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この宇宙には無数の分岐した世界があるとして、そのパラレルワールドにいる自分はどんな人間だろう? 「もしも、あのとき」と考えたり、いまの自らをどうしても許せなかったり……並行世界で生きる自分に思いを馳せたことがある人も多いのではないだろうか。
韓国映画『あの時、愛を伝えられなかった僕の、3つの“もしも”の世界。』は、まさに主人公がその想像を、想いびとに話すところから始まる。両親は不仲で、同級生からはいじめられ、鬱々とした日々を過ごす主人公は、友達の男の子に恋をする。そんななかである事件が起き、気持ちを伝えられないまま離れ離れに。後悔を抱えたままの主人公を中心に、劇中では3つの分岐世界が描かれる。
「彼は僕の宇宙の全てに存在する」「怒ったって叫んだっていい そうやって生きろ」——。ときに小説を朗読するように、ときには登場人物が叫ぶように、紡がれる詩的な言葉が印象的な本作。今回はその言葉たちを通して、ゲイ / クィアカルチャーを中心に執筆する木津毅に、物語を紐解いてもらった。
あらすじ:1995年、テグ。不仲な両親や学校でいじめられる日々に鬱憤を募らせていたドンジュンは、カリスマ性溢れる男友達のカンヒャンに恋をした。しかし、彼との穏やかな日常は思いがけない事件で終わりを迎え、カンヒャンはテグを去ってしまう。想いを言葉にできず、後悔を抱えたまま大人になったドンジュンは、不幸で惨めだと感じる人生を消化しながら、ふと思う——「もしあのとき、別の選択をしていれば……?」。テグで高校教師になる運命、ソウルで大学教授になる運命、プサンで父親になる運命。3つの異なる2020年秋を生きるドンジュンは、足りない何かを探し続け、やがて本当の自分を見つけて行く。
別の世界の自分になれたなら……。「もしも」の世界から、自己受容を探求する
「僕は別の宇宙の僕になりたい」-
「どうして?」
「ウンザリだ 今の自分が大嫌いなんだよ」
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韓国映画『あの時、愛を伝えられなかった僕の、3つの“もしも”の世界。』の冒頭のパートで、主人公のドンジュン(ホン・サビン)は友人のカンヒャン(シン・ジュヒョブ)にそんなことを打ち明ける。これはそのまま、本作の基本的な設定と主題を提示する会話だ。「いま、ここ」に存在するのではなく、別の世界の自分になれたのなら——。悩み多き10代のさなかで、そんなことを夢想した経験があるひとは少なくないだろう。
ドンジュンもそうだ。1995年のテグで、周囲に溶けこめずに窮屈な思いをして過ごしている高校生の彼は、大人びた同級生カンヒャンに淡い恋心を抱きながらも、その想いを告げることができない。代わりに、自分だけの密かな想像をそっと伝える。「別の宇宙の自分になりたい」という願望はつまり、現在の自分自身に対する否定である。
ドンジュンとカンヒャンは日常のなかで親密な関係性をゆっくりと築いていくが、ある事件をきっかけとしてふたりは離ればなれになってしまう。そうして生まれた「彼に想いを伝えることができていたなら」という後悔や、「もっと強い自分でいられたなら」という歯がゆさから、ドンジュンの空想が発展していく。
ドンジュンとカンヒャン ⓒ Lewis Pictures All Rights Reserved
時は過ぎて2020年。40代になったドンジュン(シム・ヒソブ)は、3つに分裂した「宇宙」で別々の人生を生きている。テグ、ソウル、プサン。どこで生きる彼ならば、自分自身を肯定できているのだろうか? そう、本作は、パラレルワールドという「もしも」の世界を通して、自己をどのように受容するかを探求する物語なのだ。
大人になった主人公が生きる、3つのパラレルワールド——テグ、ソウル、プサン
同性に恋心を抱いている10代のドンジュンは、自身の性的なアイデンティティを誰にも開示することができていない。そのことから本作はまず、クィアにおける自己受容を巡る作品だととらえることができる。
近年の欧米のティーンドラマではみずからの性的アイデンティティをオープンにしている10代のクィアのキャラクターも珍しくなくなってきているが、本作の時代設定は1990年代の韓国。しかも保守的だとされるテグの町ではカミングアウトなど考えられないことだろう。誰にも本当の自分を表現できないドンジュンは、自分を否定し、どんどん内に籠っていってしまう。いまも昔も、ティーンエイジャーのクィアが抱える悩みである。
