未来の日本映画の担い手を育てる30代若手対談 深田晃司×三宅唱

1997年の設立以来、国際的なビッグネームを多数講師陣に迎え、たくさんの逸材を輩出している日本きっての先鋭的な映画人養成スクール。それが東京・渋谷にある「映画美学校」だ。この9月からフィクション・コース第19期が開講となる。そこで同校同コース出身の代表的な監督二人から話を聞かせてもらった。

まずは『歓待』(2010年)や『ほとりの朔子』(2013年)が国内外で高く評価され、80年代生まれの若手監督では実力・実績ともトップを走っていると言っていい深田晃司(第3期)。そして同コースで昨年から講師を務め、新作『THE COCKPIT』(2015年)も好評の三宅唱(第10期)。この30代の気鋭監督による、今の映画製作のリアルな現状と、サバイブの仕方や楽しみ方とは。

もの作りには興味があったんですけど、「映画には、書くことも映像も音楽も全部あるんだな」って。それまでの自分は体育会系と文化系に分裂していたけど、映画だとそれが合体するんだ! とも思いました。(三宅)

―お二人とも一般の大学に行きながら、映画美学校で学んでいたんですよね。

深田:そうですね、ダブルスクールで。

三宅:まあ途中から大学には全然行かなくなったので、実質シングルスクールになっていました。一応卒業できましたけど。

深田:僕も完全に映画美学校がメインになっていました。

左から:三宅唱、深田晃司
左から:三宅唱、深田晃司

―映画学科のある大学に入るという道を選択しなかったのはなぜですか?

深田:高校までは、自分が映画を作る側に回るという意識がまったくなかったんです。

三宅:俺も「映画を一生の仕事にする」というイメージがまだ湧いてなかったからですね。

深田:映画を観るのは中学生の頃から大好きで、物心ついたときには、父親が3倍速で録画した、つまりテープ一本に3本映画が入っているVHSが600本くらい積んであったんですよ。いわゆる映画オタクな子どもだったんですけど、古典映画を中心に観ていて、基本モノクロみたいな(笑)。だから学生映画とか同時代の日本のインディペンデント映画の流れについてはまったく知らなかった。それがたまたまユーロスペースに映画を観に行ったときに、映画美学校の夏期講座のチラシを見つけて、初めて自主映画の存在を知ったような感じでした。

三宅:俺は札幌の出身なんですけど、まず中学3年のときに自分で映画もどきを作ったんですよ。サッカー部で一緒だった友達と学校の放送室から持ってきたビデオカメラで、エアガンの撃ち合いとかを撮ってみて(笑)。当時話題になっていた『プライベート・ライアン』(1998年 / 監督:スティーヴン・スピルバーグ)の影響もあったのかな。その「映画ごっこ」がやたら楽しかったという体験が原点としては大きいですね。もともともの作りには興味があったんですけど、「映画には、書くことも映像も音楽も全部あるんだな」と実感して。あとはサッカー部の友達と遊んでいる延長に映画作りがあったのもデカかった。それまでの自分は体育会系と文化系に分裂してたんですけど、映画だとそれが合体するんだ! って(笑)。

深田:逆に僕はずっと美術部だったんですよ。だからもの作りの衝動は非常に強かったんですけど、「独りでできる」こと以外を選ぶイメージがまったく湧かなかったんです。映画は集団芸術だから、どう考えても他人を巻き込まなきゃいけない。それは人付き合いが苦手だった思春期の自分にはありえないっていう。だから映画美学校に入ってからコミュニーション能力の点でえらい苦労することに……。

左から:三宅唱、深田晃司

―実に対照的な二人ですね(笑)。三宅さんの撮る映画って常に部活感というか、男子チーム感がありますよね。

三宅:たしかに、今までの映画全部そうですね。ツレ同士の理想郷みたいなものにいまだに憧れがあるんだと思います。高校もサッカー部に入ったんですけど、「いつか映画を撮りたいな」という想いを抱えていて、意識的に映画をよく観るようになりました。札幌には東京のミニシアターで上映された映画が半年くらい遅れていろいろ入ってきていたんですが、4時間半くらいの映画があると聞いて観に行ったら、全8章の『ゴダールの映画史』(1988年~1998年 / 監督:ジャン=リュック・ゴダール)だった。そこからまんまとハマりまして。

深田:それはでき過ぎた話ですね(笑)。

三宅:ハハハ。いや~、やたら面白くて。で、そこから映画以外にも興味が広がりつつ、大学では、鵜飼哲先生というジャック・デリダ(ポスト構造主義の代表的なフランスの哲学者)に師事されていた先生のところで学びたいなと。

―大学は一橋の社会学部ですよね。現代思想の勉強から入って、映画にリンクすればいいなと考えたんですか?

