パリ・セーヌ川に浮かぶデイケアセンター。『アダマン号に乗って』が伝える、文化や生活の営みの大切さ

パリ・セーヌ川に浮かぶ⽊造建築の「船」。精神疾患のある人々を迎え入れるデイケアセンター「アダマン」の日々を映したドキュメンタリー映画『アダマン号に乗って』が、4月28日から公開される。今年の『ベルリン国際映画祭』で最高賞の金熊賞を受賞した本作は、『ぼくの好きな先生』(2002年)などで知られるフランスのドキュメンタリーの名匠ニコラ・フィリベール監督による最新作だ。

フィリベール監督は、精神疾患への偏見やスティグマの根強い社会において、患者に敬意を払い、「人間」として扱うこのような場所を「人間の言葉と想像力をいきいきと保つ場所」であり「奇跡」と呼ぶ。アダマンのあり方、そして映画に映る、アダマンに集う人々の姿は私たちに何を問いかけているのだろうか? コロナ禍に約1年をかけてアダマンに密着した監督に、ライターの鈴木みのりが質問を投げかけた。

パリ・セーヌ川に浮かぶ木造の「船」。デイケアセンターの日々の営みを映す

フランスの映画監督ニコラ・フィリベールが手がけた『アダマン号に乗って』の舞台は、フランス・パリに流れるセーヌ川で浮かぶ、木造建築の船状のデイケアセンター「アダマン」だ。

ただし、映画はそこがどういった場所なのかという情報を、先んじては提示しない。だから、なにも知らずに観始めたわたしは、ロックを歌う人、描かれた絵について説明をする人、何かについて話し合う人々といった様子を前に、何がこの場所で起きているのか把握するまでしばらく時間がかかった。

映画の中心に置かれているのは、アダマンに通っている精神疾患を持つ患者の人々だ。そのようにここで説明してしまうことと矛盾するけれど、映画のなかではっきりとした情報の言葉にはまとめないのは、先入観を持たず登場する人々に触れてもらおうとする意図からじゃないだろうか、と想像する。実際、デイケアセンターに出入りする人々を、患者/看護師や医師などのケアチーム、と分けて語られるシーンや演出はほぼなく、自己紹介で肩書きを述べる人がひとりいる程度だ。

アダマンのある場所をGoogle Mapsで調べたところ、2021年の11月にわたしが1週間パリに滞在した際に借りた、5区のアパートからもそれほど遠くなかった。パリの観光の拠点であるマレ地区や、そこからセーヌ川を渡って南にある、地元民が多く住むという13区や14区からのあたりからも電車で30分程度で行けそう。街路樹、街や川の水面を照らす光の揺らぎ、ひとりベンチに佇みタバコを吸う人。ありふれた日常のシーンが映画の随所に挿入されているのはきっと、このデイケアセンターとそこを利用する人々を、身近なものとして見せるためだろう。

『アダマン号に乗って』予告編

「患者の才能を引き出し、『病気』の枠に閉じこめない」アダマンでの文化・芸術との関わり

この記事を読んだり映画の感想を書いたりするように、わたしたちが何かに興味を持つのと同じで、アダマンに集う患者の人々は芸術・文化に関して語る。そして、音楽を披露する、ポートレート写真を撮る、絵を描く。そうした様子に強く惹きこまれた。

「いろんな人にいろんな才能があると私は思ってるんですね。映画のなかでは、患者さんが絵を描いたり、文章を書いたり、作曲したり、歌ったり、いろんな自分の才能を発揮しています。ただ、本人が(その才能を)知らない場合もあります。

アダマンの良さは、『この人はいろんなことができる』と才能を引き出し、(何かをすることを)勇気づける作業をしているところです。『病気』の枠に閉じ込めてしまわない。

また、精神医学の分野では、薬も大事ですが、やはり人間関係が重要です。患者さんが外の世界ともう一度つながりをつくっていくことができるような(コミュニケーションや行動の)橋渡しをしてくれる人が必要になるわけです。かれらは一種のコミュニケーションができない病気でもあるので、精神医学に精通した看護師さんや医師のような、つながりをつける人が必要なんです。その橋渡しがあって、だんだん、希望ややってみたいことも出てくる」(ニコラ・フィリベール)

