生きているいまここがバトルグラウンド。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の複層性

本年度『アカデミー賞』最多11部門にノミネートされている映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が日本公開を迎えた。人気スタジオA24が贈る本作は、アメリカでコインラインドリーを経営する平凡な女性が、突如「全宇宙にカオスをもたらす強大な悪」と戦う救世主となり、マルチバースを行き来しながら最大の敵「ジョブ・トゥパキ」と対峙するという奇想天外なストーリーだ。

日々の生活や家族の問題に追われる主人公エヴリンは、別次元のバースでは映画スターやシェフなどとして、まったく異なる人生を歩む。彼女は別次元の自分と「バース・ジャンプ」でリンクしながら戦いに身を投じていく。そのアイデアの巧みさやコミカルなアクションエンターテイメントとしての魅力だけでなく、エヴリンのキャラクターに色濃く滲むアジア系移民としての経験や、エヴリンと女性の恋人を持つ娘ジョイの関係が本作の物語をさらに複層的なものにしている。

ライターの鈴木みのりは、壮大なバトルの背景にある、登場人物たちがさらされている日常的な不安、そして本作が包摂するさまざまなマイノリティのなかの差異に注目する。私たちが「アジア系」や「クィア」という言葉を用いたときにこぼれ落ちるかもしれないものはなにか。この社会にはこれまでも、いまも、「すでに異なる立場・属性の多様な人々が存在してきた/いる」のだ。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』あらすじ:経営するコインランドリーは破産寸前。ギリギリの暮らしを送る主婦・エヴリン(ミシェル・ヨー)。ある日、そんな彼女のもとに「別の宇宙から来た」と名乗る夫・ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)が現れる。「全宇宙を救えるのは君だけだ」と突如世界の命運を託されたエヴリンは、啞然としながらも夫に導かれマルチバースへジャンプ。「別の宇宙を生きるエヴリン」が持つさまざまな力を得て予想も常識も遙かに超えた壮大な闘いに挑んでいく。

※本記事には映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。

日々の生活や家族のこと、税金の監査……一人の移民女性の、目が回るような一日

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(以下、『EEAAO』)の冒頭、大量の書類とレシートの前に気忙しく座るエヴリン(ミシェル・ヨー)の姿を見て、わたしは親しみを覚えた。片付けられてないダンボール、デスクの向こうの食器棚やテレビの置かれた棚の天板の上にいくつも置かれた大きな洗濯物の袋、積み上げられたクリアケースの上で回る扇風機、整然としたミニマリストからはほど遠い部屋。

書籍や映画のレシートをどの仕事の経費にするべきか? 読書や観賞体験が必ずしも特定のひとつの仕事にのみ関わるわけではないから複数の仕事にわたって分割するか? 住宅と基礎的な生活はプライベートな区分と思われるけど、自宅で仕事をしているのだから食費や光熱費なども事業に関わる費用として扱えるとはいえ、年ごとに所得は変わるから、あれ? どうするんだっけ? 税理士にお願いするほどの収入がないため、自分ひとりで考えなければならず、順序立てて考えたり作業したりノイズが入って中断すると気が散ったりマルチタスクが困難だったりする性質もあるし、これらが混じって影響し合う確定申告の時期の、はかどらなくて混乱してうんざりするあの感じを、わたしはエヴリンに投影する。

エヴリンは、経営しているコインランドリーへの監査のため、国税庁に行く準備をしなければならない。そこに夫ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)が「話をしたい」とやってくる。中国から来た父親ゴンゴン(ジェームズ・ホン)の誕生日と春節を兼ねたお祝いの準備もあり、エヴリンは夫を無碍にしてしまう。さらに、娘のジョイ(ステファニー・スー)も恋人のベッキーを連れてやって来る。

英語では税金にまつわる専門用語がわからず、エヴリンは、国税局での通訳をお願いするつもりだったジョイの恋人が、女の子(演じるタリー・メデルはノンバイナリー)であることを父にどう説明したらいいか悩みながら、「お友達」と紹介してしまう。ジョイは不服そうに出て行く。