三宅:いえ、ひとまず中学以来にもう一度映画を作ってみてから考えよう、というくらいです。それで、大学の映研に入って、そこでチンタラやっていたんですけど、だんだん満足できなくなって。「このまま映画作りを辞めるわけにはいかないな」って想いが高まってきて、それでガチな場所に行こうと思って、映画美学校に入りました。

映画美学校には「年間1000本観てます」っていうバケモノみたいなシネフィルもいるんですけど、一方で1年に1、2本しか映画を観ない10代の女の子のほうが圧倒的にすごい画を撮ってきちゃったりもする。(深田)

―映画美学校に入ってからはいかがでした?

深田:実のところ、僕は生徒の中でも「評価されない側」で。空気のような存在でした。

―じゃあ第3期の在学中は頭角を現せなかった、と。

深田:いや、頭角を現していたんだけど、まだ当時の講師陣には気づかれなかった。

一同:(爆笑)

深田:そう思うことにしてます(笑)。特に修了制作のとき、監督する枠に選ばれなくて。当時はシナリオを提出して、講師の選考で選ばれた数人が監督をして、残りはスタッフとしてつく、というシステムだったんですよ。

三宅:俺も修了制作はいちスタッフでした。でも楽しかったですね。映画美学校に入ると、それまでの自分って、なんだかんだ言って狭い世界にいたんだなって痛感したんです。本当にいろんなタイプの人に出会えたので。あと東京に出てきて、それなりにシネフィル(映画通、映画狂を表すフランス語)生活を送っていたつもりの自分が、全然勝てない相手もいっぱいいるわ! っていう。

―ハードコアな映画狂が集まっていたわけですね。

深田:その点、僕も映画美学校ではカルチャーショックが大きくて。僕はずっと東京に住んでいるんですけど、高校のときは周りがほとんど映画を観てなくて、(フェデリコ・)フェリーニって言ってもなかなか通じないような世界にいて自分は誰よりも映画を見ているという妙な自信があったのが、映画美学校には「年間1000本観てます」っていうバケモノみたいなシネフィルが普通にいたりするんですよ。その一方、実際にカメラを回してみると、たくさん映画を観ている人よりも、1年に1本か2本しか映画を観ませんっていう10代の女の子のほうが圧倒的にすごい画を撮ってきちゃったりするんですよね。その現実が結構ショックで、今思うとすごく良い経験でした。

深田晃司

多分「映画バカ」になっちゃうと面白い映画は作れないだろうなと思って、ちょっと世の中に出て働こうと思ったんです。(三宅)

―なるほど。映画美学校を出てから映画監督になるまでの過程は?

三宅:多分「映画バカ」になっちゃうと面白い映画は作れないだろうなと思って、ちょっと世の中に出て働こうと。それで映画美学校を出てからすぐ、NHKの某教育番組のADを2年くらいやってました。他にも映像系の仕事はピンキリで、もう覚えてないくらいたくさんやって。そのうち自主制作で撮った短編『スパイの舌』(2009年)が大阪の『CO2』(シネアスト・オーガニゼーション大阪)というコンペで賞(最優秀賞)をもらって、その助成金をもとにして初めての長編『やくたたず』(2010年)を作りました。それから、『やくたたず』を観てくださった俳優の村上淳さんたちや批評家の松井宏さんと話しているうちに「一緒に自分たちで映画を作ろう」という流れになり、それが最初の劇場公開作『Playback』(2012年)になりました。

