現在、放送中のNHK連続テレビ小説『ばけばけ』で注目を集めるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)。第6週からついに彼をモデルにした「レフカダ・ヘブン」が登場し、本格的にハーンとセツ(ドラマでの名前はトキ)の物語がスタートした。
そんなラフカディオ・ハーンが、東京帝国大学で教鞭をとっていたことをご存知だろうか。1896年から1903年の約8年、彼が54歳で没する前年まで勤務していたそうだ。
今回は東京大学が保管するラフカディオ・ハーンの直筆原稿や生徒たちによる回顧録、関連する写真など、100年以上前の貴重な資料の数々を、英文学者 / 東京大学教授の阿部公彦先生の解説つきで見せていただけることになった。
大量の資料からは、文学を尊重する姿勢や東大への不満など、「教師としてのラフカディオ・ハーン」の姿が垣間見えたので紹介したい。
「ハーンは英文学の研究にはこだわらなかった」
ラフカディオ・ハーンの資料が保管されているのは、東京大学英語英米文学研究室。資料を集めた経緯について阿部教授は次のように推測する。
阿部:本人が残したものというより、その後の人々が集めたものだと思います。集めることになった経緯ははっきりとはわかっていないのですが。
ただ、英文科創設初期(英文学科は1877年に増設された)の教授に市河三喜という方がいらして、英文科では初めての日本人教授なのですが、先生は英文科の土台をしっかりとつくっていこうという気概がある方でした。ラフカディオ・ハーンの資料の多くもそのときに集められたのだと思います。英文科にとってはとても重要な人物です。
資料は、取材で見せていただいただけでも100点以上はあった。しかし、長らくその整理は十分ではなかったとのこと。その理由には、ハーンの英文科での評価が遅れたことが関係しているらしい。
阿部:ハーンは英文学の講師として招聘された先生で、英文学史を教え、テニスンやロセッティといった詩人の作品を教室で読みましたが、本格的な研究を行った学者ではありませんでした。また、彼の文筆活動もご存じのように別方面で評価されています。
ハーンは文学の素養のある人ですから、英語がネックになってなかなか英文学に入っていけない人に、その魅力を伝える力量はあったようですが、そもそもこの頃はまだ英国本国でも、英文学研究がどうあるべきか十分に定まっていない時代でした。
英文学の領域は時代が進むにつれて専門化が進み、英文学業界でも概論を書いたり、作品を細かく分析したりする本格的な研究者が教鞭をとるようになると、ハーンは以前ほど目を向けられなくなりました。彼の著作や活動に注目し評価してきたのは、比較文学を専門にしている人たちです。
阿部公彦。1966年生まれ。東京大学文学部卒業。同修士課程をへてケンブリッジ大学で博士号取得。英米詩に加え、日本の詩や小説も研究対象にしている。「荒れ野に行く」で早稲田文学新人賞受賞、『文学を〈凝視する〉』でサントリー学芸賞を受賞。その他の著書に『英詩のわかり方』『英語文章読本』など。訳書は『フランク・オコナー短篇集』など
阿部:特に、東京大学名誉教授の比較文学研究者・平川祐弘先生はハーンを高く評価しています。私が助手をしていた頃も、よく資料を見せてほしいと英文研究室を訪ねて来られたのを覚えています。ハーン関連の資料整理が行き届いていないのを見て「英文科はしっかりしてほしい」とお小言をいただくこともあったようです(笑)。
なぜ比較文学の領域で評価されたかというと、東大の場合、比較文学といっても単なる比較ではなく、日本に軸足をおくことが前提とされていた時代があったからです。
ハーンのように西洋文化の素養がある人が、日本ならではの伝承や感性に反応し、文筆活動を通して表現したわけですから、研究の対象となるのもわかります。海外からやってきた人が、日本人に日本文化の不思議な魅力について語るというのは、なかなかおもしろい構図ですね。
