池松壮亮から君へ。『宮本から君へ』の如く、人間まる出しであれ

昨年、テレビドラマとして放送された実写版『宮本から君へ』。その物語が、9月27日から公開された映画版でもって完結する。

新井英樹によって、バブル崩壊直後の1990年から1994年にわたって描かれた同作品。主人公・宮本浩の喜怒哀楽まる出しな生き様と、自我そのものとの闘いは、人間そのものの本質を問うて抉るものとして人間経典のように時代を超えて愛されている。

そして、その映画がすごい。顔の形が変わるまで殴られても、自分の大事なものを傷つけた相手に立ち向かう宮本の姿。その闘いは誰かのためじゃなく、結局は自分を肯定するためのものだとハッキリいい切れるまでもがき切る姿。欲望も情けなさもあらわにしてもんどり打ち、生活を食らっていく宮本を演じる池松壮亮の姿に、人間のもっともグロテスクな部分を突きつけられているような気持ちにさせられる。

さらに、バブル崩壊直後に従来の価値観が崩壊した当時を泥まみれで生き抜こうとする男の物語は、人間の美意識や倫理観が一気に崩れ去ろうとしている現代に生きる人へのメッセージとしても響く。この作品が本当に伝えようとしていること、ここに描かれる人間の姿が突きつけるものとはなんなのか。宮本を演じる池松壮亮へのインタビューで、深く掘り下げた。

普段はとても「生きてるヤツはみんな強い」なんていえない僕自身が、そういえる可能性を宮本に対して期待していました。

―ドラマシリーズから続いてきた『宮本から君へ』がこの映画でもって完結したわけですが(参考記事:池松壮亮が明かす 生きづらい現代日本で、映画に取り組む覚悟)、改めて、ご自身にとってどういう作品になったと振り返られますか。

池松:そうですね………言葉にするなら、「人間回帰」だと思います。

―回帰?

池松:はい。いまの世の中の空気も含めて考えたときに、「人間回帰」っていう言葉が出てきたんですけど。いまって、世の中を見渡したときにあらゆることが非人道的な方向にいってると感じるんですね。その中で僕がなぜ宮本の役をこれだけやりたいと思ったのかを改めて考えると、きっと僕自身が人間らしい姿に回帰したかったんじゃないかなと思うんですよ。

それは、この作品を描かれた当時の新井(秀樹)先生ご自身もそうだった気がするんです。新井先生が『宮本から君へ』を描かれていたのは1990年から1994年だから、つまりバブルが弾けた直後に始まったのがこの話じゃないですか。

池松壮亮(いけまつ そうすけ)
1990年7月9日生。福岡県出身。A型。2003年『ラストサムライ』で映画デビュー。2017年『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』(石井裕也監督)に出演し、『第9回TAMA映画祭』で「最優秀作品賞」、『第39回ヨコハマ映画賞』にて「主演男優賞」を獲得。2018年にはドラマ『宮本から君へ』で主演を務め、2019年9月に映画『宮本から君へ』が公開。また出演した『カツベン!』(周防正行監督)が12月に公開を控えている。

―そうですね。

池松:そう考えると、なにかが壊れた後に一旦本来の人間らしさみたいなところに行き着きたくて描かれたのが『宮本から君へ』だったんじゃないかと思うんです。で、その人間らしさに含まれるのは綺麗なものだけじゃなくて、人間のあらゆる煩悩を通った先で、ようやく「新しい命」を生み出すっていうピュアなところに辿り着く物語なわけですよね。そういう意味で、汚い部分も含めて人間を問うて、本来の形に回帰していこうとするのが『宮本から君へ』なんじゃないかと思うんですよ。

―いまのお話の中で伺いたいのは、池松さんにとって非人道的なものとはなにで、逆に人間本来の姿だと思うのはどういうものなんですか。

池松:うーん………難しいですね。たとえばわかりやすいもので話すと、いまの世の中、外に出て電車に乗れば、あるいは街を歩けば、「保険」「転職」「旅行」「ストレスを解消するリラックス方法」みたいなものばかりが目に飛び込んでくるじゃないですか。要は、人間が生きる上でものすごく圧力を受けていて、そのプレッシャーを逃すことがビジネスになって経済が回ってるって話だと思うんですよ。

