディングにもレコード会社の人は1人もおらず、すごく自由にやらせてもらってました。

―それって、そこまでのサニーデイのキャリアがあったから可能だったわけですよね?

曽我部:うん、僕だから気を使ってくれたっていうのもあると思う。まあ、システムとしては適材適所で、すごくいい環境だって思いました。今も、例えば鈴木慶一さんと一緒にやるとソニーの人たちが関わってくれて、自分たちの規模ではできないことを、メジャーのレコード会社はできるんだなってつくづく思う。それと日本はまだまだテレビの影響も大きいから、それによって広がっていくことももちろんあると思います。

“浜辺”はライブでもずっとやってる曲ですけど、何かあるんでしょうね、ずっとやる理由が。強いっていうか、耐久性があるっていうかね、何度歌っても解決しないものがあるんですよね。

―2枚のアルバム自体は今振り返ってどう評価されていますか?

曽我部:「そのときの自分」って感じです。全部そうかなあ……そのときの自分しか出ないっていうか、どれもそう、「そのときの自分」っていうだけですね。

―どれがいい悪いとかはない?

曽我部:ないない。いまいちだったとしたら、そのときの自分が今から見ると気に入らないっていうだけの話です。どのアルバムにも今でも歌う曲が何曲かあるっていうのはいいなと思うし、こういう機会に聴き返してみると、「この曲次のライブで歌おう」とか思ったりもします。

―“浜辺”とか、やっぱりすごくいい曲だなって改めて思いました。

曽我部:“浜辺”はライブでもずっとやってる曲ですけど、何かあるんでしょうね、ずっとやる理由が。強いっていうか、耐久性があるっていうかね、何度歌っても解決しないものがあるんですよね。

―他の曲とは違う?

曽我部:「この曲すっげえいいな」と思っても、ある程度歌うと納得いく曲もあるんですよ。「もういいか」って。“浜辺”とかはちょっと手強いというか、結果として何回もやってますね。

―今でも歌う度に発見がありますか?

曽我部:どうかな? まあヒット曲とかがあったら、「この曲はみんな聴きたいだろうから絶対やらなきゃいけない」ってなるんだろうけど、僕の場合その日に歌いたい曲っていう感じで歌ってますからね。

とにかく「力ねえな」って感じでしたね。

―メジャーから2枚のアルバムを発表後、2004年にROSE RECORDSを設立されていますが、ここまでの話を聞くと、自然な流れだったようですね。

曽我部:メジャーで出すことって、お金かけてもらって、宣伝してもらうわけで、「Mステに出て、ひいては紅白出ましょう」みたいなことだと思うのね。自分もそうなりたいと思ったりもしたんだけど、たった2枚だけどメジャーでやって、「俺もうちょっといろんなこと頑張んないと、そういうのないんじゃないの?」っていうのはあったかな。パッとCD出して、「はい、Mステ」って話じゃなくて、実力ありきの話だから、まずは自分でいろんなことをやってみないとダメかなって。

―当時ってCCCD(コピーコントロールCD)のことが話題になっていた時期で、そういうものに対する違和感みたいなこともあったんでしょうか?

曽我部:そういうのは特にないですね。「アンチメジャー」だから自分でレーベルをやり始めたわけじゃなくて、自分で何かをやってみたかった。自分の力を知りたかった。とにかく「力ねえな」って感じでしたね。

―出直しというか、そういうタイミングだったんですね。

曽我部:そう、それで「これからどうしようかな?」なんて下北をフラッとしてたときに、「事務所とかこの辺で借りたらどれくらいになるんだろう?」と思って、パッと不動産屋に入ったら、前に事務所作ってたところを紹介されたんだよね。「ここだったら、自分が小っちゃなレーベルみたいのやってるイメージができるな」と思って、その日に「じゃあ、ここ借ります」って。

―その日に決めたんですか?

