250年続く窯と現代アートの異種格闘対談 水野雄介×服部浩之

8月から始まった『あいちトリエンナーレ2016』。名古屋、岡崎、豊橋の3都市を舞台とする国際芸術展には、国内外から数多くのアーティストたちが参加し、多彩な作品を展示している。だが少し目線を変えてみると、それぞれの作品の背景に、愛知県が有する伝統的な工芸や技術が強く関わっていることがわかる。

そこで今回は、『あいちトリエンナーレ2016』のキュレーターである服部浩之と、約250年にわたって瀬戸物を作ってきた瀬戸本業窯の8代目、水野雄介を招き、ちょっと変わった目線で愛知について語っていただくことにした。「旅」をテーマとする芸術祭と、長い時間のなかで作陶の腕を磨いてきた窯元。2つの視点から、芸術の役割、伝統を受け継ぐことの意味を考える。

もともと瀬戸は、流れの職人が頻繁に往来する土地でしたから、「来る者拒まず」なんですよ。(水野)

―今回の対談は、服部さんからのリクエストがきっかけなのですが、水野さんとどんなことを話したいと思ったのでしょうか?

服部:僕は『あいちトリエンナーレ2016』キュレーターチームのメンバーになって、2年近く経ちます。今回の『あいちトリエンナーレ』の大きな特徴として、多くのアーティストが愛知を訪れ滞在制作を行なっているため、必然的に「愛知県ってどんな土地なの?」という質問を作家たちから受けることが多くて。そのリサーチで訪れたのが水野さんの「瀬戸本業窯」だったんです。前回、水野さんから本業窯の成り立ちをお聞きしたところ、歴史的にも面白く、キュレーター目線から興味をかき立てられる部分も多くあったので、もっと詳しくお話を聞きたいと思いました。

左から:服部浩之、水野雄介
左から:服部浩之、水野雄介

―偶然かもしれませんが、トリエンナーレのテーマカラーであるイエローオーカー(赤みがかった黄)は、大地の色です。イエローというと本業窯で作られる黄瀬戸なども想起されますよね。トリエンナーレの出品作品にも土を素材やモチーフにしたものが多くあります。

服部:そこはキュレーションするうえで、すごく意識的だったところですね。芸術監督の港千尋さんも、早い段階から「人」や「旅」、「大地」をキーワードにしていましたし。

本業窯で作られた「黄瀬戸」の器。あたたかい黄色が特徴
本業窯で作られた「黄瀬戸」の器。あたたかい黄色が特徴

水野:前回、服部さんはアーティストさんを連れて来られたのですが、もともと本業窯にはいろんな人たちが訪れるんです。面白いところだと、窯元の六代目だった祖父の頃は、ガンディーのお孫さんが焼き物の勉強のために滞在していました。

瀬戸本業窯のギャラリー。左に見えるのが昭和54年まで使用されていた登り窯
瀬戸本業窯のギャラリー。左に見えるのが昭和54年まで使用されていた登り窯

瀬戸本業窯の登り窯。現在残っている焼成室は4室のみだが、昔はあと10室あったそう
瀬戸本業窯の登り窯。現在残っている焼成室は4室のみだが、昔はあと10室あったそう

服部:インド独立に尽力した、あのマハトマ・ガンディーですか?

水野:滞在中は身元を明かさなかったので、帰ってからはじめてわかったんですけどね(笑)。どうやら濱田庄司(明治から昭和にかけて活躍した陶芸家。日本の近代陶芸の成立に尽力した)の紹介だったようです。もともと瀬戸は、流れの職人が頻繁に往来する土地でしたから、「来る者拒まず」なんですよ。最盛期には「とりあえず瀬戸に来れば食いっぱぐれることはない」と言われるほどで。

びっくりするような厳しい縦社会の時代に作られた器を見ると、職人の勢いや野心を感じますね。それと比べると現代の器はちょっとかなわない。(水野)