―たしかにそうですね。大きな目で見ても、個人の表現すら抑え込む動きも表出してきているわけで。個人レベルでも社会としても重圧は消えない。

池松:そういう重圧を逃すのはいいことだと思うんです。だって、それが動物的な本能じゃないですか。そりゃ危機回避能力は働く。ただし、やっぱり大前提として、「生きることには必ず辛いことがある」ということをおざなりにしてしまったり、ただただ痛みを和らげるだけの方向に行ったりしてしまうと、最終的には「死」しかなくなっていくんじゃないかと思うんです。

―逃避としての死ってことですよね。それこそ安楽死の是非もいまは大きなトピックなわけですけど。

池松:実際、これだけ狭い国なのに世界的に見ても自殺率が高いわけですよね。だからこそ思うのは、2019年にこの映画が公開された意味も含めて、宮本が結局いいたいのは――映画の中で2時間暴れ回った最後、宮本が、自分の子どもが生まれる瞬間に「生きてるやつはみんな強えんだ」って靖子にいいますよね。ああいうことでしかないって思ったんですよ。

きっと、そういえるだけの説得力をいまの僕は持ててないと思うし、いまの時代に生きている人それぞれも、その説得力を持てていないから不安になってる気がするんです。

『宮本から君へ』メインビジュアル / ©2019「宮本から君へ」製作委員会

―そうだと思います。

池松:でも宮本には、そういえるだけの説得力があるんじゃないかなと思ったんですよね。たとえばいま世界でトップに立っているようなアスリートに「生きてるヤツはみんな強えんだ」なんていわれても、「あなたはそれだけの才能を持ったからだよ」と感じる人もいると思うんです。もちろんその方々が努力を積み重ねてきたと知っていても、こちらの心情として。

だけど宮本は、心の痛みも体の痛みも全部食らってきたからこそ、最後の最後に「生きてるヤツはみんな強えんだ」といえるんだと思ったんですね。普段はとても「生きてるヤツはみんな強い」なんていえない僕自身が、そういえる可能性を宮本に対して期待してたというか。だって、そもそも『宮本から君へ』って、すごく傲慢なタイトルじゃないですか(笑)。

―ははははは。端から「お前にいいたいことがある」という特殊なタイトルですよね。

池松:そうなんですよ。たとえば「池松から君へ」なんて傲慢なことはなかなかいえない。でも、誰のためじゃなくひたすら自分の証明のために闘って痛みを食らい続けた宮本だから、人にいえることなんですよね。

『宮本から君へ』90秒予告

僕は自分を表現者だと思ってやってきたけど、「俳優は表現者だ」っていうと、全否定してくる方はいまも結構いるんです。

―「生きてるヤツはみんな強いといえる可能性を宮本に期待した」といわれましたけど、つまり池松さん自身も、表現を通してそういう言葉を投げかけたい欲求を持っていたということですか。

池松:宮本を演じたいと悲願し続けたのは、きっとそういうことだと思います。……これは少し違う話になるかもしれないですけど、もし僕が「表現者」の端くれだとすると、日本映画の豊かな時代を受け継いできた人にとっては、僕みたいなタイプはすごく稀に見えると思うんですね。日本が豊かな時代に素晴らしい作品が多く生まれたからこそ、「俳優は労働者であるべき」という価値観は未だ根強いというか。僕は自分を表現者だと思ってやってきたけど、「俳優は表現者だ」っていうと、全否定してくる方はいまも結構いるんです。

―ご自身のなにかを役を通して表現するというよりも、ただ演じることに徹するべきだという価値観が強い。

池松:そうですね。で、僕はそこに対して割と反発してきた。僕はどちらかというと、その作品が発するなんたるかと、その役が発するなんたるかに共感できたときに、自分の肉体を作品に預けてきたんです。そういう意味で、宮本に対して没入する感覚は間違いなくあったし、彼が発する生き様を僕自身も表現したいという欲求はありましたね。

『宮本から君へ』場面写真 / ©2019「宮本から君へ」製作委員会

―もちろん一概にはいえないだろうけど、ご自身が肉体を預けて表現したいと思うのは、どういうものを発している作品や生き様なんですか。

池松:その答えは簡単に出ていて……。結局は、「平和の維持」とか「人類の向上」。つまりは未来への視点や希望に辿り着こうとしている役や作品に惹かれます。やっぱり動物はそれぞれ進化を遂げてきたし、人間だって、そもそも向上したいと願ってきた生きものだと思うんです。そうやって未来に繋がれてきたものがたくさんあるわけですよ。