曽我部:うん、その日に「独立しよう」って感じでしたね。「ヨーロッパとかに、こんなレーベルありそうじゃん」とか思って(笑)。別にすごく大きな決意とかではなく、「じゃあ、ここ借ります」って、ホントにそんな感じでしたね。縁っていうか、その日の天気とかね、いい天気の日で、のんびりした午後だったかな。

―今日みたいな小雨の日だったら、借りてなかったかもしれない。

曽我部:そうそう、そういうことだろうね、何事も。今はもうその不動産屋はなくなっちゃったけど、そこのお姉さんもすごく気さくな人だったから、そういうのもよかったのかも(笑)。

レーベルを大きくしようとか、よくしようとか、音楽業界に貢献しようとか、ホントにないわ、怖いほどに(笑)。

―この約10年っていうのは、ソロアーティストとしての曽我部恵一の10年であると同時に、ROSE RECORDSの経営者としての曽我部恵一の10年でもあると思うのですが、ROSE RECORDSの10年はどんな10年でしたか?

曽我部:僕には経営者っていう自覚がまるでないんで、とりあえずスタッフにお給料出てたらいいかなみたいな、それだけかなあ……最初はやっぱりお金なくなるんですよ。資金繰りが大変だったりして、今もそういうのが断続的にはあるんだけど、続いてるし、「嫌だなあ」とかにはなってないから、まあオッケーなんじゃないって感じですね。

―自分がいいと思った音源をリリースして、スタッフにお給料が出せて、みんなが楽しんでやれていればそれでオッケー?

曽我部:それが基本なのかなあ、とりあえずは。しんどいこともあるんだけど、「これがやりたい」と思ってやってるのが基本だと思いますね。経営してきたっていうのは……ないなあ(笑)。限りなく僕個人の仕事だから、自分のことをやってきたってだけなんですよね。他の人のCDも出すけど、ただ僕が聴きたいってCDを出すだけで、別にその人を食わすわけでも何でもないから、もちろんその人の人生までは面倒みれないし。だから、経営っていうのはわかんないなあ……信念も何もない(笑)。

曽我部恵一

―(笑)。とはいえ、会社として運営していくには、最低限のお金は必要ですよね?

曽我部:まあそれも当たり前っていうか、みんな家賃払うじゃないですか? それとまったく一緒だと思う。経営者って、会社を発展させて行ったりとか、自分の地位を上げて行ったり、社会に貢献するとか、もっとアグレッシブだと思うんだよね。僕はそういう意味では全然経営者じゃないですね。その日の飯代を、自分で働いて工面するっていうのと全く同じ。レーベルを大きくしようとか、よくしようとか、音楽業界に貢献しようとか、ホントにないわ、怖いほどに(笑)。

―(笑)。

曽我部:だから、楽だよ。誰に言われたわけでもなく、勝手に自分のためにやってるだけの話なんで。それだけに、買ってくれたり見に来てくれて、お金出してくれる人に対しては、ただただありがたい。そういう人たちの気持ちっていうのは常に感じながら、「よし、これからも自由にやろう」っていう感じですね。

「歌手っていうのは歌ってなんぼでしょ」っていうのがあったし、それを自分がやってきてない負い目もあったから、とにかく誰にも負けないぐらいライブをやろうと思って。

―ROSE RECORDS設立後、アルバムとしては『STRAWBERRY』(2004年10月)や『ラブレター』(2005年7月)を発表していて、バンドモードに入っていきましたね。

曽我部:誰よりもライブをやることで、自分が音楽の体力をつけて、初めて芸術性とかクオリティーの話ができるのかなって感じてましたね。どんな小っちゃな場所だろうが、PAがあろうがなかろうが、とにかくライブをやってやり倒すっていう。そのために、ホントに小回りが利くバンドを探して、「こいつらとだったら365日ライブできる」みたいな感じでやりたかったんですよね。

―それまでの曽我部さんはライブのイメージって強くはなかったので、この時期の変化には驚かされました。

曽我部:結局、自分が場数を踏んでないでしょ? そういう経験値がないと話にならないと思って。自分のやってることがすべて形而上的なことになっちゃう。そうじゃなくて、「歌手っていうのは歌ってなんぼでしょ」っていうのがあったし、それを自分があんまりやってきてないっていう負い目もあったから、とにかく誰にも負けないぐらいライブをやろうと思って。

―そうやってライブを繰り返すことで、どんなことが見えてきましたか?