三宅唱

深田:僕は映画美学校の研究科までいて、学内では青山真治監督『AA』(2005年)のスタッフとかをやっていたんですけど、それと並行して外の現場をいろいろ経験しようと思って。演出部と美術部、特に照明部が多かったんですけど、いくつか渡り歩きました。初めて行った現場が石井隆監督の『TOKYO G.P.』(2001年)。照明助手で入ったんですけど、これが超早撮りのスケジュールで、最後は37時間ぶっとおし撮影っていう。

三宅:うわ、大変だ(笑)。

深田:でもそれは体力的にキツいだけで、経験としては楽しかったんですけど、その次によくわからないまま装飾助手で入った某メジャー会社の現場がもう本当に大変で。怖い職人系のベテランの助手についたから、毎日殴られる、蹴られる。超本気の肘鉄やドロップキックが飛んでくる(笑)。まあ僕は鈍臭くてそういうスタッフワークにもともと向いてないっていうのもあって、お互い不幸な出会いだったんですけど。

一同:(爆笑)

深田:でもまあ、その後も照明部にはちょこちょこ呼ばれて、2年くらいいろんな現場に行っていました。で、そのキツかった装飾助手のときのギャラで撮った自主映画があって、主演してもらったのが井上三奈子さんっていう青年団の女優さんだったんです。それがきっかけで青年団の舞台を初めて観たら、実はずっと演劇嫌いだったんですけど、「こんなに面白い演劇があるんだ!」って衝撃を受けて。そこからはもう追っかけみたいに青年団の舞台を毎回観に行って、ある日「演出部募集」の告知を見つけて。今も同劇団の演出部に所属しているんですけど、そこに入ってから『ざくろ屋敷』(2006年)や『東京人間喜劇』(2008年)を撮りました。

―その間の生活、経済的には大丈夫でしたか?

深田:すっごい生々しい話になるけどいいですか(笑)。ずっと実家だったんですけど、24歳のときに、父親の借金で実家が売り払われちゃいまして。そのあとは友人数人で一軒家をシェアして、もう10年になります。経済的には常にギリギリ。ティッシュ配りやチラシ配りのバイトもやりましたし。あと結婚式の撮影のバイトですね。あれ、土日だけで結構稼げるので。

三宅:深田さんって意外なほどケモノ道を歩んでますね(笑)。タフだよなあ。

深田:いやいや。ただ「貧乏に強い」という耐性を持っていて(笑)、35歳にもなってあちこち変なとこで寝泊まりしても平気。

海外の同世代のインディペンデントの作家を見てみると、ヨーロッパもアジアも、日本みたいにムチャな作り方はそんなにしていないんですよ。(深田)

―映画をめぐる日本の状況ってすごく特殊だと思うんですよ。産業・仕事としては厳しいのに、「映画を撮りたい」という若い人はむしろ増えている。

深田:映画を観る人の割合は減っているのに、公開本数は増えてますし。需要と供給のバランスはすごく崩れていますよね。ただこれだけミニシアター文化が根付いていて、アート系の若い作家の映画がたくさん劇場でかかる国は日本だけなので、そこも良し悪しだとは思いますけども。

―ぶっちゃけ、実際に映画監督をやってみての実感ってどうですか?

三宅:「映画を作る」ということに関しては、昔からあんまり変わらないですけどね。むしろ前のほうが無駄に意識が高くて、いまはどんどん気楽になってる。生活面でも、わりと呑気に生きてます。俺は多分、楽しくやってるほうだと思いますね。それとやっぱり、いろんな出会いに恵まれてきたのが一番大きいです。運がよかった。

深田:僕も率直に言って恵まれていると思ってますね。今までほとんど自分の立てたオリジナルの企画でやらせてもらっているので。多分『東京人間喜劇』を作って、『ローマ国際映画祭』に呼んでもらえたあたりから自分の意識が変わってきました。『東京人間喜劇』は青年団からもらった助成金をもとに、残りのお金を自分の身内や知り合いから必死にかき集めたんですけど、その予算じゃスタッフも俳優もほぼ全員ボランティア。「これをまた次も繰り返すのは申し訳ないし、自分もキツいな」と思って、まがりなりにもギャラを払えるようにしたいと。だから次の『歓待』からは製作委員会にして、自分もプロデューサーとして名を連ね、あちこちから出資を募る形にしています。

