波多野裕文に質問攻め。いまこの時代を生きる表現者の姿勢を問う

People In The Boxの波多野裕文と、自由、平和、戦争について、そして、いまの時代をどう生きるかという、とても大きなテーマでの対話をした。

9月2日に新作ミニアルバム『Talky Organs』をリリースした彼ら。「騒がしい臓器(機関)」という意味の言葉をタイトルに冠した本作は、3月にリリースされた会場限定シングル『Calm Society』(こちらは「穏やかな社会」という意味)と、対をなす1枚になっているのだという。

2つの作品を聴いてひしひしと感じるのは、強まりつつある社会の全体主義的な傾向へのアプローチだ。直接的な言葉で何らかのメッセージが放たれているわけではない。むしろその逆で、聴き手がどんな風にも受け止めることのできる表現が選ばれている。音楽として、とても純度の高いものになっている。しかし、だからこそ2015年のいま、これが放たれることの意味合いは強いと感じる。現在47都道府県ツアーで文字通り全国を回っている彼ら。どういう意志を持って音楽に取り組んでいるのかを話し合った。

これははっきりと言っておかないといけないんですけど、僕がここで、曲を作った時に考えていたことを言う必要があるならば、作品はいらないと思ってるんですよ。

―現在People In The Boxは47都道府県ツアーを行っています。これはバンドにとっては初めてのことですが、なぜこれをやろうと考えたんでしょうか。

波多野:実のところは深い考えがあったわけではないんです。メンバーやスタッフと話していて、これまであまりにも音源を出しすぎているから、「2015年はライブの年にしよう」ということになって。

―しかし今回、ミニアルバム『Talky Organs』が発売されます。しかもそれは、3月にリリースされた会場限定シングル『Calm Society』と対をなす作品になっている。結果的に、年内にCDを2枚作っていますよね。

波多野:そうなんですよ。だから結果的には真っ赤な嘘になってしまった(笑)。

―まず最初に、ツアーをするにあたって会場限定シングルをリリースするというのは、明確な意志があったのでしょうか?

波多野:そうです。言ってしまうと、ツアーを回る理由がほしかったんですよね。それで、音源があればいいよねという話になって、6月から始まったツアーが11月まで続くから、「途中でもう1枚リリースがあってもいいし、さらにそれらが対をなす形になってるといいよね」って大ちゃん(ドラムの山口大吾)が言って。

―『Calm Society』を作る時には、その後に対となるものを出すイメージはあったんですか?

波多野:出すイメージがあったというより、先にそういう運営上の、どこでリリースをするというのが決まった感じです。僕はそういう器が決まってしまえば、中身は何でも作れてしまう。僕の考えていることや感じていることが、その時に出てくる音楽と勝手に一致して、そのまま形になる感じです。

波多野裕文
波多野裕文

―運営上の理由で2つのリリースが決まったというお話ではありますが、聴いている側としては、そこにすごく強い表現欲求を感じるんですけれども。いま思っているものを形にして表現しないといけないという強い意志があったのかなと思うんですが、どうでしょうか。

波多野:そうだなあ……(沈黙)。例えば僕らは、ドラムの山口くんがAメロのドラムパターンだけを持ってきて、それを僕がひとつの曲にしたりする。それって、小説でいうと第二章の情景だけを渡された感じで、僕はそこから物語の全体を作るんですよ。そしてそれは、その時に僕が感じていることや考えていることになるんです。そこに曲という器があれば、必ずそういうことになる。パッケージもそれと全く同じで、「3曲入り」という器が決まっていれば、あとはそこにどんな3曲を入れるかというだけの話で、柴さんが言うように「創作意欲が湧いているから作る」という話ではないんですよね。創作意欲は常にある。ない状態はないし、ネタ切れになることはない。だから、必ずしも年に2枚アルバムを出している人たちが創作意欲に湧き溢れているかといえばそうではないと思うし、その逆も然りだと思います。