曽我部:やっぱり誰も他人になんて興味ないんだなっていうことがわかった。それまでは「みんなが自分の歌を聴いてくれてる」「待ってくれてる」みたいな気分があったけど、現場ではみんな騒いで盛り上がりたいだけだったりして、そこに向かって自分のことを歌うときには相当の覚悟を持たないと響かないということがわかった。甘い気持ちでやっても誰も耳を貸してくれないっていう当たり前の認識ができたかな。そういう中で、それでもダイレクトに人の心に飛び込んでいくような言葉とか音を手に入れようとしてて。だから、アウェイな感じほど燃えたっていうか、前座とかやりまくってましたね。

―当時はフェスが増えだした時期でもあって、そういう場に出ることでライブに対する見え方が変わったりもしましたか?

曽我部:うーん……とにかく、ライブ全般っすね。デカかろうが、小っちゃかろうが。興味がなくても「え?」って聴いちゃうような、ちょっと感動させられちゃったりするような、そういう出会いももちろんあるじゃないですか? それがすごく大事で、そういうことをやるんだっていうのは、決意として、その時期から今も変わらずあるな。

―おっしゃる通り、曽我部さんのライブを見ていて思うのは、それがどんなシチュエーション、対バンであろうとも、必ず最後にはその場を持って行ってしまうってことなんですよね。しかも、アコギ1本持って、ギミックなしでそれができる。そこが本当にすごいなっていつも思うんです。

曽我部:ちょうど僕がライブをやり始めた頃から、カフェだとこの音楽、ハードコアのライブハウスだとこの音楽、オーガニック系の野外フェスだとこの音楽みたいに、場所によって音楽が細かく分かれて、商品としてきっちり収まっていくようになって、そういうところに収まるのがすごく嫌でね。そうじゃなくするためには、「この人なんなの?」っていう異物感が大事で、それしかないなってところはあるんだよね。「この人命かかってる」っていうか、のっぴきならない状況っていうか、それぐらい差し迫った歌じゃないと、響かないんじゃないかって。

―まさに、曽我部さんのライブからはそういう差し迫った印象を受けます。

曽我部:歌っていうのは、きれいな女の人が本当に美しい声で歌い始めたら、きっとそれだけでもいいんだよね。でもそういう才能は自分にはないから、やっぱり何か突然現れた異物としてやりたいっていうのはある。「この人必死で生きてるな」みたいに映ったらいいし、自分は人のライブを見てそういう風に思いたいし、そういうものに勇気をもらったりするから。「こいつ本気だな」とか「こいつ自由だぞ」とか、結局そういうものに触れたいだけなんだよね。

―斜に構えることさえできない、有無を言わさない感動ってやっぱりありますもんね。

曽我部:そういうことがライブをずっとやっててわかってきましたね。

“ギター”で<夕方ぼくは渋谷の洋書屋で>って歌ったのは、自分にとってすごく冒険だった。

―ROSE RECORDSが下北沢に事務所を構えてスタートした頃っていうのは、『shimokitazawa concert』(2004年6月)や『sketch of shimokitazawa』(2005年6月)のリリースがあり、CITY COUNTRY CITY(カフェ&レコードショップ)もオープンするなど、下北沢というのが明確に打ち出されていた時期でもありました。下北沢というのは、今も活動の基盤であり、表現においてもひとつの基盤であると言えますか?

