展示を拒否された作品が並ぶ『表現の不自由展』で、過剰な自粛を考える

赤瀬川原平も開いていた『表現の不自由展』

昨年秋に亡くなった赤瀬川原平(画家、作家)は、1963年に千円札を200倍に拡大模写した作品を発表、その後に千円札を印刷・加工した作品を作成し、裁判沙汰に発展した。裁判官からは、「言論・表現の自由は無制限にあるものではない」という言葉が下されている。この裁判を題材に赤瀬川が開いた展示会名が『表現の不自由展』だった。

現在、江古田の「ギャラリー古藤」で開かれている『表現の不自由展』は、何らかの理由で美術館・写真展・冊子などから展示・掲載を拒否され、人々の目に触れる機会を逸してしまった作品ばかりを集めている。奇しくも、フランスのテロ事件で「表現の自由」が問われている現在、その是非を論じる機会すら一方的に奪われてしまった作品が連なった意義は大きい。

過剰な自粛の「不自由」を問う

フランスでは、風刺画が「表現の自由」と叫ばれる一方で、テロの容疑者名をもじったテキストをSNSに投稿したコメディアンが逮捕されるなど、堂々たる「表現の自由」の裏側で、ひそひそと「表現の不自由」が起動し始めている。

今回の『表現の不自由展』で展示された作品の一例を挙げてみよう。2012年、写真ギャラリー「ニコンサロン」で予定されていたものの開催直前に中止された、安世鴻(アン・セホン。韓国と日本を行き来し、社会的マイノリティー層のドキュメンタリー写真を撮影)が撮り続けてきた日本軍「慰安婦」被害者女性たちの写真。昨年2月に『現代日本彫刻作家展』に出品されるも、作品に明示された憲法9条や政権の右傾化を記したテキストを美術館の意向で削除された彫刻家・中垣克久の作品(該当作品は写真展示。会場には新作が展示)。さいたま市大宮区の三橋公民館が掲載を拒否した俳句「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」は、句者による色紙で展示されている。その他にも、多種多様な「不自由」がひしめき合っている。

中垣克久『時代の肖像』(今回は資料展示)
中垣克久『時代の肖像』(今回は資料展示)

展示全体のストーリーを補足すべく、原発後の福島を題材にして波紋を呼んだ『美味しんぼ』、図書館からの回収が相継いだ『はだしのゲン』なども閲覧できるようになっており、近年の「過剰な自粛」、芸術表現とすっかり相反した配慮が遮二無二強まっている、その理由を探りに行く。

勝手に削除された、博物館の作品に記していた文とは?

福島大学准教授の永幡幸司は、3.11以後の福島を音声で記録する『福島サウンドスケープ』という作品作りをフィールドワークとしてきた。災後であろうとも、野鳥のさえずりは途絶える事がない。自然の営みから、人の声だけが失われていく不気味さ。人間がいなくなった後に福島に漂っていた音は、本来の自然を取り戻したかのような荘厳さを併せ持っていた。静かに広がる音が、福島に生じた事故をたちまち忘却することの非道さを告発している。

この作品は、一昨年の秋、出展した千葉県立中央博物館『音の風景』展で問題視され、永幡が記した説明文が、通告無しに検閲・修正された。本展示で経緯が記されているが、削除されていたのは、福島大学学長の除染作業に対する見解を疑問視する部分。修正前は「学長が安全宣言を発表したことが象徴するように……」としていた箇所が、「各地で土壌などに堆積した放射性物質の除去が課題となりましたが……」と作者の了承無しに勝手に変更された。この手の配慮や自粛の有り様は、まさに永幡が作り上げたサウンド作品に帯びていた正体不明の不気味さが具象化したかのようでもある。

「そもそも表現とは、差し障りのあるものです」

本展示の共同代表を務めた永田浩三は、NHKのディレクターとして2001年のETV特集『問われる戦時性暴力』の番組改編の現場にいた一人だ。首相就任前の安倍晋三らが、NHKの幹部に働きかけて放送内容を改変させたとされるこの事件、放送への政治介入がさかんに議論された。昨年、そのNHK会長に就任した籾井会長は就任会見で「政府が『右』と言っているものを、われわれが『左』と言うわけにはいかない。国際放送にはそういうニュアンスがある」とさらりと発言し、中立性を自らすすんで手放すかのような見解で、物議を醸した。

今回のように、何がしかの規制を受けたものが並ぶ展示会に出向くと、予想通り、すぐさま国家権力や現政権をがむしゃらに批判する人権団体や左翼系のスローガンや冊子に出会う事になる。筆者の個人的な心情としてはそれらの意見に対して基本的に賛同するものの、こうしてせっかく集った作品を、反旗の道具だけに使うのはもったいない気もする。

実行委員の挨拶文を記した永田は、こうした表現の受け口が狭いことに気づいていて、「そもそも表現とは、差し障りのあるものです。万人に受け入れられることなどありません。表現を通じて日常にはない感情や知性が喚起され、世の中に小さなさざ波が立つ。それこそが表現の醍醐味です」と記す。(ここがフランスの風刺紙とは異なるところなのだが)この小さなさざ波を起こそうとした作品群が必死に教えてくれたのが、そこで起きている事実を隠蔽させないために懸命に守られてきた「表現の自由」の存在。

「極端な表現だから検閲された」のではない

「表現の自由を守れ」というシュプレヒコールで、「表現の自由」が摩耗しては元も子もない。永田が記すように「そもそも表現とは、差し障りのあるもの」。その上で自由に訴えていく場を確保するために、この「消されたものたち」を再度問いかけるスタンスにとても共鳴する。

この数週間で「表現の自由」はすっかり大義を背負わされているが、「表現の自由」とは攻撃に使われるものではなく、脅かされたときに守られなければならないものであって、この展示に並ぶ作品は、その根本を直視させる。「極端な表現だから検閲された」ではなく、「煙たがられたから検閲された」という事実が悔しい。この「不自由」を通例にさせてはいけない。今、脅かされつつある表現を感知する、またとない機会になった。

イベント情報
『表現の不自由展~消されたものたち』

2015年1月18日(日)~2月1日(日)
会場:東京都 江古田 ギャラリー古藤
時間:12:00~20:00(日曜のみ19:00まで)
料金:一般 500円 大学生・高校生・ハンデのある方 300円 中学生以下無料



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