服部:今だったらプラスチックなどいろんな種類の器を安く手に入れられますけど、昔は「瀬戸物」が生活必需品でしたからね。僕も愛知県出身なのですが、子どもの頃から瀬戸物市に連れて行ってもらったり、庭先に水瓶があったりして、生活の中に当たり前に瀬戸物がありました。

瀬戸本業窯で作られた水瓶など
瀬戸本業窯で作られた水瓶など

水野:テレビ番組の『開運! なんでも鑑定団』などの影響で、器にも稀少な芸術品があることが広く知られるようになりましたけど、芸術としての陶芸が日本で定着したのはここ100年くらいの話なんです。器は生活用品だし、職人自身も、器作りを日々生きていくための糧として考えていましたからね。

―瀬戸物を作っていた職人というのは、どういう人たちだったのでしょう?

水野:昔の家はたくさん子どもを生んでいたから、長男以外は10歳くらいになると、大阪や江戸など大都市の商店に丁稚奉公に行かせるのが普通でした。それは瀬戸も一緒で、やって来た子どもを窯屋の大将たちが拾って寝食の面倒を見る。と言っても、1年に2回くらい新しい着物と下駄を与えるくらいで、給金もなしの下働きとして使われるだけなのですが。

―昔の日本では当たり前にあった風景ですね。

水野:ええ。ただ15歳くらいになると下働きに甘んじることに満足できない子も現れる。それで夜中にこっそり練習をして、「山行(やまゆき)」という職人たちの慰安旅行みたいな場で、神さまに自作の器をお供えするんです。そこで大将の目に留まると、絵付け師、ろくろ師、焼き手と、次第に役割がステップアップしていって、窯屋内での発言権が増していく。今からするとびっくりするような厳しい縦社会なんですけど、その時代に作られた器を見ると、職人の勢いや野心を感じますね。それと比べると現代の器はちょっとかなわない。

服部:瀬戸本業窯のピークって、いつ頃ですか?

水野:江戸中期から後期にかけてです。明治になると、電気が開通し、機械が導入されて、質の高い手仕事はどんどん衰退していきました。瀬戸物の歴史は鎌倉時代あたりから始まるので約1000年の蓄積がありますが、本業窯は僕の代で約250年目なので、ちょうど瀬戸物のピーク時に窯を開いたわけです。

柳宗悦の思想は現在にも通じるし、特に東日本大震災以降の、あらためて自分たちの生活を見直したいという人たちの心情に合致するものだと思う。(服部)

―現在の本業窯はさすがに体制は変わっていますよね?

水野:もちろんです(笑)。明治以降、瀬戸物の需要が激減して、有力な雇用の受け皿にはならなくなりました。ただ、絵付け師や焼き手といった分業体制は今も残っていて、歴代の陶主は経営者であると同時に、服部さんの仕事にも通じる、キュレーション的なこともやってきました。

水野雄介

服部:では、水野さんもそれを引き継いで?

水野:ええ。ただ祖父の代あたりからは陶主も経営だけではなく、職人として現場に入るようになりました。大きな窯屋を維持することが困難になったという時代の変化もその理由ですが、祖父が親交を持った柳宗悦の影響が非常に大きいです。

服部:「用の美」を唱える民藝運動を先導し、生活に即した日用の品々を評価した思想家であり、美学者ですね。宗悦は瀬戸本業窯を高く評価しています。

水野:産業の工業化が進む中で、宗悦は瀬戸の手仕事に目を向けたんですね。大量生産品ではなく、かといって作家主義にも偏らない「無銘」の器にこそ美がある、と。

作りかけの陶器
作りかけの陶器

服部:宗悦の思想は現在にも通じるものですし、特に東日本大震災以降の、あらためて自分たちの生活を見直したいという人たちの心情に合致するものだと思うんですよ。

僕が本業窯を訪ねてすごく面白かったのは、その「無銘」の思想でした。100円ショップで買える器のような気軽さとは一線を画しているけれど、美術作品ほど高級でもなければ作家性が強いわけではない。つまり使うことと愛でることのバランス感覚が優れている。そのスタンスは、僕らのような庶民が暮らしを考えるうえでいろんなことを示唆していると思うんです。

