暗黒舞踏でつかむSF小説『グラン・ヴァカンス』の世界

ハードコアダンスを標榜し、社会の厳しい現実を映したソリッドな作品を数多く生み出してきた大橋可也&ダンサーズが、鮮烈な詩的イメージで仮想と現実の闘争を描いた、現代日本SFを代表する飛浩隆の唯一の長篇にして、ゼロ年代のベストSF作品にも挙げられる傑作『グラン・ヴァカンス』のダンス作品化に挑戦するという。人間に見捨てられた仮想空間に展開するリゾート施設「数値海岸」に暮らす、AI(人工知能)と呼ばれるキャラクターたちが遭遇する世界の崩壊。この作品に取り組むにあたって、大橋は自らのバックグラウンドである暗黒舞踏の手法にあらためて刮目しているという。一見、意外にも思える暗黒舞踏とSF小説の関係性はどこにあるのか? 大橋と共に、大橋の師匠であり、東京国立近代美術館『フランシス・ベーコン展』での公演を終えたばかりの舞踏家の和栗由紀夫と、本作にもドラマトゥルク(作品に関する資料的なリサーチやアドバイスを担当)として参加する日本のドラマトゥルクの草分け・長島確に伺った。

『グラン・ヴァカンス』の世界観をダンス作品化するにあたって、和栗さんから学んだ「舞踏」という方法が有効だと思ったんです。(大橋)

―今回『グラン・ヴァカンス』を上演するにあたって、大橋さんのルーツである暗黒舞踏が重要な鍵を握っているそうですね。今日は舞踏の背景などもお聞きしながら、この壮大なSF小説をどのようにダンス作品として表現されるのかを伺っていきたいのですが、そもそも大橋さんと舞踏との出会いは、どのようなきっかけだったんですか?

大橋:僕はもともとダンスの経験があったわけではなく、普通に大学を卒業してから会社勤めをしていたんです。当時は身体を動かすようなことには全く興味がなくて、むしろ身体があることが居心地悪いと思っていて、そういうものを全て遠ざけていたんですよ。

―すごい意外な経歴ですね。

大橋:そんな違和感をずっと抱えながら、いわゆる自分探しのように仕事を辞めてカナダに行ってみたんですが、場所が変わったからといって自分が変わるわけではないんですよね。そこでたまたま見つけたダンスのワークショップに参加し、舞台に立ったのがダンスを始めたきっかけです。当初から自分の作品を作りたいという気持ちがあり、また、カナダで教わった先生が日本で舞踏を学んでいたこともあって、日本に帰ったらまずは舞踏を勉強してみようと思いました。


大橋可也

―どなたか舞踏家を紹介してもらったのですか。

大橋:それが、どこで舞踏を勉強したら良いのか皆目分からず、電話帳を調べていたら偶然、舞踏発祥の地であるアスベスト館を見つけたんですよ。ちょうど舞踏の創始者と言われる土方巽さんの奥様、元藤あき(火へんに華)子さんがアスベスト館を再開して活発な活動をされ始めた頃だったこともあって、和栗由紀夫さんを始め、大野一雄さん、山崎広太さんなどがワークショップをされていました。そこで和栗さんに教わったことが、自分の身体にすごく腑に落ちましたし、和栗さんが主宰する好善社でも、踊りのことだけではなく、舞台を作る、作品を作るという意味でたくさん学ばせてもらいました。

―最近の大橋さんの作品は、舞踏がバックグラウンドにあることもすっかり忘れて観てしまうほど、大橋さん独自の表現になっていたと思いますが、なぜあらためて舞踏にフォーカスすることになったのでしょうか?

大橋:ここ最近、作品作りの経験を重ねるにつれ、行き詰まりを感じるといいますか……世の中的にも大震災が起こり、アートやダンスが、何をすればいいのか見えなくなってきた気がしていました。個人的には、昨年までサラリーマンをやりながら舞台を続けていたんですけど、勤めていた会社が親会社に吸収合併されて無くなってしまったこともあり、思い切って会社を辞めたんですね。そこで長い夏休みをいただけることになり、以前からダンス作品にできるんじゃないかと思っていて、タイトルもまさに「夏休み」だった『グラン・ヴァカンス』に取り組もうと思いました。そしてこれを作品化するにあたって、和栗さんのところで学んだ「群舞」(大勢で一緒に踊る)を、舞踏の方法によって、もう一度取り組みたいと思ったんです。


大橋可也&ダンサーズ『グラン・ヴァカンス』稽古風景

―これまでの作品にあったような群舞とはまた違うものなんですか?