―これまでのインタビューで波多野さんも言ってきている通り、基本的にPeople In The Boxの歌詞を読み解いたり、タイトルの意図を問うことは野暮なことだと思っているんですね。でもいまおっしゃったように、考えていたことがそのまま出ているということは、その考えていたこととは何なのかということを訊ければと思うんですが。

波多野:いや、これははっきりと言っておかないといけないんですけど、僕がここで、曲を作った時に考えていたことを言う必要があるならば、作品はいらないと思ってるんですよ。つまり僕が作品を完成と判断する基準は、「これ以上説明を加えなくていい」というラインに達したということなんです。そもそも大前提として、「その頃何を考えてましたか」って言われても、答えられなくないですか?(笑) 柴さんは「こういうテーマで、こういう目的で作りました」ということを訊きたいんだと思うんですけど。

僕はやっぱり自由なのがいいと思ってますよね。ただ、前置きがちゃんと必要で、ただ好き放題やってる類の自由さではない。いわゆるロックが志向する方向とは全然違います。

―というか、僕はPeople In The Boxって、とても自由だし、音楽の純度が高いバンドだと思うんですね。でも、波多野さんはいまこの2015年を生きている人であるし、一人の人としていまという時代に対してどう感じているかを訊きたい。それが作品にテーマやメッセージとして投影されているかどうかというのは、ひょっとしたらどうでもいいというか―。

波多野:いや、僕は、「どうでもいい」は困る。

―関連していてほしいということですね?

波多野:いや、関連していてほしいというより、「そのもの」なんですよ。作品というのは、僕が、どうやっていまを生きているかというそのものなので……(沈黙)。なかなか、いまの質問にうまく答えられない。難しいです。何を喋っていいかよくわからない。柴さんは実際聴いてみてどうでした?

―僕は、People In The Boxというバンドは、基本的には型にハマらないバンドだと思ってるんですね。だから、明確で揺るがないメッセージがあるというより、聴き手に委ねられる表現をしていると思っている。その上で、僕は「自由」というものがこの作品のステートメントになっていると感じたんです。それはなぜかと言うと、特に『Talky Organs』のほうは、自由さが抑圧されている状況を示唆する言葉が歌われている。差し迫った感を受け取ったんですね。だから、この『Calm Society』と『Talky Organs』には、アートとしてちゃんと社会に抗していく力を感じた。つまり、簡単に言うと、いまの時代にはびこっている全体主義的な抑圧があって、それが大きく関係していると思うんです。

波多野:柴さんの言う「自由さ」というのはどういうことですか?

―自由さというものにはいろんな側面があるんですけど、僕は、それぞれが内心の本能に従っていることだと思います。だから、子どもや動物は自由である。もちろん社会は本来的にそういう本能的な自由を制限するものではあると思うけれども、それでも「自由な社会」というものはあって。僕がイメージしているのはたくさんの人がそれぞれ自律的に動いている風景。それは俯瞰で見れば、蛍の点滅が同期しているみたいに、結果的にひとつになることはあるのかもしれないけれど、個々の主体は内心の本能に従っている。そういう状態が、僕は自由だと思っている。波多野さんはどうですか?

波多野:僕は自由でありたいと思っているんですけど、僕にとっての自由とは何かというと、その都度新しい「秩序」を作っていくことなんです。僕にとっては作品を作るということがまさにそれで、だから僕が思う自由さって、無軌道さとは真逆なんですよ。「本能」って言ってしまうと、無軌道さを感じるじゃないですか。そういうものではなくて、もっと思考して積み上げていくもの。人間の頭で考えられる限界なんてたかがしれていますけれど、それでも言い訳が効かないところまで考え尽くす。それをしてまだ残ったものこそ、やっと本能って言えるんじゃないかな。難しいことではあるんですけど、やっぱり自由というのは簡単なものではないですよ。だから、若い時に言う自由と、いま僕が思っている自由はまったく正反対のものですね。

波多野裕文

―そういう自由を求めている。

波多野:そういう意味で言うと、僕はやっぱり自由なのがいいと思ってますよね。ただ、前置きがちゃんと必要で、だからってただ好き放題やってる類の自由さではないのは言っておきたいですね。いわゆるロックが志向する方向とは全然違います。

―やりたい放題やるという自由ではないと。

波多野:その都度新しい秩序を作るということです。それは思考体系だったり、周りの風景をどう認識するかだったりを、できれば早い段階でどんどん更新していくという。

―いろんな人がそのように志向するのが自由だということですか?