水野:なるほど。

柳宗悦は「民藝」の条件として「実用性」「無銘性」などの8つの項目を挙げていて、瀬戸本業窯の陶器にもその価値が見てとれる
柳宗悦は「民藝」の条件として「実用性」「無銘性」などの8つの項目を挙げていて、瀬戸本業窯の陶器にもその価値が見てとれる

500個、1000個、2000個と同じ湯のみを作っていくうちに、瀬戸の歴史は強靭で、僕が一瞬の閃きで作ったものなんて到底太刀打ちできないと気づいたんです。(水野)

服部:ちょっと話がずれるかもしれないですけど、インターネットやプログラミングを使った、インタラクティブなメディアアート作品が流行っていますよね。あれも絵画や彫刻といった唯一無二の作家が作った芸術とは異なる、恊働の思想というか価値観が反映されていると思うんです。ある分野に秀でた高い技術を持つ大勢のスタッフが制作に関わるものが多いですし、クラウド的な不特定多数の情報をソースにして作品が展開していく、匿名的なものも多い。それは本業窯に見られる無銘性 / 手仕事性ともつながると思います。ちなみに水野さんは何年生まれですか?

水野:1979年生まれです。

服部:僕は78年生まれなんですが、僕らって高校から大学生くらいのときにインターネットを手にした世代じゃないですか。生まれたときから情報技術に馴染みを持っているデジタルネイティブではないがゆえに、新しく登場した技術を道具の一つとして使っていこうという意識が強い世代だと思うんです。

同時に、手仕事の感覚や旧来のコミュニティーの記憶や体験もなんとなくあって、その中間の場所で何かを作ろうとしている気がする。僕自身、長らく青森県のアートセンター(国際芸術センター青森)で、地域との関わりのなかで展覧会を企画したり、プロジェクトを立ち上げたりしてきましたし、水野さんも町作りには積極的にコミットされていますよね?

水野:瀬戸に長く暮らしてきた一族ですから、自然な成り行きで町作りには関わってきましたね。父が、「窯垣の小道」保全運動の旗揚げ人でしたし。

―使われなくなった窯道具などを組んで作った堀や壁のことですね。瀬戸洞町の特徴的な景観として有名です。

水野:ここは仕事と町の関係が密接な環境なんですよ。ピーク時は特にですが、各窯屋が一生懸命に仕事をすることで町も発展してきた歴史がある。今は、昔のようにものを作って、それを売って経済を盛り立てていくというのはなかなか難しい時代ですけど、でもやっぱり「瀬戸は製造してなんぼだろ?」と僕は思っています。だから近所の小学生に自分たちでお茶碗を作ってもらって、自分でお茶をたてて、それを親に振る舞うっていう特別授業をしたりもして。

服部:それは、親子で一服するまででワンセットの授業なんですか?

水野:ええ。大人世代であっても、瀬戸の伝統から離れてしまっている人は大勢いますから、自分の子どもを通じて地域の特性を再発見するいい機会になると思うんです。町の空気を感じて、土に触れて、茶碗を作って、そしてお茶を一服する。シンプルな体験ではありますけど、シンプルゆえに効果も大きいと思って続けています。

左から:服部浩之、水野雄介

―現在の水野さんの活動に、先々代のお祖父さんや、親交のあった柳宗悦からの影響はあると思いますか?

水野:否応なくありますね。例えば10年前の自分を振り返ってみると、一人の職人として新しいことに挑戦したい、なんて若者らしく焦っていた時代もありました。でも、やっぱり瀬戸の歴史は強靭で、僕が一瞬の閃きで作ったものなんて到底太刀打ちできないんです。それを苦心して乗り越えていくのも一つの生き方ですが、まずは過去の職人の腕に一歩ずつ近づいていきたい、というのが今の僕の考えです。

祖父や父は、僕の作るものにあまり口を出すタイプではなかったですけど、それでもたまに「そうじゃない」なんて言ってくるんです。若い頃は自分なりに最善を尽くしているつもりだったから「そんなはずない!」と反感を持ちましたけど、その後、500個、1000個、2000個と同じ湯のみを作っていくと「ああ、あのとき言われたのは、このことだったんだ」と気付く。その瞬間に、これは地道に作り込んでいくしかないな、と確信しました。

