映画『よだかの片想い』を『顔にあざのある女性たち』著者はどう観た? 安川有果×西倉実季が対談

島本理生の小説を原作とした、映画『よだかの片想い』。本作の主人公であるアイコの顔の左側には、生まれつきのあざがある。恋をきっかけに、アイコの人生が揺れ動く瞬間を描いた本作は、それを悲劇として描写することはないけれど、あざがあることによってもたらされる状況を繊細に描き出す。

気心の知れた人たちとの関係において、アイコは取り立ててあざのことを意識せず暮らしているように見える。その一方で、街中を歩いていてふと耳に飛び込んでくる「キモい」という言葉が、本来はまったく異なる文脈で発せられた言葉だったにもかかわらず、まるで自分に投げかけられたかのように感じてはたと立ち止まってしまう――。

あざを持たざる場合においても、生まれ持った見た目をジャッジしようとする不躾な視線や言葉によって、ときにはそれが褒め言葉のつもりであっても苦痛を感じたり、そうしたジャッジを気にかけず強くなるよう、一方的に変革を迫られる場面は少なくない。しかし、変わらなければならないのは本当に視線や言葉を投げかけられた側の方なのだろうか。

今回は『よだかの片想い』の監督を務めた安川有果と、著書において、顔にあざのある女性たちへのインタビューを重ねた研究者の西倉実季による対談を実施。あざの問題経験とも複雑に絡み合う「ルッキズム」という言葉の意味や役割、作品に込められた想い、そして外見の話題をめぐる現状の違和感や改善のアイデアについて、二人が語りあった。

映画『よだかの片想い』予告編。顔の左側にアザを持つ理系大学院生・前田アイコ(松井玲奈)の人生が「顔にアザや怪我を負った人」をテーマにしたルポ本の取材を受け、書籍の映画化に際して監督の飛坂逢太(中島歩)と出会ったことから変化していくというあらすじ。主演の松井玲奈自身が物語に惚れ込み、長年映像化を熱望していた

あざ、美醜、ジェンダー。完全に切り離せない問題経験

─今回の対談にあたって、安川さんは西倉さんの著書『顔にあざのある女性たち―「問題経験の語り」の社会学』を読まれたそうですね。今日もたくさんの付箋を貼ってお持ちいただいています。

安川:あざを持つ当事者の方の声など、自分の知りたかったことがたくさん書かれていて、夢中になって読んでしまいました。

─西倉さんは本のなかで、あざがあることによる問題経験はいわゆる美醜の問題とは別であると書かれていましたが、あらためてこの区別についてうかがえますか。

西倉:あざのある人々は、例えば子どもに顔を覗き込まれたり、就職の面接で見た目を理由に排除されたりといった経験をしています。

いわゆる「普通」の見た目の人は、外見の美醜をジャッジされたとしても、そうしたことまでは経験しませんよね。当事者の方はずっと私に「その差をわかってもらえないから自分の苦しみが過小評価されている」と言っていたことに、数年かけて気づきました。

一方で、恋愛のようなプライベートな場での経験について当事者の方にお話をうかがっていると、いわゆる美醜やジェンダーの問題と完全に切り離しづらい部分もあるのではないかと感じています。『よだかの片想い』も、主人公が女性でなかったとしたらまったく同じ物語は成立しづらいのではないかと。

安川:『よだかの片想い』の制作チームでこの問題について話した時に、ある男性のスタッフが身体に傷があるけれど、それについてまったく気にしたことがないと言っていました。人によるとは思うのですが、やっぱり性別によって圧倒的に非対称なところはあるんですよね。

西倉さんの本に登場した当事者の方々のインタビューを読んで、自分自身の経験と重なる部分も多かったんです。肌がすごく荒れていたときに人前で化粧を落とすのが嫌だったりとか。

生まれながらに顔にあざがある経験とは苦しみの度合いが違うと思いますし、「わかる」と言いきることに躊躇いはありますが、所々で自分の経験と重なる部分は間違いなくありました。

