現代舞踊界を牽引する異端児 勅使川原三郎インタビュー

勅使川原三郎が独自の創作活動を開始したのは1981年。85年には自身のダンスカンパニー「KARAS」を結成、振付にとどまらず、演出・美術・照明・衣裳・音楽構成も自ら手掛ける独創的な舞台空間は、新しい身体表現として、ダンス界はもちろん、国内外の幅広いアートシーンに衝撃をもたらした。30年以上にもわたるキャリアの中で、時代の風や要望に一切なびくことはなかった勅使川原。チケット売りたさに観客に媚びることはせず、自分の心の真ん中にあるものに誠実に向かい合い、自分のやり方で、創作活動を通し世の中にさまざまな問いを投げかけてきた。

そんな勅使川原が、この9月に東京芸術劇場で新作『第2の秋』を発表する。今年に入ってから立て続けに、ブルーノ・シュルツの短編小説を原作に作品を発表し続けている理由について、今夏荻窪にオープンしたばかりの新スタジオ&スペースに伺い、勅使川原本人にインタビューする機会を得た。

人間は誰しも、風景や環境として周りにある現実の季節の向こう側に、想像の中でもう1つの季節を感じながら生きているかもしれないと思うんです。

―今年は『春、一夜にして』『ドドと気違いたち』と、すでにブルーノ・シュルツの短編小説をもとにした作品を2作発表されており、9月に東京芸術劇場で公演される『第2の秋』は、シリーズとして3作目になります。勅使川原さんが今これほどまでに、ブルーノ・シュルツに着目している理由、またその魅力とは、何でしょうか。

勅使川原:彼の作品に共感するところがあるからです。でも、単なる文学的な興味という意味ではなく、その内容にダンスになり得る面白いものを発見できるからですね。

―短編小説の中にある言葉に身体を触発する何かがある、ということですか?

『第2の秋 Second Fall』
『第2の秋 Second Fall』

勅使川原:シュルツの作品が示すイメージは豊かですが、直接的に言葉からというより、ものの見方や「世界観」に共感しました。この小説の中で「第2の秋」とは、嘘の季節、人工的な空想の季節を意味しています。人間は誰しも、風景や環境として周りにある現実の季節の向こう側に、想像の中でもう1つの季節を感じながら生きているかもしれないと思うんです。そして、劇場の中で起こることはすべて作り物=人工ですよね。たとえ季節を描き出していたとしてもそこにあるのは本当の季節ではなく嘘の季節。それが、「第2の季節」の意味なんです。「創作」という世界が、そこにある。

―人間の想像が作りだした季節の中で、どんな物語が繰り広げられるのでしょうか。

勅使川原:物語を表わそうとは思っていません。これは演劇ではなく、あくまでダンスです。言葉以上に重要なのは、想像させることです。シュルツは第二次世界大戦前の時代を生きたポーランドの作家で、ユダヤ人でもあります。政治・宗教の枠の中に閉じ込められ、身動きが取れない社会状況の中で生きた彼は、その閉塞感の中で自分の内面世界に向かうしかなく、繊細な感情の機微を短編小説の中に描き出しました。どんなに人工的な環境にあっても人間の身体というものは、有機的な生命体、つまり自然そのものだと思うのですが、シュルツはその人間をあえて人形のように物質として捉え、物質こそ命があるものと描いたんです。

勅使川原三郎
勅使川原三郎

相手を傷つけてふざけることは、同時に自分を傷つけることでもある。精神の解放のためのアイロニーとして表現が作用すればいいけれど、そう上手くは行かない。

―閉塞感の中に押し込められ、自由な生命の謳歌を規制されたシュルツが、「人形=命の無いように見えるものにこそ生命がある」と逆説的に言っているのは、ある種の自己肯定なのかも知れませんね。

勅使川原:はい、自己のみならず、広い意味での「愛情」と言えるかもしれない。誰かが誰かを愛しているということだけではない「愛」。それなしで物事がありえない「愛」の葛藤。行き詰った状況から抜け出そうとする人間の葛藤だと思います。そして、似たようなことが時代や国を超え、現代にも起こっています。豊かな自然があるにも関わらず、情報化社会や科学の進歩に左右されてしまう未来など、新しい世界にいろんな可能性を求めた結果、その中に押し込められている現代人の世界観にも、同じ閉塞感を感じるからです。存在しようとする愛の葛藤のあがきと言えるかもしれません。

