『寝ても覚めても』濱口竜介監督が導く、日本映画の新時代

いま、最もアツいカルチャーはなにか? CINRA.NETが毎月、最重要だと考えるカルチャー作品・人物を選び、紹介するスペシャルコンテンツ「今月の顔」。今回ピックアップしたのは、日本映画を新しいフェーズに導く期待の映画監督・濱口竜介だ。

東京藝術大学大学院修了作品『PASSION』以降、10年以上インディペンデントを舞台に創作活動を続け、『ロカルノ映画祭』など数々の国際映画祭で世界的に評価を高めてきた彼が、柴崎友香の恋愛小説を原作に、満を持して初の商業映画にチャレンジ。

その作品『寝ても覚めても』は、『カンヌ国際映画祭』の「コンペティション部門」に選出されるなど既に大きな評判を呼んでいる。濱口竜介とは、一体どういう映画作家なのか。非日常性や他者、あるいは他者と関わるツールとしての言葉の問題を軸に話を聞いた。

自分が生きるということは、「自分の中の他者と共に生きること」の一択だと思います。

—新作『寝ても覚めても』で最も印象的な場面のひとつとして、東日本大震災(3.11)が登場します。なぜ、作品の中で震災が描かれたのでしょう?

濱口:結果的にではありますが「他者の代表」として、ということです。他者が他者であることは日常的には必ずしも意識されないけれど、その他者性が浮き上がるとき、他者として明確に現れます。結局、普段みんなどうやって生活しているかというと、そうした他者性を弱めたり隠蔽したりすることで、日常的な関係を築いているのではないでしょうか。ところが、自分でも全く予想していなかった不意打ちを食らうことで、その他者性が突然浮かび上がる。その最もわかりやすいものが「震災」だと思います。

濱口竜介

—震災が「大きな他者」として登場する一方で、より身近な他者もいるかと思います。

濱口:そうですね。そして、それは「自分」だと思います。自分こそが他者なのではないか。自分が自分を裏切ってしまう。思っていなかったような行動を取ってしまう。

—自分の中に他者がいるとき、その他者と、どう生きれば良いと感じていますか?

濱口:自分が他者であり、他者こそが自分である。その他者を消すことはできない。そうすると、自分が生きるということは、「自分の中の他者と共に生きること」の一択だと思います。それが「受け入れる」ということなのか、あるいは「闘い」なのかは分かりませんが、ほかに選択肢はないと感じています。

—濱口監督は、「いま撮られるべき日本映画」を撮っている人だと私は思います。それは、ひとことで言えば「黒沢清以降の映画」です。黒沢清監督から影響を受けた日本映画はとても多いですが、濱口監督はその影響を受けながらも、より新しい方向を模索しているように見えます。「自分が他者である」というテーマは、黒沢監督も撮ったドッペルゲンガーの映画だと言えますね。

濱口:実は、僕はドッペルゲンガーの問題というものを映画的に考えたことがあまりないのです。ドッペルゲンガーをどう撮れば映画的に面白くなるかという発想はありませんでした。

—本作は、朝子が、かつて恋をした男性・麦(ばく)とそっくりの亮平と出会う、恋愛物語です。この柴崎友香さんの原作が、濱口監督にドッペルゲンガーのインスピレーションを与えたのでしょうか?

濱口:そうですね。原作を読んで、まず受け手として面白いと思ったのがドッペルゲンガーの要素でした。日常的な恋愛物語だと思って読んでいたら、そっくりな2人の人間という日常のリアリティーをぶっ壊す存在が出てきた。そこから俄然面白くなったのです。

僕の場合、そもそも映画を作るときにリアリティーに基づかなければいけないという根本的な前提があります。それは、「CGなどを使うお金がなくて、現実を変えられないから」です。その前提の上で、それでも可能な映画はなにかと考えてきた中で、この小説はとても現実的であり、ただしそこにフィクショナルな要素としてそっくりな人間が出てくる。「これは自分が撮りたい」と思いました。

—東出昌大さんが演じた、そっくりな2人の人間のひとりである麦とは、一体どういう人物でしょう? フィクショナルな部分と、それでも現実に存在しうる感覚のギリギリのバランスの上で成立していると思いました。

濱口:ああいう人は一応現実に存在しうると思います。風来坊的な要素もあって、スッと人に近付ける。でも、自分の中にそういう要素が全くないので描写する上でかなり困りました。頼りにしたのはやはり原作で、そこでフィクションとして既に描かれてあるリアリティーに即しました。

東出昌大は、外見がそっくりな亮平と麦(ばく)という2役を演じた / 『寝ても覚めても』©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会 / COMME DES CINÉMAS

—柴崎さんの原作以外でも、たとえば濱口監督による『ハッピーアワー』(2015年)の鵜飼さん(柴田修兵)に似ている部分もありますね?