波多野:いや単純に、僕がそういう生き方をしたいということです。僕は音楽もそうあってほしいというか、そうしたいと思ってしまう。特に作品は形として残る。そこが作品のいいところだと思うんですよね。そこに対しての意識は強くて、作品がどういう形としてあるべきかというのは、すごく考えます。

これは挑発でもなんでもなくて、「平和」という言葉は、虚しい言葉だなと思いますね。

―こういう話って、実は今回の作品のサブテキストになると思うんです。

波多野:そうですか?

―波多野さんが作品に込めた意図を解説するというよりは、人によって捉え方と使い方の全然違う言葉について、波多野さんなりの定義や考えを訊きたい。そうすると、これを読んだ人は、作品を聴いた時に、そこにあるものを類推できると思うんです。

波多野:なるほど。

波多野裕文

―ということを踏まえて、もうひとつ訊きたいんですが、「平和」という言葉をどういうふうに解釈しますか?

波多野:これは挑発でもなんでもなくて、虚しい言葉だなと思いますね。それは僕がそう捉えているというだけの話ですけれど。なぜかというと、平和という言葉をあえて口にしないといけないということは、その反対の概念である「争い」ということがあるからだと思うんですよ。「争い」というのは、戦争ですよね。でも戦争というものの実態について、なかなか議論されることがないでしょう? だから、僕は虚しい言葉が世の中に横行していると思ってますね。そしてそれらの言葉は、性質としてスローガン化する危なさをはらんでいるし、そこに説得力があるかないかは、どういう意味で使ってるかということの奥行きのありなしだと思う。だから、もちろん僕は平和でありたいですけど、言葉としてどうかと訊かれるならば、いまはすごく虚しく聞こえるという感じですかね。

―では、その対極にあるという「戦争」という言葉についてはどうでしょうか?

波多野:戦争か……(沈黙)。

さっき「平和という言葉は虚しい」と言ったんですが、そういう一言を言わずに何かを言い当てるというのが、音楽をはじめとする創作の力だと思うんですよ。

―これは僕の意見を先に言ったほうがいいかな。完全に僕個人の意見なんですけど、僕は「戦争を止めろ」とか「戦争反対」という言葉に、ちょっと違和感がある。それは僕が、戦争というのはどこかの誰かが起こすものだと思っていないからなんです。むしろ、自分がそのトリガーを引く場所にいたら、それを担ってしまうかもしれない、という怖さがある。だから、「止めろ」とか「やめろ」とかいう反対の仕方にはちょっと違和感がある。

波多野:なるほど。これは難しいですね……。

―だから、僕が思うのは、当事者として「やりたくない」という気持ちと、だからこそ、何かしらの誘惑に駆られてしまったり、状況に流されそうになった時に、自分を律しておきたいという感覚がある。波多野さんはどうですか?

波多野:僕は、戦争というのは生命原理における大エラーだと思っています。やっぱり同じ種類の動物同士で殺し合うことには、うまくは言えないけど違和感がある。犬同士は殺し合わないし、動物の縄張り争いで死ぬまでやり合わないですよね。少し想像すれば、殺される側の気持ちなんて本当はわかるわけですよ。殺される側の人間の気持ちをわかってしまったら、罪悪感で生きていられなくなるから、帰還兵が自死してしまうのも、まさにそれなわけですよね。一時のアドレナリンや同調圧力やら自己暗示やらで、自分が正しいことをなしていると思い込んで人を殺す。そうして殺した相手を見たら自分と同じ歳くらいだったりして、その懐から奥さんと子どもの写真が出てきて、それがずっと脳裏から離れなくなる。自分がその人の家族を一瞬で奪ったというのがずっと離れないから。近所で殺人があると、罪をつぐなうために罰されるのに、自分は殺して罰されなかったという矛盾があるわけですよ。その罪悪感と自分の中で一貫できないことに押し潰されておかしくなってしまう。だから人を殺すことって、割に合わないはずなんですよ。それを集団的にやっているというのはやっぱりおかしいと思っていて。

