トラフ建築設計事務所と行く『桑原甲子雄の写真』展

1930年代から約70年にわたり、アマチュア写真家として東京のありのままを撮り続け、2007年に惜しくも亡くなった写真家・桑原甲子雄(くわばら きねお)。数々のカメラ雑誌で編集長を歴任し、荒木経惟や東松照明を見出した名編集者としても知られる彼の足跡を辿った展覧会『桑原甲子雄の写真 トーキョー・スケッチ60年』が、世田谷美術館で開催されています。

戦前の東京の街や風俗などをごく自然に写し取ったその作品は、歴史的資料としても貴重なものばかりですが、それらを「ごく私的な記念写真」と語り、あくまでアマチュア写真家としての姿勢を崩さなかった桑原が見た東京とはどんな世界だったのでしょうか? 今回は、建築設計から、チェルフィッチュなどの舞台美術、さらには『空気の器』などのプロダクトデザインまで手がけるトラフ建築設計事務所代表・鈴野浩一さんとともに、建築家 / デザイナーの視点から、桑原甲子雄の写真、そして移りゆく東京の姿を鑑賞してきました。

都内でも有数の大緑地、砧公園の中にある世田谷美術館。館内に入り、陽光が差し込む廊下を抜けた先、斜めに壁が配置されたところから展示室は始まります。鈴野さんはトラフ建築設計事務所として、自身も『文化庁メディア芸術祭』など展覧会の会場デザインを手がけるだけあって、早速この壁の絶妙な角度が気になった様子。「壁に導かれるようで高揚感がありますね」と言いながら展示室に足を踏み入れていきました。

鈴野浩一(トラフ建築設計事務所)
鈴野浩一(トラフ建築設計事務所)

あのアラーキーを見出した、普通の写真好きなおじいさん

展示は意外にも写真作品ではなく、短い映像作品からスタートします。この映像は21年前の1993年、同じ世田谷美術館で行われた『ラヴ・ユー・トーキョー 桑原甲子雄・荒木経惟写真展』に際して、当時79歳だった桑原さんが、実際に渋谷の街で写真を撮り歩く様子を収めたもの。コンパクトカメラを手に歩きながら、気になるシーンを見つけてはパシャリ。映像のすぐ横には23歳の若き桑原さんの姿も展示されていましたが、服装や見た目こそ違っても、映像のような撮影スタイルは生涯一貫して変わらなかったそうです。

鈴野:あのアラーキーを見出した方と聞いていたので、勝手に巨匠みたいなイメージを持って身構えていたんです。でも、この映像の姿を先に見て、だいぶ印象が変わりました。どこにでもいそうな普通の写真好きなおじいさんというか(笑)。展示の最初にこういった作家の姿を見ることができると、その後の作品の見方にも急に親しみが湧いてきて良かったです。

展示室風景

隣の壁に目を移すと、今展のメインビジュアルでもあり、桑原さんの代表作品の1つとして知られている『麹町区馬場先門 二・二六事件当時(千代田区)』が、1メートルを超える大きなサイズで展示されています。陸軍将校によるクーデター「二・二六事件」の翌日、戒厳令が敷かれていた最中、好奇心に駆られた桑原さんは街に繰り出し、見張りの憲兵に気付かれないよう、こっそり懐にカメラを忍ばして撮影したそう。急遽張り巡らされた鉄条網からも、当時の物々しさが伝わってきます。

鈴野:「今、何が起きているんだろう?」と、その先が知りたくなる写真ですね。しかも、この大きなサイズだと、ちょうど自分もこの写真の場所に立っているような気持ちになって、すごく不思議な感じがします。

『東京昭和十一年』より『麹町区馬場先門 二・二六事件当時(千代田区)』 1936年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵
『東京昭和十一年』より『麹町区馬場先門 二・二六事件当時(千代田区)』 1936年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵

戦前の東京をリアルに写し撮った「ごく私的な記念写真」

その鈴野さんの感覚は、この先どんどん強まることになっていきます。イントロダクションとして初期の代表作を展示した最初の空間を過ぎ、次の展示室では1930年代に撮影された写真が並びます。当時20代前半だった桑原さんは、家業を継いで質屋の若旦那をしていたものの、どうしても仕事が性に合わず、暇を見つけては東京の街の日常を撮り歩いていました。ここでは地元の上野、当時は銀座と並ぶ繁華街だった浅草、そしてなぜか肌に合ったという荒川周辺の様子を収めた、戦前の東京の貴重な写真が展示されています。

鈴野:実家も東京なのに、戦火でも焼けずによく残っていましたよね。戦後日本とはまた違った東京や日本人の姿が映し出されていて、どの写真もすごく興味深いです。最初の映像でも思いましたけど、桑原さんって写真を撮るときに変に構えていないというか、パッと何気なく自然に撮りますよね。撮られている側も全然気にしていない自然な姿で、周囲の匂いや音まで感じられるようで距離感もすごく近い。そんな感じがこの時代の写真からも伝わってきます。

展示室風景
展示室風景

たしかに鈴野さんの指摘のとおり、まだまだカメラは高価だった1930年代に撮られた写真であるにも関わらず、写っている人々の視線やポーズには気負いが一切感じられません。街を歩く桑原さんの瞬間の眼差しがそのままプリントに焼きついたかのような写真は、一見何気ないスナップショットのようでありながら、独特の個性を放っています。

綺麗な景色や決定的な瞬間を切り取った作品性の高い写真ではなく、下町をはじめとする猥雑な街並みを好んだという桑原さん。当の本人はあくまで「ごく私的な記念写真」という意識で撮影していたと後に語っていますが、街を歩く人の服装や看板の文字1つとって見ても、資料的価値の高い記録写真として貴重なものでもあることは明らか。日常光景を偽りのない姿でとらえた写真は、ジャーナリズムの根幹をあらためて考え直させるものでもあります。

『東京昭和十一年』より『浅草公園六区(台東区浅草二丁目)』 1937年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵
『東京昭和十一年』より『浅草公園六区(台東区浅草二丁目)』 1937年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵

それが如実に現れていたのが、「支那事変ニュース」と書かれた看板が写った1枚。歴史的には戦争前夜ともいえる時期の写真ですが、街を歩く人たちの表情はとてものどか。悲壮な表情をした人が写っていたほうが、作品やドラマとしてはインパクトがあったかも知れませんが、これも「ごく私的な記念写真」だからこそ撮れた1枚なのかもしれません。桑原さんが目指していたのは「匂と潤ひのある」写真だったと言います。

木村伊兵衛らにも評価され、特集号まで組まれた異例のアマチュア写真家

戦前、アマチュア写真家としてカメラ雑誌へ投稿を続けていた桑原さんはたびたび入選し、その界隈ではかなり名を馳せた写真家だったそうです。その証拠に、23歳のときには雑誌『カメラアート』が、なんと「桑原甲子雄推薦号」を発売。今展ではその実物も展示されています。木村伊兵衛などの一流写真家からも評価された桑原さんには、プロの世界への誘いもあったそうですが、自分の作品は「ごく私的な記念写真」という信念があった桑原さんは、あくまでアマチュア写真家としての姿勢を崩さなかったそうです。

『東京昭和十一年』より『浅草公園六区(台東区浅草二丁目)』 1935年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵
『東京昭和十一年』より『浅草公園六区(台東区浅草二丁目)』
1935年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵

しかし、次第に近づいてくる戦争の足音は、当然のように桑原さんの人生にも影響を及ぼし始めます。第二次世界大戦が本格化し始める1940年頃になると、物資統制でフィルムも手に入りにくくなり、それまでのように自由に写真が撮れなくなりました。桑原さんは国策協力として、祖国を離れて活動する兵隊や、異なる人種が協力して生きる姿を撮影するという機会を得て満州を訪れます。