曽我部:そうですね。住んでる街のことを歌うってわりと自分にとって大事で、知らないどっかの風景を歌う前に、自分が見て、感じて、吸ってる空気のことを歌うべきだっていうのは中心にあるかな。それ以外でどういう説得力を自分が持てるんだろうって思う。とりあえず仮想と理想だけで作ったもので俺が人を感動させられるかっていうと、すごく疑問はあるね。そこは才能の問題だと思うけど、僕には無理。他の誰かが言ってるような正しいことや誰かが聞きたいと思ってるようなことを、じゃあ自分も歌に乗っけて言ってみましたで、人が感動するとは思えない。

―最近「東京」を歌う若いミュージシャンが増えているように思うんですね。例えば、THEラブ人間だったら、『下北沢にて』っていうイベントをやっていたりもする。そういう今の状況をどう見ていらっしゃいますか?

曽我部:まあ、諸刃ですね。自分が住んでる街を歌うことがその人にとって冒険になればいいと思うんだけど、そうでもない場合もあって。例えば、すごくパーソナルな歌を歌うシンガーソングライターの人だと、中野とか高円寺とかのピンサロとかがすぐ歌詞に出てきたりするけど、それで「俺はパーソナルな歌を歌ってます」ってなると、それはちょっと違うと思うんだよね。

曽我部恵一

―固有名詞を出すことが、方法論として安易に映ってしまう場合もあると。

曽我部:うん、だからそれはすごく難しいところで。“ギター”で<夕方ぼくは渋谷の洋書屋で>って歌ったのは、自分にとってすごく冒険だった。渋谷ってものをイメージできない人に対して、これはすごく虚ろに響くんじゃないかっていう危険性もあったんだけど、逆に限定された自分の生活空間を歌うことで、聴き手のいる場所と濃密につながることができるかもと思った。僕の「渋谷」が聴き手の、例えば「米子」とかにつながっていくような、そういうコミュニケーションがあるんじゃないかと思ったのね。

―なるほど。

曽我部:だから、結局そこに音楽のマジックがあるかどうかなんだよね。「東中野の駅前で〜」って歌ったときに、実際そこを知ってても知らなくても、別のレベルにジャンプできるようなものであればいいんだけど、「それ、今とりあえず言ったでしょ?」って感じだったら小さく収斂しちゃうこともある。だから、諸刃だと思うんだよね。

―確かに、難しいところですね。

曽我部:僕も昔は地名を織り込んだりとかしてましたけど、最近はちょっと変わってきましたね。ドキュメンタリーって言っても、それだけでもって感じがしてます。だから、今回のベスト盤って自分にとっては整理するいい機会になって、また真っさらにしたいなって思ってて。ライブのやり方とか歌い方とか、「こうやったらこうなるよね」っていうのがスキルとして身についてきてて、そういうのがちょっと面倒くさいというか、やった感じがしないというか。自分ができないことを必死でやって、「できてないね」っていうのをやりたいんですよね。それが一番好き。

時代性を重視して作るのもダサいじゃん? 「こういう時代だからこういう作品を作りました」みたいのって、「じゃあ、別のことやったら?」って気がする。「ハフィントンポストみたいのやれば?」って。音楽は音楽だからね。

―震災についても改めてお伺いしたいのですが、昨年発表された『曽我部恵一BAND』には、“満員電車は走る”という曲が収録されていて、今回のベストアルバムでは2007年に発表した“魔法のバスに乗って”(2008年発表のアルバム『キラキラ!』に収録。曽我部恵一BANDとしての1stシングル曲)の前に収録されています。この「満員電車」と「魔法のバス」という言葉は非常に象徴的な変化に映るのですが、実際にこの2曲に関係はあるのでしょうか?


曽我部:俺は“満員電車は走る”も“魔法のバスに乗って”も同じことを歌ってると思うんですよ。っていうか、全部どの曲も同じことを歌ってると思う。夢があること、愛が自分の中にあることと、それが手に入らない、それを上手く口に出して言えない、上手く触れない、でも自分はその力を持ってるし、溢れんばかりの愛を持ってるんだっていう歌しかないと思うんです。“満員電車は走る”も“魔法のバスに乗って”も、乗り物が違うだけであって、同じことを言ってると思いますね。

―“満員電車は走る”は震災後にできた曲なんですか?


