小金沢健人が振り返る、18年に及ぶ自由と混沌のベルリン生活

「ベルリンは自由だったんです」。1999年から2016年まで、約18年もの間、ベルリンを拠点に活動してきた美術家、小金沢健人はベルリン滞在を振り返ってそう語った。西欧芸術文化の中心的な場所であるベルリンは、彼にとってどのような場所だったのだろうか。そこには、寛容さが失われつつあるように見える日本や東京からは想像もできない、ある種のユートピアが広がっていた。

この度4月14日より、KAAT 神奈川芸術劇場で、小金沢の個展『Naked Theatre —裸の劇場—』が開催される。本展の最大の特徴は、会場がギャラリーでも美術館でもない、いわゆる劇場であることだ。美術と演劇の領域を横断する『KAAT EXHIBITION』として開催される本展において、小金沢は一体何を私たちに見せてくれるのだろうか。

当時のベルリンはビジネスが成り立たないところで、信用経済で成り立っているような世界があったんです。

―小金沢さんがベルリンを拠点にすることになった動機は何だったのでしょうか。

小金沢:あるベルリンのギャラリストの存在が大きかったです。彼は東ドイツ出身で、20歳のとき、「ベルリンの壁」が壊れる前から自分のアパートを現代美術のギャラリーにしていたんです。当局に見つかるとヤバいので、アンダーグラウンドで。

小金沢健人(こがねざわ たけひと)
1974年東京生まれ。1999年よりベルリンに拠点を移し、アメリカ、ブラジル、インド、オーストラリア、ギリシャなど世界各国で作品を発表、その独特の映像表現は高い評価を獲得した。その後、次第にドローイング、パフォーマンス、インスタレーションと表現領域を広げ、多彩で複合的な作品群と旺盛な制作活動に裏づけされた多才なアーティストとして知られている。
渡独直後、ベルリン「WOHNMASCHINE」のギャラリスト、フリードリッヒ・ロークと(1999年)

―それは刺激的ですね。

小金沢:今まで何も知らなかった西側の人たちが東にやって来るようになって、彼が一躍時の人になった。もともと日本が大好きだったらしく、壁が壊れると真っ先に日本に来て、現代美術の作家たちとの交流があったんです。僕はちょうどその頃「スタジオ食堂」というアーティストコレクティブの先駆けのようなグループに所属していたんですが、そこで彼と出会いました。

―その後、長い間ベルリンに滞在されますが、アーティストにとってベルリンはどんな都市でしたか?

小金沢:僕が行ったのは1999年。壁が壊れて10年目でしたが、まだ混沌としていました。ガイドブックの『地球の歩き方』でも東側の情報が一切載っていないようなときに、思い切って東に行ったんです。当時の東には空き家がいっぱいあって、世界中からスクワッター(無断居住者、不法占拠者)が来ていた。

もう毎日パーティーずくめ(笑)。大きな銀行の地下金庫跡を使った「トレゾア」という有名なテクノのクラブがあったり、住んでいる人がいるのにも関わらずアパートの1階から5階まで、空き部屋それぞれにDJがいるようなスペースもあった。

ベルリンでは新年を花火で祝う。0時になった瞬間から打ち上げ花火や爆竹が飛び交い、街は煙と火薬の臭いが立ち込める(小金沢)

―当時の状況を振り返ると、抑圧されていたことからの反動とも言えそうですね。

小金沢:エントランスもフリーで、ただ自分たちが好きでやっているだけ。インターネットや携帯電話はあったけど、まだスマホ以前で、基本的に口コミなんです。街にいるだけでずっと面白い状態でした。コマーシャルされるような商品があまりなくて、手作りのモノばっかりだった。

―まだ資本主義が浸透しきってない状態だった。

小金沢:東京には24歳までいましたが、東京では「何がいいか悪いか」情報をスピーディーに見極めて、いいところをつまんでいくような生活でした。それはアートでも一緒です。

でもベルリンではそのやり方が全く通じなくて、情報の上澄みをスマートに掠めとるのとは違う、原始的な「地べたから始まる」ところが面白かったんです。ビジネスチャンスだと思って来る人もいっぱいいましたが、全くビジネスにならなかった(笑)。ビジネスが成り立たないところで、スクワッターをはじめとする「信用経済」で成り立っているような世界があったんです。

―ある種のユートピアかもしれませんね。

記憶に残る風景はいつも建設中だった(小金沢) / 『on the way to the peak of normal』よりビデオスティル(2000年)

東京は、時間もお金もかかるんですよね。

―その当時のベルリンでの生活はどうでしたか?

