いつ死ぬかわからないから、今を全力で生きる

プロフィール
倉崎 憲

1987年生まれ。国際団体SIVIO創設者。同志社大学法学部を卒業後、NHKに入局。制作局ドラマ番組部に配属され、大河ドラマ「平清盛」、テレビ60年記念ドラマ「メイドインジャパン」の助監督を経て、現在土曜ドラマを担当。

インドのバラナシで、遺体が焼かれていくさまを見て、自分もいつかは死ぬんだと思い「映画監督になろう」と強く心に決めた倉崎憲さん。そんな彼は、大学生のときに学生団体を創設してラオスに小学校を建てたかと思えば、世界一周も成し遂げる。そして、制作に携わった本が映画化されるなど、常に彼の行動力には目を見張る。新卒でNHKに入局し、現在3年目。これまでたどって来た道のりを追いながら、常にハングリーかつアグレッシブな、彼の本質に迫る。

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10代の頃から渇望感が凄かった

―NHKに入局してすぐに「平清盛」の助監督に抜擢されたとのことですが、そもそも助監督はどんな仕事をするのですか?

倉崎:一言で言えば「何でも屋」です。初めての仕事が、清盛の幼少期シーンで登場する犬を探すことでした。まず台本を読み込んで、監督がイメージする犬を見つけるために動物プロダクションに行って、用意してもらった犬たちと戯れながら、思い通りに動いてくれるかどうかを見極めるんです。つまり助監督の仕事は、監督がもつイメージを具体的に作り出すことです。

—入社して1年目から助監督と聞くと、かなり期待をされているように感じますが?

倉崎 憲

倉崎:大河ドラマって全50回という長丁場だから監督だけで4人くらいいるんです。それで、助監督は10人くらい。確かに僕は最年少だったけれど、新人の助監督は毎年必ずいるので、特別なことではないです。新人社員のほとんどはまず地方局勤務から始まって、現地のドキュメンタリーやスポーツ中継、のど自慢など何でも制作するんです。中には自分の手掛けたドキュメンタリーが好評で全国放送が決まった同期が何人もいて。そんな話を聞いてしまうと少し焦る気持ちもありますよ。

―同じNHKでも勤務地によって仕事の関わり方が違うんですね。

倉崎:でも、最初から本局のドラマ部にいられるという点では、良い経験をさせてもらってます。例えば、大河ドラマってスタッフだけで100人近くいるから、現場は常に混沌として怒声が行き交っていて、まるで戦場のよう。まわりは職人だらけで、細部まで全く妥協がない。そんな現場の中にいると、「油断したら食われる」って、危機感を覚えます。スタッフ全員のワンカットに全てをかける熱気が、ほんと凄まじくて。

―必死で現場にコミットしてきた様子が伝わってきます。倉崎さんは、子どものころからそんな積極的なタイプだったんですか?

倉崎:子どものころは好奇心旺盛で、女の子が大好きなだけのだめなヤツでしたね(笑)。そしてとにかく、整理整頓ができないような。興味のあることに手を出しては、やめて、その繰り返しです。
中・高のとき、期末テストってあったじゃないですか。一生懸命勉強して、終わると解放感があって、おおげさだけど僕はそのとき生きている実感があったんです。でも、高校2年の時くらいから、テストが終わったとたんに憂鬱になってしまって。なんというか、物足りなくて切ないというか。

―切ない?

倉崎:切ないんです。ああ、そう、僕の人生って、ずっと切ない感じなんですよ(笑)。常に満たされない感じがつきまとっていて。今でも、ロケの後に家に帰る時間が嫌いなんです。現場はエキサイティングだし、自分も必死で、熱中してる。でも、そこから解き放たれると心にぽっかり穴があいた感じがするというか。

―エネルギーをそそぐ対象がないと、渇望感でいっぱいになってしまうと。

倉崎:それをあるプロデューサーに相談したら、「モノを作る上で、虚しさや切なさは大事な感性。それが、将来演出をするうえでいい味になるかもしれない」って言われました。だから今は、「あぁ、またこの時期がきたんだ」って受け止めるようにしています。でも、10代のときは今よりももっと渇望感に振り回されていましたね。

ラオスに小学校を建てる

―多感な少年時代だったんでしょうね。

倉崎:大学に入ってから、4つのサークルをかけもちしていたんですけど、だんだんつまらなくなって、また凄い虚無感に襲われたんです。「一体、自分は何をやっているんだろう?」って。それで、もう思い切って海外に行こうと思って、サッカーボールを持って、ラオスに旅立ったんです。それが初めての海外への旅でした。

―エネルギーを注ぐ対象を、どこかで探していたという感じですか?