でも、気づいたら絶対的な平和が約束されない時代になった。だからこそいまの時代に俳優をやって「人間」を演じている意味を突き詰めれば突き詰めるほど、人生を探求すること、それこそ人間本来の姿を突き詰めることに辿り着くんです。

人間は傲慢だし、誰かのためでありたいと思うこと自体が傲慢だけど、それが生きていくってこと。

―いまおっしゃったことはまさしく、宮本が血だらけで表現し続けたことそのものですよね。

池松:本当に、宮本の闘い方や表現方法ったら、ものすごい執念ですよね。たとえばいまは、誰でも自分の生きている日々を発信できる世の中になった。けど、やっぱり人間が表現することの大前提にあるべきなのは愛だと思うんです。宮本も愛とはなにかを模索しながら闘ったと思うし、こうして人間を演じている身としても、愛をはじめとした「力なき正義」を表現して、人間とはなにかを問うようにあがいてるだけの気もしてくるんですよね。

―いまも横には『宮本から君へ』のポスターが貼ってあって、そこには「ぶつかり合う愛(たましい)と愛(たましい)」というコピーがドンと載っていて。先ほどは池松さんも「表現の前提には愛があるべきだ」とおっしゃいましたし、実際この『宮本から君へ』は宮本と靖子の愛を軸にしている部分もある。ただ、人の愛の強さを問うてはいるけど、愛の物語だとは一概にいえない作品だと思ったんです。

池松:はい。

―営業マンとして奮闘する宮本の姿を描く序章があって、靖子(蒼井優)が深く傷ついてしまう一件を機に宮本は闘おうと決めるけど、靖子に「全部自分のためでしょ」と罵られて、宮本は「自分のためじゃねえ」と認めない。けど、靖子を深く傷つけた相手である拓馬(一ノ瀬ワタル)との決闘に勝った後、宮本はようやく「靖子に誉めてほしい」「自分のためだ」って認めるじゃないですか。

池松:そうですね。

―「人のため」と思ってきた優しさや愛も、結局は自分のためなんじゃないか、その優しさや愛も結局はただの自我で、自分のための欲望なんじゃないか――そうして自我の在り方を問うてえぐっていく作品だから、本当にグロテスクだなと思うんです。

池松:そう、本当にそうなんですよ! しかも、いまの世の中にはこれだけ自我が蔓延してるのに、誰も宮本までは行き着けてないんですよ。そういう意味でも、宮本の傲慢さと、それを打破しようともがき続ける姿っていうのはむしろいまを表してると思うんですね。

『宮本から君へ』で蒼井優が演じた靖子(中央) / ©2019「宮本から君へ」製作委員会

―なるほど。

池松:ただ、そうやって傲慢さと自我と闘い続けている宮本の言葉こそ、誰よりも人間らしくて。

―はははは。

池松:結局、人間は傲慢だし、誰かのためでありたいと思うこと自体が傲慢で。だけどそれが生きていくってことだし、それは素晴らしいことなんだよって証明したいがために宮本はもがき続けた。だからこそ最後、拓馬との決闘に勝った後に「全員を敵に回しても構わない。俺が幸せになりたいからやった」という答えをいい切れてしまうんだと思うんです。

『宮本から君へ』場面写真 / ©2019「宮本から君へ」製作委員会

人間には喜怒哀楽があるけど、その「怒」をなくそうとしてるのがいまの世の中だと思うんです。

―そもそも、そういう傲慢でエゴまみれな自分と闘い続ける姿に惹かれるのは、池松さんご自身がどういう人だからなんですか。

池松:うーん………やっぱり、人間の幅みたいなものにすごく興味があるんだと思います。たとえば人間には喜怒哀楽がありますよね。でも、その中の「怒」をなくそうとしてるのが、いまの世の中だと思うんです。だからこそ歪みが出てると思うんですけど。だって、怒がなければ喜もないはずなんですよ。

―怒るのは、大事なものや愛するものがあるからですもんね。

池松:だから「怒」を許すことができなければ、「喜」も讃頌(さんしょう)しちゃいけないと思うんですよ。そういう人間の幅や両面性にずっと興味があって。だから、それを全部まる出しにして生きている宮本に惹かれ続けてきたと思うんです。

……あとは自分自身が、物心ついてからずっと「暴れる心」を抱えてきたところはあるんですよ。これは表に出さないし、話すこともそんなになかったんですけど。

―暴れる心ですか。

池松:人より心が暴れているというか………それをずっと抱えてきたし、その正体が自分でも全然わからない。なんなら、僕が俳優をやってる理由はそれだけなのかもしれないと思うこともあるんです。