三宅:俺の場合、『THE COCKPIT』は愛知芸術文化センターからの依頼でしたけど、『やくたたず』や『Playback』(2012年)は、総予算の半分ほどは、それこそ中学のときのサッカー部の仲間などに久しぶりに連絡をして、協力してもらったりしました。

深田:僕も『ほとりの朔子』は家族や中学からの友人にも出してもらっているので。ただ、じゃあ自分の映画の作り方がこれでいいのかっていうと、それは最近悩んでいるところで。

―そこで深田さんが2012年に設立に関わった、日本の映画状況の是正を求める運動体「独立映画鍋」(土屋豊監督と共に代表理事を務める)の活動とつながってくるわけですね。

深田:ええ。やっぱり海外の同世代のインディペンデントの作家を見てみると、ヨーロッパもアジアも、日本みたいにムチャな作り方はそんなにしていないんですよ。やっぱりみんな2、3年かけてちゃんとお金集めて、最低限の予算が集まってから動き始める。その金額が普通に数千万だったりするので。

左から:三宅唱、深田晃司

自分にとっても、周りの友人たちにとっても、ラクで楽しくて、かつ面白いものを撮り続ける方法を具体的に実践しようとしている。(三宅)

三宅:そのギャップはよく感じますよね。ここで重要なのは2つあって、まず、作り手側のシステムの問題とは別に、どんな小さい規模でも面白い映画さえ撮れば、お客さんにとっては関係がないこと。そしてもちろん、面白さだけを言い訳にして、仲間や自分が時代の犠牲になってもいけないということ。そのあたりのバランスのとりかたにずっと悩んでたんですが、今ちょうど、自分にとっても、周りの友人たちにとっても、ラクで楽しくて、かつ面白いものを撮り続ける方法を具体的に実践しようとしている感じです。『THE COCKPIT』がそうで、劇場公開中ですが、いい手応えを感じているところです。

―なるほど。

三宅:あと昨年はiPhoneで1年間『無言日記』(日々の記録を撮りため、毎月10分程度の映像にまとめたものをboidマガジンで配信している)というのを撮って。『THE COCKPIT』といい『無言日記』といい、一見まるでまともな映画とは思われなさそうなものが続いています。いったいなぜ俺はこんなことをしているのかというと、多分これからの映画って100億円くらいの大きな映画と、ものすごく小さいホームビデオの両極に分かれるんじゃないかなと。で、今俺はiPhoneを使ってるけど、そもそもは100億円の映画を撮りたい人間なんですよ。『ミッション:インポッシブル9』を撮りたいんです。

―その辺を狙ってるんだ(笑)。

三宅:ヨボヨボのトム・クルーズをどれだけ全力疾走させるか、みたいな(笑)。まあ、現実にはそんな規模の映画は当分無理なわけで、じゃあどうするか。今ありえる数百万とか数千万の規模で、そういう映画を形だけでも目指すのか。で、俺は、形だけ真似してもまるで意味ないなと、ある意味で割り切りました。世の経済状況にあわせて、映画の形は変わっていい。本質はエンターテイメント心にある、と。そこで発想を変えて、たいていはつまらないはずのホームビデオを、もしめちゃめちゃ面白く撮れる能力があれば、きっとどんな規模の映画だって撮れるはずだ、と。「演出」という点ではやること変わらないですから。100億円映画のエンターテイメント心を忘れずに、でも見た目とか形は気にせず、本気でホームビデオを作る、くらいのノリが今のモードです。極端に言うとですが。