自分の領域を脅かされているときに必要な言葉の一つが「ルッキズム」だったのかもしれない(西倉)

─近年「ルッキズム」という言葉も浸透しつつありますが、多くの人が他者からのまなざしによって見た目をジャッジされる経験をしてきたからこそ、この言葉が広まっていったのではないかと感じます。

安川:ルッキズムという言葉が浸透したことで、見た目のことを軽々しく口にするのは問題があるんだという意識が広まったような気がしています。これまで映画の仕事をしてきたなかでは、久しぶりに会ったスタッフから「あれ太った?」と言われるようなことが結構あったんです。だけど、最近は言われなくなりました。言葉が広まったからこそ、容姿について気軽に触れるのは問題があるのかもと気づいた人もいるのではないでしょうか。

─ルッキズムという言葉は「外見至上主義」と訳されることも多いですが、本来は雇用などの場面における、外見に基づく偏見・差別についての研究に端を発しているそうですね。

西倉:学術的に分析をするときにあまりに広く意味をとると、言葉の切れ味が失われてしまうという問題はあると思います。ただ一方で、外見をめぐって理不尽で不当な扱いを受けているという思いを多くの人が持っていて、でもそれを表す言葉がなかったなかで、「ルッキズム」という言葉がぴったり当てはまったんだろうなという気がします。

たとえそれが褒め言葉であっても、自分が望まない他者からの外見への言及に苦痛を感じたり、「褒められたのに否定しなかった」とか、外見への言及にどのように反応するかまで含めて試されているような感じがしたりすることはありますよね。

─うまく返答しないといけないように感じてしまったりします。

西倉:自分の領域を脅かされていると感じて「やめてほしい」と言いたいときに必要とされている言葉の一つが「ルッキズム」だったのかもしれません。その意味では、あざのある方が周囲から「治さないの?」と言われたり、余計なお世話を焼かれたりする経験と共通するところもあるのかなと思います。本来であれば、自己をどういう風に見せるかは自分の問題のはずですよね。

ポッドキャスト番組『わたしたちのスリープオーバー』では西倉とMCを務める編集者の竹中万季、野村由芽が「自分の見た目がいやになったことがある?」をテーマにトークを展開している

「全部さらけ出して受け入れてもらう必要なんてない」台詞に込めた想い

安川:西倉さんがインタビューした方々は、あざを隠すためのメイクについて、「仕方のないもの」とか「いつかばれるかもしれないもの」というとらえ方をされていたと思うんです。

一方で『よだかの片想い』には、自らの探究心として化粧を楽しんでいるキャラクターも登場します。それは自分がこの映画のなかに、化粧というものをポジティブにとらえられるような存在を入れてもいいんじゃないかなと思ったからなのですが。

西倉:たしかに、あざを隠すメイクをする・しないという選択について、私がインタビューした方たちはすごく迷っていたり、どちらかを選んだとしても「私はこちらを選んでしまった」というような感覚を持っていたりしました。

それほどまでにあざは周囲から「隠さなければいけないもの」として見られてきたんだと思いますし、だからこそ絶対にそうした視線に負けたくなくて、あざを隠さずに生きてきた方もいます。いずれにしても負荷がかかっているんですよね。

だからこそ、映画のなかの「全部さらけ出して受け入れてもらう必要なんてない」という台詞はすごく示唆的でした。

安川:あざを隠すことも悪いこととして描かないようにしたいなと思って。隠しても隠さなくても、自分は自分であるというか。

─西倉さんの著書のなかでも「問題を〈克服〉することだけが対処のあり方ではない」と書かれていたことがすごく印象的で。

西倉:顔にあざを持つ当事者の方にお話を聞かせていただくなかで「自分はこの顔で生きていかざるを得ないわけだから、この先も問題は数々起こるかもしれない。けれど、これまで自分はなんとかしてきたし、これからもそういう人生を歩むだろう」という静かな決意みたいなものを感じたんです。だからあざの問題について「克服している人」と「していない人」と区別するのは違うんじゃないかなと思って、ああいう風に書きました。

