コミュニティーはつくり直せない。東京オリンピックが壊した団地アパートから見る「真の豊かさ」とは

「2020年東京オリンピック・パラリンピックの思い出はなんですか?」と聞かれたら、あなたは何と答えるだろう。

かつて国立競技場の隣には、1964年の東京オリンピック開発の一環で建設された都営霞ヶ丘アパートが存在した。住民の平均年齢が65歳以上の高齢者団地だったが、2020年東京オリンピックの開催に伴う再開発によって、2016年から2017年にかけて取り壊された。

『東京ドキュメンタリー映画祭2020』特別賞を受賞した映画監督・青山真也の『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』は、アパートから強制退去させられた住民の2014年から2017年にかけての記録をとおして「五輪ファースト」の陰で繰り返される排除の歴史を映し出したドキュメンタリーだ。有志による東京都、五輪担当大臣への要望書提出や記者会見の様子を織り交ぜながら、住民が退去の日を迎えるまでの生活を切り取っている。大友良英が手掛けたミニマルな音楽が寄り添う本作は、感動や感傷を煽ることなく、「名もなき強大なものに終の住処を奪われた人々」を見つめる。ただ淡々と、静謐に。

私たちはオリパラの招致と引き換えに、何を手に入れ、何を失ったのだろう? 青山、大友両者へのインタビューから、いま一度立ち止まり、振り返り、取りこぼされた多くの「豊かなもの」に思いを馳せたい。ほかの誰でもない、あなたとともに。

「オリンピックによる二度の立ち退き」を迫られた人を知り、記録に残したいと思った

ー『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』を撮影しようと思った理由を教えてください。

青山:1964年、2020年のオリンピックで二度目の立ち退きを迫られている人がいるっていう話を耳にして、記録に残したいと思ったんです。二度の立ち退き、しかもその理由がオリンピックでというのは相当だなと。それで、調べたり、実際に足を運んだりしました。

ー大友さんに音楽を依頼してみようと思ったのはなぜですか?

青山:霞ヶ丘アパートは、東京のど真ん中にあって、国立競技場とか原宿とかも近いんですけど、とてもひっそりとしているんです。田舎の団地に迷い込んだかなって感じの場所。

団地のなかに、商店スペースを設けた建物があるんです。撮影していた2014年頃には、八百屋さんと煙草屋さんが営業していました。もともとは米屋やクリーニング屋など、いろいろなお店があったようですが、平成に入ってから団地の高齢化に沿うようにシャッターが閉まった店舗が多くなりました。

映画自体が、高齢者の方々の部屋を淡々と撮ったものなので、何か表現を重ねたいなと思ったときに、大友さんの顔が浮かびました。多分、大友さんの『プロジェクトFUKUSHIMA!』での活動や、大友さんが福島のことを書いた『シャッター商店街と線量計 大友良英のノイズ原論』の内容で重なる部分があったのだと思います。大友さんに映像をお見せしたのは、すべて撮り切り、もう編集まで終わったころ。2020年の春先とかでした。

『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』トレーラー

怒りや悲しみの感情を音楽や演出で煽りたくはなかった

ー大友さんは完成した映画をご覧になって、どう思われましたか?

大友:じつは、霞ヶ丘アパートみたいな団地で育ってるんです。横浜の明神台団地っていうところで、つくられた時代も大体似ていて、2000年代になってからはやっぱり住民は高齢化していって……。自分の記憶に紐づく部分は多かったですね。

ー本作は、基本的に人々の会話や生活音を重視したつくりになっていますが、音楽はどういった感じで制作されたんですか?

大友:そもそもの話をしちゃうんだけど、ぼくは、基本的にドキュメンタリー映画に音楽はいらないと考えています。「普段生きている人間」に音楽をつけるってかなり暴力的なことだと思うので。物語における音楽って、制作者が意図する方向へ観客を引っ張ることになるじゃない。舞台とか劇場映画だったらぜんぜんいいんですけど、普通に生活している人の姿を見せる際につけるのは暴力的だな、と

同じく、ドキュメンタリー自体も暴力的だと思っていて。「あるところだけを切り取って見せる」という行為がね。だから、信頼してる人のドキュメンタリーじゃないと本当にやりたくない。でも、青山さんだし、話を聞くと興味深かった。この話って、つまりはオリンピックに象徴されるような国の成長物語に、ごく普通に生きてきた人たちの生活が壊される話じゃないですか。ちょうどそのころ、ぼくは『いだてん』(NHK)にも関わっていたから、背景には同じテーマもあるなと感じていて、だったらやってみようかな、と。