いろんな人間の幅に没入していくことで、自分の心がなんなのかを見つけたいというか。まだ回収できていない「わからない自分」がたくさんあるから、俳優を続けられているんだと思いますし。……そういう意味でも、新井先生が描かれているものにはいつも惹かれてきたんです。だって新井先生も、ちょうどいまの僕と同い年ぐらいの時期に『宮本から君へ』を描かれてるんですよ。

―この漫画を描く中で、新井先生自身も自我との闘いを繰り返していたのかもしれないですね。

池松:そう、そういうことを感じたんですよ。で、その暴れる心を鎮めて、最後に人間回帰していくっていう。新しい命っていう一番ピュアなものを生み出して、自分が人間らしいと思えるところまで行きつく物語に感動してきたんですね。

どんな役を演じるにせよ、自分の中のよくわからない窮屈さや暴力性を振り返ることばかりなんです。

―先ほど「暴れる心」とおっしゃいましたけど、その心の背景にあるのはどういうものなんだと思いますか。

池松:……掘ってきますね(笑)。自分でもどうしてかなって考えることはあるんですけど、うまく説明できたことがないんですよね。なんなら、その「どうしてなんだろう」が自分の表現には出てくるというか。そういう気はします。

―他の作品で演じられている役どころを拝見しても、池松さんは「わからない」っていうことがそのまま複雑な形で表現になっている方だという印象はありました。

池松:おっしゃる通りだと思います。いってみれば、どんな役を演じるにせよ、自分の中のよくわからない窮屈さや暴力性を振り返ることばかりなんですよ。だから、僕は人よりも過去を生きてるんだろうなって思います。

ただ、幼少期になにか大きなトラウマがあったとか、そういう人生でもないんです。普通の家庭で、4人兄弟の2番目で育って。でも昔から、こう……人の痛みに敏感で、それに食らってしまうことは多かったんですよ。田舎で育って、そこでただ真っ直ぐ生きていきたいと思っていた少年が11歳くらいで「人間を演じる」っていう俳優の世界に入って、大人たちのなんたるかも全部見て――その経験が、人の感情に敏感になった理由なのか……。まだまだわからないことだらけなんですけど。

でも逆にいえば、わかり切っていることを見せるのも、それはそれでつまらないと思うんですね。やっぱり僕らは、未来が決定してない途中段階をいつでも生きてるし、どう着地するかじゃなくて、着地したとしても「どうやってもう一回跳ぶのか」までの過程を考え続けるのが、生きていくってことだと思うんですよ。だって、生きていく中で決定づけられることってないですから。その過程をどう物語にできるかだと思うんです。

―それをどう物語にしていくかを考えられるから、結果として未来に繋がっていくものになるわけですよね。

池松:そう思います。その過程を見せて、わからない中でどうもがいていくのか――それを見せることが結果的に、人が未来を想像できることに繋がる。それに、人が感動するときって必ず、映画と自分の間に「これまで生きてきた自分」が見つかるはずなんですよ。心のひだに触れる瞬間には、過去に似た手触りを感じたことのある自分が絶対にいるはずだと思う。だから僕は、映画を通して未来を見つめられるし、同時に、「わからない」と思っていた自分を見つけられる可能性も映画に感じているのかもしれないです。

僕にも、無意識で誰かを傷つけてきた罪がある。でもその一方で、明日からを生きていかなきゃいけない。

―人の未来を決定づけるんじゃなく、その選択肢を広げるのが表現の仕事というか。

池松:そういうことだと思うんですよ。たとえば最後に宮本が拓馬との決闘に勝つシーンがありますけど、勝った瞬間、まず宮本は自分の拳を見て驚くじゃないですか。だから宮本って、そもそも勝てると思ってなかったはずなんですよね。でも、それでも闘わなくちゃいけなかった。勝てるはずがなくても、ケンカに勝つ方法を考え続けなくちゃいけなかった。

それで勝てたときに自転車で靖子のところに行ったのは、すごく簡単にいうと自己肯定の喜び以外の何物でもなかったと思うんですよ。それってつまり、宮本が初めて、過去でも未来でもない現在を肯定して生きられた喜びだったと思うんです。

 