波多野裕文

―そうですよね。

波多野:だから、戦争は悲惨だからやってはいけないという言い方だけではダメだと思っていて、人を殺すってどういうことなのかということを、人が生々しく自分のこととして想像してみる必要があると思いますね。戦争というのは、それをすると誰が得をするかというところが巧妙に議論から外れちゃっていて、表層の感情論だけが取り沙汰される。それが僕はすごく危ないなと思います。だから、さっき「平和という言葉は虚しい」と言ったんですが、そういう一言を言わずに何かを言い当てるというのが、音楽をはじめとする創作の力だと思うんですよ。だから僕はそこに忠実でありたいと思いますね。戦争反対と言わずして、どれだけそれを伝えるかということですかね。

「わかりやすくする」ってことは削っていくということで、削っちゃいけないところまで削ったものは、僕が思う作品ではない。僕がそれをやらないのは、人を舐めてないからです。

―最近、高橋源一郎さんが書いた「死者と生きる未来」(ポリタスに掲載)という文章を読んだのですが、それが素晴らしい文章で。フィリピンで亡くなった伯父さんの慰霊について書かれた内容だったんですが、それも「戦争反対」という言葉を使わずに、アートとして状況に抗している表現だと思ったんです。波多野さんにもそういう考え方ってあるのかもしれないなと。

波多野:考え方というより、僕はそういうものだと信じて疑わないですね。愛と言わずしてどれだけ愛を描くか、世界ということを言わずにどう世界を描き出すか。芸術って、計算式の解の部分じゃないんですよ。数式の部分なんです。でも、結局は風潮としてわかりやすいほうに傾いて、安易なほうを受け取ろうとしちゃうんです。そっちのほうが楽だから。そのわかりやすい解のほうが「戦争反対」なんだと思います。それはそれでいいと思います。でも僕はそれを避けて、血肉化する作業を、つまり数式のほうを目指したいと思っている。いままで淘汰されずに残ってきた芸術というのは、全部がそういうものだと思いますからね。わかりやすくするってことは削っていくということで、削っちゃいけないところまで削ったものは、僕が思う作品ではない。僕はそういう意識では絶対に作っていないし、わかりやすいものを作ろうなんて微塵にも思っていない。それは、僕が人を舐めてないからです。

―届く先のことを信頼しているから?

波多野:ということにもなるんですけど……(沈黙)。でも、「どんな人が聴くだろうか」とか「届く先に誰がいるだろうか」ということは考えないように心がけています。自分の感性だけでまずはやりきるということが何より大事ですから。自分基準でスタイリッシュでないといけないというのがまずあって、だからいま話したような姿勢で作品作りをしているんだと思います。

人間って自分の脳みそをガンガン騙しまくるんですよ。だからすごく大変なんですけど、自分の基準を持って、一つひとつの取捨選択を嘘なくやる。

―作品の話に戻ります。対になる作品を3月と9月に作ろうとなった時に、波多野さんの中でどういう対の内容にしようと思って曲を分けたのでしょうか?

波多野:まず『Calm Society』を作って、それ以外のもの、という感じの扱いではあるんですけど、その関係性って、同じ対象を外から見てるか中から見てるかの違いだなと、自己分析で思いました。

―『Talky Organs』のほうが中から見ている?