鈴野:不本意にも戦争に巻き込まれ、頼まれ仕事として写真を撮るようになってしまったとはいえ、満州時代の写真には日本語の看板がある街の風景や、日本人入植者の日常を感じさせるスナップ風の写真ばかり。いかにも桑原さんらしい匂いにあふれていて、興味の対象はなにも変わっていないところがいいですね(笑)。

また、1943年には出征軍人の留守家族の写真も撮影しています。約30年後の1975年には、この写真を頼りにルポライターの児玉隆也が家族のその後を訪ね歩いた『一銭五厘たちの横丁』という本を発表しており、鈴野さんも大きな興味を寄せていました。

鈴野浩一(トラフ建築設計事務所)

プロとアマチュアの架け橋となったカメラ雑誌の編集長時代

自由に写真が撮れなくなった戦争を境に、桑原さんの人生は大きな転換を迎えます。戦後、ほどなくして桑原さんは雑誌『カメラ』の編集長に就任。アマチュア写真投稿ページの審査員に土門拳、木村伊兵衛といった一流のプロを呼び、アマチュア写真家の地位向上に大きな役割を果たしました。この中から東松照明などが頭角を現し、『カメラ芸術』編集長の時代には、まだ駆け出しだった荒木経惟の特集を組むなど、編集者として多大な功績を残します。

鈴野:建築の世界でも『新建築』という雑誌に学生コンペの入賞者が掲載されるんですけど、僕も学生時代にいろんな建築のコンペにチャレンジしていて、ちょっとでも取り上げてもらえると嬉しかった記憶があります。憧れの建築家に自分の作品を見てもらいたいとか、写真家の世界でも同じようなことがあったんでしょうね。桑原さんはアマチュア写真家だったからこそ、編集長としてそういう場を作らなければいけないと切実に感じていたんだと思います。

1950年代から60年代にかけて、『カメラ』『サンケイカメラ』『カメラ芸術』などの編集長を歴任した桑原さんでしたが、仕事は多忙を極め、写真家としてはほとんど活動できない日々が続いていました。再び自ら撮影するようになったのは、50歳を越えた1965年。『カメラ芸術』廃刊を機にフリーランスになると、約10年ぶりに本格的な写真撮影を再開。展示室にも、1960年代後半に撮られた写真が数多く展示されています。路面電車が走る渋谷駅前、デパートの屋上で談笑する若い女性たち、写り込んだ看板の宣伝コピーなどからも、高度経済成長のまっただ中にあった東京の空気が感じられます。

『東京戦後』より『渋谷駅』 1965年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵
『東京戦後』より『渋谷駅』 1965年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵

荒木経惟など若手写真家に強く支持され、写真家として再評価が高まった1970年代

続いての展示室には、1970年代に東京で撮った写真と、1978年に初めてパリを訪れたときに撮った写真が対比するように展示されています。当時の桑原さんは、自らが見出した荒木経惟をはじめとする若手写真家たちにかつぎだされ、写真家としての再評価が急に高まり、還暦にして初めての個展を開催。立て続けに発売した写真集も増刷するなど、脚光を浴びていた時期でもありました。

しかし、移民も暮らす人種豊かな街をとらえたパリの写真に対しては、帰国後に「対象に負けてしまった」と素直に告白もしています。一方で東京の写真に対しては「東京に忠実な画像とはいえない、という思いがある」という言葉を残しており、こうした背景を踏まえて2つの都市の写真を見比べると、当時の桑原さんの心の中が見えてくるようでもあります。

『人間都市パリ』より 1978年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵
『人間都市パリ』より 1978年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵

『東京長日』より『世田谷区』 1976年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵
『東京長日』より『世田谷区』 1976年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵

鈴野:このあたりの東京の風景は、僕も幼少時代に知っている風景でもありますね。20代の終わりに3年くらいメルボルンで働いたことがあるんですけど、日本にいる自分、東京にいる自分を外からの視点で見られたことが、一番大きな経験だったと思います。やっぱり水槽の中からだけだと自分を客観的に見られない。桑原さんも自分の心象が強く反映された東京を撮っていたことに気がついた、ということなんでしょうね。でも、そういった自分の型を反省するというのは、すごく正直な人だと思いました。

一流のセオリーに影響を受けず、あえて「楽しさ」を追究したアマチュア写真

そして、最後の展示室には、1980年代から1992年にかけて、いわゆるバブル成長期の東京で撮影された写真が展示されています。特に個展『午後の微笑』(1992年)で展示された珍しいカラー写真作品は、桑原さんを慕う荒木経惟と谷口雅(写真家、写真評論家)の二人が「桑原らしい写真をあえて選ばない」という方針で進め、桑原さんも最終的には納得したものの、次第に表情が不機嫌になっていったという逸話もある作品たち。しかし、現在の東京の面影をも残す写真の数々は、派手な景気だった時代の日本の姿でありながら、どこか穏やかな雰囲気もまとっており、1930年代の写真に原点回帰したようにも感じられます。

展示室風景

鈴野:カメラ雑誌の編集長として一流の仕事を見てきた桑原さんなら、「写真はこう撮ればいい」というセオリーは当然わかっていたと思うんですけど、最初に勘で撮った写真が一番面白かったりするような、終始一貫して「楽しさ」から撮っていたんじゃないかと思うんです。僕も設計をするときは、なるべくたくさん模型を作って、あえてひっくり返して見るとか、自分が作ったものを疑ってみると、ハッとすることがよくあるんです。1990年代のカラー写真からはそういった遊び心も感じて、桑原さんが「アマチュア」にこだわった意味が少しわかったような気がしました。

図画工作をルーツにした自由な「もの作り」の楽しさという共通点

最後の展示室を抜けたロビーでは、初めに見た映像作品が15分ほどのロングバージョンで再び上映されています。渋谷での撮影が終わって自宅に帰るまでのタクシー内の会話シーンは、桑原さんのマイペースな人柄がにじみ出ていて、見ているこちらも撮影に同行したような気分にさせてくれる絶妙な演出となっていました。しっかり最後まで映像を観ていた鈴野さんに、今展の感想をあらためて伺いました。写真家と建築家、共感を覚えた部分はあったのでしょうか。

鈴野:桑原さんの作品を見ていて面白いと思ったのは、たとえばパリの凱旋門の写真一つとっても、普通は凱旋門の存在感が大きくて、その周囲の人々や風景を付け合わせて撮ることが多いと思うんです。だけど、桑原さんの作品はたまたま背景として凱旋門が写りこんじゃっているだけ、みたいな(笑)。どの写真も親しみやすくて、優しい感じがするのは、そういったセンスが影響しているのかもしれないですね。

さらに鈴野さんは、桑原さんの写真について、興味深いことを語ってくれました。

鈴野:でも、実はそういうセンスの部分に共感も感じたんです。建築の世界でも少し前までは、まず都市計画があって、次に建築があって、その建築家が作ったハコにあわせてインテリアデザインや、プロダクトデザインや人が入ってくるみたいに、ヒエラルキー構造になっていたんです。でも結局、空間デザインや風景を作っているという意味では全部一緒。僕らの世代の建築家は、もっとフラットな時代で生きているので、建築もインテリアもプロダクトも同等として捉えていて、お店だったら商品とか、ホテルだったら家具とか、物や人がその空間に入って完成するようなイメージで全てを設計していくんですね。そうすることでイキイキした空間になってくる。桑原さんの写真の多くも、人が入ることで完成するみたいな部分があります。そこは共通していたんじゃないかなと思いました。