大橋:もちろんこれまでの僕の作品にも、複数の人が同時に舞台に存在しているのですが、それがすなわち群舞ということではないと思っています。『グラン・ヴァカンス』では「アイデンティティ境界」という概念があり、AIという個体が、他の個体と繋がっていくことで解体され、自分の形ではなくなってしまうというシーンがあります。それが、舞踏の方法である身体を拡張し、極小化していくということと非常に近いんじゃないかと考えたんです。

舞踏とは、戦後日本人の肉体の中で、西洋と東洋がぶつかってできた「ねじれ」なんです。(和栗)

―和栗さんは舞踏の創始者と言われている土方巽直系の弟子ですが、舞踏のことを少し詳しく教えてもらってもいいですか?

和栗:舞踏という言葉は1000年くらい前からあって、古文書にも大仏開眼の際に舞踏会(ぶとうえ)が開かれたと書かれてあるんですよ。ただ当時の舞踏という言葉には大陸からやってきたものという意味があって、日本古来には「踊り」と「舞」しかありませんでした。

―今「舞踏会」といえば、鹿鳴館でやるような社交ダンスのことですもんね。

和栗:そうですね。今のようにダンスのことを指して使われる舞踊という言葉は、坪内逍遥(小説家、評論家、翻訳家、劇作家)が「日本にもリヒャルト・ワーグナーの楽劇に匹敵するものを」と言って、明治期に作られたものなんですよ。だから暗黒舞踏の「舞踏」には、日本人が明治以降に我が国の踊りとして呼んだ「舞踊」とは違なるものという意味がこめられているんです。


和栗由紀夫

―それは、何らかに対するカウンターカルチャーでもあったということですか?

和栗:舞踏が土方巽によって始められた1960年代は、戦後、日本人のアイデンティティーが失われ、欧米流に「セルフ」とか「個」という中身を確立しなければと躍起になっていた時代でした。だけど日本人の身体というのは、それまでからっぽが着物を着ているようなものだったんです。特に日本において、芸能はある意味「憑依」でしたから中身があったら何も入ってこれない。芸能者の身体は空であるのがむしろ必要な資格であって、生死の境をさまようような、この世の埒外におかれた存在、共同体からはじかれた者が芸能者だったわけです。プリミティブな歴史では西洋も東洋も問わずそうでしょう? それが60年代、景気を取り戻しながら、アメリカ流に健康で元気なことこそが善だという志向にならって、日本の踊り手たちは、タイツをはいてバーをもって欧米人になろうとした。だけど、個を確立しなさいといわれて育つ西洋人と、みんなに合わせなさいといわれて育つ日本人では、事情が違うんですよね。


大橋可也&ダンサーズ『グラン・ヴァカンス』稽古風景

―確かに、人と合わせていたら我は育ちませんよね。

和栗:建築でも、日本はふすまや障子で部屋が仕切られているけど、向こうは石やレンガの壁、部屋にもドアがあって鍵がかかる。各部屋に入るのにも許可がいるわけです。ヨーロッパは大陸ですから当たり前ですよね。でも日本は海に囲まれた島国だから、文化は入ってきても出て行くところがなくて混ざるしかない。いろんな文化を受け入れて、それを自分流に洗練させる技術は高いけど、自分が1つの人間として他者と相対するという感覚は希薄なんです。戦後、個を確立せよという外圧がかかりましたが、頭では理解していても身体がそういう構造になっていなかった。舞踏とはそんな西洋と東洋が1つの肉体の中でぶつかってできた「ねじれ」なんだと思います。だから舞踏はスタイルではないし、この「ねじれ」がほどけたり、スタイル化してしまったときには、エネルギーを失っちゃうと思うんですね。

―1つの個体の中で、革命が起こっているような感じでしょうか。

和栗:そうですね。だけどそれまで日本の芸能の世界では、本当の意味で革命が起こったことはなくて、改良運動しかなかったと思うんです。良くも悪くも、以前の価値観を否定しない。ところが土方巽さんはそんな日本という国で「否定」の精神を強く打ち出した人なんですね。だから暗黒舞踏の「暗黒」が指しているものは、60年代の右肩上がりの時代に冷や水を浴びせるみたいに、暗いほうに目を向けたもの、その時代からこぼれおちる価値に重きをおいたものだったんです。

