宇多田ヒカルの表現から見る、「緊張と緩和」が生む感動

緊張と緩和が織り込まれた『Laughter in the Dark』

笑いにおける重要な理論として知られている緊張と緩和。たとえば葬式でお坊さんが木魚を叩きながら寝てしまうという古典的なコントのメソッドも、この理論に則ったものと言えるだろう。人は一定の緊張状態から劇的に緩和されたときに強いカタルシスを覚え、それが大きな笑いも生むというこの理論は桂枝雀が提唱し、松本人志が広めたとされている。今回の宇多田ヒカルのライブでは緊張は絶望として、緩和は希望に置き換えられ、その連続性がライブの核心となっていた。彼女はそれをとても生々しく、真摯に体現してみせた。

デビュー20周年を記念する12年ぶりの国内ツアー『Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018』。筆者が観たのは、さいたまスーパーアリーナ公演の2日目。緊張感は、開演前から会場を支配していた。無音、だったからだ。つまり開場時のSEがなかった。しかし、ライブ中も含めて写真撮影は可能という自由度にオーディエンスはやや戸惑っているようにも見えた。席についた多くの人がそれとなくまだ無人のステージにスマートフォンを向け写真を撮るのだが、「カシャッ」というシャッター音があたりに小さく響くのが少し気まずいといった様子だった。あるいは、同伴者とのおしゃべりも自然とひそやかなものになる。そういう特殊な緊張感が通奏低音のように流れていた。きっと宇多田はこういう状況になることも想定していたのだろう。

開場時の様子

「間もなく開演します」というアナウンスがあり、会場がクラシックコンサートを思わせるような行儀のいい拍手に包まれると、また若干の静寂を経て、バックバンドのメンバーがステージに現れる。ジョディ・ミリナー(Ba)、ベン・パーカー(Gt)、アール・ハーヴィン(Dr)、ヴィンセント・タウレル(Pf,Key)、ヘンリーバウアーズ=ブロードベント(Syn,Per,etc)という、最新作『初恋』のレコーディングに参加したメンバーも含む海外ミュージシャンと四家卯大ストリングスを加えた布陣だ。そして、宇多田が中央のせり上がりからスーッと登場すると、会場がどよめいた。

宇多田ヒカル

宇多田の歌は、やはり比類なきものであった

宇多田のボーカルは1曲目の“あなた”からその表情は切実で、伸びやかだった。のっけからつくづく比類なき歌い手だなと感服したのは、その声質の倍音のすごみと歌詞の一語一語やフェイクの行間から情感があふれ出す表現力を目の当たりにしたからだ。続く“道”でも感じたが、特にサビのキーの高さはピッチが危うくなりそうなギリギリのラインをキープしていて、それが宇多田ヒカルの歌に触れたときに感受する切迫した熱量の要因になっているのだと再確認した。

それと同時に強く感じたのは、やはり宇多田は楽曲至上主義を貫いて音源制作をしているということ。彼女が日常的にライブを行うアーティストであれば、キーをもう少し低く設定するのではないだろうか。場面はライブ中盤に飛ぶが、音源としては韓国、ベトナム、中国から3人のアジア人ラッパーを招いたリミックスバージョンが発表されたばかりの“Too Proud”では、トラップの三連符フロウでエクスクルーシブなラップを披露した宇多田。リリックに「旦那の愚痴」や「ビートたけしのインタビュー」といったフレーズが確認できたそのラップは決してスキルフルとは言えないものの、どうしたって惹きつけられる求心力があった。

バックバンドのプレイも素晴らしかった。リズムセクションはビートのアタックの強さを強調しつつ、重層的だが聴感的に完璧に過不足のないバランスで上モノのフレーズを積み上げ、ストリングスも徹頭徹尾ナチュラルな響きで歌に寄り添っていた。生のコーラスがいなかったのも印象的で、シーケンスで流されるコーラスも宇多田によるものであり、つまりステージから発せられるボーカルはすべて彼女だけのものだった。アリーナツアーという尺度で考えるとステージセットは極めてシンプルで、映像演出も基本的に楽曲のイメージをプレーンなモーショングラフィックスで視覚化するものが多かった。現代的なサウンドプロダクションと普遍的な舞台装置を擁した、どこまでも宇多田ヒカルの歌を際立たせる独立した歌謡ショーを観るような趣がそこにあった。

19年前にリリースされた“First Love”と、今年発表した“初恋”

歌唱においても間違いなくハイライトだった本編終盤の“First Love”と“初恋”。宇多田ヒカルのファーストインパクトが鮮明に蘇るような声色だった前者と、私小説性が濃厚になった最新の歌の重厚さが浮き彫りになった後者。この2曲の並びが顕著で、前後の曲が歌詞の内容的にアンサーとして成立する相関関係にあることを度々思わせるセットリストだった。あるいは“Prisoner Of Love”から“Kiss & Cry”(“Can You Keep A Secret?”の<Hit it off like this>というコーラスフレーズをマッシュアップの要領でインサートしていた)ではオールドスクールなヒップホップを彷彿させるビートで橋渡しするなど、各曲が音楽的にもシームレスに離れがたく結ばれていた。

