三宅唱が『ワイルドツアー』で描きたかった「人が恋する瞬間」

CINRA.NET編集部が絶対に注目してほしいクリエイターを毎月1組だけ取り上げてプッシュする「今月の顔」。今回は映画監督、三宅唱に注目。2012年の劇場公開第1作『Playback』以来、次世代を担う存在として大きな期待を集め、昨年公開された『きみの鳥はうたえる』が2018年の日本映画を代表する1作に。彼がこの作品で描き出した何気ない日常の風景は、それまでのどの日本映画とも異なり、ゆるやかでみずみずしく、何より幸福感にあふれたものだった。

中高生たちの恋と青春を映す新作『ワイルドツアー』でも、日常に対する彼の繊細なまなざしは変わらない。そこに楽しさや豊かさを見出す、彼の作品の背景にあるものとは何なのか? そして三宅唱とはいったい何者なのか?

染谷将太くんに「繊細だ」って言われて、傷つきました。

―『きみの鳥はうたえる』(2018年)は各映画賞でとても高い評価を得ました。次につながる手応えも得られましたか?

三宅:一緒に仕事した役者たちが評価されるのは本当にうれしいですね。自分のことで言えば、どれだけほめられても、けなされても、そんなに一喜一憂しないというか、作る過程での自己評価のほうが多分厳しい。撮影現場や編集の現場で悔しいと思ったことは、仮に評価されても変わらず自分の中にあって、それが次の糧になってますね。それは『Playback』(2012年)の頃から変わらないです。まあ、評価してもらったことで、呑気に「次が撮りやすくなるかもな」とは思ってますけど(笑)。

三宅唱(みやけ しょう)/1984年札幌生まれ。初長編『やくたたず』(2010年)ののち、2012 年劇場公開第1作『Playback』を監督(ロカルノ国際映画祭インターナショナルコンペティション部門正式出品)。同作で高崎映画祭新進監督グランプリ、日本映画プロフェッショナル大賞新人監督賞を受賞。最新作『ワイルドツアー』(2018年)が3月30日公開。

―もちろんそれはそれで重要なことです。でも『Playback』と『きみの鳥はうたえる』では、キャリアを経て、現場で直面する課題や葛藤にも変化があったはずですね。

三宅:『きみの鳥はうたえる』の前までは、撮影中にいろいろ考えすぎなんじゃないかっていう反省があって。場合によっては「そもそも映画って何?」みたいなことまで現場で考えてたんです。だから『きみの鳥はうたえる』のときは、役者たちととにかくいい時間を過ごすっていうことだけを考えて、自分の頭の中で練り込むんじゃなく、役者やスタッフたちとの会話を重視した。そうしたら現場で落ち込むことがなくなったんですよね。

―それまでは落ち込むことがあったんですか?

三宅:毎回、現場で1回は絶望してました。「こんなはずじゃなかった」って。『きみの鳥はうたえる』の撮影中はそれがなかったんですよ。ただ編集中に、「この監督、現場で何も考えてなかったんじゃないか?」って思うことがたくさんあって、結局は絶望するっていう(笑)。絶望しないために対策をたてたはずなので、余計にショックでした。

―作るたびに絶望が訪れるのは、もはや三宅さんの作り手としての資質なのかもしれません。

三宅:嫌です(笑)。基本的には初めから終わりまでノリノリで楽しく作っていたいって、マジで思ってるので。

―でも落ち込むほど、すごく繊細なところがあって。

三宅:それは染谷(将太)くんにも言われました。「繊細だもんね」って言われて、傷ついたっていう。「繊細って言われて傷つくのがまた繊細じゃん」って自分でも思ったんですけど(笑)。

退屈な日常って、実際にありますよね。でもカメラを回して撮ってみたら、めちゃくちゃいろんなことが起きている。

―『きみの鳥はうたえる』は、いま言っていたような俳優たちと過ごす明るく楽しい時間が、見事に記録された作品でした。この作品だけでなく、他の三宅さんの映画でも、まずそこには何気ない日常が描かれています。その上で何気ない日常を、退屈な、つまらないものとしては決して描きません。

三宅:退屈な日常って、実際にありますよね。マジで何も起きない日。でも何も起きてないように見えて、いざカメラを回して撮ってみたら、めちゃくちゃいろんなことが起きている。それは映画を撮るようになって気づいたことです。映画を撮る前は絶対にそんなこと考えてなかった。

三宅:映画監督には、頭の中にすごい世界が広がっていて、それを映像化するタイプの作家もいると思うんです。でも俺、いっさいそういうのがないんですよ。だから自分は映画監督に向いてないのかなと思ってたときもあるんです。でも、人と一緒に時間を過ごして、カメラを通して見たら、「ああ、いろいろ起きてるんだな」って。自分にとって映画監督の仕事は、その面白さを発見できるのが素直に楽しいし、なおかつ記録できるからやりがいがあるんです。

―そんな日常の面白さに価値を見出しているのは、あくまで作り手としての自分であって、普段生活しているときの自分はそうではないですか?