小金沢:住環境で言えば、引っ越すと家具も何もないんですよ。丸裸で貸してくれる。その代わり、穴を開けようが壁を壊そうが何をやってもいい。自由なんですよね。

でも完成されたものが売ってないので、自分で作らないといけない。棚から椅子から、とにかく街中に捨てられている素材を拾ってきて作る。そういう当たり前の「セルフビルド」カルチャーの中にいました。汚れたら塗ればいいし、音を出してもそんなに苦情は言われない。そういう寛容さがある環境って、モノを作りやすいんですよ。萎縮しないで済む。

ベルリンのスタジオ風景(2006年ごろ)
ベルリンは常にどこか工事中(小金沢)

―そういった環境が具体的な制作活動にも影響したのでしょうか?

小金沢:東京にいるときの作品は、だいたいキッチンテーブルサイズ。テーブルの上で描ける絵を描いていました。ただ、プロジェクション(プロジェクターで投影すること)の面白さはわかっていたんです。映像を投影すると、質量や大きさを変えられる。東京では借りることが通常のプロジェクターですが、ベルリンに行って初めてちゃんとしたプロジェクターを自分で買ったんです。

『on the way to the peak of norma』よりビデオスティル(2000年)
『on the way to the peak of normal』よりビデオスティル(2000年)

―当時はプロジェクターも今ほど普及していない時期ですよね。

小金沢:日本の家は全部の壁が白いっていうのはなかなかないけど、基本的にドイツの家の壁は広くて白いからどこにでも映せる。東京の場合は発想を煮詰めて、かなりイメージを高めてからアウトプットしないと上手くいかないし、時間もお金もかかるんですよね。ベルリンはその辺が緩かったので、好きなだけトライアンドエラーができたのは大きかったです。そのせいか、東京やロンドンやニューヨークに行くと、やたらお金がかかると感じます。

『速度の落書き』 神奈川県民ホールギャラリー(2008年)
ベルリンでは、カーテンをしない部屋が多く、外から見られても気にしない(小金沢)

―たしかに東京では、街中で休むのにもカフェに行かなければいけなかったり、お金がかかります。

小金沢:ベルリンは世界規模で見ると、比較的新しくできた街で、戦前は400万人くらい住んでいたのが、壁が壊れた頃には100万人くらい人口が減ってたんです。つまり100万戸の空き家があった。その頃は家賃なんてあってないようなものだと思っていました。

―今の環境から見ると家賃が安いことに羨ましさを感じますが、当時の空き家問題は深刻だったのですね。

小金沢:でも2005年くらいになると、海外の人がだんだんベルリンの物件を買い始めた。それくらいから、キラキラしたスニーカーショップとスタバが一緒にやって来た感じなんですよ。「おっ、来たぞ資本主義」というね。ファッションなんかも徐々に中間に均されていった。そういったことが自分の中でもターニングポイントになりました。

―グローバリズムの波が押し寄せたわけですね。

東日本大震災が起きて、日本に身を置かないとわからないことがあるのではないか、という思いに駆られたんです。

―そんなベルリンでの18年間を経て、2年前に日本に活動拠点を移されていますね。

小金沢:ずっと気持ちの中にじわじわとわだかまっていたのは、2011年の東日本大震災が起きたことでした。それまで日本に帰るつもりは毛頭なかったんです。

でも震災のとき、年に一度会うか会わないかだった日本の家族や友達と急に密に連絡を取り合ったり、ベルリンにいる日本人同士ができることもないのに集まったりして。でも状況は全く解決されないし、頭から離れなかった。居ても立っても居られなくなったんです。

『煙のゆくえ』 / 小金沢健人展『煙のゆくえ』スパイラルガーデン(2016年)
『Mountains』 / 小金沢健人展『煙のゆくえ』スパイラルガーデン(2016年)

―やはり海外でも震災の影響は大きかったんですね。

小金沢:日本で起きた震災に対して、ベルリンのアーティストも様々な反応をするんです。自分で発電した電気を使ったりとか、いろんな方法を考えるんだけど、僕にとってはすぐに反応できなかった。