―はい。

勅使川原:そして現代の特徴として感じるのは、抜け出せないことへの葛藤が自虐的な表現として伝わってくることです。ネットや会社でのいじめなどがその代表的なもの。現代人は閉塞感からの開放を決して諦めているわけではないのだけれども、それをネガティブで屈折した、皮肉的な表現でしか表わせない。ちょっと前の「お笑いブーム」などは、自虐や加虐により、難しい人間関係を緩めるやり方だったと思うんです。でも相手を傷つけてふざけることは、同時に自分を傷つけることでもある。精神解放のためのアイロニーとして表現が作用すればいいけれど、そう上手くは行かない。

―想像や思考を深める「精神的体力」が弱い人が、増えているような気もします。

勅使川原:そりゃそうでしょう。マスメディアなんかが、考えさせないようにしているんですから。「これを買え、あれを買え」「考え込んで遅れると損をするよ」と15秒おきに叫んで、忙しくて考える暇が無いようにしている。危ないからこうしなさい、こういうリスクがあるから注意しなさい、と山のようにアナウンスして、本来なら自分で備えているはずの自己防衛能力まで奪っている。

―感じる力、感じることから思考を深める力を養うという意味で、観る人それぞれのイマジネーションをくすぐるのがダンスだとするならば、こういう時代だからこそ多くの人に接して欲しいですね。

勅使川原:はい。僕がなぜ、小説から作品を作り始めたかと言うと、そこから読み取れるメッセージを、ダンスという手法を通して、現代社会や世界との関わりかたを考えさせるものにできたらいいと思うからです。そして、ダンスとは空間の芸術であると同時に時間の芸術でもあります。内面的な時間を生きるための活動でもあるわけです。

「なんでも好きなことをやればいいじゃん」と言ってしまったら、自分の欲望の吐露だけで終わってしまう。想像力を駆使して表現を行うには、それを支える技術が必要なんです。

―ところで、作品内における身体的存在感というものを考えるとき、勅使川原さんの存在感には他の舞踊家にはない絶対的な力があります。足を高く振り上げたり、跳んだり、回転したりして驚かせるわけではないのに、舞台に出てきただけで周囲の空気を変えてしまう存在感は、いったいどうやって作られ、そして30年以上も維持されているのでしょうか。

勅使川原三郎

勅使川原:音楽家なら、自分の声、楽器、聴力、そうしたものを日々磨くでしょうし、コックならば味を利き分ける能力を研ぎ澄ますでしょう。ダンスも同じです。そして、ダンスに決定的に必要なことは技術です。まずは、自分の身体をきちんと理解し、自分の意思と身体が一致している状態を知ることです。自分にとっての正しい動きを知ることで、何が正しくないのかという分別を持つことが大切ではないかと、僕は考えます。


―自分の身体感覚のスタンダードを知る、というイメージでしょうか。

勅使川原:そうとも言えます。スタンダードがわかれば、崩すこともできる。最初から崩して「なんでも好きなことをやればいいじゃん」と言ってしまったら、いざ何が良いのかを主張したいときに「だって私がそうしたいからいいんです」という、自分の欲望の吐露だけで終わってしまう。

―一時期、「コンテンポラリーダンスはなんでもありなダンス」なんて言われたこともありましたよね。

勅使川原:新しいダンスの価値観として、制約的な身体性を無視するのがいいんだっていう傾向が強いようです。それはそれでいいのかもしれないけれど、好きなことをやっているだけでは身体の技術的な進展は望めませんよ。なぜなら、想像力を駆使して表現を行うには、それを支える技術が必要なんですから。

バレエは、それを完全に自分のモノにするのは不可能だからこそ、毎日続けられるものだと思うんです。これはヨーロッパの人々の力強い知恵ですね。

―勅使川原さんは、バレエの経験があるのですよね。

勅使川原:というか、僕のダンサーとしての出発点がバレエです。何か表現をしたいと思っていた時期に、もしかしたら自分には身体表現が合っているかも知れないと思うことがあり、それでバレエ学校の門をたたきました。面白い先生で、寺山修司の芝居『毛皮のマリー』の振付や、ロック、和風バレエなど前衛的なことを随分やっていた。その先生に勧められて続けてはいたのですが、バレエのレッスンというのは身体に幾何学的な無理を強いるでしょ。まるでモーゼの十戒を前にするような気分でレッスンバーに向かってた(笑)。バレエを通して得られる身体感覚には興味深いものがありましたが、バレエ作品自体にはあまり魅力を感じませんでした。「もういいかな」と何度も思いながら、それでも10年続けた。かなり徹底的に。

―確かにバレエを続けるということは、修道院にいる感覚のようでもあります。来る日も来る日も地道なレッスンをし、ストイックにならざるを得ない……。しかし、その経験の後にご自身のメソッドを作られたわけですよね。