倉崎:はじめはそんな大それたことは考えてなくて、とにかくサッカーと子どもが好きだったので、ボールを持ってうろついていたんです。すると子どもに声をかけられて、遊んでいるうちに、気がついたら100人くらいの子どもが集まっていて、僕もみんなもがむしゃらにひとつのボールを追っかけていた。このときに、それまでの憂鬱がふわっとなくなったんですよ。本当に。それほど、解き放たれた瞬間だったんです。ほんと心からハッピーで、「自分が求めていたのは、この生きてる感覚だ!」って。

―何かが、解き放たれたんでしょうね。

倉崎 憲

倉崎:人生の中でベスト5に入るような瞬間でしたね。そこでたまたま、現地で支援活動をしているNPO法人の人と出会って、通訳をつけて村民と話す機会をいただいて。話を聞いたお母さんたちは「学校がほしい。せめて子どもたちに初等教育だけでも受けさせたい」って口を揃えて言っていて。難しいこと抜きにして、小学校ってやっぱり大切な場所なんだと思いました。それで僕はもう、帰りの飛行機のなかで「あそこに、学校をつくる!」と熱くなっちゃって。

―行動が早い(笑)。そのことがきっかけで、学生団体を立ち上げたと伺いました。

倉崎:あのときは、毎日燃えたぎってましたね。それで設備の充実度などにもよりますが、150万円もあれば、小学校を建てることができると知ったんです。すぐに友人らに声をかけ、ライブハウスやクラブなどで、チャリティーイベントを開いて資金を集めて。無我夢中に急ピッチで動いてましたね。ただ、現地に学校を作る方法がわからなかったので、協力してくれるNPOに相談をして、現地調査を何度もして。それで資金も集まって、念願の学校ができ、当時のメンバーで開校式に立ち会ったんです。

―完成した小学校を見たときはどうでした?

倉崎:学校ができるまでに、周囲から批判された時もあったし、自分自身もこの活動が果たして正しいのかわからない時もあったんです。でも、やるしかないと思って、やりきった。そして出来上がった教室で目を輝かせながら勉強をしている子供たちの姿を見たときに、「ああ、いま目の前にある光景が全てなんだ」って。今まで葛藤しながらやってきた自分たちの活動は、全てこの子どもたち、村人たち、そしてメンバーたちの笑顔に繋がっていたんだって思いましたね。

―なるほど。でも、大学生が小学校を建てるって、凄いことですね。

倉崎:ただ、ハッピーだった一方で、虚しさも感じていて。たまたま僕らはラオスにある小さな村に学校を建てたけれど、他にも学校を必要としている村は多くあって。もっと言えば、ラオスじゃなくても他の国でもいろんな社会的な問題がある。あまりのキリのなさに、世界なんて変えられない、みたいな感覚に陥っちゃって。だから、まずは自分たちの活動なり想いなりを伝えるしかないと。

―まずは行動してみることだと。

倉崎:そんな時に、僕らと同じような支援活動をしていた関東の医学生から、「今、カンボジアでの活動をまとめた本を作っているんだけど、憲くんが撮った写真を掲載させてほしい」と声をかけられて。それで話したら、僕ら同様に葛藤まみれで、ありのままにさらけ出して活動をしていることに、意気投合したんです。元々、僕が旅先で撮っていた写真でこの本に協力しました。

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目の前の「死」を見て、拍車がかかる

目の前の「死」を見て、拍車がかかる

—その本が、のちに向井理さんが主演の映画「ぼくたちは世界を変えることができない。」の原作になったんですよね。映画の撮影現場にも立ち会われたそうですが。

倉崎:いままでドラマも映画も、「嘘の世界だ」と思っていたんです。なんというか、圧倒的にドキュメンタリーが好きで。でも、いざ撮影現場に立ち会って監督の台本を見ると、ほんとくしゃくしゃになるほど読み込まれていて、「この人、この映画を本当に愛しているんだな」って思って。それで、20歳そこそこの若者の活動が映画にもなって、目の前で動きとして現われる。そして台本にもない生の言葉が現場では生まれていて。そのとき、この作品は自分の中で、まるでドキュメンタリーのようだと思ったんですよね。だから映画でもこういう撮り方ができるのなら、そういう映画をいつか撮ってみたいな、と思いました。

—それがきっかけで映画監督になりたいと思ったんですか。

倉崎 憲

倉崎:小さいころから「映画監督になりたいな」という気持ちは漠然とありました。あと、「人生でどれだけ多くの人と、大きな感動を味わえるか」という自分の軸があって、その時点で行き着いた答えが映画監督でもあったんですね。だけど、もともとドラマは観ないし、インディーズの短編映画にも興味が湧かないのだけど、いわゆる大衆向けの映画はよく観ていて。『ウォーターボーイズ』とか『ROOKIES (ルーキーズ) 』とか、よくベタだって言われますけど『タイタニック』も好きですね。そういう映画を観たあとって、エンドロールで息苦しくなるんですよ。なんというか、「何やってんだおれ、もっと一生懸命生きないと」って。例えば『ウォーターボーイズ』を見ても高校生には一生戻れない。でも戻れない現実に対して、自分に何かを訴えかけてくれる。そんな作品が好きなんですよね。