日々のあらゆるが手に負えない。そう言葉にするとエヴリンに自分の生活を重ね合わせることができそうだけど、駆け落ちするように中国からアメリカに移住した移民一世が、何十年も定住し、自分と異なるセクシュアリティの子どもの親になる人生そのものを、日本に生まれ日本に育ち住んできた自分にわかるわけがない。広東語や英語が入り混じる会話が日常的である人の意識の流れはわたしには想像がつかない。似ているようで、同じわけがない。

それでも、監督・脚本のダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート(ダニエルズ)が抽出する、映画のなかの人々の長年の困難、幸福、親密さ、さまざまな感情の襞まで想像できそうな、ほとんどたった一日の濃密なドラマに没入してしまう。

マルチバースの戦いの背景に絡む、日常的にさらされる不安と「黒いベーグル」への誘惑

加えて、『EEAAO』の気楽に楽しめる娯楽アクション映画としての達成度には、脱帽させられる。

エヴリンは国税庁のビルからマルチバースへとジャンプし、複数の並行世界にいる自分が磨いた技や力を駆使して、熾烈な闘いに身を投じる。その飛躍のさせ方ひとつとっても類がないと思うが、この映画はさらなる飛躍的な可能性を模索している。

移民の家族の歴史、世代間のギャップ、エヴリンを悩ませるマルチタスクや関係が良好とは言えない父の介護、夫婦仲について話し合いたいけど切り出せないウェイモンド、レズビアン(あるいはバイ/パンセクシュアル)である自己への不承認によってジョイが抱える抑うつといった、エヴリンたちひとりひとりの日常生活におけるしがらみとコミュニケーション不和の葛藤と慈しみのドラマを、バトルグラウンドの背景に絡ませようとし、見事に成し遂げているのだ。

ああ、これもわかる、いつだっていまここがバトルグラウンドになりうるんだ、とわたしは思った。高校生ぐらいから、いま自分が生活している空間で、マイノリティ属性を理由に誰かに攻撃されるのでは──混雑した電車のなかで、いつも行くドラッグストアやスーパーで、歩いている途中で、誰かに殴られたり、刺されたり、暴言をぶつけられたりするんじゃないか──という不安を抱き続けてきた/いる。その不安や先の見えなさや抑圧が、ジョイ/ジョブ・トゥパキの統べるマルチバースを飲み込む黒いベーグル、つまりすべての可能性を無に帰したいという誘惑に、重なって見える。

コロナ禍以降、日本のニュースメディアで欧米でのアジア系へのヘイトクライムが取り上げられるようになってきたけれど、差別や偏見に基づく不当な扱いや暴力は歴史的にずっと存在していた。さらに、ジョイやエヴリンのようなアジア系の女性には、フェティッシュな性的まなざしが向けられてきたし、逆に男性に対しては、(中産階級以上で異性愛・シスジェンダーの)白人男性を中心とする社会において、非規範的な存在として見なされる傾向もある。民族・国家に関するマイノリティ性を考慮すると、ジェンダーやセクシュアリティの政治において、単に「男女の格差・非対称」とはまとめきれない。

こうした差別の描写は『EEAAO』にはないものの、女性と付き合うジョイが母から「太りすぎ」と言われるとき、スレンダーで手足の長い容姿を「美しい」とする白人的な美意識に日常的にさらされてきた意識がよぎっていたのではないか、とわたしは想像する。

そもそもこのときジョイは、性的マイノリティとしての一面も含め、母から肯定されたり誇りに思われたりしてきたわけではなさそうで、不満を抱いているように見える。自分にとって大事な話は聞いてくれず、体型や食生活や学歴の話にズラされ、向き合ってくれないと感じる不満は、わたしにも身に覚えがあった。

また、ジョブ・トゥパキ(としてのジョイ)が警察に「ここにいてはいけない」と言われるシーンがある。これは、容姿や肌の色、国籍などを根拠に怪しまれ、警察から職務質問されたり捜査対象と見なされたりする問題を想起させる(こうしたレイシャル・プロファイリングは日本でも起きている)。さらに、その警察や警備員などのジェンダー、エスニシティ、肌の色などが多様なかたちで表象されていて、権力側は必ずしも画一的ではないし、「同じ属性」といっても同じではないと示唆されている点も、巧妙だ。「私と同じものを見える人を探してきた。同じことを感じてる人を」というジョイの孤独を想像すると、たまらないものがある。