勅使川原:バレエは、それを完全に自分のモノにするのは不可能だからこそ、毎日続けられるものだと思うんです。これはヨーロッパの人々の知恵ですね。不完全な人間が、完璧にはできないことに向かうからこそ、そこに理由と目的が生まれる。力強い知恵、西洋思想ですね。なんでも受け容れよう、という日本人の発想に比べるとはるかに構築的で、身体訓練としては優れていると思います。

勅使川原三郎

―バレエの身体の使い方は、集めて、引き上げて、ぎりぎりまで伸ばしてと、身体に垂直の緊張感を強います。しかし、勅使川原さんの表現はやわらかく、さまざまな曲線を自由に生み出します。バレエを経て誕生した、勅使川原さんのメソッドとは?

勅使川原:まず、緊張、あらゆる制御からの開放です。身体は曲線でできていますから、緩めることで伸び伸びするんです。そしてジャンプすることで体重を重力に任せることを覚え、歩く・走るという行為を通して自分の重心を知り、呼吸と身体をつなげる。そもそも身体というものは、生まれ落ちたときは何の制御もないピュアな状態ですが、成長する段階で他者や環境から自分を守ろうとするわけです。階段、自動車、人混み……、ただ普通に生きているだけでも周りには身体を脅かすものがいろいろある。それらから自分をプロテクトするために、身体は自然に固まっていくわけです。私は座禅やヨガなどをやったことがないのですが、「無になろう」と努力するんじゃなくて、「無にならざるを得なかったら普通に力が抜けていた」。それが重要だと思っています。

―勅使川原さんのワークショップを体験させていただいたことがありますが、あれだけ跳びながら走り回ったら、ただただ、「無」になるしかなかったです(笑)。

勅使川原:暇だと人間の頭には雑念が押し寄せます。「無になるしかない状況を作る」ってことはある意味、身体にとって楽なんじゃないかな、って思いますよ。疲れて、空っぽになる。気分がいいじゃないですか。座ってじっとするのではなく、動いて動いて空になる、爽快です。

すでに存在する価値観に関しては、いったん疑って、それらを鵜呑みにしないようにしています。否定するわけではないのですが、とにかく味わい方を厳密にしないと気が済まない。

―11月には、パリ・オペラ座にも作品を提供されると伺いました。オペラ座のダンサーたちも、勅使川原さんのメソッドを体験して舞台に立つのですか?

勅使川原:もちろんです。これで3度目の作品提供になりますが、いつもダンサーの皆さんにはこれまでの自分のキャリアを脱ぎ捨ててもらうことから始めています。途中乗車ではなく、始発から私のメソッドに参加していただく、ということです。知らない、わからない、マイナスからのスタートで充分。それは、私がもう20年以上続けている「勉強会(参加者は20代から70代まで)」でも、昨年からスタートしたU18(18歳以下の青少年を対象にしたワークショップ)でも同じこと。プロも若者も、踊りを目的にする人もしない人も、身体に対しては同じ立ち位置・目線を持ってスタートラインに立っていただくのです。

―そういえば、勅使川原さんは過去のインタビューで「日本にはまだ独自のダンスのシステムができていない」ということをお話されていたことがありましたね。

勅使川原:ダンスは西洋文化を取り入れたわけですから仕方のない部分もありますが、それにしても自分たちの身体動作について、もっと研究がなされてもいいと思います。僕は、若い頃から今日まで一貫して、すでに存在する価値観に関しては、いったん疑って、それらを鵜呑みにしないようにしています。否定するわけではないのですが、とにかく味わい方を厳密にしないと気が済まない。

―厳密なフィルターを通して、何かをふるいにかけるのでしょうか?

勅使川原:自分の確かな実感、意思がそこにあるかどうか、です。自分が創作を行うときも、社会や他人を基準に流されちゃいけない。自分の確かな意思が無いまま、なんとなく作ったものは、簡単に流行や時代の風に転がされちゃう。つまり、自分が強くないと弾かれる、ということです。

―自分に対する厳しさを持ち続けなければならない、ということですか。

勅使川原:芸術的環境は厳しい。その中で生きて行こうと思うならば、甘さは手放した方がいいでしょう。さらに、噂話みたいなものをいちいち鵜呑みにしていたら、振り回される一方で、とてもじゃないが生きていくのが苦しくなる。自分と対話する時間を持ち、自分が感じていることが何よりの真実なのだと受け止める。孤立せず、力を合わして、自己と他者とを引き受ける覚悟を持つ。そうじゃないと面白いものは作れないと思いますよ。「これくらいでいいんじゃない?」というものは、一瞬注目を浴びてもすぐに忘れ去られる。けれども、何かを乗り越えて生まれたモノには、本当に興奮させられるものがあります。それはダンサーの身体性についても、同様です。

