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        <title>連載・コラム</title>
        <link>http://www.cinra.net/column/</link>
        <description>column</description>
        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2010</copyright>
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            <title>連載『音楽を、やめた人と続けた人』 〜PaperBagLunchbox 空白の5年とその後〜</title>
            <description><![CDATA[<p>元バンドマン（音楽をやめた人＝CINRA.NET編集長）が、同じ時期にデビューをし、その才能と注目度に嫉妬していたバンド「PaperBagLunchbox」。音楽をやめた編集長がWEBメディアに心血をそそいでいた5年間、作品もリリースせず、しかし解散をすることもなく、ただ淡々とライブ活動を続けているPaperBagLunchbox。やめた人が今、続けている人をどのような眼差しでみつめるのか。</p><br>

<p>PaperBagLunchbox（ペーパーバックランチボックス）<br>
2001年、大阪で結成。2006年、ファースト・アルバム『ベッドフォンタウン』をリリース。結成当時から変わることのない、Dr.伊藤愛とBa.倉地悠介のグルーヴィーで非凡なリズムとVo.ナカノヨウスケの聴く者を独自の世界へと惹き込む歌、そして、それを包み込むKey.恒松遙生の音世界。この４人から放たれる音は、多くのオーディエンスの共感を導き出す。膨大なセッションとライブの中で紡がれた楽曲を凝縮したニューアルバムを来年初頭にリリース予定。<br>
<a href="http://www.pbl.jp/ " target="_blank">PaperBagLunchbox<br>
<a href="http://twitter.com/PBLofficial" target="_blank">PaperBagLunchbox (PBLofficial) on Twitter</a></p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">pickup</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">柏井万作</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載『音楽を、やめた人と続けた人』</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載目次ページ</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 01 Sep 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>CINRA MAIL MAGAZINE連載コラム『全裸』2010年7月配信分（vol.281〜284）</title>
            <description><![CDATA[
<ul class="titleList">
<li>vol.281　岡田、國母、パク、長谷部(2010/7/5)</li>
</ul>

<p class="entryRIMG"><img alt="全裸" src="http://www.cinra.net/mail_mag/img/10/07/zenra281.jpg" width="220"  /></p>

<p>負けて、朝起きたら、感動をありがとう、と繰り返している。さて、代表の皆は我々なんぞに感動を差し上げる為にやっていたんだろうか。敗戦直後、これからの日本サッカー界について問われた監督は、「今ちょっと、日本のサッカー界まで考える余裕ないです」と答えた。これはすばらしい返答だなあと思った。観ている側の方が、これからの日本サッカー界について考え込んでいたのだ。当人たちは、与えた感動とかこれからの将来なんてどうだって良かった。その供給源となる為にサッカーをやるのが一義ではないからだ。</p><br>

<p>4年前にグランドに倒れ込んでサッカーから別れを告げた立役者は、自分探しの旅に出るとか何とか言って、世界を巡った挙句、4年後、オシャレスーツを着込んでサッカー解説者として戻ってきた。4年間世界を巡って身につけたのは、その広告代理店臭だったのか。</p><br>

<p>いや、駒野は悪くない、と皆が言った。「いや」という反語を使う以上、駒野が悪い、と言った大勢を見つけた後のはずだが、それはどこにいたのか。「駒野が悪い」はどこにも無かったのではないか。ならば、「いや、駒野は悪くない」の合唱がピッチの外から噴出する様は、とても心地悪いことだ。ピッチの中が「俺が蹴っても外していたよ」と慰めていたのに、ピッチの外は、「悪くない」と善悪の査定を急ぎ、善とすることで物知り顔を散らしていた。</p><br>

<p>どうしてそんなに物語を区画整理したがるのだろうか。試合に出られなかったベテラン選手を捕まえて、精神的支柱となってベンチも一体となっていたとし、控えに甘んじたかつての司令塔は言葉少なだったと本人の悔しさを勝手に誘発する。監督は大のマスコミ嫌いで知られている。いつもしかめっ面で淡々とコメントするのは、事前に用意された物語に吸収されるのが嫌いだからであろう。その監督が帰国会見で破顔して、モノマネと歌を選手にふった。その2人は両方共控え選手だった。しかもそれを「俊輔がやれと言っていた」とボソッと呟いてからふる辺りに、この監督の復讐心が潜んでいた気がする。</p><br>

<p>みんな、ちゃんと、國母選手のことを覚えているだろうか。僕は覚えている。いや、正確に言えば、ハーフタイムの間に思い出していた。ある日突然、国という主語を持たされて、シャツを出してズボンを下げただけで非国民扱いされた彼。4年間スノーボードをやってきた末に手にした切符を、数週間前から急ピッチで育ませた愛国心に潰されそうになった。ところで、日本を代表していたあの体操選手が選挙に出るようだ。恐ろしいことに、彼は、演説活動の一環として公衆の面前で逆立ちを披露しているのだという。トホホ、という言葉が似合う。僕らが制止しなければならないのは、明らかにこちらである。</p><br>

<p>空港に帰国した日本代表の映像と、自殺したパク・ヨンハが最盛期に日本に降り立った映像が、驚くほど似ていた。柵から身を乗り出して手を振る。その熱狂を予想していていなかった当人は、やや困惑しながらも受け答えてみせる。スクランブル交差点で大騒ぎした連中は、負けたのに、また騒いでいた。どこまでも浅はかである。勝っても負けても騒ぐのだから、これがサッカーでも野球でも、スポーツでも政治でも、変わらんのだろう。そんなことは知っていたが、やっぱりそうなのかと知らされると、失笑しか対応策が無い。よほど、パク・ヨンハの自殺を聞いて「ちゃんと」韓国まで駆けつけたオバ様たちのほうが、一貫性があった。海外リーグに所属するゲームキャプテンの長谷部はわざわざ「Jリーグを観に来てください」と言い残した。インスタント沸騰中の皆を冷静に問う発言だったに違いない。「同情するなら金をくれ」ではないが、「感動するならとりあえず観に行け」という、痛烈な皮肉に聞こえたのだ。</p>


<p>=====</p>

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<div class="columnBodyTxtBox">

<ul class="titleList">
<li>vol.282　ゆくゆくは用務員(2010/7/12)</li>
</ul>

<p class="entryRIMG"><img alt="全裸" src="http://www.cinra.net/mail_mag/img/10/07/zenra282.jpg" width="220"  /></p>

<p>ある清純派女優が、渋谷のホテルから出てきた所をキャッチされ、路上でチューする瞬間を週刊誌におさえられてしまった。こういうことは、少なからず起きる。その度に、清純派なんて言ってっけど、結局やることやってんじゃないかという失望が辺りに溢れる。でも実は、「そうは言っても清純派ではないんでしょ」というのは、常に前もって用意されている深読みである。清純とはそもそも不純、要するに不純だと知っているのだ。だから、世は一時期、天然系を大いに許容し、逃げ込んだ。清純がブランディングされる不純を、天然へ逸れる事で愛でる対象を更新したのだった。しかし、天然は模倣が容易だった。次々と天然が生まれた。そして、天然で居続けることを諦めて食いぶちを失った添加物が、天然なんて天然じゃないと、元も子もないことを言い捨てた。</p><br>

<p>ホテルから出て、熱烈なキスをするその清純派女優は、その意味において、天然の終焉と清純の勃興を写すような貴重な存在だった。だから、世は、定期的におとずれる熱愛の激写に増して、強いショックを受けた。ふと、思い出した。渋谷で職務質問を受けた夫のもとからダッシュで逃げたノリピー。彼女にも、清純派、という称号が付きまとっていた。まさかあの清純派アイドルが、と、その時点では既に使っていなかった古びた称号を再活用し糾弾の可燃材にした。それは「少しだけ」気の毒だった。清純は、いつまでもこびりつくのだとそこで知った。「清純そうな感じなのに」と、他人が言う。「私は清純です」と本人は言わない。本人は言わないのに、誰かの「感じ」がずっと粘着するのだ。それが清純。そう決められた側にとっては、たいそううざったいだろう。</p><br>

<p>10年振りに会った友人とじっくり話した。5年ほど前に5歳年下の女性と結婚したという。中学時代、彼は、エロの先鋒だった。何でも知っていた。進んでいた。色々持っていたし、それを周辺にまんべんなく与えてくれた。そのころ、彼は真顔で、「女子高生が一番良いに決まってるから、俺は年寄りになったら高校の用務員になって女子高生と一緒に過ごすんだ」と言っていた。字面を追うだけだと、いわゆるロリコン癖なのかと危ぶむかもしれないが、その頃それを話す彼の姿はとても純真で、聞くこちらは、うんうんほんとうにそうであってほしいとその都度思わされていた。そのことを、彼の顔を見た途端に思い出した。薬指に光るモノがあったので問うと、20代初めに、10代の女性と結婚したんだと呟いた。鬼嫁で、こうして1人で出かけるといつ帰ってくるのかとウルサいんだよねと頭を掻く彼をじっと見ていた。</p><br>

<p>清純派女優がホテルから男と出てきて路上でチューをした。ああ、これで彼女の芸能生活は終わりだという声すら聞こえてくる。しかし、そうなんだろうか。清純だと思っていたが実は清純ではなかったという衝撃は、実は、彼女自身に振りかかるわけではない。こちら側の、とある願望が崩れただけで、当人が砕け散る案件ではない。かもしれない、とか、こうであってほしい、というのは、勝手に投げつけた設定にすぎない。にも関わらず、それが壊れると、何でそうなのと、裏切りの眼差しを向ける。しかし、当事者にしてみれば、それはちょっとおかしいということになる。20代前半で10代の女性と結婚した彼に、10年振りに、「それでもまだ、ゆくゆくは用務員を？」と聞くと、当たり前だよという顔をした。使い方を間違えるが、これはピュアだ、とっても。</p><br>

<p>清純派女優は、清純ではないという裏の前提を同時に背負っている。それって不純だ。そりゃあ病むだろう。となると、清純とは、不純なスタートが最終的に浄化された瞬間にしか現れないのではないか。つまり、彼が、「いつまでも女子高生と一緒に過ごすんだ」と言っていた不純が、ここにきてようやく磨き上げられたように思えて、んで、それって清純、と、思ってみたのである。彼はずっとニヤニヤ笑っていた。</p>


<p>=====</p>

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<div class="columnBodyTxtBox">

<ul class="titleList">
<li>vol.283　本来こうあるべきでない態度と状態とランク(2010/7/20)</li>
</ul>

<p class="entryRIMG"><img alt="全裸" src="http://www.cinra.net/mail_mag/img/10/07/zenra283.jpg" width="220"  /></p>

<p>昼、とある国営放送の執拗な取り立てがいらっしゃる。名も名乗らず、ところで地デジにしてますかとドア越しに言われたので、いやまだですよと答えると、それはこの家にテレビがあると家主から宣言させる手段だったようで、ところで受信料のお支払いがまだのようなのですがと大声を張り上げてくる。あらいやだお下品だこと。開けてくれませんかとオウムのように繰り返すので、致し方なく開けると既に記入用紙の準備が整っている。この強権発動のスムーズさに閉口したワタクシ、今取り込んでるんで、という魔法の一言を放り投げて退散を促す。それでは今日はいつならば大丈夫なんですかと凄むので、その時になってみないと分かりませんが夕方でしたら比較的大丈夫だとは思ってはおりますが、と含みをあちこちに持たせた返答をする。勿論、夕方にちゃんとやってきた。はとバスの 60年に渡る歴史を振り返る新書をあと数頁で読み終わろうとする「取り込み中」であったために、取り込んでましてと正確な返答をすると、また夜来ますのでよろしくお願いします、と大声を張り上げて帰って行った。その夜は、居酒屋で、在庫を切らすほどの枝豆を食べ尽くした。かなり取り込んでいた。</p><br>

<p>朝、マクドナルドへ行くと、夜の仕事帰りの女性が、いくつかの席を占領してうつ伏せで寝ている。スカートがめくれて、ストッキングの下のパンツが見事に出ている。彼女の隣の席に座った。通りかかる男たちが、汚いものを見る目でパンツを凝視していく。皆、同じ反応だ。汚いものを見る目。ただし、凝視。珍しいものが珍しくない形で置かれていると人はこういう反応をするのか。エロスが本人の意思を介さずに積極的に公開されていても、受容側は納得がいかないのか。店内清掃をする若い女性がテーブルを拭き、椅子の位置を直している。その、明らかなるパンツの公開をどうするのか。彼女はうつ伏せの女性のテーブルを拭いた。そして、汚いものを見る目で凝視した。次のテーブルへと移った。男たちと同じ反応だった。ところで、ここでこの様子を写真に撮ったら自分は逮捕されるのだろうかと、ふと思った。盗撮というのは、盗み撮るから犯罪なのであって、公開されているものを撮る場合、どうなのだろうかと。本人の意思の無い中ではやはり盗撮なのか。では、この公開されたパンツは、誰の意思なのか。何となしに置き去りパンツと名付けたが、誰にも歓迎されないパンツもあるのだなと、初めて知った。ジェンダー論の新機軸となるのではないか、置き去りパンツ。ならないけど。</p><br>

<p>夜、ルノアールで、女性が男性に相談を持ちかけている。自分に自信が持てないのだと言う。そんなことを大声で話す自信が僕にはないのだが、とにかく、彼氏に欠点を見つけては何とか自信の無い自分と吊り合わせているのだという。それが辛いという。前の彼氏は、とてもかっこ良くて性格も良いし申し分無かった。でも、学歴が気になった。中高と優秀な進学校に進んだ。その学校を卒業すると6大学レベルに進学するのが当然なんだけど、彼はそれよりもう1ランク下の大学だったの。それがどうしても引っかかって別れたの。男性は返した。完璧な男なんていないんだよ。そこから男性による人生哲学が続く。女性は、メモをとるといって手帳を開いた。「1ランク下の大学に通っていたことが付き合いを諦める争点になり得る」という男女間の共有に驚きを隠せぬまま、2ランク下の大学に通っていた自分はそそくさと店を後にした。家に帰って、地デジ化されていないテレビでNHKスペシャルの再放送を見た。</p>


<p>=====</p>

<!-- /entryLImgBox --></div>

<div class="columnBodyTxtBox">

<ul class="titleList">
<li>vol.284　思わせぶりのトホホたち(2010/7/26)</li>
</ul>

<p class="entryRIMG"><img alt="全裸" src="http://www.cinra.net/mail_mag/img/10/07/zenra284.jpg" width="220"  /></p>