では、大人になったドンジュンはどうだろうか。はじめに提示されるのはテグに残り、高校教師になった世界だ。ドンジュンはインターネットで相手を探したりゲイバーに行ったりしているようだが、性的なアイデンティティをオープンにはしていない。クィアの友人もいなさそうだ。10代のときから前向きな変化がほとんど起きていないのである。だが、あるとき教え子のユン・ジュホとゲイバーで出会った彼は、次第に自身のセクシュアリティと向き合うことになる。
大人になったドンジュン(シム・ヒソブ) ⓒ Lewis Pictures All Rights Reserved
ふたつ目は、ソウルで大学教授となっている世界だ。ここでも他者に心を開いていないドンジュンは孤独な日々を送っているが、授業の生徒でありシングルファーザーのパク・スンイルとの出会いをきっかけとして、家族との関係をやり直そうとする。
このパートで明らかになるのは、ドンヒョンが自分を肯定できないのは抑圧的な父親によるところが大きいのではないかということだ。父は息子がゲイであることに気づいているが、そのことを人前で平然と否定する。そんななかでドンヒョンはようやく、父親に刃向かうことになる。
そして最後は、プサンで父親になっている世界だ。女性と息子をもうけたが離婚したドンヒョンは、過去からも故郷からも逃げるようにしてひっそりと生きている。だが、事件に巻きこまれて刑務所に収監されている息子と向き合うことで、母親との大切な記憶を蘇らせ、自身をずっと抑圧してきたものとついに対峙しようとする。
「別の自分になりたい」と願ったことで生まれたドンヒョンの3つのパラレルワールド。たしかに環境や状況はそれぞれで異なるが、しかしながら、そのじつ本質的にはあまり代わり映えしないように見受けられる。どの世界でもドンヒョンは孤独を抱えており、たとえばゲイとしての人生を思いきり謳歌するようなあり方はまったく実現していない。そして、いずれのドンヒョンにとっても、姉と姪を中心とする家族との絆を結び直すことが課題として立ちあがってくる。
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「ゲイであること」は決して否定されるものではない。韓国社会のクィアと家父長制
ここで重要なのは、どの世界のドンヒョンも——息子がいるプサンでも——ゲイであることには変わりない、ということだ。10代のゲイないしはクィアはセクシュアリティ受容の困難から、しばしば「同性愛者でなければよかったのに」という考えを持ってしまう。劇中では描かれていないが、ドンヒョンもそうした発想に至ったこともあったかもしれない。
けれども、どの「宇宙」においても、ドンヒョンは自身のセクシュアリティを隠すことはできても「なかったこと」にはできないし、最終的には自身のアイデンティティと向き合わなければならないのだ。それはある意味、本作では「ゲイであること」はけっして否定されるものではないと明示されているとも取れる。この作品が2021年の『ソウル国際プライド映画祭』のオープニングで上映されたのは、非常に意義あることなのだ。
つまり本作は、パラレルワールドという設定を使いながら、「本当の自分自身からは逃れられない」ということを描いていると言える。「あのとき、こうしていれば」「もし自分がこうだったならば」という空想はいっときの逃避にはなるかもしれない。だが人生には、大切なことと直面せねばならないときが必ず訪れる——そんな主張が本作からは感じられるのだ。
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そんなふうに自己の肯定と否定の狭間で揺れるドンジュンの背景にあるのが家族、とりわけ両親の存在だ。父親は先述したようにドンヒョンのセクシュアリティを抑圧する存在であるし、母親に対してもつらく当たってきたことが断片的なエピソードからうかがえる。
きわめて権威的、家父長的なキャラクターだが、本作に個人的な体験を含んだというペク・スンビン監督によれば、必ずしも自分の父親を直接的にモデルにした人物像ではないそうだ。それよりはむしろ、テグで暮らした10代のときに感じていた、男性性や家父長制による息苦しさを投影したものだという。