長島:その時代の美しい基準を目指すものではなかった舞踏は、では何を肯定していたんでしょうね。ゆがみとか、弱さのようなものなんでしょうか? けれどそうならば、時代ごとの状況や人々の身体、コミュニケーションの内容によっても異なってくるということになりますよね。


長島確

和栗:多分そうでしょうね。だから、今日と60年代では、「舞踏」のあるべき身体は違うものになるでしょう。とはいえ、土方さんには時代と添い寝するなと散々言われてきたんですけど(笑)。

大橋:僕の場合は意識から欠落したり、意識の外においているものを舞踏で肯定したいという気持ちがあります。意識化されていないのに、集合的無意識が振り向かせたり、つまづかせたりするものの源を探りたいと思ってやってきましたね。

和栗:認知科学者の苫米地英人さんが昔から僕の作品をよく観に来てくれるんですが、なんで科学者なのに舞踏が好きなんだろう? と思っていたんですよ。だけど彼に言わせると、たとえば僕と大橋君が何の合図もせず、音に合わせるでもなく2人で同期して動けることがすごいんだそうです。「2人の間に(見えない)もう1人がいて、3人で動くイメージで動けば同期できる」と説明したら「人工知能も同じですよ」と彼は言っていました。自分自身ではもちろん制御できないけれど、科学が進歩すれば分かるかもしれない何かで繋がっている。知らない神経のようなものがきっとあるんですよ。

―つまり舞踏家が2人いれば、その間には何かそういった神経のようなもので繋がるということですね?

和栗:そう、それをどうコネクトしていくのかがダンサーの器です。踊っている空間というのも、西洋的な考え方からすると踊りで空間をどう埋めるのか、征服するのかということになるんだけど、日本人的な考えは地唄舞なんかでは顕著で、動かずに舞うんですよ。それは踊り手自身が空間だからというのもあるし、空間が踊り手の中に逆流してくる、だから動く必要がないんです。こういう考え方は舞踏の中にもありますよね。

大橋:和栗さんがおっしゃられているような、神経を繋げる、あるいは皮膚が変わっていくというようなことは、まさしく『グラン・ヴァカンス』でAIたちが経験することだと思うんですね。それをいかに可視化していくかということに今回はチャレンジしたいんですよ。

「神」のような立場で自分を動かしているエネルギーって何なんだろう。見ることも触ることもできないけれど確かに感じる、そういう存在をどうするんだろうっていう。(和栗)

―今のお話を聞いていると、本当に『グラン・ヴァカンス』の内容が舞踏の本質に通じていて、もうそれだけで小説のテーマを表現できてしまえそうな気がしてきました。けれど稽古を拝見していると、物語を語るという部分もあるようにお見受けしたんですが。

長島:僕自身、『グラン・ヴァカンス』の小説を読んでみて、大橋さんがこの本を原作に選んだ理由はすごく良く分かる気がしました。小説とダンスという違いはありますが、飛さんと大橋さんが追求しようとしている質感のようなものには多分通じるところがあって、そもそも相性はすごくいい。だからこそ、もう一歩欲張ったチャレンジになればと思っています。原作のストーリーをただ説明したり、一人一役演じたりするだけでは、きっとダンスとして詰まらなくなる。だからこそ原作にある物語や言葉をどうしたら活かせるか、どんなふうに観客にまで届けられるか、考えどころだと思います。


原作となった、飛浩隆『グラン・ヴァカンス』

―全てを語るでも、全く語らないでもない、別のやり方があるのかもしれませんね。

長島:先日『フランシス・ベーコン展』を観に行ったんですが、そこでベーコンの『三幅対(トリプティック)』というシリーズを見たんです。3枚組の絵画からなる作品なんだけど、物語になることを慎重に避けていて、面白い作品だと思いました。哲学者のドゥルーズがベーコン論を展開しているんですが、ベーコンの絵画は、具象でも抽象でもない第3の道、フィギュラル(像的)なものであると述べています。そういうことを考えたとき、写実的、映画的に見せるのでもなく、抽象表現に徹するでもない方法があるのではと思いました。