青山:「ドキュメンタリーに音楽はいらない」というスタンスを聞いて、大友さんに今回お願いできてよかったなとあらためて思いました。

この映画は高齢者の方々の部屋を淡々と撮ったものなのですが、いわば生活風景を撮ったものに「東京オリンピック」とタイトルをつけることには、ある種の暴力性があると感じていて。そのうえであえて、何か表現を重ねるべきと思いました。暴力的であることを認識しつつ、映像表現や音楽表現でしっかり向き合うというか。

じつはぼく自身も編集しているときに、「音楽がなくても充分映画が成り立つかも」と感じたときはあったんです。でも同時に、自分の撮影とか編集以外の表現を作品に入れたら、よりよいものになるかもしれないとも思いました。だから、大友さんに依頼したんですけど、つくってくださった曲は最初10曲くらいありましたよね。

大友:うん。ぼくがこの映画をどうこうしたいとかはないから、自分なりにさじ加減が違うのを10種類出して、あとは監督に選んでもらえたら、と思ってた。

青山:打楽器が入っていたり、オーバーダビングで構成されたりする曲もあったんですけど、ギターだけでつくられた2曲を選びました。霞ヶ丘アパートは一人世帯が多くて、大友さんが一人で弾いているギターの音がすごく合うなと思ったんです。

じつはこの映画のなかで「オリンピック反対」というメッセージが直接的に出てくるシーンはほとんどないんですよ。だからこそ音楽で悲しみや怒りを煽ることはしたくなかった。大友さんがつくってくださった、一つの感情に引っ張られない音楽を映像につけたことで、複雑性のある表現ができたと感じています。

オリンピックの「動」と日常の「静」。真逆な様子を映し出す

大友:この映画はすごく豊かな作品だなと思ったんです。ナレーションがついてないんですよね。だから、観客に一定の方向性を提示することもないし、目に入ってくる情報量も多い。そもそもこの住民の人たち、ものすごい量の物を持ってない? それを見るだけでもすごい情報量なんです。片腕のないおじいさんの部屋にあるドラムとかトロンボーン、気になって。

青山:彼はすごい音楽好きで。片腕でドラムも叩けば、音楽好きの友だちをアパートに呼んでバンド練習するみたいな。「団地のなかでこんな音出していいんですか?」って聞いたら、「みんな高齢者で耳遠くなってるから問題ない」と(笑)。

大友:「あのおじいさん最後にバンドとかやるんだろうな」って見てたら、ぜんぜん違っていて。なんの説明もないけれど、そうしたことの一つひとつが刺さってくるんです。それを豊かと言っていいかどうかわかりませんが、でも本当に、こちらの心に深く入ってくる何かがありました。その意味で豊かな映画だなって。

青山:どうアパートを撮影していくか考えたときに、オリンピックによって立ち退かされようとしている住民の方を、オリンピックと真逆の瞬間を記録に残す、というコンセプトを立てました。

オリンピックは「ハレとケ」で考えると「ハレ」で、日常生活は「ケ」になります。また、オリンピックが動的なイメージなら、この映画は静。若くて逞しいスポーツ選手たちではなく、怪我をしていたり、動きにくくなった高齢の方の身体を捉えています。

アパートに住んでいる方たちは70代から90代の方が大半で、「ここが終の住処」と考えている人がほとんどでした。なかには移転後すぐに亡くなった住民もいて、この映画はその人の最後の姿が映ったメディアにもなっています。彼らの最後の人生を、オリンピックとの関係性だけで切り取るのはすごく暴力的で貧しいことだと思いました。ナレーションをつけずに、映ったものを観客各々が考えられるようにしました。「考える余地を残す」という意味では、大友さんがおっしゃる豊かな映像になったと思います。

巨大なものが迫るとき、弱いもののなかで意見が割れ、崩れていく

ー『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』公式冊子では、一口に「(立ち退き)反対」と括っても、住民のなかには派閥が3つくらいあったと書かれています。映像のなかでははっきりとは見受けられませんでしたが、実際、住民同士の明らかな不和などはありましたか?