—今を必死に生きるモチベーションを喚起させる作品が好きなんですね。一方で、それは「いつか死ぬ」という現実と向き合うことでもあると思うのですが。

倉崎:そう。僕、旅が大好きで、世界一周中にインドのバラナシで目の前で遺体が次々焼かれていくのを見たとき、強烈に「自分もいつか死ぬんだ」って思ったんです。なんだかわけのわからない衝動に駆られ、すぐにネットカフェで映画学校について調べて、アメリカの映画学校に行くことに決めて。なんか自分が映画について何も知らないことに危機感を持ったんですよね。だからそのとき「映画監督になろう」って心に決めたのかもしれません。人が死ぬところを見て、渇望感に拍車がかかったところがあるのかも。

—なるほど。

倉崎:後は、ケニアに行ったときに、道ばたで喧嘩をしていた人達が、相手に撃たれて、目の前で殺されるところを見たんです。そのときあまりの恐怖で一目散に逃げたけど、そのあと何度もその光景がフラッシュバックしたり、思い出して吐いたりして。だからやっぱり「いつか死ぬんだ」っていう感覚が、すごく強いんですよね。

—それが、倉崎さんがいつか作品に投影したいと思う世界観なのでしょうか。

倉崎:少しは関係しているかも知れませんね。実は今、ラジオドラマを作っているんです。川村元気さんの『世界から猫が消えたなら』という作品で、余命わずかと宣告された30代の男性が、あるとき悪魔と「世界から何かを消す代わりに、命を1日分もらう」という取引をするんです。それで、時計とか映画とか、何かがどんどん消えていくんですけど、「何かがなくなって二度と戻ってこない」という気持ちを強烈に喚起させる作品なんですね。川村さんはこれまでに映画『モテキ』や『電車男』など、大衆向けのヒット作を数多く手がけてきた人ですが、僕は原作を読んでからどうしてもこの作品をやりたいと思って、本人に懇願して実現にまで至りました。

アナログ的な体当たりでしか、リアルは生まれない

—映像ではなく、ラジオで表現しようと思ったのはなぜですか?

倉崎:本当に静かなところで、音と言葉だけを聞いて、物語を想像してもらいたいと思ったんです。何かが消えていくさまをリアルに映像化するより、その様子を聴く人の想像力に任せたほうが、かえってリアルに伝わるんじゃないかなって。僕もラジオドラマは初めての試みなので手探り状態ですが、公開に向けて今は色々と模索しています。経験がない分、僕にできることはがっついていくことくらいですから。

—そんな倉崎さんの仕事をする上でのポリシーなどはありますか?

倉崎 憲

倉崎:ポリシーというか、モットーは「一生一度、一日一生」。何をしているときもそうですけど、常に精一杯やりたいと思います。僕、どんなに理不尽なことだったり、つらいことがあっても、あんまり凹まないんですよ。それは、世界中旅して色んな人の生き方を見てきて、世の中にはもっとつらい状況の人がいるっていうのが想像出来るから。様々な人やライフスタイルだったり、文化や景色と出逢ってきて、自分がいま生きてるこの世界が全てだとは思わない。だからこそ、今を全力で生きる、みたいな気持ちはどこかにあるのかもしれませんね。

—では今後の目標は?

倉崎:取材力ですね。今、あるテレビドラマの制作もしているのですが、先週まで取材のために離島へ一週間ほど滞在していたんです。はじめてロケをする現場では住民の方の協力が不可欠なので、まず信頼されないといけない。都内だったら、フィルムコミッション(ロケを支援する機関)が存在するけど、島にいくとそんな人はいないので、自分たちで開拓するしかない。情報を得るためにひたすら色んな場所をまわったり、飲み屋で島民の皆さんと腹割ってとことん話して情報収集したり。なにも無い所から作品をつくる取材力をつけたいです。

—なんでも発信できる時代だからこそ、「取材」という原点は大切なのかもしれませんね。

倉崎:大河ドラマも、ひとつの作品のためにたくさんの人が動いているし、ドキュメンタリー番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』では一人の人物を約2年間追いかけることもあったそうです。僕も島を取材して、アナログな体当たりでしかいいものは生まれないのだと実感しつつあります。だから今は早く地方勤務に移って、自分の足でたくさん歩いて、多くの人に観ていただける番組を作りたいです。

—そしていつかは、映画をつくりたいと。

倉崎:やっぱり監督の醍醐味って、たった1行の文章でも、それを映像化すること。映像化するってことは、その人が生きてきた経験そのものの反映だと思うんです。生きてきた「経験の幅」というか。だからこそ、様々な経験や、冒険や、出会いは大切だと、今改めて思います。僕はまだまだ25歳のペーペーですが、現場の経験を経て仕組みがわかってきたからこそ、映画監督をさらに強く志すようになりましたし、いつかは世界中のクルーと一緒に映画制作をしてみたいですね。



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