濱口:それは、「言われてみれば」という部分ですが、先程の話につなげると、僕の映画は日常から立ち上げなければいけない。でも、そこに乱入者が必要になる。それは、「日常を当たり前に生きているように見えるけど、本当にお前らはそういう人間なの?」と、突きつけてくるような人です。日常の中に隠れたフィクションを明かすための、微妙に非日常的要素を備えた他者が重要なんです。

東出昌大(麦役)と唐田えりか(朝子役) / 『寝ても覚めても』©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会 / COMME DES CINÉMAS

—一方で、そっくりな人間のもうひとりである亮平は、麦に対して日常を代表するような存在として描かれていますが、彼はなんでも日常に回収してしまいますね。

濱口:亮平は亮平で、実はものすごくフィクショナルな部分があります。日常の中でも、「純化された日常」というか。後半でバランスを取って、彼にも色んな悩みがあったという部分を見せるようにはしていますが、基本的に朝子(唐田えりか)の目からは「日常を代表する存在」として彼が見えているように描いています。

映画『寝ても覚めても』主題歌、tofubeats“RIVER”(unBORDE / ワーナーミュージック・ジャパン)

基本的には「人を撮る」ということをやり続けてきました。

—亮平と麦の関係は、「日常 / 非日常」という対立のほかに、別の側面から見ることも可能だと思います。たとえば、冒頭の「自己と他者」という問題。これは、濱口監督の全作品を通じて大きな主題になっていると思います。

濱口:お金がない環境で自主映画を作ってきて、基本的には「人を撮る」「自分と他者との関係を撮る」という形でやってきました。これなら作り続けることができるからです。

唐田えりかが演じた、ヒロインの朝子 / 『寝ても覚めても』©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会 / COMME DES CINÉMAS

—「資金などの関係で現実は変えられない。しかし、映画は現実そのものではない」と言うときに、黒沢清監督の世代は、現実とは違うフィクショナルな世界、たとえばホラー映画など、ジャンル映画のパターンを使ってどのように非日常的な映画世界を構築するかという問題が大きく存在したと思います。それに対して、濱口さんには「いまここにある日常と向き合って映画を作る」という意識がきわめて強いですね。

濱口:もちろん黒沢清監督たちのように、映画をより日常から離れたフィクショナルなものとして作って、観客との関係を築くことは可能だと思います。しかし、これは物語のレベルでフィクショナルだったとしても、何か別の要素で実は観客と強くつながっている。たとえば美的な構図だとか、感情移入できるスターの存在だとか、カメラワークがすごいとか。

でも、そういうものが全てなかったときにどうするか。やはり目の前にいる人たちから始まります。しかしその日常的な関係性の中にフィクショナルな要素が必ず潜在している筈なので、それを探して立ち上げていくという意識が、自分の場合は強いのだと思います。

「こんなに会話の多い日本映画は珍しい」と言われました。

—黒沢清監督の作品のように、映画そのものがひとつの非日常性や他者として存在するのではなく、他者としてのなにかに対して、人々がそれをどう受け止め、どう言葉にしていくか。これは実に現代的で重要な問題ですし、濱口監督の作品でも大きな軸になっていると思います。

濱口:『PASSION』(2008年)を撮った頃、「こんなに会話の多い日本映画は珍しい」と言われました。でもそれは、意図的にやったことでした。東京藝術大学大学院にいた頃、亡くなった映画批評家の梅本洋一さんの授業を受けたのですが、梅本さんは日本映画における言葉の貧しさを指摘していました。

本来、人は他者と付き合っていくとき、その他者とつながったり、あるいは自分を区分けするために言葉を必要としている。ところが、日本映画にはその言葉を持っているキャラクターがほとんど存在しないという指摘です。これが僕にとって、『PASSION』を作るひとつの指標、あるいは支えとなりました。他者と共に生きていくため、あるいは付き合っていくためのツールとしての言葉という問題は、それから現在まで強く意識してきたと思います。

瀬戸康史演じる亮平の会社の後輩・串橋 / 『寝ても覚めても』©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会 / COMME DES CINÉMAS

—『PASSION』では、教室で学生たちが暴力について討論する特異な場面があります。暴力はひとつの他者であり、その他者に対してどう立ち向かうか、どうやって言葉にするかと真剣に向き合っている部分に濱口作品の面白さがあるのではないでしょうか。言葉はどう暴力を受け止めるか、あるいは受け止められないのか。

濱口:『PASSION』で暴力の問題を扱ったのは、これは明らかに黒沢清監督の影響です。彼の元で映画を学んだ人間なので、それは考えざるを得ないものでした。ただし、視覚的な暴力表現というものは、全てやり尽くされてしまった気さえ個人的にしています。