<p>赤ちゃんが乗っています、と貼ってある車を見かける度に、「んで？　何？」という返答は許されないものだろうかと思ってしまうのである。僕には赤ちゃんがいないので、赤ちゃんが乗っています、という状況がどれだけ大変なものなのかが分からない。大変さが分からない以上、頭の中には、もしかしたらそんなに大変じゃないんじゃないの、という思いが同時によぎる。おそらく大変なのだろうということくらいはさすがに分かっているが、ならば、どうしたら宜しいかと、その対応策をいただきたくなる。乗っています、とだけ宣言があって、こちらの身の振り方に対する指示は無い。どうしたらよいのだろうか。おおもむろに赤ちゃんが後ろ窓に見えるように顔を出した時、即座にオモシロ顔を出せるようにしておけばよいのだろうか。</p><br>

<p>インディーズ映画祭へ行ったら、それ相応の審査を経てきたとは思えない作品にブチ当たってしまい、半日間、偏頭痛に付き合わされることとなった。都会と田舎、大人と子供、生と死を複雑に絡み合わせましたと言いたげな、自信満々の作り。でも、それぞれの対比も、或いは連帯も見えてこない。あらゆる接着が欠け、何となく鋭利な雰囲気を精一杯誇張して象り悲劇的に落とし込んでいくのだが、それでいて、この重いメッセージをどう受け止めますか、と前のめりに主張してくる作者のホロ酔い状態を浴びまくって、「何じゃい、この、事の軽さは」と、安売りの悲劇を偏頭痛の中で考え込む。</p><br>

<p>数ヶ月前だったか、ツィッターとかいうのに、ちょいとワタクシに物申した気なコメントが書き込まれているのを見た。物申したいのだが、誰かの賛同を待っているようだった。「じゃない？」的な。そこへ賛同があれば、でしょでしょ、本当にアレはさ、と、そこで初めて動けるのだろうか。動けるというかお家の庭で呟けるようになるだけだから、こちとら無傷なのでワンパク全開でまたまたご迷惑をおかけしてしまうのかもしれないけれど、何だかその、徒競走はお手てを繋いで皆でゴールしましょう教育が実生活に滲んでいらっしゃるようで、お気の毒様である。他者からの賛同を待って肩を組んでエイヤーと攻撃してみるのって、かつての不良漫画にあった、喧嘩に負けた後のチンピラが「この野郎、ただじゃおかねえからなぁ」と何故か強気で立ち去って行くアレと同じ位酷い闘争精神でして、思わせぶりな思いつき発言（あぁ、この浅はかな二重構造）が低次元で炸裂していらっしゃる。メールでご連絡くださいよ、という話。丁寧にお答えしますし、場合によっては謝りますし。今はこういう風に考えているんですよねと、その都度の変化を申し上げますし。</p><br>

<p>赤ちゃんが乗ってますプレートも、あのインディーズ映画も、呟きも、おんなじ顔つきに見える。どれも結局、人様の賛同を待って初めて物事が伝わるような仕組みになっている。どうしたものか。直接物申せない人頼みの思わせぶりを、なんでこんなに嬉々として認め合うんだろうか。偏頭痛がまたもやちょっと再発なう。</p>


<p>=====</p>]]></description>
            <link>http://www.cinra.net/column/zenra1007.php</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">CINRAメルマガコラム『全裸』</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">武田砂鉄</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 24 Aug 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>CINRA MAIL MAGAZINE連載コラム『全裸』</title>
            <description><![CDATA[<p>考える必要のないことと考えなくてはならないことの境目なんて分かってますよ、っていう顔をされると、分かってないなぁこいつ、と思う。喜怒哀楽のどれも、分かりきってないからこそグラつくのであって、毎週毎週、脈略の無い飛びっぷり。が、しかし、その飛びっぷりは一貫しているので、週刊メルマガをアーカイブ化してもらっております。</p><br>

<p>※この連載はCINRAのメールマガジンに掲載されているコラムのバックナンバーになります。最新号はCINRAのメールマガジンからご覧ください。</p>

<p><a href="http://www.cinra.net/mailmagazine/">メールマガジン登録：CINRA.NET</a></p>]]></description>
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            <pubDate>Tue, 24 Aug 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>夏のおすすめアート鑑賞『ポーラ美術館コレクション展　印象派とエコール・ド・パリ』</title>
            <description><![CDATA[<div class="titleListBox">
<ul class="titleList">
<li><a href="http://www.cinra.net/column/polareport/01.php">『ポーラ美術館コレクション展　印象派とエコール・ド・パリ』</a> <span><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/polareport/01.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/polareport/01.php"></a></span></li>
</ul>
</div>


<div class="readTxtBox">
  <p align="left"> <p align="left">モネ、ピカソ、ルノワール、モディリアーニ…日本人に大人気の印象派やエコール・ド・パリの名作が箱根から横浜にやってきています。箱根・仙石原のポーラ美術館にある門外不出のピカソ青の時代の傑作や、モネの睡蓮など、国内屈指のフランス近代美術コレクションを横浜美術館で観ることができる貴重な機会。街中の暑さから逃れ、涼しい美術館の中で展覧会をもっと楽しむための５つのポイントを紹介します。  </p>
<!-- /readTxtBox --></div>]]></description>
            <link>http://www.cinra.net/column/pola-report.php</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">山岸かおる</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 06 Aug 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>CINRA MAIL MAGAZINE連載コラム『全裸』2010年6月配信分（vol.277〜280）</title>
            <description><![CDATA[
<ul class="titleList">
<li>vol.277　最低でも県外　〜駅構内ver.〜(2010/6/7)</li>
</ul>

<p class="entryRIMG"><img alt="全裸" src="http://www.cinra.net/mail_mag/img/10/06/zenra277.jpg" width="220"  /></p>

<p>電車を待っている。そこに、落ちたての鳩の糞を発見する。駅構内を旋回する鳩のいくらかが見える。整列乗車の時間ではないけれど、停車位置の枠線内に並んでおきたい。その停車位置の先頭付近に、落ちたての糞があったのだ。この時、どうするべきか。2択だ。その糞が落ちた付近を避ける。或いは、敢えてその糞が落ちた所をまたぐように立つ。その日の僕は、後者を選んだ。後ろのベンチから見ていた老人がいたとすれば、おお果敢なチャレンジをしたもんだと最近の若者を見直しただろうし、妙齢の女性がいれば、あわよくば抱かれても構わないくらいの男気を感じたことだろう。しかし、心の内は違っていた。統計の問題を解いていた。つまり、鳩の糞は、次どこに落ちるのだろうかと考えた場合、今そこに落ちた糞に更なる糞をかぶせてくる可能性はほぼ皆無なのではないかと、解いたのだ。うわ、落ちたての糞があるわと一歩二歩下がる。しかし、そこにこそ、次の糞は降ってくるのではないか。街中の、鳩の糞だらけの一角を思い起こす。糞は、点画のようにあちこちに降り散らかされていた。ここに一つの糞があるのならば、次は、ここではないどこかへ（C：TAKURO）である。さて、どこなのか。</p><br>

<p>乾かぬ糞をまたいで電車を待った。急行が通過するので危ないと思い、一歩後退して通過を待った。その間、天井付近を見上げていた。次の糞がここに降るかもしれないからだ。急行が過ぎ去る。安心して一歩前へ、再度糞をまたぐ。今にも、次を出しますよ、というテンションで鳩が旋回している。ハンカチ落としかロシアンルーレットか、とにかく俺ではないよなという闇雲な自信を脳内で育てながら、次なる糞の放射を待つ。誰も、乾かぬ糞の周りに寄って来ない。いつもなら、2列×3人くらいの待ち人がいるはず。しかし、今日は、乾かぬ糞と、またぐ自分がいるだけだ。誰も俺について来られないのか、と、気が大きくなるばかり。むしろ糞はここには落ちないのだ、だから安心して来れば良いのにと、余裕しゃくしゃく、ほくそ笑む。</p><br>

<p>うちの兄が小学校への登校時、外へ出て靴ひもを結ぼうと屈んだ所、そこにポタンと鳩の糞が落ちてきた。頭に落ちてきた。しかし、兄は帽子を被っていた。その帽子は昨日買ったばかりの、その日から被っていく帽子だった。だから多分あの時、兄は泣いたのだと思う。折角買ったばかりの帽子がぁ、と。しかし、今になって思う。その帽子がなければ兄は鳩の糞まみれだった。帽子は、紫外線をどうのとか、何かから守ってくれるものらしいのだけれども、実はそんなに守ってくれていない。それを皆、知っている。だから、ファッションの要素に甘んじてしまうのだ。その点、この帽子は兄を守った。初日の殉職でも、それは帽子としての生き様を全うしたのだ。帽子をズラして被るラッパーの類いを見かけると、ああ、糞よ落ちろと思う。ズラしてしまったがゆえに顔の表面にかかった糞、という結論が、ファッショナブルな帽子にはよく似合う。</p><br>

<p>糞をまたいで遠き日の想い出を蘇らせていると、ようやっと電車がやってきた。結局、鳩は2発目を放たなかった。屋根とか線路とか、どこか別の所で放ったのかもしれない。つまり、流行りの言葉で言えば、「最低でも県外」を守ったのだ。県内は現状の負担に留めたのだ。糞のおかげで、その停車位置には並ぶ人がいなかった。車内に乗り込むと数席だけ開いている状態なのが常で、その数席を数名が狙っていく時間帯なのだが、この日は、数席を、自分で選り好みして選ぶことが出来た。ゆったりと座り、隣席のスポーツ紙を覗くと、今日にも鳩山辞任かと書かれていた。国民はもう、鳩山に理解を示さなくなっていた。僕はその日、鳩に理解を示していた。どうしょうもないオヤジギャグを心の内に留めて、泳いだ目をする鳩山の写真に目をやった。</p>


<p>=====</p>

<!-- /entryLImgBox --></div>

<div class="columnBodyTxtBox">

<ul class="titleList">
<li>vol.278　大丈夫っぷりったらもう(2010/6/15)</li>
</ul>

<p class="entryRIMG"><img alt="全裸" src="http://www.cinra.net/mail_mag/img/10/06/zenra278.jpg" width="220"  /></p>

<p>政治なんて誰がやっても変わらないと嘆かわしい顔で不満を漏らす光景ってのがある。テレ東の旅番組でさえも使ってくれなくなった人材をタレント議員として歓迎してくださる希有な再雇用システムを見させられれば、そう言い放ちたくなる気持ちも分からなくはないのだが、ただそれって、決して嘆かわしいことではないんじゃないか。誰がやっても変わらない、というのは、とてもハッピーなことだ。アソウでもハトヤマでもカンでも、こちらは変わらない。生活が平穏でも不穏でも、それをひっくり返してはくれない。逆に、ひっくり返そうと向かってくることも無い。それって、とても幸せなことではないのか。</p><br>

<p>沖縄基地問題でハトヤマが言い淀んでいるころ、街中のカップルから、怒りの声を聞いた。ハトヤマもさあ、沖縄に住んでから言えってんだよな。僕はもちろん、こう思った。沖縄に住んでから言え、なんて、沖縄に住んでから言え、と。その2人は彫りの深い顔とは遥か遠方に位置するお顔立ちをしていたから沖縄出身ということは無さそうだった。下北沢を歩くカップルにこう言わせてしまうこの国の政治は、とてもハッピーだ。つまり、政治は、物事の当事者ではないのだ。外的作用でも構わない立ち振る舞いをしている。そして、若人にまで、政治を何がしかに機能させるには、その現場に染みてからにせぇと言わせてしまう。むしろ、その若人にとっては、地元の隆盛の為に高速道路から新幹線まで引っ張ってきた旧来の政治のほうが親和性が高いかもしれない。視点が、俺らに何をしてくれるんだ、という奉仕待ちなのだ。</p><br>

<p>誰がやったって同じという嘆きは、物心ついたときから政治に注がれていた。物心ついて20年くらい経ったろうか、未だに政治に足首を掴まれてコケそうになったことはない。ふと、実生活に戻る。この人が休んだらヤバいという人が会社を長期間休んだとする。でも、大丈夫だ。大変だが、大丈夫だ。当人はその大丈夫っぷりに落胆するらしいが、大丈夫なのだ。この大丈夫っぷりって、とても強い。</p><br>

<p>モーニング娘。の新しいPVを観ていて、その大丈夫っぷりを感じていた。いろんな人が抜けて、いろんなライバルのアイドルに負かされて、もう顔と名前が一致しなくなっちゃったよと言われている彼女らだが、ちょっと考えれば、彼女らが、相当長い間、顔と名前が一致しなくなっちゃったよと言われていることに気付く。新曲のPVは、公園か広場か、とにかくだだっ広い場所に並べられたメンバーが笑顔で歌うだけのPVだ。途中、トランポリンでジャンプさせられている挟み込み部分が、何よりの低予算の証拠となっている。こんな言い方もなんだけれども、しかし、彼女たちは大丈夫そうなのだ。これから大丈夫かななんて思っているだろうけども、その上で彼女らは大丈夫そうなのだ。</p><br>

<p>物事が上昇していく時に、ある人材が劇的に作用することがある。今回はその話ではない。物事が下降していく時に、そこに誰がいて何をしても何だかんだで大丈夫であるという状態、これだ、これは、とっても力強いことだ。政治家を考える時、アイドルを考える時、大切な人を考える時、憎き人を考える時、下降線に用意される「それでも大丈夫」に、実は多くのことを支えてもらっているのではないか。下降線を愛でると対象が鮮明になる、そんなことが最近続いているのであった。</p>


<p>=====</p>

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<div class="columnBodyTxtBox">

<ul class="titleList">
<li>vol.279　ほ助金(2010/6/21)</li>
</ul>

<p class="entryRIMG"><img alt="全裸" src="http://www.cinra.net/mail_mag/img/10/06/zenra279.jpg" width="220"  /></p>

<p>子役が車のCMで、「減税、補助金も」と言っている。言わせている。言わせられている。彼が、晴れやかな笑顔でそう言い放つ度、反比例するように、何やら気持ちが曇る。例えば「お父さん、この車って、地球に優しいんだね」と言わせるほうが、まだ露骨で、こちらの苛立ちも明確になるのだが、弾けた笑顔の「減税、補助金も」には、向かい合えずに沈み込んでしまう。</p><br>