大橋:そうですね。基本的には、原作からピックアップした数ページをそのまま振付に起こしてくという方法で作っていますが、1人が1つのキャラクターを翻訳するのではなく、複数のダンサーが同じキャラクターになり、また1人のダンサーが複数のキャラクターになるということに挑戦しています。さらに文中に登場する「物質=人間でないもの」になるということにも挑戦しているので、それは今のお話に通じることかもしれませんね。

和栗:1つ難しそうだと思ったのは、原作に出てくるゲストというのが人間ではあるんだけど、何者かまでは分からない。そこを舞台でどう打ち出すんだろうって思いました。もちろん、観客はゲストと同じような立場にいるわけですよね。だけど、仮想空間のようにダンサー(=AI)にアクセスできるわけではないから、舞台上で作品世界を提示するときに、将棋でいえば棋士にあたるものを大橋君は用意するのかなって思いました。これって表現の根幹にかかわることだと思うんですよ。というのは、「神」のような立場で自分を動かしているエネルギーって何なんだろう。踊っているにせよ踊らされているにせよ、見ることも触ることもできないけれど確かに感じる、そういう存在をどうするんだろうっていう。

―この作品の場合、それはゲストなわけで、じゃあゲストを動かしているのは何なんだっていう……。

和栗:澁澤龍彦が、芸術家は「神の真似をする猿」である、っていう一説を書いているんですよ。つまり芸術家は神が人間を作ったように、彫刻なんかで、神の似姿である人の似姿を作ろうとするっていうね。ギリシャ哲学者のプラトンも同じようなことを言ってますよね。そうなるとコピーとかオリジナルだって話になるけど、人間なんてみんな遺伝子のコピーだっていうこともできるよね。

大橋:ゲストという存在を、作品内でどう位置付けるのかはこれからですが、『グラン・ヴァカンス』第1章のタイトルは「不在の夏」で、この不在というのはゲストがいないってことなんですね。だから神が不在である状態が1000年続いているってところから始まるんです。神が不在の状態で、AIたちは何に突き動かされているのかというところを、観客もゲスト側ではなく、何らかのものに突き動かされて行動する存在として、同じ空間に在ることを感じられるようにできたらと思っています。

『グラン・ヴァカンス』が面白いのは、仮想空間とは別に存在するだろう現実の世界が描かれていないところなんですね。だから、極めて不思議で不安定な物語なんだけどそこが魅力的。(長島)

―AIにしろ、アンドロイドみたいなものにしろ、もっといえばフィクションって何なんだろうとつくづく考えてしまいます。たとえば読書や演劇で体験されるようなフィクションって、観終わったら実体は消えてなくなるけど、泣いたり笑ったりそこで揺さぶられた感覚自体は実世界での体験と変わらないほど強かったりしますからね。

長島:映画『マトリックス』とか『ユービック』のような仮想空間をテーマにしたSF作品は色々ありますけど、『グラン・ヴァカンス』が面白いのは、仮想空間とは別に存在するであろう現実の世界が描かれていないところなんですね。登場するAIたちは、別の世界にいる主人公の代理やアバターではなく、ただのプログラムでしかない。この世界では、ログインする人(ゲスト)がいなくなってプログラムだけが1000年間動き続けている。だけど、読者はその空っぽなプログラムにこそ感情移入するんです。だから、極めて不思議で不安定な物語なんだけどそこが魅力的。数値海岸という場所にAIたちがいて、世界の崩壊に抗おうとする。「アイデンティティ境界」の浸食が進んでいき、木が剣に変化したり、普通のアイデンティティーの基準からいえば、あり得ないことが次々起こる。それを生身の体で探れるのが今回非常に面白いです。

和栗:ダンスの舞台って数値海岸と似ているよね。バレエってトウシューズで立っている、床から10センチくらい浮いたところで展開する世界なんですね。だからバレエのテクニックの本質は、「危機的な場所に立つ」というところにあるんです。土方巽さんが「舞踏とは危機に立つ肉体である」という有名な言葉を残して、ちょっと誤解されたことがあったんですが、「危機に立つ」のはバレエのテクニックであって、舞踏は危機を「要請する」肉体なんですね。たとえるなら、椅子を揺らせて落ちる寸前の子どもみたいなものなんです。