それでも暴力というのは世界と映画にとって重要な問題であって、避けて通ることは難しい。ならば、相変わらずお金が十分にないことも含め、与えられた状況の中で、それをどうやって描くことができるか。その問題を考えようとしたときに、あの教室の場面が生まれました。

勿論、あれが正解だとはまったく思えないです。あれはやはり言葉であって暴力そのものではない。映画で暴力を描く上で、果たしてこれで良いのだろうかとずっと悩みつつ、悩みながら現在まで続けている気がしています。

「対話をする行為」自体にものすごく希望があると感じたのです。

—黒沢清監督の世代は、映画そのものを暴力にした。あれ自体が暴力じゃないかという批判も可能だと私は思っています。それ以降の映画の可能性を考えたとき、濱口監督は映画によって暴力と向き合うことをおそらく考えている。暴力を前に人は何ができるか。言葉には何ができるか。できないのか。暴力とは他者であり、災害であり、自分の中の他者でもある。たとえば、濱口監督のドキュメンタリー「東北記録映画三部作」(『なみのおと』『なみのこえ』『うたうひと』)は、東日本大震災で被災した人々が自らの体験について話し合う、対話の場面のみで作られていますね。

濱口:東北に行ったとき、実際の風景や瓦礫を見て、映像にはほとんどなにも映っていなかったと思いました。映像で見ていたものは「震災」とか「破壊」というイメージでしかなかった。自分が記録を始める段になってさらに、瓦礫や被災した風景を撮って映画を作るということは、これまでに作られてきた災害のイメージをどこかで借りて映画を力づけることになってしまうのではないか。だから、ただ目の前にある力強いものだけを撮ろうと選択したときに、ああした作品ができた訳です。

濱口:それは、僕と共同監督の酒井耕がずっと対話しながら制作していたということもありますが、対話をする行為自体にものすごく希望があるのではないかと感じたのです。その気持ちをそのまま映画にしたかった。それは、暴力以前に個人が話すことそのものが力強いという実感です。一人ひとりがすでに持っている「力」があり、それが表現されたときにポジティブに力強いと感じる。暴力とは、その「力」が他者として発揮されたときに感じるものなのではないか。

—『寝ても覚めても』の震災の場面では、亮平が歩いて会社に戻ろうとします。そこで彼は道端でうずくまる女性に声をかけたり、全く自分と異なるタイプの人から声をかけられたりする。対話のほんの些細な奇跡というか、些細だからこそ美しい場面ですね。

濱口:東日本大震災のとき、電車が止まったせいで僕は深夜まで渋谷に足止めされていました。そのとき、それまでの人生であまりこういう経験はしたことがなかったのですけど、自分とは全く異なるタイプの人たちと結構話して、それがすごく印象に残っています。

あの場面では、そのときの自分の記憶をそのまま使いました。当時、多くの人たちが同じような体験をしたんじゃないでしょうか。だからこそ、SNSなどで「希望」という言葉が盛んに飛び交っていたような気がします。「これだけ大変なことがあったんだから、これから世の中はもっと良くなっていくはずだ」と、多くの人たちが垣根を越えて一時的に通じ合い、希望を共有した。でも、現実としてそうはならなかった。だから、これもやはりひとことでは言えない部分があります。

渡辺大知(黒猫チェルシー)演じる岡崎 / 『寝ても覚めても』©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会 / COMME DES CINÉMAS

ハッピーアワーにも価値があるし、アンハッピーアワーにも価値がある。

—対話について言えば、同世代の人々が話し合う場面が濱口作品にはしばしば登場しますね。これは、たとえば同じ世代で活躍する三宅唱監督(最新作は『きみの鳥はうたえる』)の作品でも多く見られます。 同世代の人たちの会話って、いちいち言葉にしなくてもわかり合っている感じ、通じ合っている空気が濃厚に醸成されますが、濱口監督の場合は最終的にこれを安定したものと見なしていない気がします。

濱口:同世代的で同質的な、つまり身内ノリのグルーヴィーな会話というものは、生きていく中で培ってきた他人との付き合い方だと思います。先程言った自分の「力」をある程度飼い慣らして、他人と同調したり、そうした一定の範囲の中である種のノリを作っていく。「いま、俺たち同じものを感じているよね」って感じですね。

でも、どこかで他者が侵入してきたり、あるいは自分の中から他者性が発揮されたりすると、実はあっけなくそれは破壊されてしまいます。そして破壊されたあとに、「あれは一体何だったんだろう?」と思う。

左から唐田えりか、山下リオ、伊藤沙莉 / 『寝ても覚めても』©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会 / COMME DES CINÉMAS