曽我部:“満員電車は走る”は3.11のすぐ後、3月中には書いた曲です。僕は3.11が起きて、音楽でみんなの表現することがすごく甘くなってしまったことが、ホントに不思議でならなかったんだよね。それまでは憤ってた人たちが、急に優しさとか絆になっちゃう。いやいや、何にも変わらず、自分たちの救われない魂っていうのがあるじゃん? どんな災害が起きようが、戦争が起きようが、自分たちの満たされない心っていうのがここにそのままあるじゃんって思った。そういうところからこの曲ができてきた。

―確かに、当時は絆を歌う曲が溢れてましたもんね。

曽我部:地震があって、絆を探しあったり、手をつなぎ合わなきゃいけないかもしれないけど、相変わらず満員電車の中は無言じゃんっていう。なのに歌だけ優しい歌になっちゃった。もちろん、変わんなきゃいけないことはいっぱいあるし、考えなきゃいけないことは増えたし、手助けは必要だし、でも自分の心は何も変わらないよってことを僕は歌いたかった。大事なものは変わらない、地震が起きようが起きまいが、みんなでそこに向かって今日も生きるんだっていうことを、どうしても歌いたくて。

―『曽我部恵一BAND』は作品全体のトーンがシリアスで、そこには時代背景が何らかの影響を及ぼしていたかもしれないけど、根本にあるものは少しも変わっていないと。

曽我部:そうですね。もちろん、影響はあると思うんです。地震とかとんでもなく大きい災害というか、人災でもあるんだろうし、自分たちの生活にも影響はあると思うけど、気持ちは何も変わらないな。信用できないやつは信用できないまんまだし、大好きなことは大好きなまんまだし、そこを機に自分の生き方が変わるってことはやっぱりない。

―そういう意味では、昨年末に発表された『トーキョー・コーリング』は、クラブの一晩に視点を置いて、音楽の享楽性の部分を抽出した作品だったのかなって。


曽我部:ああ……でも、自分ではわかんないんですよ。どうしようもなく作るだけなんで、「こういう作品にしよう」みたいのはないんだよね。後で振り返ると、「あのときあんなことあったな」とか「あんな風なこと思ってたな」とかはあるんだけど、「今回こういう作品にしよう」っていうのはなくて、ほぼ苦し紛れに作ってるから(笑)。

―(笑)。

曽我部:『トーキョー・コーリング』も、ハードディスクの整理をしてたら、打ち込みのトラックとか出てきて、それをいじってるうちに、モヤモヤしたものがアルバムっていう形になっただけの話であって、何をしたかったのかはよくわかんないですね。自分の作品が社会的な事象にどう対応してるかはあんまりわかんなくて、そのとき自分が一生懸命やったっていうだけだけど。

―最初の方の話にも出たように、作品はどれもそのときそのときの自分がそのまま出たものだと。

曽我部:そうなんだよね。あんまり時代性を重視して作るのもダサいじゃん? 「こういう時代だからこういう作品を作りました」みたいのって、「じゃあ、別のことやったら?」って気がする。「ハフィントンポストみたいのやれば?」って。音楽は音楽だからね。

これはもてない男のやっかみかもしれないけど、早く中身になれよと。「いつまでイケメンとか言ってるんだよ」みたいなところはちょっとあるんだよね。

―「作品はそのときそのときの自分」っていうのは、アルバムのジャケットがすごく象徴してると思うんですね。ソロになってからのオリジナルアルバムは、『ラブレター』と『トーキョー・コーリング』以外、すべてに曽我部さんの写真が使われてるっていう。

曽我部:アートワークに関しては、あんまり考えてないだけなんだけどね(笑)。

―でも、サニーデイ時代はほとんどジャケットに登場することなく、唯一メンバーの写真が使われている『愛と笑いの夜』にしても、ぼやけた写真だったことを考えると、ソロになってからは「自分を出す」っていうことに意識的だったのかなって。