<p>確かこの子は8歳だ。だから今はたぶん、小学2年生か、3年生だ。文部科学省が規定する『小学校学習指導要領』に「学年別漢字配当表」がついていて、つまりこれが、その学年でどの漢字を習得させるかという一覧になる。意地が悪いが、「減税、補助金も」を調べてみた。「減」は小学5年生、「税」も小学5年生。「補」は小学6年生、「助」は小学3年生、「金」は小学1年生であった。となると、彼の年齢の世界では、「げんぜい、ほ助金も」となる。もはや、暗号を叫ばされている印象だ。彼はこれを言う時、これはどういう意味なのですか、と尋ねるのだろうか、それとも、その通り、ただ、字を追うだけなのだろうか。マネージャーが次の仕事の時間を気にしながら、とにかく意味なんてどうだっていいから覚えなさい、「はい、ほら、げんぜい、ほじょきんも、って。いやいや、ほじょうきんじゃないわよ、ほ・じょ・きん」。</p><br>

<p>知っていても面前では発しない言葉、というのが言葉の殆どだったりする。日常の会話って、そんなに豊富な言葉は揃わない。ようやく大人の仲間入りをしたのかなという昨今でありながら、いまだに「減税」「補助金」という言葉を公衆の面前で発したことがあるだろうかと問われればおそらくない。友だちに向かって、仕事相手の面々に向かって、「あれなんすよね、補助金出るらしいんすよね」と言ったことがあるか。無い。多分、補助金が出るとしても、それを伝える時には「あれなんすよね、何かちょっとした金が出るらしいんすよね」と言うだろう。「補助金」と言うよりもそう言ったほうが、話が伝わりやすいのだ。</p><br>

<p>8歳か9歳の時、毎日、小さな公園で野球を一緒にやっていた村田君はどうしてもウンチがしたくなって、ちょっと待ってと、ズボンをおろし、その場でウンチをしてしまった。液状ではなくて、コロコロしたウンチだったから、村田君は、そのウンチを足で蹴った。転がるウンチを見ながら、「ファーストゴロだね」とゲラゲラ笑った。すぐに野球に戻った。会社の家族寮に住んでいた村田君は、小学3年生のある日、大した挨拶も無く、隣県に引っ越していった。ものすごくさびしかった。公園を通りかかるたび、野球のことと、ウンチのことと、転がったウンチを見て笑いころげたことを思い出して、さびしさが倍増した。そのさびしさを親に隠したりした。</p><br>

<p>あの子役がどんなに人気があろうと、親の自慢であろうと、「げんぜい、ほ助金も」と笑顔振りまく以前に、やっておかなければならないことがあるんじゃないのか。車を買う予定なんてないんだけど、僕は絶対に彼のCMの会社の車は買うまいと心に決めている。あの子役が「補助金も」と言ってるからこそ、そこの車を買うという人がいる限り、彼は「補助金も」と言い続けるだろう。そのうち「減税、補助金で少しでも家計を助けましょう」と、主義主張を持ち込むことだってあるだろう。これを、僕らは、必死になって止めなきゃいけない。だって、補助金よりも、公園でウンチを蹴ることのほうが、重要な年頃に違いないからだ。</p>


<p>=====</p>

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<div class="columnBodyTxtBox">

<ul class="titleList">
<li>vol.280　踊るまでもない大捜査線(2010/6/28)</li>
</ul>

<p class="entryRIMG"><img alt="全裸" src="http://www.cinra.net/mail_mag/img/10/06/zenra280.jpg" width="220"  /></p>

<p>真夜中、とぼとぼ歩いていると、2時くらいなのに3軒に1軒の割合で部屋の灯りが点いている。階ごとに3部屋ある4階建てのマンションでは、計4軒が灯っている。約3割である。後日発表されたデンマーク戦の視聴率は30.5％だったから、僕の歩いた街中と視聴率はちゃんと一緒だったわけである。コンビニの店内は静かに浮き足立っていて、スナック菓子とノンアルコールビールをカゴに突っ込む深夜残業終わりのサラリーマンが、菓子パンを付け足してレジに持っていく姿を見つければ、それが、「スナックをお供に酒飲みながらサッカー観戦したいけど翌朝すぐ会社だからアルコールはさすがにやばいと自粛、ゆえにノンアルコール、5時半に終わる試合の後、少しでも仮眠をしたい、だから朝飯はすぐに食べられる菓子パンで済ませておこう」という意味付けだと分かる。</p><br>

<p>ワールドカップの興奮ってのは、こういった個々人のちょっとしたテンションの増幅に見つけるべきであって、渋谷駅のスクランブル交差点で発狂する連中に代表させてはいけない。一昨日ユニフォームを買って、昨日テンションを高めて、今日大騒ぎして、明日泣いて、明後日忘れるような浅はかさについて、やっぱり書いてしまう。</p><br>

<p>あそこに行けば騒げると思ってそこに実際に行って、実際に騒いで、実際に警官と衝突しちゃうというのは、今書いたように、何度かの「本当にやるんだぁ」という段階を越えてこそ生じ得る事態だ。騒ぎたい願望選手権を勝ち抜いた面々が集っているのだからその騒ぎっぷりが度を越すのは致し方ないのだが、この毎度の乱痴気騒ぎに、みんな、親身に付き合いすぎではないか。</p><br>

<p>ハチ公が危ないというので、ハチ公を取り囲むように何人もの警察官を配置した。ご苦労様である。「タクヤ君のお父さんは警察官として何をやってるの？」「今日はハチ公を守っているよ」となれば、その子供は危うくイジメの対象である。騒ぐ連中はとにかくテレビが好きだ。テレビを見つけると「ウォー」という顔をしながら、ベロを出したり、ガッツポーズをかましたりしている。あとなんかしらんけど、もみくちゃになるのが大好きだ。そこで生じた摩擦を利用して発電でもしてくれれば加藤清志郎も「エコですね」とニッコリしてくれると思うのだが、昨日上司に怒られた腹いせかもしれない程度の発散を群がらせた青い固まりは何故かその摩擦を反抗的に仕立てていく。ご承知のように、成人式後に街中で騒ぐ新成人と全く同じ風景である。騒ぎすぎた誰それが警察に連行されて、「ざけんなよ」と言っている。さすが、騒ぎたい願望選手権を勝ち進んできた猛者たちだ、じゃないと、「ざけんなよ」なんて、言えないもの。恥ずかしくて。</p><br>

<p>この手の騒ぎの度に言うのだが、警察もテレビも相手にしなければいいのだ。何故なら彼等は、警察やテレビが相手にしてくれることを、騒ぎの前提条件にしているからだ。その前提を取り除けば騒ぎはたちまち鎮火する。彼等の天敵は、ワールドカップに全く興味を持たない人々である。ハチ公の周りには、サッカーの世界大会を何とも思わない一般人を座らせておけばいい。ああいう浮ついたサークル的根性の乱痴気は、一般人の澄まし顔に弱い。そこを飛び越えてハチ公に危害を加える青ユニフォームは絶対にいない。渋谷駅前の交番も、そのまま見過ごしておけばいい。「通常業務以外の任務は致しません。本日に限り、道案内歓迎。」と張り紙でもして、中でゆっくりお茶でも啜っていればいいのだ。</p><br>

<p>ライブなどで拍手喝采の時、もう止めようかというタイミングで、浴びた当人が拍手を止めさせようと「今日はどうも」なんて言うと、逆に拍手が止まなくなってしまうなんてことがある。それとこれは似ている。つまり、止めにいかなければ、難なく止まるのだ。テレビクルーはコンビニへ行け、そこにワールドカップの熱がある。警察は部屋の中で茶を啜れ、事件は会議室でも現場でも起きてない。決勝トーナメントに際しての、わたくしの願望でございます。</p>


<p>=====</p>]]></description>
            <link>http://www.cinra.net/column/zenra1006.php</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">CINRAメルマガコラム『全裸』</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">武田砂鉄</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 06 Aug 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>CINRA MAIL MAGAZINE連載コラム『全裸』2010年5月配信分（vol.273〜276）</title>
            <description><![CDATA[
<ul class="titleList">
<li>vol.273　「上から目線」序説(2010/5/10)</li>
</ul>

<p class="entryRIMG"><img alt="全裸" src="http://www.cinra.net/mail_mag/img/10/05/zenra273.jpg" width="220"  /></p>

<p>よく、上から目線だよねと言われる。2点ほどさっさと議論をふっかけておこう。まず1点。そう言ってくる君は何から目線なのか。唐突にその人の立地・アングルを決定付ける行為、それこそ上から目線ではないのか。もう1点。上から目線は、どうして悪いものとして扱われるのか。斜め目線とか、下から目線とか、一緒だよね目線とか、いろいろあるんだろうが、その中で上から目線だけがそれはちょっといかがなものかという扱いに追いやられることに、納得できる説明が欲しい。</p><br>

<p>冷静な分析と偏った分析のどちらかに押し込む作法をそろそろ止めにしたらどうか。分析する当人も、これは２つのうちのどっちだと理解した上で発しているようで気色悪い。つまり、自分の引き出しには２種類あって、「ああこれはそうだよね」という冷静、「ちょっとそれ許せない」という異議、この2種だけを使い分けている。自分に甘い・優しいというのはその人なりの身のこなしだから問いつめる事なんて出来ないけれども、この、自分の分析力への緩慢については、近辺でうろつく知人群にそれなりの危害を加えている事に、そろそろ気づいてくれないだろうか。</p><br>

<p>人であろうが、消防車であろうが、バナナであろうが、そこへ向かう分析というのは、冷静でもあり偏ってもいる。混在するのが常だ。頭の中に、NHK（1 チャンネル）と２ちゃんねるが合わさっているのが常態であるべきで、それを区分けして、公的な発表と私的な野次に変換するのは、白スーツの蓮舫もさすがにビックリの仕分けであろう。しかし、それに気づこうとする気配はない。これはこういうことだからと涼しい顔をして、次の日にちょっとこれはどういうことと青筋を立てている。それは混ざろうとしない。 </p><br>

<p>どちらかが際立つと重宝される。ワイドショーのコメンテーターを見ていれば分かる。絶対に冷静か、絶対にキレているか、どちらかだ。そういう人が、キャラクターとして認知される。逆に言えば、簡単に特徴付け出来なければその位置にはいられない。それはテレビの中の話。外で同様のアプローチを踏襲する必要は無い。それなのに、踏襲する。</p><br>

<p>上から目線だよね、というのは、両極のどちらかに何もかもを置いておきたい人が議論を放り投げたい時に使われる言い方なのかなと思えてくる。冷静か偏屈のどちらもなく混色している意見を見つけると、「知りもしないくせして俯瞰しやがって」という見方で、上空へと排他する。困ったものだ。</p><br>

<p>ある対象に向かって、イラッとして、理解して、憤怒して、許す。万事は、こうやってグラグラと揺れていくんじゃないのか。その後で意見を発すると、どうしても俯瞰した言い方になる。それを、上から目線だと片付けられる。何なんだよそれは。彼等なりの定義では、上から目線とは「何もかも知ったかのように物事を決めつける」ことのようだ。最後に冒頭の復習。人の発言を上から目線だとするその行為こそ、君の言う「上から目線」の定義にピッタリあてはまると思うのですが、そこのところ、いかがでしょうか。</p>


<p>=====</p>

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<div class="columnBodyTxtBox">

<ul class="titleList">
<li>vol.274　国民の声はどこから聞こえるのですか(2010/5/17)</li>
</ul>

<p class="entryRIMG"><img alt="全裸" src="http://www.cinra.net/mail_mag/img/10/05/zenra274.jpg" width="220"  /></p>

<p>数日ほどネットも新聞も見られない環境にいて、ようやっと見られるようになったと斜め読みで振り返りにかかると、そこでは谷亮子が既に出馬することになっていた。なんだこの前提は。一昨日から四国がオーストラリアです、と言われたくらいの前提だ。谷亮子の出馬を知る、という希有なタイミングを皆と分かち合えなかったのが悔しい。「地球を覆うほどの愛で」と奇怪なスケールを持ち出せば、「小沢先生には田村亮子時代からずっと応援をしていただいて」とお得意の過剰な自己認識のプレゼンが始まる。自分で、田村亮子時代、である。「前人未到の四連覇です」と自ら言ってしまうアレは健在だ。</p><br>

<p>谷亮子について話せば長くなる。別の機会に譲ろう。気にしたいのは、国民の声、というやつだ。インスタントに仕上げるには格好の的である「街を歩く国民の声は……」というお馴染みのアプローチ。「片手間でやられちゃ困るんだよね」「受かってから勉強しますじゃ遅い」「あんなの客寄せパンダ」と予想通りの非難が飛び交った後で、わずかな賛同者として若い女性が言った。「スポーツ選手なら、政治家と違って市民の目線が分かるはず」。</p><br>

<p>市民の目線って、なんなのだ。だれなのだ。どこなのだ。この人は、それを明確にせずに断言する。僕はこう思う、市議会議員から県議会議員になってようやく国会議員に辿り着いたとか、国会議員の秘書として引っ付き回り、ようやく先生から独り立ちを目指す許可を得たとか、こういう人のほうが絶対的に市民の目線を知っているはずだ。二世議員を嫌がる世論には賛同するものの、政治に向かってくる市民からの声を聞いてきた人かどうかだけを問えば、よほど二世議員はその声を聞いてきただろう。</p><br>

<p>今いる政治家と違って……、というような言葉をどうしてすぐに発してしまうのか。中がダメだから外から連れてくれば良くなるかもね、という即断が、結局、中を更にダメにしていく。次回もまた、今の政治家はダメだから、なんて繰り返し言うのだろう。今の政治家を誰が選んだのかをどうやら振り返れないらしい。おそらく頭が悪いのだろう。再び、私たちの目線を分かってくれる人を、と繰り返す。</p><br>

<p>主婦の井戸端会議はあくまでも主婦の目線だし、会社の給湯室での雑談はあくまでも労働者の目線だ。だから、どこだ、どこにあるのだ、その市民の目線というのは。</p><br>

<p>そんなものはない。誰かの目線は誰かだけの目線だ。政治家は国民に選ばれて政治を代行する。ならば、その目線の種類を沢山浴びて沢山知っている人に託すべきだ。分かってくれそう、ではない気がする。そう考えるとスポーツ選手というのは、均一に揃った目線ばかりを浴びてきた人だ。勝てば熱く、負ければ冷たい目線。それは、浴びた者にしか味わえない特別な目線かもしれない。だけども、それと、そこから離れた誰かだけの目線の集積は、目線として最も離れた所にあるんじゃないのか。</p><br>