濱口:一方で、そうした同質的なものに全く意味がないとも思いません。それはすごく価値のある魅力的なものだけど、ただし意識的であれ無意識的であれ、それは努力によって作られているものだと思うのです。

—その同質的なノリとは「ハッピーアワー」ということですね。

濱口:そうですね。ハッピーアワーにも価値があるし、アンハッピーアワーにも価値がある。同質的なノリが達成されたときだけが尊いのではなく、それが壊れてバラバラになってしまったときにも実は尊いものがある。そこでは自分自身が新たに発見されているのかもしれない。だからそうやって、人が集まったり離れたりする繰り返しを見ているのが、僕は好きなんだと思います。

「運動をつなぐ」ということは、『寝ても覚めても』ですごく考えていました。

—今回、被災地としての東北は描かれませんでしたが、映画の後半で大きな堤防が登場します。視界を遮るきわめて異質な風景であり、それ自体が他者であるようにも見えました。ここで、麦は堤防の向こうを見ません。麦自身が他者であり、その彼が被災地の海を見ようとしないのは十分納得できますが、一方で朝子は堤防に上がって海を見ますね。

濱口:あれは仙台空港の真ん前にある防潮堤で、神戸から飛行機を使って仙台に行ったとき、海を見に行ったらあれが目の前に現れたときの衝撃が大きかったんです。その個人的な記憶から使った気がします。

一方、朝子が堤防の向こうを見る場面に関しては、実は先日行った、蓮實重彦さんとの対談でも(青土社『ユリイカ2018年9月号 特集=濱口竜介』に収録)、「あの海を見せることは本当に必要だったんですか?」と聞かれました。そのときは上手く答えられなかったのですが、彼女はやはりあそこで海を見ざるを得なかったし、海自体も見せる必要があるのだと感じました。

その理由は僕自身にも明確ではないのですが、朝子は海を見てああいう表情をしたというのが映画のその後の展開にとってとても重要な気がしたのです。あの顔があることで、彼女は先に進める。それだけでなく観客も映画の先の展開まで付き合うことができるという気がしました。

左から唐田えりか、東出昌大 / 『寝ても覚めても』©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会 / COMME DES CINÉMAS

—朝子は海を見るだけではなく、堤防の上を歩きますね。その運動が、そのまま大阪で川の土手を走る彼女の姿に結びついていくと思いました。彼女がなぜ亮平の元に戻っていくのか、映画ではその心理を説明していませんが、画面の運動がそれを強く後押ししている。運動的につながっていることで納得させられる気がしました。

濱口:確かに、「運動をつなぐ」ということ自体は、この作品ですごく考えていました。誰かが動き出してフレームの外に出ていく。そして、別のフレームがそれを受け取って映画が続いていくということは考えていた気がします。全てを考えて映画を作っているわけではありませんが、キャラクター一人ひとりの感情を考え、このようにしか動けないと脚本を書き、それが結果的にどういう映画として映るかは、本来は見る方にお任せするしかない。その中で、それをいまのように言っていただいて、「ああ、そういう映画だったのか」と自分でも発見があってよかったです。

作品情報
『寝ても覚めても』

2018年9月1日(土)からテアトル新宿、ヒューマントラストシネマ有楽町、渋谷シネクイントほか全国公開

監督:濱口竜介
原作:柴崎友香『寝ても覚めても』(河出書房新社)
主題歌:tofubeats“RIVER”
音楽:tofubeats
出演:
東出昌大
唐田えりか
瀬戸康史
山下リオ
伊藤沙莉
渡辺大知(黒猫チェルシー)
仲本工事
田中美佐子
上映時間:119分
配給:ビターズ・エンド、エレファントハウス」

プロフィール
濱口竜介 (はまぐち りゅうすけ)

東京藝術大学大学院修了制作『PASSION』(08)が国内外で高く評価され、演技経験のない4人の女性を主演に迎えた前作『ハッピーアワー』(15)がロカルノ、ナント他の多くの国際映画祭で主要賞を受賞しその名を世界に轟かせた気鋭・濱口竜介。原作に惚れ込み映画化を熱望した『寝ても覚めても』で満を持して商業映画デビューを果たす。日常生活の中にある人間の感情や、人間関係、人々が暮らす街の姿など、普段見過ごしてしまいがちな細かい場面にまでこだわる演出で、繕いのない本当の人間らしさを映像に映し出す。特集上映の度に満席続出になるほど日本の映画ファンに熱狂的な支持を集めている。『ハッピーアワー』は、5月にフランスでも公開されて10万人を動員する大ヒットを記録。『寝ても覚めても』が初の世界三大映画祭出品でありながら、カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に選出されるという快挙を成し遂げ、「近年稀に見る新たな才能の出現!」「日本のヌーヴェルヴァーグ!」など海外メディアも称賛。今世界が最も注目する日本人監督となった。



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