「わかった気になってしまうのは違う」

─『よだかの片想い』の主人公・アイコは「顔にアザや怪我を負った人」をテーマにしたルポ本の取材を受けます。劇中ではそのルポ本が映画監督の飛坂逢太によって映画化されることになり、アイコを演じることになった女優・城崎美和が、役づくりのためにあざのメイクをして街中を歩くシーンがありました。西倉さんもあざのメイクをして外出した経験について著書に書かれていましたね。

西倉:当事者の方から「私の話が通じないんだったら、まずはあなたもあざのメイクをしてみて」というようなアドバイスをいただいたことがきっかけだったのですが、言われた当時はすぐには実行できなくて。

というのも、自分があざのメイクをすることで、当事者の人たちの気持ちをわかったつもりになったり、「あざのメイクを経験したから研究する権利がある」と思ってしまったりするとしたら、それは違うと思ったんです。でも結局、やってみてと言われたのにやらないのも、研究者としてはだめだろうと思って実行してみました。

安川:「わかった気になってしまうのは違う」というのはたしかにそうですよね。

西倉さんの本の中で、当事者の方から調査の動機を尋ねられたと書かれていましたけど、私も映画のなかで、アイコが飛坂の考えに納得したうえで映画化をOKするという流れは強く意識しました。また、自分と同じ映画監督である飛坂に、あざの問題をフィクションで扱うことについて、どんな考えを持っているのかはちゃんと語らせたいと思いました。これらは全部自分自身に跳ね返ってくる問題でもあります。

「当事者性」について言うと、この映画でアイコを演じた松井玲奈さん自身は、メイクを落としたらあざが取れてしまう人です。美和の存在によって、当人の切実な問題ではないけれど真摯に取り組んでいることを示せたらと考えたのですが、この点を当事者の方がどう感じるのか気になっています。

西倉:でも、劇中で美和はメイクをしたことによって「あざがある人の気持ちがわかった」とは言っていないですよね。あくまでも「周囲からの視線が普段と違うことがわかった」と言っていて。決して当事者の気持ちを「わかった」とは言っていないところが大きな違いだと思いました。

当事者ばかりが声をあげつづけなければいけない状況、どうしたら変えられる?

安川:映画のなかでは、美の画一的な提示の仕方や抑圧について掘り下げてみることも考えていました。例えば美和が出ている化粧品のポスターが街中に貼られていて、「社会が良しとする美の価値観に則って売れている女優があざのある自分を演じるって何?」とアイコが葛藤するシーンを入れようかなとか。結果的に、映画としてとっ散らかってしまうかもと思い、そこはあまり問い詰めない仕上りになったんですが。

─原作にも「美人の女優」が自分の役を演じることについて、アイコが「何も分かっていない」と感じる描写がありましたよね。化粧品のポスターを例に出されていましたが、現在のメディアによる美の提示の仕方についてどのように感じていますか?

安川:「画一的な美に沿わなくてもいい」というメッセージを打ち出している広告すら、「いかにも」だと感じることが多いんです。アイコニックなタレントを多様性の象徴として起用しておけばいいというような安易さを感じてしまって。

西倉:「みんな違ってみんないい」という言葉が、マジョリティー側の見方や振る舞いに反省を迫るようなものではなく、歴然とある差別を見えなくする言葉として使われてしまっているような場面もありますよね。

「ボディポジティブ」や「多様性」といった言葉が、美の画一性に気づき、外見に基づく偏見・差別を解消していくための言葉というよりも、「こういう商品もありますよ」とマーケティングと密接に結びついた言葉として使われているようなところに、かなり疑問を持っていて。

安川:「この言葉さえ押さえていれば問われない」と、マジョリティーの身の安全のために使われている場面もありますよね。

西倉:いま私が直近で研究しているのは障害の問題なのですが、ここもマジョリティーのあり方が問われてこなかった領域です。例えば建物の構造一つとっても、まるで社会にはマジョリティーしかいないかのような想定でつくられていることがもっとも大きな問題のはずなのに、そこにはなかなか目線がいかなくて、「困ってる人がいたら手伝いましょう」みたいなアプローチばかりがどうしても先行してしまう。