勅使川原三郎

全力で崖っぷちに向かって走っていくのが好きなんです。

―この夏にオープンした荻窪の「KARAS APPARATUS」スタジオでは、勅使川原メソッドのクラスを毎日開催されるのと並行して、さまざまな活動、発信を行う場にすると伺いました。

勅使川原:はい。まずはKARASの公演をなるべく多くやりたい。今の日本で、演劇にしてもダンスにしても舞台芸術に関わる人たちが自分たちの劇場を持つことはなかなか難しい。けれどもここは、24時間365日僕たちKARASの空間ですから、いつ何が起こってもいいんです。ツアーや振付で海外に出かけているとき以外は、可能な限りここで公演を行いたいと考えています。

―このスタジオがKARASのパフォーマンスの拠点になるのですか?

勅使川原:9月の東京芸術劇場公演『第2の秋』のように、大きな劇場での公演も大切にしていきます。ただ、日常的にこの小さな空間で表現を行うことを大きな劇場へのアプローチにしたいし、逆に大劇場で得たことをこの小さな空間に持ち帰り、至近距離で観客の皆さんと共感しあいたい。大劇場と小空間の間で作られるエネルギーの循環から、KARASの表現をさらに進展させるつもりです。

―それにしても、居心地のいい、洗練された空間ですよね。

勅使川原:狭いんですけれど、すべての床面(階段、スタジオ、トイレまで)に同じ黒のリノリウムを敷いて、全体としての一体感を演出しました。予算は少ないのでほぼ私たちの手作りです。ここでは身体の中を呼吸や血液が駆け巡るように、一体感を感じてもらえる場所にしたい。また、ダンスの稽古場としての役割だけでなく、劇場、ギャラリー、トークショーなどいろんなことが起こる場所にしたいと思っています。

―自分たちのスペースで日常的に公演を行い、さまざまな発信を行うということは、これまで日本のダンスカンパニーがやりたくてもなかなかできないことでした。

勅使川原:赤字を出さないために公演そのものをどこかコマーシャルっぽくしなくてはならなくなる、ということは断固したくはない。自分の身体をきちんとチューニングして創作に向かう、そういう表現者としてやるべきことをきっちりやった上で、今の自分たちができることを最大限にやりたい。それだけです。

―勅使川原さんは、国内外でこれだけのキャリアを持たれていながら、いつも新しいことに挑戦されていますよね。「これでいい」というゴールは無いのでしょうか。

勅使川原:全力で崖っぷちに向かって走っていくのが好きなんです。身体的にも精神的にも「ギリギリ」な感じは面白いと思いますし、好きですね。崖っぷちに立って何かを期待するのはワクワクしますよ。

イベント情報
芸劇dance
『第2の秋 Second Fall』

2013年9月6日(金)〜9月8日(日)16:00開演(6日は20:00開演)
会場:東京都 池袋 東京芸術劇場プレイハウス

演出・振付・美術・照明:勅使川原三郎
出演:
勅使川原三郎
佐東利穂子
ジーフ

料金:
一般前売 S席5,500円 A席4,000円
一般当日 S席6,000円 A席4,500円
65歳以上割引4,500円 25歳以下割引3,000円 高校生割引1,000円
※65歳以上割引、25歳以下割引、高校生割引はS席を割引価格にてご購入いただけます

プロフィール
勅使川原三郎(てしがわら さぶろう)

バレエを学んだ後、1981年より独自の創作を開始。1985年、KARASを結成。既存のダンスの枠組みではとらえられない新しい表現を追及。舞台作品では振付・演出のみならず美術、照明デザイン、衣装、音楽構成も自ら手掛け、独創的な作品を創造。国内外で数多くの公演を行う傍ら、パリ・オペラ座バレエ団など欧米のカンパニーに作品を提供。近年はオペラの演出、インスタレーションや映像作品などにも創作の世界を広げ、また若手の育成にも精力的に取り組んでいる。朝日舞台芸術賞(01年、03年)、ダンツァ&ダンツァ・アワード年間最優秀賞(01年 / イタリア)、芸術選奨文部科学大臣賞(07年)、ベッシー賞(07年 / アメリカ)、紫綬褒章(09年)などなど、国内外で多くの賞を受賞。



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