<p>差し向けられたマイクに向かって「スポーツ選手なら、政治家と違って市民の目線が分かるはず」なんてひとまず放ってしまう個人と、それを賛成意見の骨子として流してしまう大衆、その隙間の数多を気にしないから「地球を覆うほどの愛」を受け入れてしまう。これは恐い。族議員と二世議員による利権政治より恐いかもしれない。何が悪いかが見つけようとせず何となく良さそうに見えているという状態、例えば自分の友人との付き合いなんかに準えれば分かると思うけれど、それが最も脆いのは間違いないじゃないか。</p>


<p>=====</p>

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<div class="columnBodyTxtBox">

<ul class="titleList">
<li>vol.275　がっている(2010/5/24)</li>
</ul>

<p class="entryRIMG"><img alt="全裸" src="http://www.cinra.net/mail_mag/img/10/05/zenra275.jpg" width="220"  /></p>

<p>チューしちゃったの、と終電一本前に飛び乗った女子大生が早速友人に電話をかけている。どうしようどうしよう、と慌てている。どうやら互いに別に付き合っている人がいるのに、雰囲気でそうなってしまったのだという。電話口の相手が正式な返答をする前に、彼女は言い訳を繰り返す。いい雰囲気だったんだもん。千恵美にはわからないと思うけど、と相手に何となく失礼な発言をつないでいく。でもね、あのままだとそれ以上のことになってしまいそうだったの。もうどうしようどうしようねぇどうしたらいい。</p><br>

<p>この人は、慌てているのではなく、慌てたがっている。電話がルルルと呼び出したときから、慌てていこうと決め込んでいる。慌てて、戸惑って、どうしたらいいか分からないという思いを一方的に伝えよう。こういう「がっている」がやっぱり苦手だ。泣きたがっている、怒りたがっている、寂しがりたがっている。この手の、自分の感情を自分の手で手繰り寄せていく企みには一切付き合いたくない。そのかわり、泣いてしまった、怒ってしまった、淋しくなってしまった、には懸命に付き合うべきであって、その差の見極めを正確にしていかないと、自家栽培した感情に振り回されてしまう。んなのは、ご免だ。</p><br>

<p>彼女は、チューしてしまった彼に、よく恋愛相談を持ちかけていたのだという。それを彼が後日、別の女友達に、アイツがしょっちゅう恋愛相談を持ちかけてきて正直ウザいんだよと言っていたことを知り、それについて怒っているのだという。そういうのってヒドくない、と電話口に問いかけて、返答をする間を与えずに、ヒドいよねと連呼している。ドラマは「予定通り」急転する。それでも彼と会っていると、何だか気を許してしまうの。だから今日もチューしてしまったの、分かるかな、と聞いている。今度は答える間を与えている。</p><br>

<p>この場合、相手は曖昧ながらも肯定の方向の返答をするしかない。この5分くらい、この女性は、自分で慌てる為の外堀を固めてきた。どうしよう、と思いたいのだ。分かるかなと問いかけて、その答えとしてもらいたいのは、まあその気持ちは分からなくもないけども、である。おそらくその手の返答をしたのであろう、女性は更なる加速で慌てふためいている。そして、どこか満足げである。</p><br>

<p>感情が先走るのは致し方ないことだ。でも、感情が先に用意されているのは、それとは大きく違う。こうすればこうなれるだろうという心の調整に付き合うのは億劫だ。占いなんてもんを一秒も信じないが、人はどこそこの占いが当たるのとウルサい。でもあれは、こうなるという予想ではなくって、「こうなりたがっている」という現在の自分とのリンクだから、そこまで劇的なものではないのである。それこそ「がっている」信号をキャッチすればいいのだ。</p><br>

<p>自分が降りるころになっても、彼女の話は延々と続いていた。話が明らかにループしている。混雑するも静かな車内に、チュー、ウザい、でも、どうしよう、チュー、がこだまする。それなりに有益だった一日が、彼女の感情強制整理サイクルに付き合わされたことで霞んでいく。小腹が減っていたので駅前のコンビニでおにぎりでも買って食いながら帰ろうかと思ったがどうにもそんな気になれず、野菜生活を吸いながら、とぼとぼ帰路についた。</p>


<p>=====</p>

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<div class="columnBodyTxtBox">

<ul class="titleList">
<li>vol.276　なう・あんど・ぜん(2010/5/31)</li>
</ul>

<p class="entryRIMG"><img alt="全裸" src="http://www.cinra.net/mail_mag/img/10/05/zenra276.jpg" width="220"  /></p>

<p>シューカツの履歴書を覗くと、趣味・自己PRの欄にとりわけ目立つようになったのが「1人カラオケ」と「散歩」なのだという。かつては「100人規模のサークルをまとめた」「海外放浪旅で様々な現地の人と交流を持った」だったと考えると、途端に個体だけでどうにかする動きが強まったということか。僕がいればこれくらいのことが出来ます、ではなく、僕は僕のことを誰にも迷惑かけずに僕だけでやり遂げます、ということなのか。大きく出るよりも、小さく完結出来る人間を求めるようになったのか。別にどうでもいいけれど。</p><br>

<p>確かに、「1人カラオケ」が好きだ、と漏らしてくる人間に何人も出会う。しかし、それは厳密に言うと1人カラオケではないのではないか、といつも思っている。1人でカラオケに行って、歌って、そのことは自分以外誰も知らない、という形を守り抜けなければ、それは1人カラオケではない、としたい。なぜならば、昨日1人カラオケ行ってたんだよね、という報告は、目の前で半端な熱唱を聴かされるカラオケボックス内の違和感と、大小の差はあれど同様の質感だから。</p><br>

<p>え、1人で行ったのー、というお決まりの返答をしてはならない。何歌ったのなんて間違っても聞いてはならない。報告を受けたならば、そうなんだぁ、昨日は夕方から小雨がパラついたよね、雨には降られなかったかな、と返してやればよい。相手はポカンと口を開けるだろう。本当は「1人なのにリンダリンダをジャンプしながら熱唱しちゃった（笑）」とか、「バラードをしっとり歌い上げていたら店員が入ってきて何も言わずに烏龍茶を置いて去っていった（笑）」とか、自分なりに振り絞った笑い話をかましたいのだ。申し訳ない、面白くないんだ、その話。</p><br>

<p>本人がイレギュラーなつもり、でも、聞くこちらにとっては完全にレギュラーとなっている案件について耳を傾けるのは、本当に苦痛だ。逆に言えば、話なんてのはそこを逸らせばすぐに面白くなる。サークルで100人をまとめたけれども101人目に難航したとすれば、その話を聞きたい。その話は絶対に面白い。 100人乗ってもダイジョーブなイナバ物置に、もう1人乗ったら音を立てて壊れてしまった。こういう話こそイレギュラーなのである。</p><br>

<p>個性は英語でイレギュラーと訳すんでしょうかというような昨今ではあるのですが、世の「変わってること」って、とりわけ変わったことなんかじゃありませんですわよね、と日々思う。例えば、いや実際にあるのだと思うけれども、「1人カラオケなう」というつぶやき、この手のはた迷惑なジャイアンリサイタルまがいのアピールに、うわぁキミ変わってるね、個性的だね、と褒め称える人事部なんてのがいるんだろうか。いるんだろうな。</p><br>

<p>誰にも言わず1人カラオケに勤しんでいる人がいたら、僕はその人のことがとても好きだ。その人は、『世に蔓延る「エセ1人カラオケ好き」が吐き出すことで築き上げられる1人カラオケの安っぽいイレギュラーの形成』に頭を抱えているに違いない。どうしたって見つけることが出来ないその本家の存在を信じつつ、 1人カラオケ好きの戯言に耳を傾けない運動を自主的に推進していこうと思っている。</p>


<p>=====</p>]]></description>
            <link>http://www.cinra.net/column/zenra1005.php</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">CINRAメルマガコラム『全裸』</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">武田砂鉄</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 06 Aug 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>『クリエイターのヒミツ基地』</title>
            <description><![CDATA[  <p align="left"> <p align="left">才能あるクリエイターたちの作品は、自然に私たちの身の回りにあって、生活を豊かにしてくれています。<br>
    持てる知恵をふりしぼり、オンリーワンの作品を日々生み出している彼ら。<br>
    では、その素晴らしい発想が生まれる創作の現場とは、いったいどんな場所なのでしょうか。<br>
リラックスできる快適な空間から、自らを高める禁欲的な空間まで、バラエティ豊かな「クリエイターのヒミツ基地」をレポートしていくこの連載。<br>
さまざまなジャンルのクリエイターが登場するので、業界による違いも楽しめます。
<br>
普段なかなか明るみに出ない、独自の創作姿勢からマル秘アイテムの数々まで、気になる舞台裏を覗いてみましょう。
  </p>]]></description>
            <link>http://www.cinra.net/column/himitsukichi.php</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">CINRA編集部</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">『クリエイターのヒミツ基地』（wacom）</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載目次ページ</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 03 Aug 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「フジワラノリ化」論　第13回　スガシカオ　サングラスの向こう側　其の五　まとめ：何故、スガシカオを批判出来ないのか？</title>
            <description><![CDATA[
<ul class="titleList">
<li>其の五　まとめ：何故、スガシカオを批判出来ないのか？</li>
</ul>

<p>吉川晃司、藤井フミヤ、哀川翔、これらの皆さんが画面に映る時、基本的な認識として「カッコ良い」という共有が前提事項として強いられている。芸人は、「相変わらずカッコ良いっすよね〜」ともてはやし、そこにうら若き女子タレントがいれば、私感はひとまず置いて「キャー」という方向性でこなす。ここら辺の身のこなしは、女性タレントの短くなりがちな生存日数を決める主因となることもあってか、皆、真剣に盛り立てていく。カッコ良い人なのか、カッコ良かった人なのか、彼等の場合、このボーダーはどこにも設定されない。カッコ良い人は、いつまでもカッコ良い、ということで片付けられるのだ。田原俊彦のように、自爆テロのごとく恥じらいを捨ててアイドル時代そのままの振る舞いをキープすると、周囲も、さすがにこのまま持ち上げていられる範囲でないと諦めて、潔く失笑を向ける。しかし冒頭の3人がそうであるように「いつまでもカッコ良い」とされる人は、加齢と共に、自分から目立とうはせずに、他人が「カッコ良い」と盛り立ててくれるのを待つようになる。カッコ良いでしょと本人がこちらに問うてくれば、「相変わらずっすね」とか、「そうでもないっすね」と判断出来る機会が訪れると思うのだが、その判断をさせてくれない。彼等は一歩引いている。引いて、待つ。引いて待って「相変わらずカッコ良い」と言われる時、彼等は、とても満足げな顔をする。</p><br>

<p>それって実は、番組上の都合から言えば、ひとまずカッコ良いということにしておいて、そんな事より場を進行してしまおうと急いでいるだけなのだ。カッコ良いという前提を適当に用意してきた以上、どこまで崩していいのかを定めるのは難しい。どこまでふざけさせていいのかが分からない。雰囲気が怪しくなると、お茶目な一面もあるんですよねと、不可思議な帰結へ至るのだが、それだって、誰しもが薄々勘付いている「実はもうカッコ良くないかも」という可能性を浮上させない為の、強引且つ必死な帰結なのである。東大出身のタレントがクイズに答えられなかったという意外性は場を盛り上げるが、実はこの人そんなにカッコ良くないかもしれないという気づきは、場をちっとも盛り上げない。だから、そのままにしておくのだ。</p><br>

<p class="maxImg"><img src="http://www.cinra.net/column/images/20100716_norika_5.jpg" alt="「フジワラノリ化」論　第13回　スガシカオ" width="450" height="514"/></p><br>

<p>スガシカオという存在は、どうしてだか、カッコ良いかどうかという本格的な査定の機会から逃れてきた印象がある。「キャー！　カッコ良い！」と黄色い歓声に迎えられている印象も無いし、「そのツラ構えでよぉ」と非難を浴びることも無い。考えて欲しい、あんなに気取った格好をしているのに、である。ジャケットにネクタイだとか、TシャツにGパンだとかいった単純な格好ではない。薄いサングラスをかけ、何やら重々しいジャケットをまとい、シャツのボタンを3つも4つも空け、ネックレスを垂らしているのに、それなのに、彼は即物的な賛同も非難も受けて来なかった。それが本人にとって本望かそうでないかは知らないが、あれだけカッコつけた格好をしているのに、それがどうかについて問われなかったのだ。音楽は中身（ハート）だからそれで良いのでは、という声が聞こえてくる。確かにそうだ。しかし、スガシカオの音楽は、どう考えても、格好や、そこから香る雰囲気を、音楽に落とし込んでいる。単純な話だが、TシャツGパンの山崎まさよしにスガシカオの音楽は出来ないし、胸空けネックレスのスガシカオに山崎まさよしの音楽は出来ないのである。だからこそ本来であれば問われるべきなのだ。</p><br>

<p>各種資料に目を通していて痛感したことは、スガシカオの需要というのはとてもピンポイントに存在していて、その需要の周辺に本来いるはずの「需要予備軍」が存在しなかったこと、これが驚きだった。つまり、「好き」か「そうではない」か、という2択の答えが明確に定まっているのである。この連載をやっていると、あんまり知らなかったけど読んだら何となく分かった、という意見を貰うことが多い。しかし今回、反応してくれる読者に聞いてみると、スガシカオに関しては、のっけから自分の中のスガシカオ像と答えを合わせているようだった。ファンが対象を愛でるのは当然のこと、しかしそれ以外の人が、いやスガシカオは好きではない、と受け入れない意思を、「嫌い」ではなく「好きではない」とするのがとても印象的であった。</p><br>

<p>本稿の為にスガシカオの音楽をたっぷり聴いた。電車の中、帰路、就寝前、でも、どうしても、彼の曲は体に入って来なかった。完成度は凄く高い、という事だけは分かる。こちらの聴き方が恣意的だったんだろうという反省はある。どうせスガシカオの音楽は、アーバンライフで、オシャレで、トレンディーなのだろうと、邪推を繰り返していた。スガシカオの音楽は、その邪推を修正する必要性にかられない、そのままのものだった。それは、こちらの期待に答えるものだった。彼は、至る所でカッコつけていた。歌詞であり、見た目であり、カメラを向けた時のポージングであり……。そのカッコつけるということが、いつも少しだけ浮ついていた。その浮つきが、こちらの邪推に乗っかった。</p><br>