曽我部:いや、そこまで考えてないです(笑)。おしゃれな感じが嫌だったっていうのはひとつあるんですけど、ジャケットは結構いつもギリギリで作るんで、結局「写真でいいんじゃない?」ってなってる気がする(笑)。サニーデイのときは、ちゃんと世界観をパッケージするようなジャケットっていうことで作ってましたけど、ソロに関しては、今思うと何でこんな自分の顔ばっか出してんだって感じですね。もっとなんか、アイスクリームとかそういう方がいいような(笑)。

―ちょっとオシャレになっちゃうかもしれないですけどね(笑)。

曽我部:ただ、ジャケットとかどうでもいいと思いたいっていうのもあって、サニーデイの頃とか、今もまあそうなんだけど、「ジャケットまで完璧でひとつの作品でしょ」みたいなところがあるけど、今自分が行きたいのは「完璧な作品なんて求めてるの?」みたいな、誰が完璧なんて決められるんだっていう、ボロボロのものの方がいいじゃんみたいなところが何かあるんだよね。「その辺のおっさんが作った自主制作盤みたいのの方が素敵じゃん」みたいのがどっかにあって。

曽我部恵一

―比べるのもおかしな話ですけど、今って時代感的に言うと、コンセプトをがっちり固めて、フォトグラファー、デザイナー、コンセプター、アーティストがそれぞれの役割を担って、ひとつの作品を作り上げるみたいなものが多いように思うんですよね。

曽我部:ああ、相対性理論以降みたいな? ちょっと企画性っていうか、みんな大事に思ってるところはあるよね。でも、俺はだって、匿名性持ち得ないでしょ(笑)。太宰治の文庫本とかさ、「ジャケ最高だよね」とかないじゃん? 時代によって適当なのに変わるでしょ? 音楽も早くあれになんないかなと思って、「何まだジャケットがどうとか言ってるの?」みたいな、みんなパソコンで聴いてるんだし、早くそうなってよって感じ。結局さ、内容がよかったらいいわけじゃん?

―そこが基本ではありますよね、間違いなく。

曽我部:女の子もそうだけど、やっぱ中身でしょっていう。いや、男もそうだけどね。これはもてない男のやっかみかもしれないけど、早く中身になれよと。「いつまでイケメンとか言ってるんだよ」みたいなところはちょっとあるんだよね。夏目漱石の『こころ』もさ、何文庫で出ても、Kindleで出ても、俺はわたせせいぞうのジャケが好きだったけど(笑)、今は別に何でもいいんじゃないかって思うなあ。


やれないことをやり始めた人たちがいた、それがパンクロックで、自分もやろうと思った。それが基本としてあって、そこに自由っていうものが初めてある気がするんです。

―途中に「このベスト盤で一度真っ新に戻して、違う表現方法を模索している」という話がありましたが、ご自身の表現について今どんな風に考えているか、最後に改めて話していただけますか?

曽我部:とにかく、手習いというか、「これができるようになったらいいなあ」じゃなくて、できないことをまずやり始めたいんですよ。「最高の歌い手になりたい」っていうのだけがあって、そのためにはどういう鍛練とか、どういう心の状態が一番大事なんだろうっていうところで、やっぱり自分をいつも新鮮な気持ちにさせておくっていうことがすごく大事。気づいたら、ノリで上手い感じに歌っちゃってることとかあるんだよね、恐ろしいことに。

曽我部恵一

―上手く歌えるようになってきたということが、逆に落とし穴になると。

曽我部:この間子供の運動会に行って、八木節みたいのをみんなで踊ってたんだけど、途中でオケが止まっちゃって、完全な無音状態になったわけ。でも、子供たちは全然動じずに、止まったこともわかんないぐらい夢中で一生懸命踊ってるのよ。そういうのがすごいいいなって思って。リレーとか見てても、一番だろうがビリだろうが関係ないわけよ。ホントに必死で、歯食いしばって走ってるビリのやつの表情とかオーラ、説得力が半端ないわけ。だから、そこで余裕綽々に走ってるめちゃめちゃ速いやつがいる。で、どっちやりたいのかって話だと思うんだよね。自分がやりたいのは、ズタボロだけどなんかグッと来たみたいなことで、パーフェクトに八木節を演じましたってことじゃない。途中でオケが止まって、そこで自分が何を始められるか、それをやっていないとしょうがないですよね。

―では、曽我部さんはなぜそちら側を選んでしまうのでしょうか?