「(フランスでは)医療費が削減され、特に精神医療に関しては人手が足りないという大きな問題がある」

アダマンでは、裁縫、音楽、読書、雑誌、映画上映会、作文、絵画、ラジオ、リラクゼーション、革細工、ジャムづくり、文化観光など、数多くのワークショップが行なわれているという。

たとえばジャムづくりの際に、廃棄される果物を譲ってもらいに施設利用者が商店に向かうシーンは、つまり地域交流があり、患者を「患者」の枠に、「病院/医療施設」のなかに閉じ込めるのではなく、街に開いていく実践がなされているという示唆だ。また、アダマン号にはカフェがあり、その運営と接客も外の世界との接点を持つために機能しているのだと伝わってくる。

こうした映画のつくりによって、説明や解説では届かない、アダマンに集う人々が生活者としてそこに生きているという実感が観客に手渡される。

一方で、公式パンフレットでのフィリベールへのインタビューによると、アダマンのようなオープンな医療ケア施設は貴重で、ほかでは「機能的でさえあれば十分」とされていることのほうが多いという。そしてフランスの医療の状況は、予算削減、病床の閉鎖、人員不足が進んでいるのだそう。これは、もちろん同じではないけれど、日本と似ているとも感じられる。介護報酬や診療報酬を引き上げるような政策が進み、社会保障費が削減される傾向がずっと続いているように。

「医療費が削減されているのは事実で、特に精神医療に関しては人手が足りないという大きな問題があります。しかし、予算削減によって人材不足が起こって、人間関係をつくり直していくうえで、十分な時間を割くことができる人がいないという問題があると思います」(ニコラ・フィリベール)

『アダマン号に乗って』で、「SFや漫画やポップスがあったからこうして生きてこられた」と語る人がいた。きっと、ジャンルは違っても、文化・芸術に助けられて生きてきた人はたくさんいるだろう。

アダマンの付近には、シネマテーク・フランセーズ(映画に関する資料や物品なども所属され、映画鑑賞もできる、映画博物館)もある。わたしも、先述したパリ滞在の際に、アダマンのある場所の逆側にあたる、セーヌ川左岸の船のなかにあるライブ会場の行き帰りにも歩いたことがあった。フィリベールにそう話すと、「たしかにこのあたりは、船の形をしたレストラン、バー、パーティスペースがあったり、ファッションを学ぶ学校もあったりします」と返事があった。

「私の感覚ですが、フランスでは文化を楽しむ人たちの層は広く、そして多様性とコントラストがあると思います。もちろん、音楽が好きと言っても好きなジャンルが違ったり、演劇、ダンス、建築など好きな文化の対象もいろいろあったりするでしょうが、すごく広い範囲で、いろんな興味を持っている人が多く存在しています。

ただ、貧しい人とか、生活が不安定な人で、文化や芸術にアクセスできない人もいます」(ニコラ・フィリベール)

「プロ」の語りではない、社会的に周縁化されている人々による文化・芸術についての語りの重要性

そう、文化や芸術は人と人をつなぐために機能する。

しかし、わたしの実感としては日本では、芸術やエンタテインメントについて、その「専門の」言葉や知識を持つ人が「プロとして」語り、その語りこそが「正しい」という傾向がメディアにはあると思う。

ブログやSNSを通じて、知識人や文化人としてではない語りに触れる機会も増えてはいるものの、風通しが良いとは決して思えない。一般的にも、文化の消費主体は、日本国籍を持ち日本では多数派の肌の色や見た目をした、健常で経済的にも学歴的にも中産階級以上の、シスジェンダーである、特に男性が中心だ。なぜなら、文化・芸術を楽しむにもお金が必要で、そのお金を得るための就学や就労といった機会が特定の属性である人々に偏りやすい、社会構造上の問題が影響しているからだ。

『アダマン号に乗って』では、「プロとしての正しい専門的な語り」ではない、芸術やエンタメについて話される様子がとても豊かだ。とりわけ、社会的に周縁化されていて、語りに信頼を寄せられていない人々の声に光を当てる点はとても重要だと思った。

「社会がすごく歪んだ目で見てしまう、そういう状況を変えていくことが必要だと思います」

映画のなかに、みずからの被害妄想によって他者を攻撃しかねない心情についての語りから、「人は憎しみを抱いている、だから戦争を起こして殺す」と分析する人物が出てくるが、こうした心情も、他者とのつながりが生まれ、社会へと開かれていけば沈静化しうるかもしれない。映画で取り上げられる、鳴き声を聞いているだけのアクティビティーは直接的には何に作用するのかわかりにくいだろうけれど、何かを沈静化する効果があるように見える。