三宅:結局、いまは映画を作ることが生活になっているので、生活の中でもそれを感じているような気がします。でも、10代のときなんてまわりのことは目に入らないですからね。ずっと妄想の世界に生きていて(笑)。それが映画を好きになって、映画を作るようになっても思い通り撮れないから挫折して、でもカメラを通して見たらいろいろ起きてるじゃんっていう。映画によって教えられたことがたくさんあると思います。

―じゃあ映画作りが生活にフィードバックして、生活が変わっていった、と。

三宅:そうだと思います。変わったのは、生活というより、性格じゃないかとすら思いますけど。普段、『無言日記』(2014年~)というビデオダイアリーを撮っているんですけど、スマホで日常的に撮ることがなければ、道端のよく知らない名前の花とか、気にしてなかったような気がします。返信しなきゃいけないメールの内容を考えたりしながら、ただ歩いてるだけだったかもなって。

でもカメラを持つとそこから離れられて、道端に花が咲いてることとか、夏と冬とで夕方の光が全然違うこととか、はっきりと捉えられる。それが日頃の超面倒臭いことや、怒りに震えるような出来事から、自分を少しだけ救ってくれてるんじゃないかって思います。

カッコよくなくても、頭がよくなくても、別にルサンチマンを抱く必要はない。

―三宅さんの作品には、人と人とのつながりあい、理想とも思えるような関係性がよく描かれています。

三宅:友人とか仲間とか、あるいはカップルとか、世の中には理想の関係性があるけど、ほっとくと現実ではなかなか生まれないし、続かない。でも「こうありたいよね」っていうユートピアと言うと言い過ぎかもしれないけど、そういう関係性を映画という仕事の場で役者たちやスタッフたちと作る。

誤解のないように言っておくと、普段の自分が人間関係に長けていて、超楽しくて、みたいなことではない気がします。たとえば高校のときにあれだけつるんでた友だちと、気づけばSNSで「いいね」を押すだけの関係になっていたりして、「ああ……」みたいな。恋人なら別れの瞬間が明確にあるけど、友だちはないじゃないですか。ひょっとしたらあらゆる関係がいずれそうなっていくのかもしれないけど、せめて映画の中で描くとしたら、ある種の充実した時間を捉えたいなと思いますね。

―三宅さんの映画を観ていて好ましいなと思うのは、そういった人間関係や、そこでの時間の流れ方です。特に『きみの鳥はうたえる』や『THE COCKPIT』(2014年)には、その時間の中に一緒にいたくなるような感覚があるんですね。観る人が共有したくなる時間がそこにあって。

三宅:映画館に行くと、「観る」というより「過ごす」という感覚を持つことってありませんか? 2時間という時間をアベンジャーズと一緒に過ごすみたいな(笑)。それは時間芸術の映画に本来備わっている力なのかなと思いますけどね。自分がそれを作ってるというより、それが映画の本質なんだと思います。

―いま聞いた話からも、何気ない日常をどう捉えようとしているのか、そこに反映されている三宅さんの価値観がわかるような気がします。たとえダラダラとして怠惰に思えるような日常でも、三宅さんは開き直ったり、それを冷笑したりしませんよね。そこに積極的に楽しさや豊かさを見出そうとしている。

三宅:そう感じてもらえたらうれしいです。そもそも俺、ルサンチマンがそんなにないんですよ。一部の人々が共有している「学校の隅っこにいる映画部」みたいなイメージがあまりなくて、映画を作ることは基本的にカッコいいことだと思ってる。だから変に卑下して、日常のダサさに対して開き直るとか、反対にカッコいいものや賢いことをバカにするとか、そういうのが苦手なんです。本来はいい意味の言葉を、人を貶すために使いたくない。シネフィルとか、オシャレ、インテリ、政治的とか。