青山:もちろん団地のコミュニティーのなかではさまざまな意見が当然ながらあって、オリンピックが開催されることによって、思想の層みたいなものが住民のなかで明確に分断されたんだなという実感はありました。

大友:こういうのは、「踏み絵」みたいなものだって思うんです。問題が起こらなければうまくやっていけるのに、問題が起こるとそれに対して意見が割れるじゃないですか。その問題のなかで、踏み絵のどれかを踏んで自分の立ち位置を決めなければならなくなったときに、それまで仲良くやってきた人ともうまくやっていけなくなる。オリンピック賛成か反対か、立ち退くか立ち退かないか。われわれに迫るわけですよ、こういう巨大なものは。それで、弱いもののなかで意見が割れて、崩れていくことも充分にわかったうえで、巨大な側はやってるんですよね。

建物は壊れたらつくり直せばいいけど、コミュニティーはつくり直せない。生命に近いかもしれない。今回このアパートに対して東京都がやったいちばんの罪はコミュニティーを壊したことだと思うんです。

それは、いままでもずっと無神経に、さまざまな場所で行なわれ続けてきたこと。「飛行場をつくったほうがいい」「地下鉄もつくったほうがいい」とか「発展したほうがいい」という大前提があって、「小さなコミュニティーや弱いところは犠牲になってもいい」とまで考える人は少ないかもですが、でもわれわれのなかで、「まあしょうがない」って思う習慣がついたのが20世紀の近代化だったと思うんですよね。みんな「コミュニティーをつくらないといけない」と言っているくせに、弱者のコミュニティーは平気で蹂躙するという状況は、本当になんとかしたほうがいい。

青山:まさにコミュニティーの問題だなと思います。最初は「復興五輪」を謳っていたのに、最終的にコロナに打ち勝つためのものに変わっていて。

大友:最初に「復興」と言ってたのはなんだったんでしょうね。ただ、オリンピックのそもそもの理念は嫌いじゃないんですよ。「参加することに意義がある」とかじつは最高なのに、いつの間にかスポーツエリートの祭典になったでしょ。多様性とかいいながら超エリート主義で、超巨大な商業主義といろんな国の利権が混ざっている。「多様性を実現する場」と言っているけど、その人たちの言っている多様性って、「自分たちに都合のいい多様性」だなって思うんです。開催する地域に住む人のことを考えられないようになった段階で、なにが多様性だよって思います。1964年のオリンピックのほうがマシだったと思っていたけど、実際はどうなんだろう。『いだてん』をつくっているときも、いろいろと資料を見て思うことはたくさんありました。

青山:1964年のオリンピックは、多くのメディアでは、戦争から復興して高度経済成長期になるための足がかりだった、すごく良い大会だったと紹介しています。実際そうだったとは思いますが、一方でこの映画のなかで出てくるアパート住民の一人は、1964年の五輪開発で自身が立ち退いた話をしています。「妻が子どもをおぶって立ち退き反対デモに参加した」と話してくれました。

オリンピックを開催する人たちは、短い時間にワーっと盛り上げて去っていきますが、立ち退いた彼らには移転先での新しい日常が続きます。

片腕のおじいちゃんも、移転に反対していたけど、最終的には心が折れちゃって引っ越します。移転先は指定されていたので、移転をすぐに受け入れた人たち、いわば意見が違う人たちが多くいるわけです。そこでの生活が続く困難さは、なかなか外部の人間には理解し辛いことですよね。映画のなかで、片腕のおじいさんがラジオ体操をするシーンがでてきますが、いまも継続して参加しているようです。

ささやかな日常の風景が、自分たちの文明のあり方を問い直す

―大きなものの意見にただ頷いて従うのではなく、個々で自らが歩む道を考えなければいけないという状況が、いまの世の中にはたくさんあります。ウクライナ侵攻などのニュースを見かけたとき、この映画のことを思い出しました。

青山:最近、大友さんが2003年に書いたコラム『戦争と日常と』を読み返したのですが、そこで引用していた鶴見俊輔さんの言葉は映画にも通ずるものがあるように思いました。「(日本の)敗戦当夜、食事をする気力もなくなった男性は多くいた。しかし夕食をととのえない女性がいただろうか。他の日と同じく、女性は、食事をととのえた。この無言の姿勢のなかに、平和運動の根がある」という節は、「食事という日常」の捉え方に膝を打ちました。当然、ジェンダーの視点から一考すべき内容でもあります。ウクライナの報道を見るたびに無力感を抱きますが、日常をぶれずに生活することも、何気ない日々を見つめることも、暴力に抵抗するヒントになるかもしれません。