曽我部:自分はパンクを聴いて音楽をやろうと思ったから、やっぱりそこはDNA的な部分に入っちゃってるんですね。やれないことをやり始めた人たちがいた、それがパンクロックで、自分もやろうと思った。素晴らしいことだと思った。それが基本としてあって、そこに自由っていうものが初めてある気がするんです。「何でもやっていいよ」って。言ったら怒られることを言ってもいいし、やったらダメってことはひとつもない、自分にとってはそこに勇気とか自由があるから、自分はそれを体現していかないとしょうがないなって。「曽我部いいキャリアあるのに、何ラップとかやってんの?」っていうようなことを、ずっとやっていたい。振り返ってみても、やっぱりそこだけでしたね。

リリース情報
曽我部恵一
『曽我部恵一 BEST 2001-2013』(CD)

2013年6月26日発売
価格:3,000円(税込)
ROSE RECORDS / ROSE-155

[DISC1]
1. ギター
2. 瞬間と永遠
3. 恋人たちのロック
4. おとなになんかならないで
5. 女たち
6. キラキラ!
7. 抱きしめられたい
8. 浜辺
9. シモーヌ
10. 満員電車は走る
11. 魔法のバスに乗って
12. 東京 2006 冬
13. 春の嵐
14. LOVE-SICK
15. おかえり
[DISC2]
1. サマー・シンフォニー Ver.2 feat. PSG
2. テレフォン・ラブ Single version
3. ほし TRAKS BOYS remix
4. ロックンロール TOFUBEATS remix
5. 世界のニュース -Light of the world!!-
6. カフェインの女王(TSUCHIE feat. 曽我部恵一)
7. イパネマの娘
8. ぼくたちの夏休み
9. スウィング時代 DJ YOGURT & KOYAS remix
10. White Tipi SUGIURUMN house mission mix
11. クリスマスにほしいもの
12. トーキョー・コーリング Studio live version
13. STARS Studio recoding
14. ジムノペディ
15. サマー・シンフォニー

サニーデイ・サービス
『サニーデイ・サービス BEST 1995-2000』(CD)

2013年6月26日発売
価格:3,500円(税込)
MIDI / MDCL-1538/39

[DISC1]
1. 恋におちたら
2. 雨の土曜日
3. 恋はいつも
4. スロウライダー
5. あじさい
6. 青春狂走曲
7. いつもだれかに
8. シルバー・スター
9. baby blue
10. さよなら!街の恋人たち
11. サマー・ソルジャー
12. 白い恋人
13. 夜のメロディ
14. NOW
15. 若者たち
[DISC2]
1. サマー・ソルジャー(2000.12.14 @新宿リキッドルーム 解散ライブ)
2. 花咲くころ
3. 恋人の部屋
4. あの花と太陽と
5. 魔法(Carnival mix)
6. 真昼のできごと(Unreleased version)
7. 96粒の涙(Alt. version)
8. 何処へ?
9. Somebody's watching you
10. ここで逢いましょう
11. 成長するってこと
12. からっぽの朝のブルース
13. 土曜日と日曜日
14. 恋におちたら(AG version)
15. いつもだれかに(1996.4.24 @渋谷クラブクアトロ 公式デビューライブ)

プロフィール
曽我部恵一 (そかべ けいいち)

1971年生まれ、香川県出身。ミュージシャン。ROSE RECORDS主宰。ソロだけでなく、曽我部恵一BAND、再結成を果たしたサニーデイ・サービスなどで活動を展開し、歌うことへの飽くなき追求はとどまることを知らない。プロデュースワーク、執筆、CM・映画音楽制作、DJなど、その表現範囲は実に多彩。下北沢のカフェ兼レコード店CITY COUNTRY CITYのオーナーでもある。



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