「アジア系」のなかの多様性。欧米社会にはすでに異なる立場・属性の人々が存在してきた

「アジア系」と一口にいっても、同じではない。移民一世のエヴリンやウェイモンドのあいだにはジェンダーによる社会的処遇の差もあるだろうし、二世との意識や文化的背景の差もあるだろうし、同性と付き合うジョイのような人もいる。そのような映画のなかの登場人物と同様に、現実のキャストやスタッフのルーツも多様だ。

エヴリンを演じるミシェル・ヨーはマレーシア出身で(同国はマレー系、中華系、インド系、そのほかの順に多い)、イギリスでバレエ教育を受けた後に1980年代から香港映画でキャリアをスタートさせている。

ホア族(ベトナムにおける中華系住民の呼称)にルーツを持つキー・ホイ・クァンは、サイゴン陥落(1975年)から3年後に父親らとともに香港の難民キャンプに逃げ、マレーシアに避難していた母親らと再会して一家がそろったのは、そのさらに1年後にやっと定住するアメリカ・カリフォルニア州でのことだった。

エヴリンの父親ゴンゴンを演じたジェームズ・ホンは、父親が香港からアメリカへの移民一世で、ミネソタ州に生まれ育った。祖母は中国から台湾への移民で、その娘で、高等教育を受けるためにアメリカに移住したシングルマザーの母親によって育てられたのが、ジョイ(ジョブ・トゥパキ)役のステファニー・スーだ。

さらに、エヴリンがコックとして生きるバースでライバルの同僚を演じるハリー・シャム・Jrはコスタリカ出身中華系移民で、エヴリンと熾烈な戦いを繰り広げるキャラクターを演じ、格闘シーンの振付も担当したブライアンとアンディのリー兄弟はベトナム系アメリカ人。音楽を担当したSon Luxにも香港からの移民のメンバーがいて、エンドロールで流れる曲は日系アメリカ人のMitskiと共作している。そして監督チーム・ダニエルズのひとりダニエル・クワンもまた台湾系のルーツを持っている。多様なバックグラウンドの「アジア系」によってこの映画は支えられている。

白人を中心とするアメリカの主流社会で、不可視化されやすいアジア系への関心が近年高まっている一方で、「アジア系」と言われるとき、特にグローバルな軍事・経済における政治の勢力図で想起されやすい中華系に一元化され、「アジア系」に単一の実態があるかのように捉えられる傾向が指摘されてきた(もちろん、中華系の人々や中国への不当な偏見や差別は問題であるし、そういったネガティブなイメージがつけられているから一元化の代表にされることが論点になっているわけではない)。

アジア系アメリカ人の物語を描いたこの映画に対しても、アジア系アメリカ人という傘の下で共に生きてきた人々によって紡がれてきた歴史への敬意と祝福を示すと同時に、すでに異なる立場・属性の多様な人々が存在してきた/いるという、この映画の大きなテーマのひとつに反するような語りに押し込めてしまいかねない可能性にも慎重でいたいとわたしは思う。この映画が、伝統的な「家族」という規範で、ジョイのような性的マイノリティを覆いかねない危うさを描きながら、回避しようとするように。

ミシェル・ヨーが主人公の恋人の母親役を演じた『Crazy Rich Asians』(2018年)はメインキャストに多数のアジア系俳優を起用し、大ヒットを記録。日本では『クレイジー・リッチ!』の邦題で公開された

文学、美術、映画など視覚芸術・エンタテインメントの美的な評価軸においても、非西洋の文化に対して向けられるオリエンタリズムによる「土着的」なものへの信奉が、西洋に移住した批評家や作家によって批判されてきた。

ミシェル・ヨーが準主役の役柄で出演した『クレイジー・リッチ!』がアジア系の映画として(欧米中心的な意味での)世界的なブレイクスルーを果たしたのは、現代の欧米の文化圏ですでにアジア系の人々が生活をし、生きてきたという当たり前の描写がされた点も大きいだろう(『クレイジー・リッチ!』の原題には、続いて「アジアン(asian)」が入るにもかかわらず、省略されてしまうことにこそ、アジアにルーツがあったり、移住したりするアジア人が欧米圏にすでに存在している/きたことをまさに隠してしまう効果があると思う)。その映画史の延長線上に、確かに『EEAAO』はある。