大友:100年とか1千年とか長期的な目線で見たら、青山さんの映画は、オリンピックの記録映画以上に貴重なものになると思うんです。例えば、自分の昔の写真を見ると、運動会とか「ハレ」のときの写真しかないじゃない。いまだったらスマートフォンでみんな撮るかもしれないけど、昔は特別なときしか写真を撮らなかった。だから、ぼくが住んでいた家や、街の写真は1枚もない。遠足とかの写真しかないんです。

この映画には、その記録されることのない日常が丁寧に映り込んでいます。「ハレ」の時間を残していくのではなく、「ケ」の時間を見つめていく。これは本当に大切なことだと思うんです。

大友:ただね、対立軸で見るだけではなく、例えばこの映画のなかでも、国立競技場が出てきて、みんなブルーインパルスを撮るじゃないですか。花火も打ち上がったりして。踏み絵の状況にさえならなければ、「オリンピック」という祭りはきっと受け入れられたと思うし、アパートの住民の方たちだって、立ち退かなくていいならオリンピックを楽しんでいたと思う。

青山:片腕のおじいさんの部屋には、東京都が2016年のオリンピックの招致のためにつくった応援フラッグがあったんですよ。招致に乗り出していた当時は2006年から2008年ごろだと思うんですけど、そのときは「近所の国立競技場でも競技をやってくれたら楽しそうだな」という考えで、近隣の商店街で招致活動を盛り上げるためのボランティアに参加したそうです。だけど2016年大会はブラジルに決まり、その後ようやく日本開催が決まったかと思ったら立ち退きとなって、「オリンピックに協力したのに一体どういう裏切りなんだ」って。

霞ヶ丘アパートがあった敷地は、競技場に隣接した公園になるのですが、現在もまだ「工事中」の囲いがされています。公園内に何棟かアパートを残して、生活できるようにするという案が住民からでていました。オリンピックを開催しても、住民と折り合いがつけられる道があったのかもしれません。

大友:ぼくは、この映画が単にオリンピック賛成 / 反対の踏み絵になってしまうのは本当にもったいないと考えているんです。片腕のおじいさんや、住民の方たちの様子から、自分たちの文明の根本的なあり方に対して「本当にこれでいいの?」というささやかな問いを投げかけているのが、この作品です。「オリンピック」に象徴される発展の物語より、一人ひとりの人生のほうが比較にならないくらい大切な物語なんだってことを、青山さんは見せてくれているんだと思います。

作品情報
『東京オリンピック2017都営霞ヶ丘アパート』

2022年6月3日(金)より、東京・下北沢のシモキタ - エキマエ - シネマ K2にて2週間上映
書籍情報
映画公式冊子『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』

2021年12月30日(木)発売
編著者:青山真也
価格:1,650円(税込)
発行:左右社
プロフィール
青山真也 (あおやま しんや)

日本生まれ、東京在住。映画監督。ドキュメンタリー映像作家。美術作家による作品の映像撮影や制作に携わるとともに、展示やパフォーマンスの映像記録も多数関わる。映画『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』が初監督作品。

大友良英 (おおとも よしひで)

1959年生まれ。映画やテレビの音楽を山のようにつくりつつ、ノイズや即興の現場がホームの音楽家。ギタリスト、ターンテーブル奏者。活動は日本のみならず欧米、アジアと多方面にわたる。美術と音楽の中間領域のような展示作品や一般参加のプロジェクトやプロデュースワークも多数。震災後は故郷の福島でプロジェクトFUKUSHIMA!を立ち上げ、現在に至るまでさまざまな活動を継続中。2013年『あまちゃん』の音楽でレコード大賞作曲賞を受賞。2014年よりアンサンブルズ・アジアのディレクターとしてアジア各国の音楽家のネットワークづくりに奔走。2017年札幌国際芸術祭の芸術監督。2019年NHK大河ドラマ『いだてん』の音楽を担当。また福島を代表する夏祭り『わらじまつり』改革のディレクターも務めた。



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