三宅唱

―例えば音楽だとコミュニティーの中で部活感を持ったまま、自分のサイズで発信し続ける人は増えてきていますよね。

三宅:そうですね。個人的にはラッパーたちがほんとうに刺激になっています。それと同時に、あえて意識したいと思ってるのは、大きいフィールドでもそのサイズ感覚を忘れてない人たち、たとえばアメリカの映画人でいうと、ジャド・アパトー(人気コメディーを手掛ける映画・テレビプロデューサー。2005年の『40歳の童貞男』で監督デビュー)とかはすごいなと思うんですよ。俺らみたいなインディペンデント映画をやっていると、ロールモデルとしてジョン・カサヴェテス(アメリカの映画監督・俳優。インディペンデント映画というジャンルを確立し、高い評価を得た)などの名前が出やすいと思うんです。自分たちの仲間やカンパニーで撮っている例として。そして、今同じ時代にアパトーがいる。彼は自分の家族や周りのコメディアンたちと一緒に映画を作り続けていて、やっていることは数十億かけた「ホームビデオ」なんですよね。あるいは、リチャード・リンクレイターも、いい映画作りを続けているなあ、と思います。彼らはきっとiPhoneでも面白い映画をつくれるはずだし、それと同じ意味で、自分たちみたいな立場でも彼らと同じフィールドに立てばきっと勝負できるはず、と考えたい。

深田:ただ僕は比較的、オーソドックスに脚本書いて、俳優とドラマを作っていくスタイルなので、三宅さんほど「100億円映画か、ホームビデオか」っていう割り切り方はできていないです。やっぱりヨーロッパの現役のプロデューサーの話を聞いていると、向こうの「作家性の強い小さな映画」って1億円から3億円くらいの規模だから。つまりアート映画でも経済的なリスクを回避できるための助成制度が充実している。なんでこんなに日本と違うんだろうって。どこでも競争は厳しいのは当たり前ですが、日本だと30代になると当然のように「仕事を取るか、映画を取るか」、あるいは「子どもを取るか、映画を取るか」っていう二者択一を迫られて映画を辞める人ってめちゃくちゃ多いと思うんですよ。

三宅:確かに。

深田:そこで続けられるのは、例えばパートナーに理解があるとか、実家が裕福とか。若者を低賃金でこきつかってもへっちゃらな太い神経を持っているとか(笑)。映画の才能とは関係ないところで勝負が決まっちゃっているところがある。そのスタートラインのあまりの不平等を、少しでも改善していく必要はあると思う。過去50年、日本映画は撮影所がなくなってからただただ衰退に身を任せてしまったこと、みんながみんなではないにしろ結果として上の世代がちゃんとしていてくれなかったことへの恨みはあります。でも恨んでいても仕方ないから、自分たちでできることをしていきたい。

もうとっくに映画なんて、親のビデオカメラでもiPhoneでも何でも撮れるわけだから。要は、全員とりあえず撮ってみろ。撮ってからの勝負でしょ、っていう。(三宅)

―そんな中でも「撮りたい」という子たちはどんどん増えていて、その状況に映画美学校としてはどう対応していくのでしょうか。

三宅:俺は去年から講師をしていますが、それまで伝統的に続いてきた選ばれた人だけが監督できるシステムを廃止して、とりあえず全員がカメラを持って撮る形にカリキュラムを提案したんですね。もうとっくに映画なんて、親のビデオカメラでもiPhoneでも何でも撮れるわけだから。要は、全員とりあえず撮ってみろ。撮ってからの勝負でしょ、っていう。俺の役割は、なにか教えるというより、撮る前のモチベーターみたいなものだと思っています。それでも撮らない人がいるけれど。

深田:大抵、みんな頭の中では「映画史に残る傑作」を撮っているんですよ(笑)。でも実際に撮ってみると、空気に触れた途端に劣化していく。

三宅:これからはフェアなぶん、残酷ともいえる。これでまともに映画を撮れなかった場合、それは当人に問題があるってことが明確にわかる。だって講師のせいとかカリキュラムのせいにできないし。

深田:なるほど、そこで思いっきり恥をかいてこそ、ようやく次の段階に行ける。確かに「撮る、撮る」と言い続けて、結局撮らない人ってすごく多いんですよ。でも例えば、美大に入って1枚も絵を描かないってありえない。描いてから初めて自分の適性も判断できる。

左から:三宅唱、深田晃司

―映画の形も変わってきてますもんね。普通に「動画」っていうことに関して言うと、日常的に撮っている人は相当増えている。

三宅:Vineの「高校生の6秒動画」とかめちゃめちゃ面白いですからね。

深田:たまにYouTubeとかで面白い動画を見るとヘコみますよね。

三宅:もちろん、あれを映画館のスクリーンにかけて耐えられる強度があるかどうかはまた別ですけど、「目の前にいる人を魅力的に、面白く撮る」という基本から言うと刺激の塊ですね。現場のコミュニケーションの在り方とか。撮っていて絶対楽しそうだし。

―言わば誰もが映像作家になれる時代が到来して、それでも美学校に来て「映画」というジャンルに飛びこむって、どういうことだと思われますか?