安川:少し話は逸れますが、私は映画やドラマの現場で「女性の描き方」が議題にあがったときに、相談役として呼ばれることがあるんです。

作品に関わっている人自身がその問題に対して深く考えることが大事なのに、「メンバーに女を入れればいい」と安易な思考停止になっていることも多い気がします。どうやったら真剣に考えられるんですかね。映像の現場はみんな忙しすぎるというのが大きいかもしれないですけど。

西倉:マジョリティーは自分たちが社会の基準になっているので、社会がマジョリティー仕立てに偏っていることに気づきにくいんですよね。だから自分たちが「普通」だと思ってきたことが変えられると、「何でそこまでしなければならないんだ」といった抵抗の声も多くあがります。障害の問題でいえば、その場限りの手伝いだったらするけれど、構造自体を変えられるのはまっぴらごめんです、と。

─社会構造の偏りによって負荷を感じている側ばかりが考え、声をあげ続けなければならない状況はさまざまな場面で起こっているように思います。構造そのものが変わっていくことを求めると同時に、とくに外見をめぐる不当なジャッジが行なわれている状況を改善したいと考えている一人ひとりができることがあるとすれば、どのようなことでしょうか。

西倉:外見の話題は、親しさの表現やアイスブレイクトークとして簡単に言及されるところがありますが、じつは尊厳と密接に関わっていて、そこに意図しない関わられ方をしたときに、アイデンティティーにものすごく影響が出るものだと思います。そのことを私は顔にあざのある当事者の方々へのインタビューから受け取りました。

ですから、外見というものの重みや、アイデンティティーとの切り離し難さをもう少しみんなで共有できたらいいのかなと思っています。「不用意なことを言わないように」と言うだけではなく、「これって、私やあなたにとってすごく大事なものだよね」と、尊厳と結び付けて理解するようなあり方があってもいいのかなと。

安川:私は西倉さんの本を読んだことで、インタビューに登場する、顔にあざのある当事者の方たちと勝手に知り合いになったような気持ちになりました。そういうふうに一人ひとりに興味を持っていくことで変わっていく状況もあるのではないかと思います。内面を知ることで、あざだけに注目しなくなるというか。

本のなかで当事者の方が「もっとメジャーな問題として扱われていってほしい」と仰られていましたが、フィクションで扱うことも一つのアプローチだと思うんです。『よだかの片想い』はあくまで普通の青春映画で、そのなかにアイコというあざのある人物が存在しています。社会問題を一人に背負わせるのではなく、エンターテイメントの中心に、当たり前にいる存在として扱っていくことも必要かなと思っています。

作品情報
『よだかの片想い』

2022年9月16日(金)から新宿武蔵野館ほか全国公開中
監督:安川有果
書籍情報
『顔にあざのある女性たち―「問題経験の語り」の社会学』

2009年7月1日(水)発売
著者:西倉実季
価格:3,300円(税込)
発行:生活書院
プロフィール
安川有果 (やすかわ ゆか)

1986年生まれ、奈良県出身。2012年、CO2(シネアスト・オーガニゼーション・大阪)の企画募集で選出され、『DressingUp』を監督。『第14回TAMA NEW WAVE』にてグランプリと最優秀主演女優賞を獲得した後、2015年に全国の劇場で上映され、『第25回日本映画プロフェッショナル大賞』の新人監督賞を受賞した。その後、オムニバス映画への参加や舞台作品などを経て、長編第2作『よだかの片想い』(2021年)を監督。『東京国際映画祭』のアジアの未来部門に選出される。

西倉実季 (にしくら みき)

東京理科大学准教授。専門は社会学、ライフストーリー研究。研究テーマは、疾患や外傷が原因で外見に特徴をもつ人たちのディスアビリティについて。著書に『顔にあざのある女性たち―「問題経験の語り」の社会学』(生活書院、2009年)。



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