<p>しかし、こちらは糾弾する気にはなれないのだった。感覚的な結論になってしまうが、この「糾弾する気になれない」というのは、スガシカオの現在までの道程に刺さる視線として、キーポイントとなる大きな意識である。絶賛と酷評が入り交じると、そのバランスでその人の評価と行く末が決まっていく。ミュージシャンや作家やタレントといった人前に立つ面々というのは、そのバランスと付き合わされるのだ。しかし、スガシカオは違った。絶賛と酷評ではなく、絶賛と放任だった。違和感を持っても、その人はスガシカオを放任した。セリフにすると、「いいじゃん、最高！」と「いいじゃん、別にどうでも」という2項だけが用意されていた。</p><br>

<p>書き始める前に気付けよ、という話かもしれないが、スガシカオって、「スガシカオのファン以外が彼のことを少しも考えようとしない人」なのだった。雑多な論議に参加してくることの無い名前なのだ。これって強い。文句を言うのは簡単だ。スガシカオへの評価を反転させればそれが文句になる。でも、スガシカオはその反転を聞いてこなかった。僕らはこれまでスガシカオを放任してきた。感覚的に、雰囲気的に、そのぼやけた輪郭の具合を、薄いサングラスの奥から見定めてきた彼に向かう批判がもはや生じなくなった。こちらは諦めて放任し続けている。このままのスガシカオがしばらく続くだろう。長いこと書き連ねてきてた結論が「このままのスガシカオがしばらく続く」なのである。理解いただけたか分からないが、この有り様に、スガシカオの強度が染み渡っているのである。</p><br>

<div class="titleListBox">
<div>
<ul>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-1.php">其の一　「スガシカオが好きな人を好きになれない」と言い続けてきた理由</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-1.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-1.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-2.php">其の二　FM的、AM的。</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-2.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-2.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-3.php">其の三　春樹チルドレンとシカオファーザー</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-3.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-3.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-4.php">其の四　サングラスの現在　2010年、夏</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-4.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-4.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-5.php">其の五　まとめ：何故、スガシカオを批判出来ないのか？</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-5.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-5.php"></a></li>
<li><a href="http://www.cinra.net/column/norika13.php">第13回　スガシカオ　目次ページ</a></li>
</ul>
</div>
<!-- /titleListBox --></div>]]></description>
            <link>http://www.cinra.net/column/norika13-5.php</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">フジワラノリ化論　第5回優香</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">武田砂鉄</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 28 Jul 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「フジワラノリ化」論　第13回　スガシカオ　サングラスの向こう側</title>
            <description><![CDATA[<p>藤原紀香について考えた事があるだろうか。</p>

<p>「スタイルがいいよね」とか「カッコいい女の代表よね」とか、そういう事ではない。何故、あの人はあの立場でいられるのか、という視座からの思考である。藤原紀香と結婚したお笑い芸人・陣内智則を、世の男子は羨ましがったらしい。本当にそうだろうか。むしろ、陣内と結婚した事実によって膨れ上がったのは、藤原紀香というブランドではなかったか。結婚して2年、藤原紀香は離婚した。しかし、その盛大な取り上げられ方こそ、相乗効果で得をしたのは誰かを物語っていた。 </p><br>

<p>こういう芸能人、すなわち、なんでこの人こんなにテレビ出られてんのという芸能人を「フジワラノリ化」と名付ける事にした。月に一人、徹底的にその人物を書き尽くす。普段語られないがゆえに、その芸能人の決定的論考を目指す。フジワラノリ化、野放しにしてはいけません。</p><br>

<p><a href="http://www.cinra.net/column/norika12.php">CINRA.NET > フジワラノリ化論　第12回　市原隼人</a><br>
<a href="http://www.cinra.net/column/norika11.php">CINRA.NET > フジワラノリ化論　第11回　小林聡美</a><br>
<a href="http://www.cinra.net/column/norika10.php">CINRA.NET > フジワラノリ化論　第10回　荒川静香と谷亮子</a><br>
<a href="http://www.cinra.net/column/norika9.php">CINRA.NET > フジワラノリ化論　第9回　石橋貴明</a><br>
<a href="http://www.cinra.net/column/norika8.php">CINRA.NET > フジワラノリ化論　第8回　堂本剛</a><br>
<a href="http://www.cinra.net/column/norika7.php">CINRA.NET > フジワラノリ化論　第7回　辻希美</a><br>
<a href="http://www.cinra.net/column/norika6.php">CINRA.NET > フジワラノリ化論　第6回　土田晃之</a><br>
<a href="http://www.cinra.net/column/norika5.php">CINRA.NET > フジワラノリ化論　第5回　優香</a><br>
<a href="http://www.cinra.net/column/2009/01/20/150000.php">CINRA.NET > フジワラノリ化論　第4回　関根麻里</a></p><br>

<p>※この連載はCINRA MAGAZINE vol.17〜vol.19に掲載された連載の続編になります。過去の連載は下記リンクからご覧ください。</p>

<p><a href="http://cinra-magazine.net/vol.17/link/043.html" target="_blank">CINRA MAGAZINE vol.17　第1回　渡辺満里奈</a></p>
<p><a href="http://cinra-magazine.net/vol.18/link/046.html" target="_blank">CINRA MAGAZINE vol.18　第2回　中山秀征</a></p>
<p><a href="http://cinra-magazine.net/vol.19/link/055.html" target="_blank">CINRA MAGAZINE vol.19　第3回　軽部アナ</a></p>]]></description>
            <link>http://www.cinra.net/column/norika13.php</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">フジワラノリ化論 第7回辻希美</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">武田砂鉄</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載目次ページ</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 28 Jul 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「フジワラノリ化」論　第13回　スガシカオ　サングラスの向こう側　其の四　サングラスの現在　2010年、夏</title>
            <description><![CDATA[
<ul class="titleList">
<li>其の四　サングラスの現在　2010年、夏</li>
</ul>

<p>朝青龍が、横綱としての品格が云々、と問い質されている時、写真家の藤原新也が明晰な分析と指摘をやくみつるに向けていた。室内で帽子を脱がない、初対面であろうと思われる目上の人に面する際にも帽子を脱ごうとしない、かいより始めよ、ではないかと。思わず膝を打った。彼が朝青龍に向けていた突っ込みとは、「朝青龍がいくら横暴なキャラクターだといっても、国技の頂点にいる人物の節度としてわきまえなければならないのではないか」というものであった。であれば、それはそのまま日本相撲協会外部委員であったやくみつるに突き刺さる指摘でもあったということになろう。つまり、帽子を脱いでから言え、ということだ。</p><br>

<p>自分を装飾するファッションアイテムとして、帽子に匹敵するのがサングラスということになろう。どちらも日光に弱い人が……と理由付けることが出来るが、実際にその理由で使用している人は少ない。その大勢は、自分を少しでも装飾する意図を帽子やサングラスに持たせている。帽子には「ハゲ」という具体的な隠蔽目的が潜んでいる場合も少なくないが、サングラスはその可能性を持たない。「わざわざつけている」のがサングラスなのだ。であれば、そのつけているサングラスの意味をこちらから問い直さなければならない。</p><br>

<p>サングラスの代名詞といえばタモリであろう。白地にポツンとサングラスだけが印刷されているTシャツがあったとして、これは誰をイメージしたTシャツだと思いますかと問われれば9割の人はタモリと答えるだろう。タモリは国民的サングラスドレッサーなのである。サングラス＝タモリという共有を排した上で「テレホンショッキング」を捉えてみると、毎昼に様々な一流ゲストが訪ねてくるのが、サングラスのオジサンだというのは、それって結構ショッキングなことだ。サングラスは素顔を隠蔽する。メガネが、女性を色っぽくし、男性を賢くするアイテムとして誇張される中、サングラスの隠蔽には歴史上、あまり変化が無い。タモリが女性ゲストに下世話な質問をする時、そのサングラスの向こう側の細い目はニヤリと曲がる。しかし、露にはならない。少し見えるが、あくまでも隠れている。これでは、笑福亭鶴瓶のように人里離れた田舎町への訪問は難しい。いくらタモリであろうとも、サングラスが先立って、村人たちはひとまず後ずさりするのではないか。「ブラタモリ」や「タモリ倶楽部」で地下や脇道や坂道を往くタモリの姿は、「サングラス」を裏切らない立ち回りだ。</p><br>

<p class="maxImg"><img src="http://www.cinra.net/column/images/20100716_norika_4.jpg" alt="「フジワラノリ化」論　第13回　スガシカオ" width="450" height="530"/></p><br>

<p>サングラスは、人の顔を隠した上で強面にする。そして人を寄せ付けない。ラッツ＆スターの鈴木雅之や浜田省吾は、サングラスを外さない。しかも、とっても濃い。どんなに凝視しても、サングラスの表面からうっすらと目元が見えることすら無い。「本当は良い人かもしれない」という含みを持たせつつも、それを開けっぴろげにしてしまうことは無い。ある一定の秘密が保持されている。サングラスによって保持される一定の秘密、これって、すごい事じゃないだろうか。顔や体を彩るあらゆる装飾物の中で、サングラスほど、人を隠す道具は無いし、一方でこれほど特徴付ける装飾物も無いのである。男性諸君は何となく分かってくれると思うが、素人AVモノでは、顔にモザイクをかけずに、サングラスをかけさせた状態でプレイに及ぶことでその匿名性を守るというケースがある。あれなんて、下手にモザイクをかけるより匿名性が増すのである。</p><br>

<p>現代のサングラス界において、EXILEのATSUSHIの存在を欠かすことはできないだろう。音楽シーンに限れば、このATSUSHIとスガシカオの2人のサングラスへの臨み方に、ある一定の作戦を見つけ出すことが出来る。EXILEというのは、一言で片付ければ「北関東系オラオラ成り上がり連合隊」であり、ついてくる女子も憧れる男子も、どういうわけか、単に男性としての格好良さを求めるだけではなく、天下とか世界とか大きめの単語を用いながら、その連合隊を愛でている。嵐を見て、私は桜井君よ、私は二宮君よ、と選りすぐるのに対し、EXILEは、「押忍」っとワラワラ迫ってくる総体として、対峙しているような印象を受ける。リーダーのHIROは口を開けば「最高のエンターテインメントを」と繰り返す。このグループの現在の歌い手は二人、分かりやすい優しいイケメンフェイスのTAKAHIROと分かりやすい悪徳フェイスのATSUSHIの二人である。最大の魅力は、悪徳顔のATSUSHIからスイートな声が伸びやかに出てくる所にある。あのサングラスと坊主から、この声が出てくる。その落差に、連合隊のシンパは、EXILEの最大の価値を認めるのである。</p><br>

<p>ATSUSHIは、自身がサングラスをつけた理由を、サングラスメーカーの記者会見でこう説明している。「最初は照れ隠しだったんですけれども、（今では）自分のスイッチでもありますし、自分をまたカッコつけさせてくれるもの」と答えている。当初は素顔でテレビに出ることもあった彼だったが、ここ最近はサングラスが定着していた。しかし、彼のソロライブではサングラスを外して熱唱する彼の姿があった。実に安直な読みだが、その通りのような気もするので書くが、自分をさらけ出すためにサングラスを外してみたのであろう。</p><br>

<p>このATSUSHIへのサングラス感というのは、2010年夏、現在のサングラス感を代表するものであると思う。つまり、スイッチであり、カッコつける道具なのだ。そして、そのサングラスを外せば覆っている何かを弾き、己をさらけ出すことができる。スガシカオのサングラスにも同じ事が言えるのだろうか。山崎まさよしが杏子との対談の中で、スガシカオがワインを持って自宅にやってきてどうすれば売れるかを相談され、当時濃かったサングラスをもっと薄くすれば売れるのに、とアドバイスした所、実際にその後売れ、後になって「山ちゃん、サングラス薄くしたら売れたよ！」とスガシカオに言われた、とこぼしている。サングラスの濃度として、スガシカオとATSUSHIのそれはとても近い。黒すぎず薄すぎず、光の入り方によっては目元が見える程度の薄さである。舘ひろしと柴田恭平が「あぶない刑事」を演じた時、真っ黒なサングラスにこだわった。しかし、「特命係長　只野仁」が時折かけるサングラスはやや濃度を抑えたサングラスだった。この薄さは何なのか。時代に合わせたものなのか。</p><br>

<p>先ほどのATSUSHIの発言から考えると、サングラスを維持するのは、「自分にとってのスイッチ」「カッコつけさせてくれるもの」だからという2点に絞られる。しかし、そのアピールを強固に披露してしまうと、この時代、やや引かれてしまう。ファッションアイテムとしてのサングラスが皆々に認知された今であるからこそ、薄めのサングラスをつけることで、サングラスの自分自身への効能と、他者への印象を両方得ることが可能となる。W杯の帰国時に真っ黒なサングラスを装着していた本田圭佑だが、DF長友の話によると機内からサングラスをかけ始め、サングラスの状態を周囲に馴染ませていたのだという。ブレない野心を持つ本田も、色のキツいサングラスをかけるときだけは、周りを気にしてしまったのだろうか。山崎まさよしがスガシカオにした助言の存在が事実だとするならば、これはとても具体的な進言であったと言えよう。スガシカオは小田和正に「ジャンルに拘ってるようじゃ人の心に届く音楽は歌えないぞ」と言われたそうだが、そんなことよりも山崎の「薄いサングラスにしなよ」というつぶやきが、彼の寿命を長くし、ステイタスを大きなものにした。</p><br>

<p>「メガネ男子」という言葉に代表されるように、伊達メガネであろうが、メガネをしている男子を好むというムーブメントも起きた。でもまあ、それは所詮、顔面におけるスパイスである。女子に対する「メガネ萌え」が先立っていたことからもその現象が補足的な加点に過ぎないことが分かるだろう。しかし、サングラスは違う。サングラスはその根本を変える。スタート地点を決める。ゴールを見定める。その濃度はそこへの道程を操縦する。スガシカオが薄いサングラスをかけ続けていることについて、僕らはもっと慎重にならなければならないのだ。
</p><br>