外から見ていてずっとわだかまっているうちに、日本に身を置かないとわからないことがあるのではないか、という思いに駆られたんです。それで帰ろうと決意しました。

―それで最初は東京ではなく、尾道に行かれたんですよね。

小金沢:ひねくれたところがあって、どうせ帰るなら東京じゃないところにしよう、と。たまたま尾道にいる友達のゲストハウスやカフェに行ったら、ベルリンで感じたセルフビルドに近いものがあったんです。

尾道にも空き家がいっぱいあって、街の人たちが寛容なんです。若い人がどんどん増えていたし、移住者に対してすごく優しくて、ウェルカムな空気だった。そういう息のしやすいところがよかったんですが、事情もあって去年から東京に戻りました。

―まだつい最近ですね。

小金沢:ほやほやのお上りさんです(笑)。さっきも言ったように、東京のマンションだと作業が基本的にできないので、展覧会をやる度にその場所で実験しているような状況です。

KAATで行われたスモークの実験(2019年)

劇場空間は、精神状態や意識をぎゅっと曲げられるところがある。

―今おっしゃった「展覧会をやる度にその場所で実験している」ということは、今回開催されるKAATでの『Naked Theatre —裸の劇場—』展にも当てはまりそうです。最大の特徴である劇場というものをどう捉えていますか?

小金沢:劇場って、演劇や芝居をやるために発展した場所なので、アートのための空間とは全然違う。ホワイトキューブに慣れすぎた目にはいろんなことが新鮮なんです。まずだいたい、劇場空間は基本的に真っ暗。外の空気や音が入らないし、窓もあまりない。

『半分シャーマン(女)』よりビデオスティル(2019年)

―たしかに美術館とはずいぶん違いますね。

小金沢:アートの世界では、たとえ扱う作品がドロドロのグチャグチャであっても、鑑賞者にはある種の明澄さを持って、明るく澄んだ状態で観て欲しいわけです。作品の内容にかかわらず、それをニュートラルな気持ちで観るように空間が作られているんですね。

だけど劇場空間というのは、入った途端にワクワクするし、精神状態や意識をぎゅっと曲げられるところがある。フカフカの椅子に座って、ボワっとした明かりが遠くにあって。さっきまでいた世界を忘れてしまうじゃないですか。

小金沢健人展『Naked Theatre-裸の劇場-』のためのドローイング(2019年)

―明確に非日常空間ですよね。

小金沢:美術の世界は、外の世界を一旦遮断するようでありつつも、意識としては繋がっている。ガラスの向こうの社会と同一の地平にあるんですよ。一方で演劇には、一度世界を強制的にリセットする力がある。そういった劇場の力は面白くて、演目をやってないとき、何もない状態の空の劇場に何回も出入りしてたら、そこがまるで生き物みたいに感じられてきたんです。

小金沢健人展『Naked Theatre-裸の劇場-』のためのドローイング(2019年)

―劇場全体が生き物である、と。

小金沢:美術館が生き物とは言いづらいと思うんです。でも劇場って、照明から何から隠さずに吊ってあるでしょ。そして劇場のスタッフたちがいる。まるで内臓とか身体器官がむき出しになって、それを小人たちが動かしているような、体内を透視している感覚があったんですね。

それが「裸の劇場」というテーマの最初の発想でした。劇場で普段行われている演目では、そこに役者がいて、芝居をさせて、演劇が成立する。それを全部取っ払っちゃおう、と。

―劇場を身体と見立てた上で、それを裸にして提示する。実際、今回の劇場での展示にあたって違和感はありませんでしたか?