大橋:そうですね。そういった危機をどう要請してくかっていうことは、僕自身にもこの作品にも問われることだと思っています。

和栗:危機を要請しすぎて、大変なことにならないでほしいけどね(笑)。

イベント情報
大橋可也&ダンサーズ新作公演
『グラン・ヴァカンス ―飛浩隆『グラン・ヴァカンス 廃園の天使I』(早川書房)より―』

2013年7月5日(金)〜7月7日(日)全4公演
会場:東京都 三軒茶屋 シアタートラム
振付・構成・演出:大橋可也
音楽:大谷能生、伊藤匠、舩橋陽
ドラマトゥルク:長島確
クリティカルアドバイザー:佐々木敦
出演:
皆木正純
古舘奈津子
とまるながこ
山田歩
唐鎌将仁
平川恵里彩
檀上真帆
後藤ゆう
山本晴歌
阿部遥
野澤健
後藤海春
三浦翔
中山貴雄
香取直登
玉井勝教
料金:
前売 一般3,500円 U19チケット2,000円 U29チケット3,000円 世田谷パブリックシアター友の会3,000円 せたがやアーツカード3,300円
当日 一般4,000円 U19チケット2,500円 U29チケット3,500円
※U19、29は大橋可也&ダンサーズのみの取り扱い
※世田谷パブリックシアター友の会、せたがやアーツカードは世田谷パブリックシアターチケットセンターのみの取り扱い

2013年7月7日(日)公演終了後にポストパフォーマンストークを開催
出演:
飛浩隆(『グラン・ヴァカンス』原作者)
佐々木敦(批評家)
大橋可也
※トークは他の公演日のお客様もご入場いただけます

『ヴィアント・ヴァカンス』−『グラン・ヴァカンス』プレイベント−

2013年6月14日(金)
会場:東京都 恵比寿 NADiff a/p/a/r/t 1F
時間:パフォーマンス19:30〜、トーク20:00〜
振付・構成・演出:大橋可也
音楽:大谷能生
映像:石塚俊
トーク:
大谷能生
大橋可也
司会:塩澤快浩(早川書房)
料金:無料(投げ銭制、予約不要、立ち見)

プロフィール
大橋可也(おおはし かくや)

振付家。一般社団法人大橋可也&ダンサーズ代表理事・芸術監督。1967年、山口県宇部市生まれ。横浜国立大学を卒業、イメージフォーラム附属映像研究所に学んだ後、カナダ・ヴァンクーバーにてパフォーマンス活動を始める。1992-1994年、陸上自衛隊第302保安中隊(特別儀仗隊)に在籍。1993-1997年、「和栗由紀夫+好善社」に舞踏手として参加し、土方巽直系の舞踏振付法を学ぶ。1999年、大橋可也&ダンサーズを結成。2000年、『バニョレ国際振付賞横浜プラットフォーム』に出場するも、出演者が全裸であるという理由で非公開の審査となる。以降、活動を休止。2003年に活動再開以降、国内外にて精力的に作品を発表。2013年、『舞踊批評家協会新人賞』を受賞。ITのエンジニアとしてJava/.NET/GeneXus等の技術分野を中心に業務アプリケーションの開発業務に携わっている。

和栗由紀夫(わぐり ゆきお)

舞踏家。1952年、東京生れ。戦後の日本が生んだ独特の舞踊ジャンルとして国際的に評価されている「舞踏」の創始者、土方巽直系の舞踏家。72年に土方巽に師事してから今日まで、江戸小紋の染職人として働いた8年間をはさみ、25年以上の舞踏暦をもつ。師没後、数年間の海外での公演活動を経て、90年より自らのグループ「和栗由紀夫+好善社」を主宰、東京を中心に群舞やソロの作品を発表し続けている。

長島確(ながしま かく)

1969年生まれ。日本におけるドラマトゥルクの草分けとして、コンセプトの立案から上演テキストの編集・構成まで、身体や声とともにあることばを幅広く扱う。ベケットやサラ・ケイン、ヨン・フォッセらの戯曲の翻訳のほか、阿部初美、中野成樹、飴屋法水ら、さまざまな演出家や劇団の作品に参加。また『墨田区在住アトレウス家』等のアートプロジェクトも手がける。ミクストメディア・プロダクト / 中野成樹+フランケンズ所属



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