三宅:映画を作る云々の前に、世の中のことをちゃんと見ようとしないことには、つまんないことに巻き込まれて何となく終わるんじゃないの? って考えています。映画というジャンルの「壺」に飛び込むイメージだとダメで、映画とともに大きな社会に飛び込むというか、映画と世の中のことを同時に考えるイメージが必要だと思います。そのあたりを、映画美学校に入ることで、いろいろな人としゃべって、徐々に気づいてくれたらいいなと。面白い人たちはいっぱいいますからね。今も俺自身が勉強になってますし。

深田:もはや映画監督だからって特権的な立場に甘んじられる時代ではなくなったということは、これから映画美学校に入ってくる人も自覚したほうがいいと思います。昔はフィルムもカメラも高価で、35ミリのカメラを回せるのは選ばれた人たちだったけど、今はその垣根が低くなってきた。じゃあ作家として何が問われるかというと、「あなたはなぜこの映画を作りたいのか」「この映画を通じて世界とどう向き合うのか」、作る動機やその人なりの世界観を問われることになる。国際映画祭で求められていると実感するのは作り手のサインがちゃんと映画に刻み込まれているかどうか。これはもう映画学校でも教えられることではないかもしれない。では映画学校が無駄かというとそんなことはなくて、自分と同じポジションの仲間が大量にいるのは、やっぱり単純に良い環境ですよ。映画は仲間がいてナンボですからね。その意味で、美学校に入って絶対損はないと思います。

詳細情報
映画美学校
フィクション・コース 募集ガイダンス

2015年7月18日(土) OPEN 17:30
会場:東京都 映画美学校
登壇(予定):
高橋洋(脚本家、映画監督、講師)
大工原正樹(映画監督、講師)
三宅唱(映画監督、講師)
内藤瑛亮(映画監督、修了生代表)

イベント情報
『フィクション・コースを体験出来る1日!映画美学校ショーケース』

2015年7月5日(日)
作品上映:
『いなべ』(監督:深田晃司)
『やくたたず』(監督:三宅唱)

シンポジウム
『撮り続けること』

出演:
深田晃司
三宅唱

『映画美学校フィクション・コース 制作&実習作品一挙上映!!』 上映作品:
『泥人』(監督:上野皓司)
『おもちゃを解放する』(監督:酒井善三)
『ブロッケンの妖怪』(監督:山口佳奈)
『NEVER TO PART』(監督:松本大志)
『天使の欲望』(監督:磯谷渚)

講義
『エンターテイメントと(超低予算)インディペンデントの関係は』

出演:
万田邦敏
西山洋市
高橋洋

料金:1日通し券 1,000円

プロフィール
深田晃司 (ふかだ こうじ)

1980年生まれ。大学在学中に映画美学校フィクション・コース第3期に入学。2001年初めての自主制作映画『椅子』を監督、2004年アップリンクファクトリーにて公開される。その後2本の自主制作を経て、2006年『ざくろ屋敷』、2008年長編『東京人間喜劇』を発表。同作はローマ国際映画祭、パリシネマ国際映画祭に選出、シネドライヴ2010大賞受賞。2010年『歓待』で東京国際映画祭「ある視点」部門作品賞受賞。2013年『ほとりの朔子』でナント三大陸映画祭グランプリを受賞。同年三重県いなべ市にて地域発信映画『いなべ』を監督した。2005年より現代口語演劇を掲げる劇団青年団の演出部に所属しながら、映画制作を継続している。

三宅唱 (みやけ しょう)

1984年札幌生まれ。初長編『やくたたず』(10)ののち、2012 年劇場公開第1作『Playback』を監督(ロカルノ国際映画祭イン ターナショナルコンペティション部門正式出品)。同作で高崎映画祭新進監督グランプリ、日本映画プロフェッ ショナル大賞新人監督賞を受賞。最新作『THE COCKPIT』(14)が全国順次公開中。ほかに『無言日記/201466』(14)。



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