英文学の研究者はまずは英米など英語圏のことに興味が向いてしまうわけですが、比較文学の研究ではよりあいまいな境界領域を対象にできるということです。
文学を何より尊重する。教師としての姿
資料のなかに『ラフカヂオ・ハーン追憶座談会速記録』という冊子があった。これはハーンが亡くなったあと、教え子や関係者たちが集まりハーンにまつわる思い出を語ったもの。
座談会には、先述の市河先生、井上哲次郎先生(東京大学名誉教授)、友枝高彦先生(東京教育大学名誉教授)など、錚々たる面子が参加している。冊子を通して「教師としてのハーン」の様子がうかがえるという。
阿部:この冊子には非常に貴重な情報が多く残されていました。例えば、ハーンは学生の文学的感性を非常に尊重していたということ。知識やシステマティックな方法論に関しては、うるさく言わなかったみたいです。彼は英語で授業をしていたし日本語も得意でなかったので、学生たちの言葉をどこまで理解できていたかは定かではないですが。
『ラフカヂオ・ハーン追憶座談会速記録』
また阿部先生は、文学を何より愛するハーンらしいエピソードも紹介してくださった。
阿部:ハーンの教え子の一人であり、のちに学習院大学で教鞭をとられた藤澤周次先生は、帝大英文科の卒業論文として、京都の三十三間堂の「お柳の精」の話に小唄の訳をつけたものを出したそうで、本人によれば「へんちくりん」な論文だったようですが、ハーンは「お前の英語はまずいけれど面白い」とすごく評価してくれて、賞金(当時は卒論が懸賞制だった)に加えて、ハーンによる「大いにほめちぎった手紙」までもらったようです。その後、ハーン宅を訪問すると、「お前は作家になれ」と言ってくれたそうです。
おもしろいのはその後日談です。藤澤先生は卒業後に一年だけ志願兵をやったのですが、志願兵の装いで大久保のあたりを通りかかると、ちょうどハーンと出くわした。そこで「先生、しばらくです」と挨拶すると、ハーンは目が悪かったけれど声には敏感で、すぐ「ああ藤澤か」とわかったわけです。ところが一緒に連れていたハーンの小さい息子さんが「兵隊ですよ」と言った。そこでハーンの顔色が変わり「君は軍人になったのか。お前は作家になる素質があると忠告したのに軍人になるとは」「いえ、一年志願兵です」といったやり取りがあったそうです。いろいろ考えさせられる1コマです。
短編集『怪談』に収録されている「食人鬼」の直筆の草稿
教師として夏目漱石より人気があった
「細かいことは言わない」「文学を評価する」という姿勢もあり、ハーンは教師として人気が高かったという。
阿部:学生には大変慕われていたようです。特に面白いのは、ハーンの後任として帝大で教えた夏目漱石が対照的に不人気だったこと。漱石は、自分が学生のときは先生の細かい指摘や知識詰め込み型の教育に不満を抱いていましたが、教師としては杓子定規だと思われたようです。
学生にはまずは英語の基礎を叩き込まねばならないという使命感を持っていて、テキスト購読の授業では、音読させて発音を直したり、「この構文はなんだ」「この単語の意味はなんだ」と細かいチェックを入れたりする。帝大生はプライドを傷つけられたようです。まぁ、いま考えるとそれなりに立派な方針だと思いますけどね。でも、学生としてみると「英語をしっかり勉強しなきゃだめだ。文学の話なんて百年早い」といったやり方は、ハーンの自由なスタイルとは真逆。しかも、文学概論の講義の方は理屈っぽくてわかりにくい。そんなわけで学生はどんどん減っていったようです。
とにかくハーンは学生に慕われていて、帝大を辞めるという話が伝わったときには、学生の間で「小泉八雲留任運動」が起きたそうです。これは有名な話で語り草になっています。
短編集『怪談』に収録されている「力ばか」の手書きの原稿もしくは草稿
ハーンはなぜ帝大を去った? 誤解もあった辞任騒動 ハーンの給料事情