「バカにして笑いにする」みたいなことが世の中をスポイルすると思っていて、カッコいいものは絶対にカッコいいと言うべきだし、かわいいものはかわいいと言うべきだし、愚かなことは愚かだと言うべきじゃないかって。何て言うんだろう、そうじゃないと映画が世の中の役にまったく立たない気がする。自己卑下も自己憐憫も絶対にしないほうがいいと思ってます。カッコよくなくても、頭がよくなくても、別にルサンチマンを抱く必要はなくて、自分の持っているものを誇りに思えばいい。

―噛み砕きすぎかもしれないですけど、人それぞれでいいじゃんっていう人間観ですよね。

三宅:自分がそう考えるようになったのは……たぶん俺はどれだけ不良に憧れてもやっぱり不良じゃないし、土着的なものに憧れても違うし、かといってすごいインテリってわけでもない。他の何にもなれない中で、自分の持っているものをどれだけ発揮できるかって考えないと、逆にしんどくないかなって思ったからなんです。

―すごく腑に落ちた感があります。そんな考え方が三宅さんの日常の描写につながってるんだなって。

三宅:おそらく昔から映画には何気ない日常から逃避させてくれる役割もあるんですよ、数ドル払えば、宇宙にも恐竜たちの島にも行ける。僕が映画館に行くのは、そんな「本当には存在しない別世界」を観たいからなんですよね。たとえばハリウッド映画なら、それを何百億円とかけて作り出してくれるわけです。でもいざ作り手になってみて、それと同じことが日本でできるかと言うとそうもいかない。

僕らにできるのは、目の前にあるつまらないものを、「こうやって見たらめちゃくちゃ面白いよね」って感じてもらうことなんですよね。それがハリウッドに対して、資本は違っても、同じ精神で映画を作っていく方法なのかなっていう気がします。向こうは地球が破滅する瞬間をフルCGで作っているけど、僕らはペットボトルひとつで地球滅亡の瞬間を表現しないといけない。でもそれってすごくやりがいがあって楽しいことなんです。

ビデオダイアリーを始めてから、表現したいものの9割はこの形式で表現できるんじゃないかって思ってたんです。

―新作『ワイルドツアー』は、山口情報芸術センター(YCAM)の滞在型映画制作プロジェクト「YCAM Film Factory」の中で生まれた作品です。「なぜわざわざ映画を作るのか?」という問いと向き合って作った作品だと聞きましたが、まずはYCAMのプロジェクトについて詳しく教えてください。

三宅:YCAMではアーティストや市民、さまざまな分野の専門家とコラボレートしながら作品制作やワークショップ開発などをおこなっているんですが、この自由な環境で映画の制作方法から見つめ直すことで、新しい映画・映像作品が生まれるのではないかということで、2015年からYCAM Film Factoryが始まったんです。

三宅:今回そのお誘いを受けて、杉原(永純)プロデューサーと話したのは、「いったいなぜ映画が生まれたのか」を問い直すようなつもりで映画について考えてみよう、と。だから今回の映画作りは、まずリュミエール兄弟(映画の発明者で、「映画の父」と呼ばれる)がいて、あるときD・W・グリフィス(映画文法の基礎を築いたアメリカの映画監督。代表作に『國民の創生』『イントレランス』など)が登場して、という映画の歴史を辿るようなイメージだったのかなと思います。

自分が撮り続けているビデオダイアリーは、写真でいうとスナップのようなもの。映画にたとえれば、映画創生期のリュミエール『工場の出口』(1895年)のような、ワンカットだけで成立しているものですよね。言ってしまえばいまは、スマホを使って誰でもリュミエールになれるんですよ。そこで杉原に言われたのは、「リュミエールからメリエス(ジョルジュ・メリエス、映画の創成期において様々な技術を開発したフランスの映画監督。代表作に『月世界旅行』)やグリフィスに移行する、その転換点に立ち会えないか」ってことで。

―メリエスやグリフィスによって、映画は「記録」から「物語」へと移行していきました。

三宅:デカいこと言うなあと思ったんですけど(笑)、それで劇に挑戦しようと思ったんですね。それは個人的な欲求でもあって、『無言日記』を始めてから、表現したいものの9割はこの形式で表現できるんじゃないかって思ってたんです。それこそいままで話してきた日常の手ざわりみたいなものを記録するには、スマホがあれば十分じゃないかって。だいたい数十人の撮影隊で何気ない風景を撮るって、エネルギーの無駄かもなって思うところもあったんですよ。

