「フジワラノリ化」論 第15回 加藤浩次 山本復帰を待望するための執拗な加藤論 其の三 過激と温厚の狭間で

其の三 過激と温厚の狭間で

この人ってどうよと議論の俎上に載せられること自体、それなりのアクとコクが際立っているという表れでもある。そのアクとコクをめぐって、好きだ嫌いだと議論が巻き起こる。爆笑問題の太田光はその議論として最も持ち出されやすい芸人であろう。政治について唾を飛ばしながら国会議員とやり合う姿の一方で、懸命に番組を進行する田中の横で意識的に気の抜けた立ち振る舞いを見せて笑いを作ろうとする姿も馴染みの光景だ。抑えきれない怒りと、抑えた上で作られる乾いた笑い。太田光はそのスイッチングを慎重にセレクトしているつもりだろうが、どうだろう、視聴者はそのセレクトを冷静に或いは冷淡に判別しているのではないか。ほう、今日はこっちの太田か、と。ラジオを聴けば分かるが、太田はあらゆる疑問が不満として固形化したような人だ。その不満を投げ飛ばして相手先のダメージにすることもできれば、自分から沸き立った熱分だからと自らに溶かし込んで自己処理してしまうこともできる。しかし、そのパターン数は増えない。常にそのどちらかなのである。顔中の血管をピクピクさせて怒鳴る一方で、初めての小説が完成したけど全部水嶋ヒロに持っていかれちまったテヘヘと自分を落としてみせる。

太田は毒舌なのか。いや、彼は毒舌ではないと思う。少なくとも毒舌の打率は高くない。回りがキョトンとせざるを得ない毒素を放ってしまう機会も少なくない。その際、彼は「いっけねぇ」という、少しコミカルな顔つきで元に戻そうとする。後は田中のツッコミをまぶして話を次へと繋げていけば傷は最小限で済む。太田光に、ビートたけしよりも立川談志との親和を感じるのは、場の統率力をやっぱり二の次にして自分で自分の喋りのテンションを上げることを最優先する部分だ。ビートたけしは、例えばありもしない階段を踏み外してコケてみるというお決まりのギャグで周りを困らせはするが、映り込む面々の全体のバランスを考えている人だ。ゲストがいればゲストに、コメンテーターがいればコメンテーターに、軍団がいれば軍団に、毒素を均等配分していく。この毒素を正統的に継承しているのは、太田光というより水道橋博士になるだろうか。彼の豊富な知恵蔵から引っ張り出される突っ込みは、相手のふところに入り込むスムーズさがある。

「ぐっさん」の愛称で親しまれる山口智充というのは、どうにもつまらない。滲み出る人の良さがことごとく平凡なのである。刃物を一切所持しないおおらかさが生温い番組の下地に使われることしばしばである。場の進行も出来て適度に笑いも挟めて、そこにいるどんな面々とも仲間っぽい囲いを形成出来る立ち振る舞い、それはつまりベッキーの特技なのだけれども、この山口智充というのもベッキー同様に、低予算バラエティの申し子となっている。博打の少ない番組作りで安定した視聴率を提供してくれそうな気配が漂う。いわば、近所に住んでいる優しいお兄さんのイメージ。彼にはちっとも感心しないが、それでは何がしかの批判を差し向けることが出来るかとなればそれもまた、ちっとも用意出来ないのである。文句が差し向けられないように作られた善意の固まり。彼が石塚英彦から贅肉を取って少しの筋肉を付けた人の良さを取得していることに気に留めるべきだし、この貯蓄は彼のセーフティーネットとして長いこと機能するだろう。

