新時代を象徴する俳優は映画界を「捨てた」のか? アデル・エネルの引退表明が意味すること

(メイン画像:Denis Makarenko/Shutterstock.com)

去ることは闘うこと。エネルが達した結論までの文脈とは

日本の映画界で、映画監督や製作者などが次々と告発され、#MeToo運動の波が広がっている。日頃映画を楽しんでいるわれわれ観客も、このような業界の問題について態度を迫られつつある。

そんな昨今、海外でまた大きな動きが起こった。日本で2020年に公開され、局所的ながら大きなインパクトを与えることになった、フランスの恋愛映画『燃ゆる女の肖像』(2019年)。この作品で圧倒的な演技を見せ、これまでにも多くの賞を獲得している人気俳優アデル・エネルが、子役時代から長年身を置いていた映画界から引退し、舞台での活動に専念することを表明。少なくない映画ファンを落胆させているのだ。

このたびのエネルの決断は、ドイツのメディア「FAQ」のインタビュー(*1)のなかで述べられた。さらにそのなかでエネルは、「去ることは闘うこと」と発言している。しかしなぜ、映画界からの引退が「闘争」になるのだろうか。ここでは、その発言の意図を探りながら、彼女の映画界に対する逆説的なアプローチについて考えてみたい。

2020年、フランスの『アカデミー賞』といわれる『セザール賞』授賞式において、ノミネートを受けて出席していたエネルが「恥を知れ!」と大きな声を上げて退出する事態が起きた。その原因となったのは、授賞式でロマン・ポランスキー監督が監督賞を受賞したことだった。『セザール賞』でこれまで何度も賞を授与されているポランスキーだが、#MeToo運動が世界的な盛り上がりを見せるなかで、過去に13歳の子役に性的暴行をしたとされ、さらに複数の俳優から同様の告発をされている。そんなポランスキーが、新たに栄誉を与えられたのである。

この受賞には、フランス国内でもさまざまな否定的意見が寄せられたが、エネルがここまで激昂した背景には、彼女自身が同じように映画監督から性的な被害を受けた過去があるからだろう。

2019年にエネルは、デビュー作である『クロエの棲む夢』(2002年)のクリストフ・ルッジア監督から、12歳から15歳までにたびたび性的な暴力を受けてきたことを明らかにした。彼女は、この告発の目的について、自身の復讐ではなく、業界の改善のためであり、同じような状況にある人々との連帯だと述べている。これもまた、エネルの言う「闘い」の一環といえよう。

そんなエネルにとってみれば、依然としてポランスキーに栄誉を与える『セザール賞』は、自身が被害に遭ったころから、本質的に何も変わっていないフランス映画界の象徴であると受け取ったのも無理はない。そして、業界自体に嫌悪感を覚えて激しい言葉をぶつけたのも当然のことだといえるのではないか。

表現者による「不出演」――映画と政治性の不可分な関係

その後、前衛的な作風で知られるブリュノ・デュモン監督の新作SF映画に参加しながら、内容に差別的な思想や、性暴力についての無神経なジョークがあるとして、撮影途中で離脱することになったことが、エネルの業界への失望を決定的なものにしたと見られる。

演技力だけでなく、同性パートナーとの恋愛を表明するなど、映画界において新しい時代を象徴する存在として見られていたエネル。それだけに、彼女が映画界そのものから離脱することは、「映画界が時代から見限られた」ことを意味しているのかもしれない。映画が問題をキャンセルするのでなく、映画界そのものがキャンセルされてしまったのである。

もちろん、同様の問題は演劇界にも存在する。インタビューで彼女は、それでも舞台で活動を継続する選択をしたのには、演劇は比較的小さな規模でプロジェクトが成立するため、自分の納得できる環境、内容の仕事ができる余地があるという意味の発言をしている。そして、そのような状況が確保できる企画があるならば、映画作品に出演することもあり得るという。とりわけ、『燃ゆる女の肖像』のような作品には出演したいということなので、映画俳優としての彼女のファンにとって、未来の希望がすべてつぶされたわけではない。

インタビューのなかで、エネルは引退の理由を次のように語っている。

「政治的な理由です。なぜなら、映画産業は保守的で、人種差別的で、家父長制的だからです」

その後も、インタビューを通して「家父長制」、「人種差別」、「性差別」が、いまでも映画界に色濃く残っているという主張が語られる。とりわけ注目したいのは、現在の彼女にとっての「表現」とは、「政治性」と不可分だという点だ。そう考えると、彼女が敵視する、映画界にはびこる差別的な思想もまた、政治的なものだといえるのではないか。

「ポリティカル・コレクトネス」(政治的妥当性)をもとに映画などの表現が批判を浴びるケースが増えてきているなかで、そういった事態について、一方の政治的イデオロギーを過度に押しつけることで自由な表現を抑圧するものだとする意見もある。これは、とくに日本で多く見られる反応である。

しかし性的な被害を受けながら、社会や業界が加害についての意識が低いと感じているアデル・エネルの立場からすると、そもそも現在の社会状況や業界そのものが、すでに「保守的な政治性」を代表していると認識することもできるのだ。つくり手や受け手が意識せずとも、そこには従来からの政治的な思想が、大なり小なり組み込まれることになるのである。その意味では、映画そのものも、つくり手も観客も、「政治的存在」であることから逃れられないということになる。社会が、作品が政治的なものだとすれば、それに対する批判が政治的であることで批判されるいわれもないはずだ。

このように考えていくと、エネルのような表現者が表現を途絶させることもまた、政治性を含まざるを得ないあらゆる「表現」の、ひとつの形態であるといえるのではないか。彼女が映画に「不出演」し続けることは、映画界における能動的な政治活動であることはもちろんだが、多くの表現が政治と不可分であるという前提に立ってみると、これもまた一種の芸術表現だとする見方もあり得るかもしれないのである。

「映画」が前に進むには――。私たちの場所からできること

不世出の天才バレエダンサーであり振付家であった、ヴァーツラフ・ニジンスキーは、奇跡的に優れた跳躍力で知られていた。だが、やがて彼は、その代名詞でもあり、バレエの華である「跳躍」を自作で封印したことで知られている。しかし、その反逆的な選択は、自らの芸術性をより高めることに寄与することとなる。彼は、身体でなく精神や思想の面で、これまでの重力から解き放たれ、より高く跳躍したのである。

アデル・エネルの映画界からの引退は、彼女のキャリアにとって、表面的には後退しているように見えるのかもしれない。しかし、彼女が不本意な思いを抱えながら演技をすることが、芸術的な前進だということもできないはずだ。新しい世代が、女性や年若い存在であるだけで、同じように抑圧や搾取にさらされ、社会的強者にとっての芸術ばかりが権力をふりかざしてきたという状況。それを少しでも変えていく力となりたいという彼女の決断は、それ自体が「映画」を、政治的にも芸術的にも前に進ませようとする表現だと考えることもできる。

この事実は、われわれに映画や創作物、そして社会との新たなかかわり方を示唆しているといえる。もちろん、アデル・エネルの選択が唯一の正解だとはいえないが、彼女の決断が、現状に対してのさまざまな考え方や、可能性を喚起させるものであることは間違いないだろう。そして、われわれがエネルのような被害を受けた人々にできることがあるとすれば、自分の場所から、それぞれの方法で社会を少しでも変えていくことしかないのではないだろうか。

映画作品が社会状況の反映であるように、映画業界もまた社会全体と相互的にかかわっている。社会が変化していくことで、アデル・エネルが帰還したくなるような映画界の環境も実現できるはずなのである。



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