でも気づいたのは、『無言日記』には人が恋に落ちる瞬間が映らないよねってこと。それを映すためには、セリフを書いて、役者を連れてきて、それを演じる、と。そうすれば恋に落ちる瞬間を表現できる。実は9割のことを表現できると思っていた方法では、表現できない人生の出来事がものすごくあるんです。1割どころか9割以上あるかも。人が死ぬ瞬間も、実際にカメラで撮ったらいけないものだと思うので。それを表現するのが劇やフィクションの役割なんだということにあらためて気づいて、その認識から『ワイルドツアー』が生まれました。

" zoom="https://former-cdn.cinra.net/uploads/img/interview/201903-miyakesho-photo11_full.jpg" caption="『ワイルドツアー』ポスター / © Yamaguchi Center for Arts and Media [YCAM](サイトを見る)"]

中高生たちには、一瞬で壊れてなくなってしまいそうなくらい繊細な部分と、すごく大胆で傍若無人な部分がどちらもあるんですよ。

―『ワイルドツアー』は映画未経験の中高生たちと、脚本や演出をともに考えながら作られた作品です。ビデオダイアリーのゴリッとした感触もありながら、まったく対極にある劇映画の、しかも中高生の恋物語という甘酸っぱいソフトな感触もあって、それらが違和感なく、自然に融合されています。

三宅:大人の視点で本当に申し訳ないですけど、中高生の一挙手一投足って面白くてしょうがないんですよね。だからどうしてもその生(なま)を記録したくなるわけです。でも信頼関係を築いていったとき、彼らに言われたのは、演技をしたほうがカメラの前にいるのが楽だって。確かにそうなんですよね。自分もスチールを撮られるとき、こんなポーズでって言われたほうがどれだけ楽か。

演出の必要性や、演出されることによって生まれる「生」もたくさんあるんだってことを、彼らに言葉にしてもらったような気がします。それで「初恋物語をやろうか」って話したら、いっせいに「ええー!」って言ってましたけど(笑)。

―中高生の出演者たちに対する演出は、これまでと違うやり方になりましたか?

三宅:もちろん『きみの鳥はうたえる』と比べれば違いますが、中高生は頭の回転が速いし、吸収力もすごくあるので、撮影が始まって1日、2日すると気づくんです。どれだけ心の中で楽しいと思っていても、それはカメラには映らないんだって。「じゃあどうする?」って聞くと、彼らは「目に見えるようにするしかない」って言う。そこで一瞬にして演技の核となる部分を理解するわけです。そうするともう、出る人と演じさせる人という関係性ではなく、一緒にシーンを作る対等なパートナーですよね。

―演技の核の部分、演技の最も面白い部分を、お互いにきちんと共有することができたっていう。

三宅:だと思います。そもそも彼らには一瞬で壊れてなくなってしまいそうなくらい繊細な部分と、繊細とか素朴とかっていう言葉が相応しくない、すごく大胆で傍若無人な部分がどちらもあって……いや、彼らというか、われわれ人間にはみんなあるんですよね。たぶん大人になるとガードができちゃうけど、中高生はそれが露骨に出てしまう。その自然体の様子を何と呼ぼうかと思って、今回のタイトルに「ワイルド」とつけてみたんです。

三宅唱の新作『ワイルドツアー』場面写真

―『ワイルドツアー』の「ワイルド」は、彼らが探訪する自然のワイルドでもあり、彼らの自然体を表わすワイルドでもある、と。

三宅:そして恋愛をすることで、「世間はワイルドだね」っていうことも彼らは学びます。

―その成長物語ですからね。

三宅:この映画は観る側からするとハッピーな気持ちで終われると思うんですよ。でも登場人物にとっては、これが過酷な日々の始まりですから。「ようこそ、世間へ」みたいな(笑)。でもそれを称えたり、応援したりするような気持ちで撮っていたと思いますね。

リリース情報
『ワイルドツアー』

3月30日(土)より、ユーロスペースほか全国順次ロードショー
監督:三宅唱
出演:
伊藤帆乃花
安光隆太郎
栗林大輔
上映時間:67分
制作:山口情報芸術センター[YCAM]
© Yamaguchi Center for Arts and Media [YCAM]

プロフィール
三宅唱 (みやけ しょう)

1984年札幌生まれ。初長編『やくたたず』(2010年)ののち、2012 年劇場公開第1作『Playback』を監督(ロカルノ国際映画祭インターナショナルコンペティション部門正式出品)。同作で高崎映画祭新進監督グランプリ、日本映画プロフェッショナル大賞新人監督賞を受賞。最新作『ワイルドツアー』(2018年)が3月30日公開。



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