―ただ、『宮本から君へ』のすごいところは、その喜びだけを肯定している物語じゃないっていうところだと思うんですよ。

池松:そうですよね。だって、その喜びを感じた瞬間に宮本は泣き崩れるわけですからね。あれは自分でもワケがわからなくなってました(笑)。それに宮本もきっと、あの涙は自分で理解できてなかったと思う。自分を肯定するための勝利を得たけど、目の前にはボロボロの拓馬がいる。つまり、過去の自分と同じ目に遭った人が、いま目の前にいるわけです。

そこで、最終的にはなにが悪でなにが正義なのかがわからなくなるんですよね。でも、それが生きることなんだっていう……それを突きつけてくるのが、宮本だと思うんです。ただの「清きヒーロー」じゃないんですよね。

だから僕自身も、これまで生きてきた罪みたいな部分をこの役に投影しなくちゃいけなかったんです。それこそ宮本が自分を傷つけた相手を倒すことで自己肯定できたように、生きることって、絶対なにかを殺したり傷つけたりすることでもあるし、僕にも、無意識で誰かを傷つけてきた罪がある。でもその一方では、明日からを生きていかなきゃいけない――そういう人間としての複雑さを、この宮本という男を通して表現できた気もしているんです。

―正義や正しさみたいなものを定義づけるための話ではないし、むしろ、逆説的に正義や正しさの刷り込みが人間を窮屈にしているいまの時代を浮き彫りにしていく話でもあって。

池松:誰が愛することを定義づけられたか、誰が正義を定義づけられたかっていうことだと思うんですよ。どちらかというと、「誰かを傷つけようとも生きていかなくちゃいけない」って腹を決めている人間たちの切実な生き様の話だと思うんです。

―ここに出てくる人たちは、どんなに傷つこうと「自分は弱者だ」と思っていないですよね。そこがすごい。

池松:本当にその通りなんですよね。たとえば宮本が靖子と同じレベルで叫ぶことって、かなり難しいと思うんですよ。なぜなら、女性であるからこそ、靖子は死ぬこと以外で一番傷つく状況を経験したから。それを宮本は本当の意味で理解することは一生できない。だからもう、宮本は靖子と同じ叫びなんて上げられないわけですよ。

だけど、宮本が抱える「男だったら逃げちゃいけない」みたいな状況を作ったのも、靖子を傷つけた男側の思考なんですよ。20年以上も前の作品でありながら、まさにいまの「尊重なき世の中」の縮図みたいなものが詰まっていて。弱者がかわいそうとかじゃない、人が強く生きるとはどういうことか、そのこと自体を問う映画にはなったと思います。

―人を傷つけていることもちゃんと自覚して誠実に生きようとするほどしんどくなっていく人を表したり、正論の外に弾き出された人の窮屈さを掬い上げたりするのがご自身の生き様そのものと重なっていたり。池松さんはそういう表現をされている方なんだと思いました。

池松:ありがとうございます。そういっていただけると俳優冥利に尽きます。それに、同時代性にプラスアルファして、これからはさらに未来に残す価値のある映画を選んでいかなきゃいけないような気もするんですよね。俳優としては当然、それ以上に、映画作りに関わる人間の意識としても。それは難しいことでもあるし、自分でもまだ答えは出ていないんですけど。でも一旦、いまの人間が抑え込んでいる喜怒哀楽や、自我に対する意識の究極形みたいなものを作れたんじゃないかと思っています。

『宮本から君へ』主題歌の宮本浩次&横山健“Do you remember?”

作品情報
『宮本から君へ』

2019年9月27日(金)新宿バルト9ほか全国ロードショー

監督:真利子哲也
脚本:真利子哲也、港岳彦
原作:新井英樹『宮本から君へ』(百万年書房/太田出版刊)
主題歌:宮本浩次&横山健“Do you remember?”
出演:
池松壮亮
蒼井優
井浦新
一ノ瀬ワタル
柄本時生
星田英利
古舘寛治
ピエール瀧
佐藤二朗
松山ケンイチ
配給:スターサンズ、KADOKAWA
©2019「宮本から君へ」製作委員会

プロフィール
池松壮亮 (いけまつ そうすけ)

1990年7月9日生。福岡県出身。A型。2003年『ラストサムライ』で映画デビュー。2017年『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』(石井裕也監督)に出演し、『第9回TAMA映画祭』で「最優秀作品賞」、『第39回ヨコハマ映画賞』にて「主演男優賞」を獲得。2018年にはドラマ『宮本から君へ』で主演を務め、2019年9月に映画『宮本から君へ』が公開。また出演した『カツベン!』(周防正行監督)が12月に公開を控えている。



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