<div class="titleListBox">
<div>
<ul>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-1.php">其の一　「スガシカオが好きな人を好きになれない」と言い続けてきた理由</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-1.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-1.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-2.php">其の二　FM的、AM的。</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-2.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-2.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-3.php">其の三　春樹チルドレンとシカオファーザー</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-3.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-3.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-4.php">其の四　サングラスの現在　2010年、夏</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-4.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-4.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-5.php">其の五　まとめ：何故、スガシカオを批判出来ないのか？</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-5.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-5.php"></a></li>
<li><a href="http://www.cinra.net/column/norika13.php">第13回　スガシカオ　目次ページ</a></li>
</ul>
</div>
<!-- /titleListBox --></div>]]></description>
            <link>http://www.cinra.net/column/norika13-4.php</link>
            <guid>http://www.cinra.net/column/norika13-4.php</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">フジワラノリ化論　第5回優香</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">武田砂鉄</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 26 Jul 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「フジワラノリ化」論　第13回　スガシカオ　サングラスの向こう側　其の三　春樹チルドレンとシカオファーザー</title>
            <description><![CDATA[
<ul class="titleList">
<li>其の三　春樹チルドレンとシカオファーザー</li>
</ul>

<p>売れないベテランヘヴィメタルバンド「アンヴィル」のドキュメンタリー映画「アンヴィル！夢を諦めきれない男たち」をご覧になった方はお分かりだろうが、ヘヴィメタルという音楽はとにかく愚直でストレートな音楽である。信念や主義という言葉を使えばその愚直さは確固たる姿を見せてくれるが、その愚直さを、単調で直接的な音楽だと押し込んでしまうと、それは途端にコミカルに見えてくる。アンヴィルの音楽は正にそうだった。本人たちのヘヴィメタルへの献身と反比例するように、一本調子を譲らない音楽像が失笑を誘ったのである。彼等のライブを2度ほど観ているが、音楽に表裏が無く、そこにある音と身振り手振りを全ての情報として振り絞る勇ましさを感じては、この直接的な手口は音楽のダイナミズムを露出する正しい有様だなと感心するのである。映画「アンヴィル！」は、彼等が初来日を果たしたフェスティバル、1984年に西武球場で行なわれた「スーパーロック 84’」の模様から始まる。線の細い体にコスチュームを着込んだ彼等の姿は、一部の熱狂と多勢の失笑を誘っていた。このフェスティバルは、日本の音楽シーンにとって、メタルシーンにとって、とても大切な経験だった。あのボン・ジョヴィが西武線に乗り“通勤”して前座を務めたこの頃から、メタルシーンはMTV的なコマーシャリズムに飲み込まれながらも、身の丈に合わない拡大と信念を曲げぬバンドの冷遇という残酷な落差を呼び込んで行く。それが、1984年という年だった。</p><br>

<p>村上春樹の「1Q84」はジョージ・オーウェルの「1984年」に触発されてつけたタイトルのようだが、自分はどうしても、その年号を、あのアンヴィルやボン・ジョヴィの青臭い姿と呼応させてしまうのだった。「夢を諦めない」とか「成り上がって世界一のロックスターになってやるんだ」という宣言が飛び込んでくる。村上春樹の「1Q84」については、発売当初からあらゆる媒体をジャックするかのごとく嵐のような考察が飛び交ったので今更深く掘り下げる意味を感じない。ただ改めて申したいのは、この読みやすさはズルい、という幼稚な感想である。もともと村上春樹の良き読者ではないのだが、開く度にそこに流れている、手掴みを拒む象らない世界での群像に滑らされて行く体感を、回答を持たぬまま最後まで持ち込まされる力量に唸らされてしまう。何故、滑らされてしまうのか。それは文体でも世界観でもなく、その抽象性にある。リンゴをリンゴだとは言わない、青い空を青い空とは言わない。遠回りしてようやく辿り着きそうになった時点で、再び遠ざかって行く。「続きはCMの後で」のような作法が、結局、「CMの後に続かない」形で繰り返される。その構造の中で、読み手は小説の中に放置される。放置されて概観し、細い糸を見つけて（見つけさせられて）、その行く末に付き合ってしまう。「1Q84」もそういう小説だった。その小説を、僕は、アンヴィルの映画公開に被さるように読んでしまった。どうしても、「1Q84」の1984年から、いつものように細い糸を見つけることが出来なかった。アンヴィルが顔を歪ませてリフを刻んでいる姿が、1984年としての強度をより放っていたからだ。</p><br>

<p>小説や歌詞の世界において、「抽象性」は褒められすぎであると感じてきた。だって、抽象性って、そんなに難しい作法じゃないじゃんか。「おれはお前のことが好きだ」という歌詞を小説や音楽に巧妙に入れ込むことは難しいが、「君の部屋のカーテンが揺れた時、その涼やかな風に僕がなれたらいいなって思ったんだ」と、はぐらかせて気取ってみるのは、むしろ容易いことだ。無論、抽象性にも差は生じる。それは当然のことだ。しかし、抽象性は、制作物を「それなりのもの」にする安直な道筋を作ってしまってもいる。考え尽くしたのか、思いついたのか、そこには然るべき距離が見定められるべきだが、抽象性は、そこを一旦混ぜこぜにしてしまう。村上春樹文体が小説家志望の書き手やアマチュアのミュージシャンに好まれるわけは、その抽象性のトリックにすがっているからではないか。</p><br>

<p class="maxImg"><img src="http://www.cinra.net/column/images/20100716_norika_3.jpg" alt="「フジワラノリ化」論　第13回　スガシカオ" width="450" height="531"/></p><br>

<p>スガシカオは村上春樹を敬愛しており、デビュー作を村上春樹に直接送りつけている。村上春樹は何とは無しにそのCDをかけ片手間に聴くと、「これ、悪くないじゃん」と思い、改めて聴き直し、その「メロディーラインの独自性」にポール・マッカートニーやスティーヴィー・ワンダーに通じる、その人ならではのものがあるとし、彼の歌詞を「『ま、こーゆーもんでしょ』みたいな、制度的なもたれかかり性が稀薄である」と褒め称えている。村上春樹が、ある特定の邦楽ミュージシャンに触れることは極めて稀で、ましてや音楽エッセイ集（「意味が無ければスイングはない」文春文庫）の中で、28頁にもわたって語られているスガシカオの存在は、村上春樹が公言する最高峰の邦楽ミュージシャンだとして間違いない。スガシカオはその事をとても喜び、また村上春樹が「アフターダーク」の中にスガシカオの「バクダン・ジュース」を使用したことについては、「いつ音楽をやめてもいい」と漏らしたそうだ。村上春樹はエッセイ集の中で、スガシカオの歌詞を引っ張りながらこう書いている。スガシカオ論の骨子となる部分であろう。「そこに示されているのは、簡単には抜け出すことのできない世界だ。同じところをいつまでもぐるぐると回り続ける世界だ。そういう世界のあり方に、主人公はほとんど嫌気がさしているのだが、出口は簡単に見つからない。（中略）そこに彼が見いだすものは、こことほとんど変わりのない世界かもしれない。」と書く。そこから村上春樹はスガシカオにある「観念性」の話を続けていくのだが、先ほどの、村上春樹の解説は、村上のスガの両方を、距離を取って眺めてしまう自分にとっては、村上作品にもあてはまる分析だと思わざるを得ないのである。観念、あるいは、輪廻とも呼ぶことも出来るが、でもそれはつまり、村上春樹が作品に編み込んできた抽象性ともイコールになるのではないか。</p><br>

<p>雑誌「SWITCH」のスガシカオ特集号で、自身の音楽的動機について「言いたいことがあるといえばあるし、ないっちゃないんだよな」と漏らしている。これは村上が褒めた「制度的なもたれかかり性が稀薄である」には見事に当てはまるのだけれども、その前の「『ま、こーゆーもんでしょ』みたいな」という部分にはむしろ合わさってしまう態度である。この「SWITCH」の特集号から、スガは処女小説「SPEED」の連載を始める。中学時代からの友人が交通事故で亡くなった事実をモチーフにした小説のようなのだが、平易な単語を総動員して物語を動かし、静かな言葉で雰囲気へと吸収し、そこに抽象性をぶつけて行く、春樹フォロワーの作家が陥りがちな春樹のコピーを、スガもまた記してしまっている。交通事故という生死の最たる輪郭を、抽象的な描写でボカしながら逃げて行く。そこに生まれた空洞を雰囲気に転化していく小説である。これを、村上春樹はどう読んだのだろうか。スガ自身は、「村上春樹さんの目にだけは届かないようにと、願って止みません！」としている。</p><br>

<p>アンヴィルは、給食配達員や土木工事のバイトをしながら、夢を掴んでロックスターになるんだと机を叩きながら、その機会を信じた。84年に来日してから四半世紀、彼等は同じ事を言い続けながら、相変わらずくすぶっていた。そのメッセージは、愚直なまでに同じことの繰り返しだった。その直接性をやっぱり信じてしまう自分がいる。ヘヴィメタルは、歌詞の不変性で言えば、演歌の世界に近い。入り口から出口の姿が想像出来るこの安心感は、時代を飛び越えて行く。抽象性をかまして空洞を作り、そこに自由解釈を注がせる構造は、やっぱり自分の肌に合わないのだろう。そして、それがこの日本においてはとりわけ村上春樹という存在の胸を借りながら、より安直に成され続けている環境に疑問を持つ。いくら村上春樹に褒められた相思相愛のスガシカオであっても、やはり村上春樹から借りてしまっている。その結果に、それこそ「ま、こーゆーもんでしょ」という諦めが襲いかかってくるのである。</p><br>

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<div>
<ul>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-1.php">其の一　「スガシカオが好きな人を好きになれない」と言い続けてきた理由</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-1.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-1.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-2.php">其の二　FM的、AM的。</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-2.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-2.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-3.php">其の三　春樹チルドレンとシカオファーザー</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-3.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-3.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-4.php">其の四　サングラスの現在　2010年、夏</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-4.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-4.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-5.php">其の五　まとめ：何故、スガシカオを批判出来ないのか？</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-5.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-5.php"></a></li>
<li><a href="http://www.cinra.net/column/norika13.php">第13回　スガシカオ　目次ページ</a></li>
</ul>
</div>
<!-- /titleListBox --></div>]]></description>
            <link>http://www.cinra.net/column/norika13-3.php</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">フジワラノリ化論　第5回優香</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">武田砂鉄</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 22 Jul 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「フジワラノリ化」論　第13回　スガシカオ　サングラスの向こう側　其の二　FM的、AM的。</title>
            <description><![CDATA[
<ul class="titleList">
<li>其の二　FM的、AM的。</li>
</ul>

<p>たまにFMを聴く。するとそこでは、ディスクジョッキーが他愛もない日々を垂れ流している。昨日、気になってたカフェに行ったらそこには小さなお庭があって、オーナーが大切に育てている季節の花が満開になっていて、とっても清々しい気持ちになりました。梅雨空が続きますけど、そのひとときだけは憂鬱な天気を忘れることが出来ました……だってさ。友達夫婦のホームパーティーに呼ばれたんだけど、偶然そこに大学時代の同級生がいて、今あの人どうしているのなんてヒソヒソ話をしてたら、当時2人とも狙ってたその男の子が今じゃ2児のお父さんって聞いて、なんか私たち、残されちゃったのかなあなんて笑い合ったりしてました……だってさ。それでは聴いてください。スガシカオで……</p><br>

<p>この話を誰かしら求めているのだろうかと疑問に思わざるを得ない話がある。このディスクジョッキーのライフストーリーに、素直に感激し、ちょっとしたホームパーティーに呼ばれたいと熱望するリスナーがいるんだろうか。しかし、いるんだろう。だからこそ、この手のCHPS（ちょっとしたホームパーティー話、の略）は無くならない。気付けば自分が学生の頃から、この手のメディアの話し手はCHPSを繰り返し報告している。飽きないのかと思うのだが、飽きないから聴くのだし、聴く方が飽きないから、飽きずに喋るのだ。このCHPSのことを思う時、世の中の事象というのは、FM的とAM的に二分できるという持論を築くに至る。一言で言えばFM的とは「スタイリッシュで感覚的なことを愛でる」、AM的とは「気取る前に現実を目の前に置く」。どんなジャンルにも置き換えられる。中田英寿はFMで、ゴン中山はAMだ。村上春樹はFMで、桐野夏生はAMだ。モスバーガーはFMで、マクドナルドはAMだ。ビームスはFMで、ジーンズメイトがAMだ。ユニクロはFMの仮面をつけたAMだ。安室奈美恵はデビューから一定期AMを強いられていたが脱皮し自身をFM化することで再ブランド化させた……等々。</p><br>

<p>音楽の世界、とりわけロックの世界において、雑誌「rockin'on」（議論の対象上、「ROCKIN'ON JAPAN」を主に指す）の選球眼がそのまま指標として機能する時代があった。いつまでそうだったのかは各人において差があってそれを聞き出すのはなかなか面白いのだが、宇多田ヒカルを表紙にし、浜崎あゆみを表紙にし、オレンジレンジを表紙にした辺りから、選球の「視力」を危ぶむ声が出てきた。ラルクは良くてなぜB'zは駄目なのか、という議論もあったと記憶する。先ほどのFM・AM仕分けの文脈に参加させると「rockin'on」のセレクトというのは、AMでもFMでも無い、それなのに（orそれだからこそ）オリジナリティーに満ちていると判子を押す立ち回りを担っていた。つまり、俺たちがどこからか引っ張り出した、見つけ出した、という論理、彼等的な文言を使えば「肯定」である。ラジオも雑誌も、かつては新しい音楽を受け手に教え込む媒体だった。その精度が、媒体としての精度に直結し、信奉する者の数と比例した。信奉者同士がある音楽に尽くすためには否応にして仮想敵を用意する。J-POPと記号的に大きく括られるシーンは常に便利な仮想敵だった。セレクトに対するチャート主義、オリジナルなアレンジに対する小室やビーイング的フォーマット……、いくつかが分かりやすい非難対象として挙げられたが、結局、J-POPの輪郭がその対岸から明示されることはなかったように思う。敵が都合良く取り繕うのがJ-POPという記号だった。あるコアなジャンルから外を見やったときだけJ-POPが現れるのであった。同人誌から始まった「rockin'on」の文脈はその仮想敵をうまいこと活用してきた。しかし、ある時から解いたのだ。それを人は商業化しやがってと罵った。皮肉にも、その解く過程において初めて形を持って発見されたのがJ-POPだったのかもしれない。</p><br>