夏目漱石との入れ替わりでハーンが東大を去った背景には、ハーンが帝大に対して持っていて不信感があったという。
阿部:ハーンは学生のことは大事にしていましたが、大学当局には不満があった。まず身分です。いわゆる「お雇い外国人」はだいたい教授職だったのに、彼は講師にされた。これは彼が小泉家に養子として婿入りし、日本国籍となっていたためでしたが、そこがどうにも納得できなかったようです。
また、ハーンはヨーロッパで研究する機会を持ちたいとも希望していましたが、こうした制度は教授職につく前の比較的若い人を留学させるためのもので(漱石もその対象でした)、ハーンのように50歳前後という人を送ることはできなかったようです。
そして、とどめをさしたのが、漱石の招聘です。帝大では留学帰りの漱石を教員として迎え入れたかったけれど、そのための資金が足りない。そこでハーンの担当授業数を減らして給料を抑え、その分を漱石の給与にまわすことにしたのです。これにハーンが怒って辞任ということになったようです。
もともとハーンの給与は、決して低いものではありませんでした。松江時代が月給で100円、熊本では200円、それが帝大でははじめは400円で、後に450円。講師とはいえ、日本人に比べると高かったのです。辞職後に移った早稲田大学では1週4時間の授業を担当し、年俸で2000円だったそうですから、かなり収入は減ったことになります。
ちなみに当時の帝大にあったこの「お雇い外国人枠」は、教育の柱として非常に重要視されていて、ハーンも講師でありながら給与面では優遇されていたわけです。じつは私たちの英語英米文学研究室でも、数年前までこの枠で雇われていた(つまり給与面で優遇されていた)先生がおられましたが、この方の定年退職でついに枠は消滅しました。
校内にはエルヴィン・ベルツ(医学部、ドイツ人教師)やチャールズ・ウェスト(工部大学校、アイルランド人教師)などお雇い外国人教師たちの銅像がいくつか残されています。それくらい、東京大学の歴史の中では重要な存在だったということです。
写真が趣味だったというハーンの関連資料のなかには写真館で撮影されたものや、ハーン自ら撮影したと思われる写真が多数あった。左がハーン本人
ハーンの物語の特徴 静けさ、メランコリー、品
最後に、阿部先生に文学研究者としての立場からみた、ラフカディオ・ハーンの面白さについて聞いた。
阿部:ハーンの功績として大きいのは何といっても「再話」ですね。主に口承で伝わっていた奇譚などを文章の形にして、しかもそれを英語で発表したので、海外でも知られることになった。もちろん、妻の小泉セツをはじめ、彼に素材を提供した人たちの存在も重要で、そうした協働作業の結果として、ハーンの物語ができあがったというところがおもしろいと思います。
ハーンの怪談は、イギリスのゴシック小説にときに見られるようなセンセーショナルな展開や、濃厚な情念の絡み合いが描かれるわけではなく、どこか無常観を帯びた淡さや切なさが特徴だと思います。文章はシンプルかつ繊細で、読者を夢幻的な世界にひきこむための静謐さを上手に準備しているように感じます。
この頃は西洋でも文化人類学的な興味が高まっていて、近代個人主義をベースにした「エゴ」重視の文学観を見直し、共同体の中でどのように物語が生成されるかということにあらためて人々が目を向けつつありました。ハーンのやっていたことも、大きな文化の枠組の中で物語を捉え直すということだったのだと思います。現代ではそこに環境という視点も加わって、「エゴ」から「エコ」へと呼べるような、人間中心主義に疑問を呈するような流れがつづいているとも言えます。
ハーンは視覚に問題を抱えていたこともあり、聴覚をはじめ他の感覚が逆にとても鋭敏で、そうした側面から日本の文物に感性豊かに反応していたという側面も大事だと思いますね。
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