釉薬を作る道具。今では多くの窯ができあいの釉薬を購入するなか、本業窯では独自の色を作り続けている
釉薬を作る道具。今では多くの窯ができあいの釉薬を購入するなか、本業窯では独自の色を作り続けている

アートは、市民に直接的に役立つものではありません。でも、無駄に思える回り道や迂回が、じつは自分とは違う価値観への理解を促してくれる。(服部)

―キュレーターである服部さんに質問です。瀬戸本業窯は、時代の変遷のなかでプロデューサーと職人的な役割の比重を変えながらもの作りに関わってきました。それはここ十数年の学芸員、キュレーターの仕事の変化にも通じるような気がします。

服部:そうですね。

―つまり、美術館内で展覧会を企画したり、収蔵品を研究・保存したりすることが主要業務だった学芸員に、国際展や地域主体の芸術祭のキュレーションという新しい仕事が課せられるようになってきた。この変化について服部さんはどのようにお考えでしょうか?

服部:僕は10年くらい山口や青森に住んで、地域のアートセンターで学芸員として働いてきました。そのなかで思ったのは、アートセンターや美術館の存在はやはり重要だということです。もちろんアートは、道路整備や商業施設の立ち上げのように、市民に直接的に役立つ、影響を与えるものではありません。

―そうですね。

服部:僕たちがやっているのは、現代美術というすごく限定された領域内で、海外からアーティストを招聘して、しばらく町に滞在してもらって新作を作ってもらうとか、町の人と交流してもらうとか、そういう小さなことです。でも、そうやって外と内の交流の回路を閉ざさないことで、既存の状況に小さな風穴を開けるチャンスが生まれると思うんです。

それは効率的に最短距離を目指すことが正しいとされる社会のシステムのなかではなかなか生まれないもので、無駄に思える回り道や迂回が、じつはいろんな試行錯誤や自分とは違う価値観への理解を促してくれる。その機会の場としてアートセンターや美術館が機能していると思っています。

服部浩之

―それは『あいちトリエンナーレ』のような大きな芸術祭も同様でしょうか?

服部:規模の大きい催しですから、どうしても「来場者○○万人達成しました!」というような具体的な数字が強調されてしまいますけど、現場で起きていることの大半は、本当に見えづらい、地道な取り組みです。でも意外とそこが重要で、こうやって水野さんとお話しする機会ができたのも、あるアーティストが陶磁を作品に使ってみたい」と言ったからなんですよね。普通の方法や付き合いではなかなかつながらない人たちと出会える、その拡張性みたいなものが、アートにはあって、今回は芸術祭がその一助になっている。

長い歴史の奥行きと、幅の広さ。それを兼ね備えた土地が愛知なんでしょうね。(水野)

―たしかに今回のトリエンナーレには、モンゴルやアラスカ出身など、普通に暮らしていては絶対に会えないアーティストが多く参加していますね。

服部:例えば、豊橋地区で展示しているグリナラ・カスマリエワ&ムラトベック・ジュマリエフはキルギス共和国出身のアーティストです。二人は、ユーラシア大陸を横断するシルクロードで問題になっている、中国からの産業廃棄物についての映像作品を発表していて、私たちの消費活動とも関係して引き起こされている問題ですが、そんな問題があることを知るチャンスはほぼないですよね。でもアート作品というメディアに乗せることで、そのことを別の回路から知ることができるわけです。

これは極端に遠い場所の例かもしれないですけど、瀬戸物の器だって、こうやって水野さんと関わりができたからこそ僕はリアリティーを持つことができた。それってとても重要なことだと思うんですよ。質問の答えになってないかもしれないですけど(苦笑)。

『あいちトリエンナーレ2016』展示風景 グリナラ・カスマリエワ&ムラトベック・ジュマリエフ《ニュー・シルクロード--生存と希望のアルゴリズム》2016  photo:怡土鉄夫
『あいちトリエンナーレ2016』展示風景 グリナラ・カスマリエワ&ムラトベック・ジュマリエフ《ニュー・シルクロード--生存と希望のアルゴリズム》2016 photo:怡土鉄夫