「私たちの社会において、精神病にかかっている患者を『危険だ』『暴力的だ』『責任を持てない』『頭がおかしい』、そんなふうに決めつけてしまう人が多いです。たしかにそういう人も一部にはいるけれど、ほんの少しなんです。そのほかの人たちは、映画を観ていただけるとわかるように、気が弱かったり、社会的な弱者だったりする。危険な人はほぼいません。

社会が(精神病と診断された人々を)すごく歪んだ目で見てしまう、そういう状況を変えていくことが必要だと思います。私たちは皆いろんなものを持ってる複雑な存在で、『この人はこうだ』と決めつけて終わらない社会の在り方について考えないといけないんじゃないかと思うんですね」(ニコラ・フィリベール)

文化や生活の営みによって、他者や社会との接点をつくる

公式パンフレットでのインタビューでフィリベールは、アダマンの精神科医療の特徴について「常に外の世界と接し、起きていることすべてにオープンで、あらゆる貢献者を歓迎する場所」と話している。同インタビューで指摘されている、階級制、縦割り構造、退行、惰性、官僚主義などによって医療ケアの制度が脅かされている状況に対し、アダマンはそのオープンさで抗っているのだろう、とわたしは思った。

理想論かもしれないけれど、経済などの階級や、それに則った縦割りの社会構造ではないかたちで、他者や社会との接点をつくるのが文化や生活の営みなのだと、この映画は示唆しているように見える。

その象徴的な実践のひとつが、アダマンで毎週月曜に行なわれているミーティングだ。

映画では、司会のような役割を、施設利用者である患者が持ち回りで務めているように見えた。またある日のミーティングで、新しくケアチームに参加する精神科医からのあいさつのエピソードにうかがえるように、あくまでも主導するのは患者側という点が興味深かった。精神科に限らず、治療や医療によるケアというサービスをいかに受けるか? という主体は患者自身であるべきだとわたしは思う。医療における主体性について、フィリベールはどう考えているのだろうか?

「おっしゃってることは非常に重要な点だと思います。患者さんが、ほかの人から『責任を持てる主体』として見られることが大事ですよね。自分に対して責任が取れて、自分の人生を自分でなんとかしていく主体として活動していけるように、アダマンでも支援をしています。

ただの病気のケースとして見るのではなく、自分を人生の中心のテーマとして、自分が主体として生きていくという治療のしかたは重要です」(ニコラ・フィリベール)

アダマンに集う患者の人々には、周りの人が攻撃的に感じられる幻聴がするという人、親が偉大すぎて何も言えなかったという人いる。ただ、その度合いのグラデーションはあるだろうし、医療の支えが必要な人とそうでない人をまとめて一般化できない部分はあるけれど、このように感じられる人、感じたことのある人もきっと少なくないだろう。

このテキストの最後に、ロックを歌う施設利用者について触れたい。歌われているのは「自分の運命を誰かに支配させたら終わりだ」「誰も自分自身を手放すべきじゃない」という内容だ。序盤に登場するこのシーンで映画に、アダマンという施設に、そこに集う人々にグッと引き寄せられる。

この映画では印象に深く残る人々やシーンがほかにもたくさんある。ぜひ劇場に向かったり、それが叶わなければ、何らかのかたちで映画を観る機会を持って、アダマンの人々に出会いに行ってほしい。

作品情報
『アダマン号に乗って』 2023年4月28日(金)からヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国公開
監督:ニコラ・フィリベール
配給:ロングライド
プロフィール
ニコラ・フィリベール
ニコラ・フィリベール

1951年ナンシー生まれ。グルノーブル大学で哲学を専攻。ルネ・アリオ、アラン・タネール、クロード・ゴレッタなどの助監督を務め 1978年『指導者の声』でデビュー。その後、自然や人物を題材にした作品を次々に発表。『パリ・ルーヴル美術館の秘密』『音のない世界で』で国際的な名声を獲得。『ぼくの好きな先生』はフランス国内で異例の200万人動員の大ヒットを記録し世界的な地位を確立する。2008年には日本でもレトロスペクティブが開催された。本作で『第73 回ベルリン国際映画祭』金熊賞(最高賞)受賞。 / Photo©Michael Crotto



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