波多野:そうですね。

―『Talky Organs』は、現実なんだけど現実じゃないというか、フィクションみたいな現実を描いているんだけど、それこそがいまの現実を鮮明に描いているように感じました。

波多野:フィクション感はすごく大事にしましたよ。僕の物語にしたくないし、誰の物語かというところも固定させたくなくて、いろんな人の視点が入っている。その人の物語というよりも、僕がその人なんだと本当に思えるくらいまで入って書くということが大事でした。創作って、言ってしまえば個人的な体験でしかないんですよ。でも、作り手としてそれをどれだけ大切にできるかということが僕にとっては大事なんです。そこまで行ききった作品じゃないと、好きじゃない。

―その上で、外からの目線、中からの目線と分けたのなぜでしょう?

波多野:それは、対にするというアイデアがあったからですね。先程も言いましたが、入れ物があれば、僕は何でもできるんですよ。1分の曲にしろと言われればそうするし、20分の曲にしろと言われればそうする。でも、5分というサイズ感がすごく好きですし、そういう中でやるというのが、チャレンジでもある。

波多野裕文

―『Talky Organs』は、いま書いた言葉ではあるけれども、それが時を超えて成立するというか、簡単に言えば普遍性があるようなものも意図しているように思ったのですが。

波多野:普遍性というものに対しては、いろんな解釈があると思うんですけど、僕は「歴史」だと思うんです。見る地点によって様相を変えていいと思うんですよ。僕はその見る地点の変化に耐えうるものであればいいなと思ってます。

―太宰治とか夏目漱石とか、エジプトやアテネの哲学者の発言は、いま聞くといま生きているように聞こえる。古典とされているものが、生き続けている。そういうものに対して思うことはありますか?

波多野:そのすごさのひとつは「物語」という形式であり、もうひとつが「筆致」だと思うんです。どれだけの筆圧で、それを書いたのか。僕は自分の人生を考えた時に、その筆圧に賭けることが第一だと思ってるんです。個人的なものじゃないと全然面白くないと思うし、実際ほとんど一人称も出てこないような作品がこれだけ個人的と思えることも誇らしいし、単純に誠実でありたいと思ってますよ。

―波多野さんの表現のあり方へのこだわり、モチベーションは何なんでしょう? ストイックさというか。

波多野:僕自身は全然ストイックとは思っていないんですけど、頑張って生きるみたいな平凡で泥臭いところだと思うんですよね(笑)。限られた時間の中で自分が何をやるかということを本気で考えたいし、そういう人がもっといたほうが単純に面白いと思う。やっぱり僕は、音楽シーンというものがあるとすれば、それがもっと面白ければいいのにと思うし、その中で自分はど真ん中だと思ってやることが大事だという気持ちがあります。

波多野裕文

―最後に、People In The Boxとしては、曲の中で明確なメッセージを掲げてアジテーションをすることはしたくない、という思いがあると思うんですけど、その上で、波多野さんとしてはこの2015年、生活者として表現者として、どういう風に生きたいかというところに関して、どう考えていますか?

波多野:僕はもうそこしか考えてないですよ。自分がどうやって生きていくかということ。可能性はいっぱいあるなと思います。正直に言うと、自分が表現者であるということに特別なプライドがあるわけではないんです。でも、僕が決めたことはあって、2011年か2012年くらいから、自分の価値観というものを常に考えている。それに対して嘘なくやるということを、一生を賭けてやりたいなと思ってます。これって、口で言うのは簡単だけど実はとても難しいことで。人の価値観なんて、どこからどこまでが純粋に自分が持ったものかというのはわからないんです。例えば、自分が好きと言っているものも、みんなが好きだ好きだって言ってたら、本当に好きかわからなくなってくる。

―たしかにそうですよね。心理学の実験結果でも、人の判断がその場の状況に流されることが証明されている。

波多野:人間って自分の脳みそをガンガン騙しまくるんですよ。だからすごく大変なんですけど、一つひとつの取捨選択を嘘なくやる。自分で自分が何を感じているかということをちゃんと見つめて、自分と他人の差異を受け入れるハートを持って生きていきたいなと思いますね。こういう世相だからこそ、それを強く思います。自分の基準をちゃんと持つよう、考えられる限界まではしっかり考える。そういう基準を持って生きていかないと、どんどん辛くなっていくだろうなと思います。

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