水野:いや、とても腑に落ちる話でしたよ。古い家に生まれたものですから、自分は意外と思考が柔軟でなくなってしまっているなと、服部さんの話を聞いて思いました。僕は実際に使うものを作っている人間なので、現実的な見方がついつい強くなってしまいます。でも、ある意味ではひとりよがりに、好き勝手やっているようにも見えるアーティストという人たちが、じつは日本に小さな刺激を与えてくれる存在なんだってことなんでしょうね。

服部:そうなんです。「創造する人間の旅」というのは、芸術監督の港千尋さんが今回のトリエンナーレにつけたサブタイトルですが、それは港さん自身が写真家であり、旅人であり、いろんな土地を旅してきた体験に端を発しているんですね。だから現代アートの祭典とうたいながらも、じつはそこに当てはまらないような広い表現、あるいはどのジャンルにもカテゴライズできないような独創的な表現も含まれている。アートが一つの回路にはなっているけれど、ここで出会える人やものは、もっと多様なものへと開かれているんです。

―同時にメインタイトルである「虹のキャラヴァンサライ」も示唆的だと思います。キャラヴァンサライとは「旅の休息地」という意味ですが、愛知全体がアーティストや観光客にとっての旅の拠点になっている。さきほど水野さんが瀬戸本業窯にガンディーのお孫さんがやって来たという話をされましたが、それは器の一大拠点である瀬戸という土地があったからこそ生まれた出会いですよね。

服部:旅の根っこになる場所があることはすごく重要で、もの作りの文化がいろんな場所に根付いている愛知は、キャラヴァンサライとしてとてもよい環境だと思います。職人さんだけでなく、美大や芸大が多いのも作家にとっては創作しやすい環境ですし、そういった活動を発信するメディアも揃っている。

左から:水野雄介、服部浩之

瀬戸本業窯の登り窯付近を歩く猫

水野:愛知県って、物理的にほぼ日本の真ん中じゃないですか。そして山だけでなく海がある。これが活発な人の往来を促す大きな要素になりました。だから、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という時代の権力者たちが揃って愛知出身なのも偶然ではないと思います。

それと職人の目線から言うと、瀬戸で採れる白い土には不純物がほとんどないんですよ。不純物がないということは、養分を必要とする農業には適していないけれど、作陶には最良の場所だということ。さらに近代化以降は、その土がガラスや電子基板のセラミックにも幅広く用いられるようになった。その土地の特長が、1000年続く瀬戸の歴史を築いてきたんです。長い歴史の奥行きと、幅の広さ。それを兼ね備えた土地が愛知なんでしょうね。

イベント情報
『あいちトリエンナーレ2016』

2016年8月11日(木・祝)~10月23日(日)
会場:愛知県 愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、名古屋市内、豊橋市内、岡崎市内のまちなか

プロフィール
水野雄介 (みずの ゆうすけ)

1979年、江戸時代から続く愛知県瀬戸の窯元「瀬戸本業釜」に生まれる。瀬戸の地独特の手法を守りつつ、革新的なものづくりにも挑戦。民芸運動の活動や瀬戸に残る歴史的な遺物の復興など、様々な活動を行なっている。

服部浩之 (はっとり ひろゆき)

1978年愛知県生まれ。アジア各地を中心にインディペンデント・キュレーターとして活動。早稲田大学大学院修了(建築学)後、2009年から2016年まで青森公立大学国際芸術センター青森[ACAC]学芸員。つねに「オルタナティブなあり方」を意識の根底に据え、MACという略称を持つアートスペースを山口、ハノイ、青森などで展開。近年の企画に、十和田奥入瀬芸術祭(十和田市現代美術館、奥入瀬地域、2013)、「MEDIA/ART KITCHEN」(ジャカルタ、クアラルンプール、マニラ、バンコク、青森、2013−2014)などがある。



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