「クィアな表象」と呼ぶことへの逡巡と、循環する生の祝福

また、同じ問題意識から、この映画について紹介する、あるいは褒める際に、「クィアな表象」とまとめてしまいたい反射の前でわたしは立ち止まりたい。

「クィア」や「LGBTQ+」と言ったときイメージされやすいのは、相対的に、経済性や社会的身分が高く、就労・就学機会にアクセスしやすく、ゆえに可視性の高い(シスジェンダーの)ゲイ男性だということはこれまでも国内外で指摘されてきた。しかし、その批判の声はほとんど聞かれずにきたと言っても過言ではない。

少なくとも日本においては、「LGBTQ+」という旗のもとでも、女性であるレズビアンやバイセクシュアルの人々が、ゲイ・バイの男性たちと比して相対的に抱える経済・就労面での困難には光が当たりにくい(映画では描かれていないけれど、ジョイが大学を中退したのも、女性、アジア系、同性愛といった面が影響したのかもしれない)。また、トランスジェンダー(やノンバイナリー、ジェンダークィアといった非規範的な性のあり方)の人々が、社会構造や人々に広がる差別意識・偏見があっても、人口が少ないこともあり、地域コミュニティーや職場・学校などで日常的に周囲の人々と折り合いをつけていたり、声をあげづらかったりすることから、不可視になりやすい状況も根深く存在する。

ただし、エヴリンやウェイモンドらが力を発揮させようとするとき、最も「変なこと」をすると星団の端から一気にジャンプできる(※)というエピソードのなかに、ディルドやプラグの挿入が登場する様子は、クィア的としか言いようがない。また、ジョイのアバターであるジョブ・トゥパキの変幻自在な格闘スタイル、ファッション、メイク、声音などを見ていても、クィアだと言いたくなる。過酷な現実に対処したり困難に抗ったりするとき、突拍子もないことをやりたくなったり、マンガやアニメのキャラクターになりたいと思ったりする感じ。

それにこの映画は、経済・学歴格差、英語や欧米が中心とされる状況や白人(男性)中心的な社会、アジア系への蔑視やステレオタイプ、軽んじられる女性の主体性、異性愛主義、家父長制など、クィアという政治的態度が抗い、問い直そうとする規範を、少しずつ転覆させたりズラしたりしている、という意味でもクィアな映画と言える。

※編注:劇中、違うバースにいる自分とリンクする「バース・ジャンプ」をするためには、「最強の変な行動」が必要となる。行動がバカバカしければバカバカしいほどそれが燃料となり、別のバースに確実に速くジャンプできるようになる

循環するいくつものバース。あり得た過去、行き詰まった現在、期待する未来。そんなことを考えながらもう一度、もう一度とこの映画を観てきた。わたしはくりかえし映画の冒頭に戻っていく。

疲れたエヴリンが登場する前、ほの明るい部屋に置かれた小さな丸鏡のなかに写る、マイクを片手に歌うジョイをはさむウェイモンドとエヴリンの姿。楽しそうにも見えるけど、エヴリンがジョイの口を抑えるのは、どういうことなのか? 喜びなのか、抑圧なのか。そのシーンを何度目かに観るわたしの頭に、エヴリンのあるセリフが重なって響く。「お父さんがわたしにしたことを娘にはできない。なんでわたしを行かせたの?」

誰かに自分の可能性を、ただここに生きていること、存在することの不思議と奇跡を、すべてに折り合いがつかなくても、認めてもらいたい。この映画ではその受け皿が家族になっているけれど、誰かにとっては別の関係性で呼ばれる存在かもしれない。素朴な願いが投影されているように見えるファーストカットに循環して、自分とは異なる誰かのつくった映画から、わたしはまた自分の生を自分で祝福する力を受け取る。

作品情報
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』

2023年3月3日(金)TOHOシネマズ日比谷ほか全国公開
監督:ダニエル・クワン、ダニエル・シャイナート
出演:
ミシェル・ヨー
キー・ホイ・クァン
ステファニー・スー
ジェイミー・リー・カーティス
配給:ギャガ

ポッドキャスト番組「聞くCINRA」では、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を取り上げた回も配信中(Apple Podcastはこちら



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