『東京昭和十一年』より『下谷区上野両大師橋(台東区)』1936年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵
『東京昭和十一年』より『下谷区上野両大師橋(台東区)』1936年 ゼラチン・シルバー・プリント 世田谷美術館蔵

実際、トラフ建築設計事務所が手がけた空間でも、目黒のホテル「CLASKA」では部屋の狭さを逆手にとって、壁にカバン、服、本、スピーカーなどが入る穴の空いた部屋を作ったり、ナイキ『Air Force1』の期間限定ストアではシューズがぐるぐると回遊する空間を作るなど、物から空間を発想したアプローチは大きな注目を浴びました。鈴野さんは、その思考回路の原点は図画工作だと言います。

鈴野:「建築」っていうと、難しい構造計算とか設計でガチガチしちゃうんですけど、僕は全て「図画工作」の延長だと思ってやっているんです。小学校で図画工作を習っていた頃は、細かい区別もなく何でも色々作れて楽しかったけど、中学になって美術とか技術・家庭とかに分かれていくと、急につまんなくなってしまったんですね。そういう純粋なもの作りの楽しさを求めている点も、桑原さんと通じるところかもしれないですね。

 
 

桑原さんの写真が再評価され始めた1970年代は、「写真とは何か?」という命題を写真家みんなが突き詰め、難しく考えすぎる傾向にあった時代でした。その中で荒木経惟をはじめとする若い写真家たちが、桑原さんの作品をあらためて見て、「やっぱり素朴なところに写真の原点があるんだ!」と衝撃を受けたという背景があったそうです。当時、桑原さんは若い写真家に向かって、「君たちの時代は大変だね。どうしても突き詰めちゃうよね。でも撮りたまえ。撮って、撮って、10撮ったら1でもいいから発表しなさい」と話していたといいます。日頃からアートに触れている人も、アートなんて難しいと感じている人も、「楽しさ」というクリエイティブの原点を見つめに、世田谷美術館へ足を運んでみてはいかがでしょうか?

イベント情報
『桑原甲子雄の写真 トーキョー・スケッチ60年』

2014年4月19日(土)~6月8日(日)
会場:東京都 世田谷美術館 1階展示室
時間:10:00~18:00(最終入場は17:30)
休館日:月曜(ただし5月5日は開館、5月7日は休館)
料金:一般1,000円 65歳以上800円 大高生800円 中小学生500円
※障がい者の方は500円(介助の方1名まで無料)、大学生以下の障がい者の方は無料

『TAKEO PAPER SHOW 2014「SUBTLE」』

2014年5月25日(日)~6月1日(日)
会場:東京都 東雲 TOLOT / heuristic SHINONOME
時間:11:00~20:00
参加作家:
石上純也
色部義昭
上田義彦
葛西薫
田中義久
冨井大裕
トラフ建築設計事務所
中村竜治
ノイズ
服部一成
ハム・ジナ
原研哉
三澤遥
皆川明
宮田裕美詠
寄藤文平
和田淳
料金:無料

プロフィール
鈴野浩一 (すずの こういち)

2004年に禿真哉(かむろ しんや)と共にトラフ建築設計事務所を設立。建築の設計をはじめ、ショップのインテリアデザイン、展覧会の会場構成、プロダクトデザイン、空間インスタレーションやムービー制作への参加など多岐に渡り、建築的な思考をベースに取り組んでいる。主な作品に『テンプレート イン クラスカ』『NIKE 1LOVE』『港北の住宅』『空気の器』『ガリバーテーブル』など。『光の織機(Canon Milano Salone 2011)』で、『エリータデザインアワード最優秀賞』を受賞。2011年『空気の器の本』、作品集『TORAFU ARCHITECTS 2004-2011 トラフ建築設計事務所のアイデアとプロセス』(ともに美術出版社)、2012年絵本『トラフの小さな都市計画』(平凡社)を刊行。武蔵野美術大学非常勤講師、多摩美術大学非常勤講師、京都精華大学客員教授。



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