<p class="maxImg"><img src="http://www.cinra.net/column/images/20100716_norika_2.jpg" alt="「フジワラノリ化」論　第13回　スガシカオ" width="450" height="479"/></p><br>

<p>スガシカオがFMかAMかとなれば間違いなくFMである。「スタイリッシュで感覚的なことを愛でる」のがスガシカオであり、「気取る前に現実を目の前に置く」とするAM的要素を、音楽の基盤から徹底的に払ってきた。歌詞については次章で触れる予定だったが少しだけ。今、「歌詞が良い」ともてはやされる場合、それは文学的に優れているということよりも、いかに等身大であるかが重要になっている。浜崎あゆみ以降、露骨になった流れである。その等身大の歌詞を書いているとされる最たる存在が西野カナであろう。この人は、「会いたくて会いたくて震える」と歌うのだ。それを、カナちゃんの気持ち分かると周辺が共振していく。カナと私の距離を異常に詰めることで、等身大の輪郭を押し売りするのだ。ケータイ小説が、日常から考え得る激変を全て盛り込んだ（残酷であろうとも）夢物語であったのに対して、この等身大には、物語すら敷かないまっさらな状態で突然迫ってくる。浜崎やケータイ小説が持っていた重々しさを、もう本当に大変なんだからこの気持ちという切実さに転換して、与えられた箱にギュウギュウ詰め込んでいく。「rockin'on」が浜崎あゆみのロングインタビューを巻頭に掲載した時、そこでは予想通り、色々あった人生の挫折や苦悩を語り尽くされたわけだが、僕はこう思うわけである。人生なんて、誰の人生であろうと色々あるだろうよ、と。はいどうぞしゃべってください、辛かったことを中心に、と言われれば、誰であっても用意出来るものだ。親が離婚している苦悩と、家庭が円満でその円満具合ゆえに一歩も踏み出せないという苦悩、このどちらが苦しいかなんて、分かるわけが無い。しかし、その苦悩を汲み取って評価し始めた途端、「rockin'on」の溶解が始まったのだと思う。FM的でもAM的でもないものに判子を押す役割がこの雑誌のこれまでの立ち位置だったとすれば、もはや、この雑誌は、両者の柔軟剤のような役割に移っていったと感じる。しかし、それが、甘んじているのか、ビジネスとしての上昇なのかは、用意する主語によって変わってくるだろう。しかし、かつての仮想敵であったJ-POPが体に染み込んできたのは揺るがない所であろう。</p><br>

<p>スガシカオは、FM的にこだわっている。即物的な（=AM的な）創作はしない。しかし、彼は、「rockin'on」には出来なかった「FMの体を保持したままAMへの単身赴任」をしてみせたのである。象徴的なのがB'zの松本孝弘と共作したKAT-TUNのデビュー作「Real Face」だろうか。「ギリギリでいつも生きていたいから　さぁ　思いっきりブチ破ろう　リアルを手に入れるんだ」と、デビュー仕立てのアイドルに歌わせたのである。西野カナが「会いたくて会いたくて震えている」のに対して、ではこの歌詞が何か即物的な行動を起こしているか、促しているかと問うてみると、字面を追えば分かるが、何にもしていないのである。つまり、「スタイリッシュで感覚的なことを愛でる」という従来のFM的観点をそのままに、「気取る前に現実を目の前に置く」AM的観点に近づけてみせたのである。振り返れば「あれからぼくたちは　何かを信じてこれたかなぁ…」とSMAPに歌わせた時も同様だったが、その当事者は何をしているんだか、何を伝えたいんだか、よく分からないのである。スガシカオが時代と常にマッチングしているように見えるのは、この間接話法をFM的立地から放ち続けているからなのではないか。前章で兄貴肌としての素養に欠けるというような話をしたが、そりゃあ、この「間接」の放射を続けていると、人物の輪郭、そして明度は落ちてくるのである。だから、兄貴としては慕えない。スガの、あの独特のファッションには、いっつも間接性が合わさっている。サングラスは勿論、シャツの色合い、“やや"はだけた胸。いつも、情報があるような無いような見た目をしている。</p><br>

<p>FM的、AM的という議論からスタートして、やや感覚的な話が続いてしまった。しかし、この感覚的な話から浮き出てくる間接性こそ、蚊帳の外からのスガシカオ論には欠かせないキーワードになっていくのである。この間接性にまつわる議論は次章へと続いていく。村上春樹が日本のアーティストとしてほぼ唯一認めているのがスガシカオなのである。そしてスガシカオ自身も村上春樹を敬愛している。この相思相愛に流れるものは何なのか。その赤い糸の主成分もまた、間接性ではないかと読んでいる。さて、次章の議論へ進むべく、村上作品を引っ張り出して読み直すこととしよう。</p><br>

<div class="titleListBox">
<div>
<ul>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-1.php">其の一　「スガシカオが好きな人を好きになれない」と言い続けてきた理由</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-1.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-1.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-2.php">其の二　FM的、AM的。</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-2.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-2.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-3.php">其の三　春樹チルドレンとシカオファーザー</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-3.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-3.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-4.php">其の四　サングラスの現在　2010年、夏</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-4.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-4.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-5.php">其の五　まとめ：何故、スガシカオを批判出来ないのか？</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-5.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-5.php"></a></li>
<li><a href="http://www.cinra.net/column/norika13.php">第13回　スガシカオ　目次ページ</a></li>
</ul>
</div>
<!-- /titleListBox --></div>]]></description>
            <link>http://www.cinra.net/column/norika13-2.php</link>
            <guid>http://www.cinra.net/column/norika13-2.php</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">フジワラノリ化論　第5回優香</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">武田砂鉄</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 20 Jul 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「フジワラノリ化」論　第13回　スガシカオ　サングラスの向こう側　其の一　「スガシカオが好きな人を好きになれない」と言い続けてきた理由</title>
            <description><![CDATA[
<ul class="titleList">
<li>其の一　「スガシカオが好きな人を好きになれない」と言い続けてきた理由</li>
</ul>

<p>自分の大好きなミュージシャンやタレントや作家をせせら笑われる経験は誰しもお持ちであろう。その瞬間、苛立つわけだ。当然、問い返す。すると、その相手はその対象を何も知らないようなのである。それでいて、その対象に対する嫌悪感を述べてくる。更に苛立つ。でも、自分はそうはならない。苛立たない。その対象について何も知らないのに、とある嫌悪感を抱くのは何故なのだろうかと、相手の理由を何としてでも知りたくなる。そこで更に問い詰めると、相手は、その対象の深部には全く触れない外枠から見える風景を存分に語ってくれる。いわゆるイメージというやつである。そのイメージを聞くと、必ず、その対象に対して新たな視座を与えてくれる。</p><br>

<p>ファンというのは盲目だ。失敗した毛染めを見ても、「そのアンバランスな染まり具合が素敵よね」と言うだろうし、高音が出ずに肝心要のサビメロを客に歌わせる怠惰を、客は、「会場が一体になってたよね」と感激していたりする。その素敵や感激はファンの中の文脈でしかない。ファンだけに囲まれていると、その対象はファンを道連れにして「離れ小島」と化してしまう。そうならないためにミュージシャンは不特定多数のフェスティバルに出たり、俳優はバラエティに出たり、タレントはドラマに出てみたりする。全ては、盲目に陥らない、限られた民に囲まれないための予防線のようなものだ。</p><br>

<p>僕はスガシカオのことを殆ど知らない。それなのに、「スガシカオが好きな人を好きになれない」と事あるごとに言ってきた。大変失礼な話である。しかし、こう言ってしまっても大丈夫な環境を感じていたからこそ、堂々とそう言えてこれたのである。ザッと見渡して5、6人、まあここで「スガシカオが好きな人を好きになれない」と言ってしまっても大丈夫だろうと思って口を滑らすと、おお、確かに誰の怒りも呼び込まないのである。むしろ数名が、あっ、何か分かると少しだけ体を前のめりにし、他は、いやよく分かんないし、と話を適当に流す。とにかく、場の平穏は保たれたままなのだ。どこで何度やってもそうなのだ。つまり、自分の生活環境にはスガシカオ好きがいないのであった。しかし、狭い自分の生活環境といえども、それなりにいくつかのゾーンはあって、それら全てで許されるのは、非常に珍しい。坂本冬美でも、ジェームス・ブラウンでも、Hey! Say! JUMPでも、誰かはそれが好きだった。でも、スガシカオは大丈夫だった。</p><br>

<p>スガシカオとそのファンの群れは、自分の生活圏とは全く関わりの無い離れ小島にいるのではないか、その調査のために「スガシカオが好きな人を好きになれない」と挑発的に言い続けてきたわけだが、これからもずっとその設問を投げても大丈夫だという自信がついてきてしまった。何だか本末転倒で、その自信を身につけても使いどころは無い。それに、物事のルールとして、対象を嫌う前に、対象を掘り下げなければならないってのもあるだろう。メインタイトルを「サングラスの向こう側」としたのは、ファンはそのサングラスの奥にある眼差しを知っているだろうし、やや適当な読みだが、その眼差しを愛でる理由とするのだろう。こちらは、それを知らない。ならば、あのサングラスの向こう側はどうなっているんだろうかと探しにいかねばならないが、探しきれないだろうという自覚が、早速ある。だから、この場を動かぬまま、見える風景を語る。目の前を横切る、或いは遠くに見える、スガシカオのサングラスの「表面」を語っていく。</p><br>

<p class="maxImg"><img src="http://www.cinra.net/column/images/20100716_norika_1.jpg" alt="「フジワラノリ化」論　第13回　スガシカオ" width="450" height="362"/></p><br>

<p>スガシカオというのは、どうしてもアーバンライフというような言葉に代表される「気取ったオシャレ」によって成り立っている印象がある。そして、その気取ったオシャレを保持するような見てくれを崩そうともしない。だから、こちらはそのアーバンに、「（笑）」をつけてスガシカオと付き合ってしまう。しかし、本人はそうでもないようだ。2007年に発売された「別冊カドカワ」のスガシカオ特集本を開くと、デビュー当初から「スガシカオ＝アーバン・ポップス」と言われることに対する苛立ちを感じており、ボジョレー・ヌーボの解禁日と発売日が重ねたリリースイベント時には、マスコミから「壁際に立って、ワイングラスを揺らした画をください」と言われたことを嘆いている。スガはそこで、「その頃のイメージが強いのか、いまだにアーバン・ポップスっていう人がいますからね（爆笑）」と笑い転げているようなのだが、おお、ここか、ここに分かり得ない溝があったのかと、気付くことになる。堂々と言おう、スガシカオという離れ小島にいる本人とファン以外は、まだまだスガシカオをアーバン・ポップスだと思っている。「え、だってそうでしょ」と、平然とした顔を崩さないだろう。でもスガは、「いまだに〜」と爆笑している。この差なのである。ライターが同行したツアー日誌にはこうある。「世間ではいまだに?暗い、気難しい、陰険etc.?というイメージがあるらしいが、ほぼ10年を通じてそう思ったことは一度もない」。しかし、こちらから遠方に見えるスガシカオは、言わば「石田純一の、ちゃんとした版」のような立ち位置という認識がいつまでも改まらない。記者会見とゴルフコンペだけが仕事としか思えない石田純一に、それなりの才能を与え、世間が、「であればそのままで宜しいのでは」と黙認しているのがスガシカオではないか。隠れ家レストラン的、タワーマンション的、シーサイドホテル的需要。これらをネタに使っているのが石田純一、これらを実際に使っているのがスガシカオ。離れ小島の外は、少なからずスガシカオにこういう視線を向けている。そしてその視線をそのまま飲み込むサングラスであり、光り物であり、服装であり、（次章以降でじっくりと話題に出すが）その手の歌詞を書くのだ。だから島の外はそこでスガシカオを「決定」してしまう。</p><br>

<p>唐突に分析へ入っていくが、スガシカオには、兄貴肌の素養が見えて来ない。ここに、こびり付くアーバンライフを溶かしていけない理由があるかもしれない。実際はどうなのか知らない。とにかく見えて来ないのだ。同じミュージシャンで、年齢も遠くない奥田民生や山崎まさよしやトータス松本を考えて欲しい。彼等の音楽も個人的には遠い存在だが、彼等は決して離れ小島にはいない。ちゃんとこっちのどこかにいる、という気がする。それはやはり、兄貴分としての成分濃度にかかっている。彼等はお兄ちゃん的要素を存分に保有している。ではお兄ちゃん要素とは何なのか。分かりやすく具体名を出してみる。最近気付いたのだが、お兄ちゃん要素とは「所ジョージ的加点」と「リリー・フランキー的減点」に絞られるのではないか。このどちらかがあれば、兄貴肌は容易に強調されていく。所ジョージ的加点とは趣味人としての多彩さである。最近の所ジョージは、実は趣味人なんです、ではなく、趣味人ですという前提でテレビに降りてくる。必死に趣味人をアピールするヒロミとはこの順序において差が歴然としているわけだが、どうだろう、例えば奥田民生なんて、この所ジョージ的立ち振る舞いが目立つようになってきたのではないか。音楽に全神経を注ぐというよりも、どこか、のほほんぶらぶらと、しかし、ギターを持たせればやっぱり民生だよなあという兄貴分テイスト。ファン以外の人間も、音楽という枠組みから飛び出す趣味要素の膨らみをキャッチしているから、例え彼の音楽が好きでなくとも、奥田民生は積極的に認知されるのである。加点の一方で、リリー・フランキー的減点。「東京タワー」の爆発的ヒットと反比例するように露出を控えているリリー・フランキーはここ最近口を開けば「ウツっぽくて…」とネガティブな発言を繰り返している。男が40歳になればウツも一つの嗜み、とブツクサ呟く彼には、あっという間に人が群がっていった。いやもう俺はダメよという引き際宣言に、下の世代がわらわらと引っ付いていく。スガシカオとリリー・フランキーには交流があるようで、スガシカオデビュー10周年に際して、スガにこうコメントを送っている。「また、二人でくすぶったり憤ったりしましょう」。実にリリー・フランキーらしい発言である。しかし、それをスガに向けた場合、全くしっくりとしない。「くすぶる」という減点を嗜んでいるようには到底思えないのである。やはり、ワインをくゆらせてしまうのだ。兄貴分になれない、その為の加点も減点も出来ていない、バンドではなく単体で活動するシンガーソングライターにとって、これは小さな不足ではない。自分自身は外に開かれていると信じていても、世間は、メディアは、まだ会員制ワインバーにいるのがスガシカオだと、夜景の見える最上階のタワーマンションで熱帯魚に餌をやるのがスガシカオだと、信じ込んでいる。僕もその1人だ。でも彼やファンやスタッフは、そんなことは無いと強調する。このズレを解き明かしにかからない手はない。次回より具体的なテーマを持ち出しながらスガシカオに迫っていく。ただし、離れ小島にいるスガシカオに、ボートを必死に漕いで近づいていくような真似はしない。それは、ズレを解消する手段にはなり得ない。あくまでもこちらから見えるスガシカオだけを語っていく。離れ小島に寄り添っているファンにとってはこの長文は噴飯ものかもしれないが、これをスガシカオと共に爆笑し合っている限りは、スガシカオからアーバンライフが取り除かれることは無いであろう。それだけは分かって欲しい。</p><br>