加藤浩次が褒め称えられるべきは、太田光にも、山口智充にもなっていない点であろう。つまり、毒素主導でもなく、善意主導でもない、両方のバランスが整っているのだ。加藤浩次に先んじてお笑いからワイドショーの司会に転向した人物にホンジャマカの恵俊彰がいるが、彼など恐らく、この毒素と善意の中間に進みたかった人なのだろう。だかしかし、何の色素も臭気も持ちえていない。中山秀征の模倣品のような仕上がりだ。中山秀征自体が万事の平均化で成り立った人材であると考えれば、彼の模倣品とは人格否定発言に近しい。低予算で大量生産した中山秀征の一つとは言いすぎか。それほど恵のこなし方には味が無い。無味無臭である。臭わせているつもりなのに臭っていないのが尚更痛々しい。加藤は違う。そもそも加藤が持っていたのは爆発力であって、毒舌ではなかった。爆発した反動で相手をフォローするという善意方面の配慮もこれまでは極力隠し通してきた。「めちゃイケ」の「爆裂お父さん」のコーナーで、ジャイアントスイングをし続けた彼は、やりっぱなし、投げっぱなしだった。キャラの凹凸を浅い所に隠し持っていて、すぐに「実はこういう顔もあるんです」と聞いてもいないのに喧伝してしまう浅いお笑いムーブメントとは距離をとった。その一つの証拠に加藤は自著を出版していない(ココリコ田中と「ココらくビデオ」という映画雑誌の対談レビューをまとめたもののみ)。隅々までお笑い芸人が自分語りを許される中、加藤クラスの芸人が本を刊行していないというのはなかなか興味深い事実だ。無味無臭の誰それが懸命に着色料と調味料を振りかけてそれなりの風体に仕上げた本を乱発しているのにも関わらず、加藤浩次は、自分とは誰であるには答えない。俺はこうだと宣言をしない。

先々週の後半だったか、「スッキリ!!」を観ていたら、スタジオに登場したモモンガがアナウンサー・葉山エレーヌのスカートの中に潜り込むという珍事が起きた。大爆笑に包まれるスタジオ。テリー伊藤は面白いことを更に面白くする義務感と目の前で女子アナがうろたえている男性的興味からいつにも増して前のめりになり、葉山エレーヌの体をペタペタ触りながらどこだここかとゲラゲラ笑っている。その時、加藤は、笑い転げながらもどこかで笑顔が引きつっている。なかなかモモンガが出て来ず、どうやら彼女の上半身へ辿り着き、前だ後ろだと逃げ回っている間、彼は固まった笑顔のまま、この現状をどうするべきか、カメラの後ろにいるスタッフにも目を配りながら、事態の収拾方法を探っている。面白ければいいのだというテリーと、面白いのは確かだがこのままでいいとも思えないという加藤の差が画面から垣間見えた。

加藤は気が利く。いや、最終的に気が利くと言うべきか。この作法は話術にも反映されている。恵俊彰のような無味乾燥な話題を更に乾燥させる平凡な話術と比べると、加藤のそれは違う。対象をひとまず荒らす。テリーならテリーと、他の番組ならばアナウンサー辺りと結託しつつ、対象を面白い方向に転化していく。しかし、ここからの回収が早い。そして丁寧である。話の終わらせどころがあそこに見えている。かといって一直線で突き進むだけでは芸が無い。しかし、テリーのように、面白ければ終わらせどころを変えてしまっても構わないという柔軟性は持ち合わせないし、他の朝のワイドショーの顔が周囲に強いている「自分が法律」という進行は嫌悪している。用意されたゴールに向かって、一直線ではなく、曲がりくねりながら辿り着く道筋を作る。一文で書いてしまうといかにも簡単なことのように思えるが、ワイドショーに出てくるコメンテーターが次々と毒にも薬にもならぬ平均値を垂れ流す中で、司会としてこれが出来るのは加藤くらいのものだ。

「フジワラノリ化」論 第15回 加藤浩次

前回の議論でも示したように、極楽とんぼとは、起爆装置であった。だからこそ、加藤が集団の調整役になっている現在については全く別物として捉えなければならないだろう。しかし、人はそんなには変われない。加藤は、新メンバーが加入した「めちゃイケ」の教育係として、鬼教官に扮して「めちゃイケ教習所」を開校している。極楽とんぼとして撒いた地雷は、爆発せずにそこかしこに埋まったままなのだ。加藤自身が埋められた地雷を爆発させるのか、除去作業を誰かに委託してしまうのか、この判断によって、山本復帰の議論が持ち出されるか否かが決まる。鬼教官とあらば、隣に山本が必要である。しかし、モモンガを体に入れてしまった女子アナに冷静に対処する彼が、彼個人として本望ならば、私たちは山本を諦めなければならない。山本ならば、そこにモモンガが体に入った女子アナがいれば、何がしかの奇声を発しながら抱きついたであろう。加藤の現在地に、ライバルはいない。しかし、そこはライバルがいないほどの上空なのか、誰もいない孤島なのか、それがまだまだ誰にも分からない。ポジショニングが定まってはいないからこそ、その地ならしを一人でやり抜くのか、やはりあの作業員が必要なのかが気にかかる。次回は山本の復帰を待望する理由を熱っぽくあぶり出していくこととしよう。やっぱり、加藤には山本が必要だと思うのである。



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