そのうえであくまでライブの軸は『初恋』にあり、11月末まで開催されていた宇多田とは同期で盟友の椎名林檎の20周年記念アリーナツアーの選曲もそうだったが、近年の楽曲を通して今現在の自身と音楽の関係性を提示することで、初期の楽曲もフレッシュな様相で歌う。それを、豪華ゲストボーカル陣を交えながら徹底的にゴージャスな演出で見せた椎名と、客演といった客演はダンサーのみでステージの真ん中にほぼひとりで立ち続けた宇多田。どちらかがいい、悪いではなくその対比も興味深かった。

又吉直樹が脚本・出演、緊張と緩和のVTR

衣装チェンジのインターバルに用意されたのは、又吉直樹を脚本と出演に迎えたフェイクドキュメンタリーコントのような映像だった。始まったのは宇多田と又吉が今回のツアーのテーマである絶望と希望について語る対談である。ヒントになったのは、アメリカではレズビアンのスタンダップコメディアンとして著名なティグ・ノタロのパフォーマンスだったという。自身の絶望的な現状を舞台上で吐露しながら、まさに緊張と緩和を駆使して大きな笑いに変換してみせるそのユーモアの力に感銘を受けたという宇多田。宇多田の楽曲には絶望が滲んでいるからこそ強い希望を受け取ることができるという又吉。オーディエンスも粛々とその対談映像に見入っていた刹那、宇多田が又吉の頭部を瓶で殴打する。一瞬、硬直する会場。状況を理解し、起こる大きな笑い。映像終了後、衣装チェンジを終えた宇多田はセンターステージに現れ、荘厳なムードで“誓い”“真夏の通り雨”“花束を君に”といったレクイエムを想起させる歌を紡いだ。

宇多田ヒカル自身の絶望と希望

メインステージに戻った宇多田は、MCでこのように語った。20年も活動するとは思っていなかったこと。活動休止したときはいつかまた曲を作り、ライブもやるとは思っていたが、活動再開後もいろいろあって(それが母の死と世間の喧騒を指しているのは言うまでもないだろう)、一時期は人前に出るのが無理だなと思っていたこと。明るいライトも苦手で、撮影でもフラッシュをたかないようにお願いしていたこと。このツアーも初日を迎える前はライブができるか不安だったこと。しかし、ツアーが始まったら今までで一番ライブを楽しんでいる自分がいるということ。「20年というのもあるけど、今日ライブをできていることがうれしいし、みんなに感謝している」と宇多田は結んだ。

そして歌われたのが“First Love”と“初恋”だった。絶望に打ちひしがれ、それをずっと引き連れて生きているからこそ、大きな希望に反転することができるなんて、とてもじゃないがやすやすと断言できない。しかし、宇多田ヒカルはこのツアーでまざまざとそれを体現した。とても生々しく、真摯な音楽表現者の生き様を映し出す空間がそこにあった。本当に感動的なライブだった。

イベント情報
『Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018』

2018年12月5日(水)
会場:埼玉県 さいたまスーパーアリーナ

リリース情報
番組情報
『宇多田ヒカル「Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018」』

2019年1月27日(日)21:00〜
BSスカパー!(BS241/プレミアムサービス579)にて放送

『M-ON! LIVE 宇多田ヒカル「Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018」』

2019年3月10日(日)20:00〜
MUSIC ON! TV(エムオン!)(CS325/プレミアムサービス641)にて放送

プロフィール
宇多田ヒカル
宇多田ヒカル (うただ ひかる)

シンガーソングライター。1983年1月19日生まれ。1998年12月9日にリリースされたデビューシングル『Automatic/time will tell』はダブルミリオンセールスを記録、15歳にして一躍トップアーティストの仲間入りを果たす。そのわずか数か月後にリリースされたファーストアルバム『First Love』はCDセールス日本記録を樹立。いまだその記録は破られていない。以降、アルバムはすべてチャート1位を獲得。2007年にはシングル『Flavor Of Life』がダウンロード世界記録を樹立。2010年に「人間活動」を宣言し一時活動休止期間に入ったが、2016年4月に配信シングル『花束を君に』『真夏の通り雨』のリリースによってアーティスト活動を本格始動する。2016年9月に発表した6枚目のオリジナルアルバム『Fantôme』は自身初のオリコン4週連続1位や全米のiTunesで3位にランクイン、CD、デジタルあわせミリオンセールスを達成するなど、国内外から高い評価を受けた。2017年3月にEPICレコードジャパンにレーベル移籍。デビュー20周年を迎える2018年6月27日に7枚目となるアルバム『初恋』を発売。11月からは約12年ぶりとなるライブツアー『Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018』を開催。2019年1月18日KINGDOM HEARTS Ⅲのテーマソングが収録されたシングル『Face My Fears』も発売予定。



フィードバック 0

新たな発見や感動を得ることはできましたか?

  • HOME
  • Music
  • 宇多田ヒカルの表現から見る、「緊張と緩和」が生む感動

Special Feature

Habitable World──これからの「文化的な生活」

気候変動や環境破壊の進行によって、人間の暮らしや生態系が脅威に晒されているなか、これからの「文化的な生活」のあり方とはどういうものなのだろうか?
すでに行動している人々に学びながら、これからの暮らしを考える。

記事一覧へ

JOB

これからの企業を彩る9つのバッヂ認証システム

グリーンカンパニー

グリーンカンパニーについて
グリーンカンパニーについて