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<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-1.php">其の一　「スガシカオが好きな人を好きになれない」と言い続けてきた理由</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-1.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-1.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-2.php">其の二　FM的、AM的。</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-2.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-2.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-3.php">其の三　春樹チルドレンとシカオファーザー</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-3.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-3.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-4.php">其の四　サングラスの現在　2010年、夏</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-4.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-4.php"></a></li>
<li><a href="<$MTBlogURL$>norika13-5.php">其の五　まとめ：何故、スガシカオを批判出来ないのか？</a><a href="http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.cinra.net/column/norika13-5.php" target="_blank" class="hatena" ><img src="http://b.hatena.ne.jp/entry/image/normal/http://www.cinra.net/column/norika13-5.php"></a></li>
<li><a href="http://www.cinra.net/column/norika13.php">第13回　スガシカオ　目次ページ</a></li>
</ul>
</div>
<!-- /titleListBox --></div>]]></description>
            <link>http://www.cinra.net/column/norika13-1.php</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">フジワラノリ化論　第5回優香</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">武田砂鉄</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">連載</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 16 Jul 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>YUKI『The Present』ライブレポート</title>
            <description><![CDATA[<div class="entryWrapp">
<div class="entryLImgBox">

<p>2010年6月14日。その日は、YUKIが自身初となるクラシックホールでのライブを行った記念すべき日として、長く語り継がれていくことだろう。『YUKI concert New Rhythm Tour 2008』から、はや2年。新作アルバム『うれしくって抱きあうよ』を引っさげ満を持してBunkamuraオーチャードホールに登場したYUKIは、「全肯定」のパワーで観客をヘロヘロになるまで幸せにしてくれた。「哀しみを覚えるたびに、楽しさを表現したくなる」。彼女が「感動した」というダンサー・振付家であるピナ・バウシュの言葉は、まさにYUKIが辿ってきた道筋そのものだ。『ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2010』への出演、そして2ヶ月以上にわたる全国ツアーを控え気合いの入りまくっているYUKIによる、ステージいっぱいに「生きる歓び」をあふれさせた名ライブをレポートする。</p>

<!-- /entryLImgBox --></div>

<h4>生まれ落ちたばかりの赤子のような、瑞々しい魅力</h4><br>

<p>開演予定時刻から15分押し、観客がジリジリしはじめた頃だった。閉ざされた幕の向こうから楽器の音色が聞こえ始め、登場したのは総勢30余名のオーケストラ。バンドの頭上には、星空をイメージした降り注ぐような電飾の数々が光っている。と、いっせいに注目が集まる舞台上とは逆方向から、突如「キャーーーーッ」という歓声が。見ると、全身をフワフワの黄色い衣装に身を包んだYUKIが、1階客席・通用扉のあたりに姿をあらわしていた。</p><br>

<p class="entryRIMG"><img alt="YUKI『The Present』ライブレポート" src="http://www.cinra.net/column/images/20100618_yuki_photo2.jpg" width="220" height="330"></p>

<p>続いて、ざわめく客席の合い間から透き通るように響いてきたのは、「雲の上で遊ぶ仔熊にも〜♪」というYUKIの声だ。新作アルバムの最終曲”夜が来る”を冒頭にもってくる、意外性のある演出がたまらない。そしてゆったりと、本当にゆったりと、まるで「いまこのとき」（＝the “present” time）が過ぎ去ってしまうことを心から惜しむように、お客さんひとりひとりを見つめながらステージへと歩み寄っていったYUKI。その姿は、たったいま生まれ落ちたばかりの赤子のように、瑞々しい可愛らしさにあふれていた。</p><br>

<p>黒くてピカピカ光る高いヒールを履いたYUKIは、“Home Sweet Home”や“汽車に乗って”など、落ち着いた曲調のナンバーを次々と披露。まるで子守唄のように優しく紡がれるその歌声は、荘重な雰囲気の漂うBunkamuraオーチャードホールの空間や、彼女を暖かく見つめるお客さんの心を徐々に融かしていく。そして“歓びの種”で、衣装に身体を隠してうずくまったのち「発芽」をイメージして手足を伸ばし、「少し照れて　笑う君が　見えるよ〜」のあと縦横無尽にダンスしながら歌った彼女の姿は、観客に対する抱えきれない「感謝」や「愛」の気持ちを、懸命に伝えているように見えた。</p>

</div>

<div class="titleListBox">
<div>
<ul>
<li><a href="http://www.cinra.net/column/yuki-thepresent.php?page=2">2/2ページ：「全肯定」の歌、”うれしくって抱きあうよ”</a></li>
</ul>
</div>
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<p>=====</p>

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<div class="entryWrapp">

<div>

<h4>「全肯定」の歌、“うれしくって抱きあうよ”</h4><br>

<p>YUKIの曲が人を感動させるのは、そこに本当に多くの感情や経験が詰め込まれていることが、聴き手にヒリヒリと伝わってくるからなのだろう。彼女はこのライブで、新曲“うれしくって抱きあうよ”のことを、生きることを「全肯定する歌です」と説明してくれた（ちなみに全否定の歌は“ふがいないや”だという）。</p><br>

<p>ただ、その「全肯定」は、かつて“ハローグッバイ”で「私が見てきたすべてのこと／むだじゃないよって君に言ってほしい」と歌っていたように、人生の厚みをたっぷりと詰め込んだものだからこそ、人の心を動かすチカラがある。そしていまのYUKIは、そのすべてを肯定するという選択に、一片の迷いもなく突き進んでいる。そんな姿勢を感じさせた今回のライブは、もう圧倒的としか言いようのないパワーで観客を包み込み、ビリビリと肌を震わせてくれた。</p><br>

<p><img alt="YUKI『The Present』ライブレポート" src="http://www.cinra.net/column/images/20100618_yuki_photo1.jpg" width="450" height="300"></p><br>

<h4>例えようもなく美しい、夜明けのイメージ</h4><br>

<p>“COSMIC BOX”を唄い終えたあとに、マイクを使わずに生声で「ありがとう！」と叫んだYUKIはそのとき、ステージと客席の距離感をもどかしく思っていたのだろう。なぜなら、彼女が望むのはいつでも、そこにいる人たちとより近くで歓びをわかち合い、楽しみ合い、「今日は楽しかったね。明日もまた遊ぼう」と言い合って別れることなのだから。そして、クライマックスの”朝が来る”では、ライブの最初に登場した星々が再び瞬きはじめる。やがてサビの「I・M・A!!!／朝が来る」のタイミングでそれが絶妙に消えていくと、ステージ上には言葉では言い表せないほどに美しい、夜明けの光景が広がった。</p><br>

<p>「歌ばかりうたっている私に、むかしお母さんが言ったんです。好きなら、とことん歌いなさい。そのかわり、まわりの人への感謝の気持ちを忘れずにね、って」。歌からもらった歓びを、歌によって返すこと。その幸せを心ゆくまで噛み締めているYUKIの笑顔には、いま、一点の曇りもない。宇宙と釣り合うくらいに巨きな存在感をたたえて進んでいく彼女は、小さな子どものようであり、苦労を背負った大人であり、汚れを知らない少女であり、セクシーな妖婦であり、そのすべてが重なった、ひとりの奇跡のような女性だった。</p>

<div class="infoBox">

<h4><img src="http://www.cinra.net/interview/../images/title_information.gif" alt="information" width="450" height="18" /></h4><br>

<h5>YUKI<br>
『The Present』</h5><br>
<p>2010年6月14日（月）、6月15日（火）<br>
会場：Bunkamuraオーチャードホール</p>

<p>セットリスト</p>

<p>M1: 夜が来る　…from 5th Album『うれしくって抱きあうよ』<br>
M2: Home Sweet Home　…2004.08.18 7th Single<br>
M3: WAGON　…from 3rd Album『joy』<br>
M4: ミス・イエスタデイ　…from 5th Album『うれしくって抱きあうよ』<br>
M5: 汽車に乗って　…2008.04.16 17th Single<br>
M6: 歓びの種　…2005.09.07 12th Single<br>
M7: うれしくって抱きあうよ　…2010.02.17 20th Single<br>
M8: ハミングバード　…2003.03.19 6th Single<br>
M9: プリズム　…2002.3.06 2nd Single<br>
M10: チャイニーズガール　…from 5th Album『うれしくって抱きあうよ』<br>
M11: 66db　…2002.6.05 3rd Single<br>
M12: ティンカーベル　…from 3rd Album『joy』<br>
M13: ランデヴー　…2009.3.04 18th Single<br>
M14: ドラマチック　…2005.06.29 11th Single<br>
M15: COSMIC BOX　…2009.11.18 19th Single<br>
M16: 朝が来る　…from 5th Album『うれしくって抱きあうよ』<br>
---E.C---<br>
EC-1:　恋愛模様　…from 5th Album『うれしくって抱きあうよ』</p>

<p><a href="http://www.cinra.net/interview/2010/03/11/000000.php">CINRA.NET > 『うれしくって抱きあうよ』YUKIインタビュー</a></p>

</div>

</div>]]></description>
            <link>http://www.cinra.net/column/yuki-thepresent.php</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">コラム</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">小林宏彰</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 18 Jun 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>『6週間のダンスレッスン』公演レビュー</title>
            <description><![CDATA[<div class="entryLImgBox">

<p>2010年6月10日から27日まで、池袋のあうるすぽっとで、草笛光子と太川陽介のふたり芝居『6週間のダンスレッスン』が上演されている。2001年にカリフォルニアで初演され、日本公演を含めると昨年までに108回を数えた人気作。1週、2週…とダンスレッスンを重ねるごとに仲を深めていく難しい設定をどのように演じているのか。気になって劇場へと駆けつけた。</p>

<!-- /entryLImgBox --></div>

<br><h4>幸せを恐れるふたりの、孤独な部屋</h4><br>

<p>生きていくうえで、ひとが大切にすべき感情とはなんなのか。『6週間のダンスレッスン』は、そんなことをさりげなく示してくれる愛らしい作品だった。</p><br>

<p>フロリダに住む老婦人リリー（草笛光子）のもとに、彼女が申し込んだ出張個人ダンスレッスン「6週間でマスターする6つのダンスレッスン」のインストラクター、マイケル（太川陽介）がやってくる。初日からあまりにガサツな態度を取るマイケルに愛想をつかしそうになるリリーだが、二人の心の距離は、レッスンを重ねるにつれどんどん縮まってくることになる。</p><br>

<p><img src="http://www.cinra.net/column/images/20100615_6week_photo1.jpg" alt="『6週間のダンスレッスン』公演レビュー" width="450" height="300"></p><br>

<p>「年の差男女の恋愛物語」。あらすじを読むと、そんなありがちなドラマを想像するかもしれない。だがこの芝居は、安易な地点に落ち着かず、むしろとても難しい感情を表現するチャレンジを行っているところがおもしろい。</p><br>

<p>リリーとマイケルは、過去に受けた深く悲しい傷を抱える身。そんな彼らは、いつしか自分に幸せが訪れることを恐れるようになる。「私なんて幸せになれるわけがない」、「僕なんてダメに決まってる」。そんな思いを抱いてしまうと、人間はとても弱くなるもの。だからふたりは、いつもリリーの部屋で寄り添ってばかりいる。</p><br><br>

<h4>心の震えは、ダンスでしか伝えられない</h4><br>

<p>さて、この芝居が優れているのは、ふたりがお互いに対する思いを「決定的な」セリフで口にできないところにある。つまり、素直に「好き」「キライ」「一緒にいたい」と言えずに、婉曲的なコトバでしか自分の気持ちを表現できないのだ。なぜなら、そうしたコトバを口にした瞬間、すぐにそれが「嘘」になってしまうと感じているから。彼らがこれまで送ってきた複雑な人生とは、単純なコトバに置き換えられるようなものではなかったのだ。</p><br>

<p><img src="http://www.cinra.net/column/images/20100615_6week_photo2.jpg" alt="『6週間のダンスレッスン』公演レビュー" width="450" height="300"></p><br>

<p>それでも自分の気持ちを伝えたくてたまらないふたり。そんなリリーとマイケルが熱中したのが、コトバにならないコトバを交わし合うことができる、さまざまなダンスのレッスンだった。</p><br>

<p>草笛光子の繊細さ（かつファンキー！）、そして太川陽介のやんちゃな振る舞いの掛け合いが、精緻な脚本に命を吹き込む。男女の仲は単純ではないし、恋愛や友情も単純ではない。でも、音楽に合わせてダンスを踊ることが、雄弁に感情を語るすべとなる。約2時間半の旅を経れば、自然にそれを実感できるだろう。</p>

<div class="infoBox">

<h4><img src="http://www.cinra.net/interview/../images/title_information.gif" alt="information" width="450" height="18" /></h4><br>

<h5>『6週間のダンスレッスン』</h5><br>

<p>2010年6月10日（木）〜6月27日（日）計16回公演<br>
会場：東京　池袋あうるすぽっと<br>
休演日：6月15日、6月22日<br>
作：リチャード・アルフィエリ<br>
翻訳：常田景子<br>
演出：西川信廣<br>
出演：<br>
草笛光子<br>
太川陽介<br>
企画・製作：シーエイティプロデュース<br>
料金：一般 6,600 円（全席指定）<br>
問い合わせ：CATチケットBOX　03-5485-5999<br>
<a href="http://www.stagegate.jp" target="_blank">ご予約はこちらから（PC&携帯）</a><br>
</p>

</div>]]></description>
            <link>http://www.cinra.net/column/6dance.php</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">CINRA編集部</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">コラム</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 15 Jun 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
    </channel>
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