一方、病気で倒れた母親は優しく子どもたちに接し、どのように生きてほしいかドンジュンに告げる——「私の愛しい子ども達 勇気を持って生きて」。あるいは「全てわかってる いつもあなたの味方よ」という言葉は、おそらくカミングアウトをせずとも息子のセクシュアリティに気づいており、そのうえで揺るぎない愛情を注ぐという宣言だろう。だから死んだ母との思い出が、大人になったドンジュンにとっても救いになるのだ。
このように本作では、韓国社会における強固な家父長制がドンジュンのような疎外感を抱く子どもにどのような影響を与えるかが暗示されており、彼の支えとなるのは母や姉をはじめとして、おもに女性たちである。
ただし、男女の表象が必ずしもわかりやすくステレオタイプで振り分けられているわけではない。自身がゲイであることを受容しようとしている教え子ジュホ、情が深い姉の夫ソンジン、幼い娘を男手ひとりで育てるスンイルといった、さまざまな男性たちとの交流がドンジュンにとって大切なものになる瞬間が描かれていることも気に留めておきたい。父親のような旧来的な男性性を振りかざす者だけでなく、多様な男性と関わることがクィアにとって必要だと示されているようにも感じられる。
たどり着くのは、シンプルで力強いメッセージ。逃避的な空想も必要だった
しかしながら、ドンジュンにとってもっとも大きな精神的支柱になるのは、何といってもカンヒャンの存在だ。彼はもちろん初恋の相手なのだが、冒頭のエピソードで「彼は僕がなりたかった人だった」と振り返られるように、10代にして堂々としているカンヒャンはドンジュンにとって純粋な憧れの対象でもある。そう考えると、「別の自分になりたい」という空想は、少しでもカンヒャンに近づきたいというもどかしさの表われだったのかもしれない。
カンヒャン ⓒ Lewis Pictures All Rights Reserved
だが終盤の回想シーンで、カンヒャンはドンジュンに対して「ありのままの自分自身でいい」とすでに伝えていたことがわかる。
泣いていいよ-
辛かったり悲しかったり 退屈した時に――
俺の背中に吐き出して泣けよ
怒ったって叫んだっていい そうやって生きろ
それで死んだりしない
別の宇宙の君になる必要はなくなるよ
この宇宙の君が好きになる
言いたいこと分かる?
本作でももっともエモーショナルなこのシーンで、パラレルワールドなんて必要ないと、絶対的な存在が告げるのだ。そうではなくて、「いま、ここ」にいる自分を愛することが大切なのだと。
ただし、本作はそこに至るまでの逃避的な空想を否定していないように私には感じられる。いや、それどころか、そのような自己受容に至るまでに必要な過程であると表明しているようにすら思うのである。
ドンジュンのような周囲に馴染めないクィアの子どもであればなおさら、自分自身をそのまま受け入れるには時間がかかるだろう。自己否定感を引きずった大人になることだってある。だからこそ、別の世界の自分を夢見ることでひとは内省するのだ。そうした繊細さや弱さを、本作は決して否定していない。
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大人になって作家となったカンヒャンが書いたパラレルワールドをモチーフとした小説のタイトルは、『すべての“もし”は痛みだ』。そのように他者の痛みに寄り添えるカンヒャンのあり方に、ドンジュンは励まされ、憧れ続けたのだろう。
そして、そのような葛藤を経ているからこそ、ドンジュンの自己受容はじっくりと揺るぎないものになっていく。どの世界、どの宇宙においても彼のセクシュアリティは変わらないし、大切なひとを想う気持ちも変わらない。そうした事実を認めることで彼は、「どんな選択をしたとしても、その瞬間瞬間を生き抜くことが大切なのだ」というきわめてシンプルで力強い確信にたどり着くのだ。
彼は僕の宇宙の全てに存在する-
彼が僕の宇宙だった
そんなロマンティックな言葉が余韻となる本作は、だから、自分自身も大切なひとも、かけがけのないたったひとつの存在であると、観る者にまっすぐ伝えている。
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- 作品情報
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『あの時、愛を伝えられなかった僕の、3つの"もしも”の世界。』
2025年10月31日(金)シネ・リーブル池袋他全国順次公開
監督・脚本・撮影:ペク・スンビン
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