小金沢:ギャラリーや美術館をわざわざ暗くする、遮光することはやってきたんですよ。一方で劇場は最初から暗いから大丈夫だと軽く考えていたけど、映像を投影するためには白い壁を立てなきゃいけない。じゃあ逆に、明かりだけでいいんじゃないか、と考えました。

今自分の興味は光の質に移っています。プロジェクターの明かりっていうのは、内容物はどうあれ、基本的に青っぽい光なんですよ。それに飽きがくる。裸電球だったりハロゲン灯だったり、あるいはろうそくや火花、そのくらいのレンジで明かりというものを考えたときに、プロジェクターの光の質は狭すぎるんです。

『電流の繁殖』 / 小金沢健人展『動物的』丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(2009年)
『無焦点世界』 / 小金沢健人展『動物的』丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(2009年)

-たしかに映像がプロジェクションされた展示は、似たような印象の空間になります。

小金沢:だから映像作品はやめようかとも考えました。でも、たとえば今テーブルに映るコップの影やガラスに映る自分も映像ですよね。そういう広がりで考えたら、まだまだ映像に興味があるし扱えると思ったんです。

真っ暗な劇場でコップにスポットライトが当たっていたら、「次どうなるか?」という期待を持ちますよね。

―アートと演劇の違いで言えば、客層も違ってくるところがありますよね。その意味で今回のインスタレーションは、アート作品か演劇作品のどちらなのか、あるいはそれらを横断したものなのでしょうか。

小金沢:まず今回、自分の中で一番ブレないようにしているは、「暗がりに入ったときの感覚」です。僕は小学生のときによく市民ホールに行って、アマチュアのオーケストラのリハーサルを聞くのが好きでした。遮断された空間で、椅子に座ってステージの明かりをぼんやりと見ている時間がすごく好きだったんですね。

その感覚は、劇場も映画館もそうだし、クラブにいるときも同じ。ベルリンのクラブはとにかく暗かったんです。ライトや装飾がほとんどなくて、ビールだけ飲みながら、みんなストイックに朝まで踊る。暗い森に入るとか、夜散歩するとかとはちょっと違う、暗い室内にある明かり……、そのポイントだけは軸として考えています。

東京のアトリエにて(2019年)

―明暗が重要な要素になってくる。

小金沢:そしてもちろん、何にその光が当たるかも重要です。たとえば明るい部屋で目の前にあるコップを見ながら、その奥にあるレイヤーを読んでいくのがアートなんですね。これはどういう形でどこから来て、飲み残しにはどういう意味があるのか。そのレイヤーの掘り方は、これより前のことを想像させるということです。時間で言うと過去に行く。

でも、真っ暗な劇場でコップにスポットライトが当たっていたら、否が応でも「次どうなるか?」という期待を持ちますよね。その意味で今回は、時間をさかのぼらせるんじゃなくて、未来の方にもっていきたいんです。ただ作品は動かないから、お客さん自体の動きを面白いものとして見せたいですね。

小金沢健人展『Naked Theatre-裸の劇場-』のためのドローイング(2019年)

―お客さん自身が役者のように振る舞う。

小金沢:僕はこの展覧会を1つの装置だと思っているんです。よくアートの世界では、作品は見られて初めて成り立つなんて言い方をしますが、それとも違って、もっと具体的にお客さんが大事なんです。装置の中に人が入ってはじめて、インスタレーションが完成形になるんだと思います。だから一人でも複数人でも、ぜひ作品を体感しに来て欲しいですね。

作家によるセルフポートレート
イベント情報
『小金沢健人展 Naked Theatre-裸の劇場-』

2019年4月14日(日)~5月6日(月・振休)
会場:神奈川県 KAAT 神奈川芸術劇場 3F中スタジオ
時間:10:00~18:00(入場は閉場の30分前まで)
料金:一般700円 学生・65歳以上500円
※高校生以下、障害者手帳をお持ちの方と付き添いの方1名は無料
※10名以上の団体は100円引き

プロフィール
小金沢健人 (こがねざわ たけひと)

1974年東京生まれ。武蔵野美術大学で映像を学び、在学中よりビデオによる映像作品の発表を始めた。1999年よりベルリンに拠点を移し、アメリカ、ブラジル、インド、オーストラリア、ギリシャなど世界各国で作品を発表、その独特の映像表現は高い評価を獲得した。その後、次第にドローイング、パフォーマンス、インスタレーションと表現領域を広げ、多彩で複合的な作品群と旺盛な制作活動に裏づけされた多才なアーティストとして知られている。国内では、資生堂ギャラリー「Dancing In Your Head」(2004)、神奈川県民ホールギャラリー「あれとこれのあいだ」(2008)、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館「動物的」(2009)など多数の個展を開催。2018年開催の「Asian Art Award 2018」では大賞を受賞。



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