君島大空が求める「ギリギリ、音楽」。繊細な芸術家の脳内を覗く

音楽家・君島大空が1st EP『午後の反射光』を3月13日にリリースする。これまで、「高井息吹と眠る星座」をはじめ、ギタリストとしての活動を行ってきた一方、自作曲をSoundCloudにアップ、弾き語りをメインとしたライブ活動も行ってきた君島。様々なアーティストへの楽曲提供も行ってきたほか、去年は崎山蒼志が「好きな音楽家」として様々なメディアでその名を挙げていたので、そこで存在を知った人も多いだろう。『午後の反射光』は、君島大空のソロ名義で世に放たれる、初にして待望の作品である。

本作は、ゲストドラマーに石若駿を招きながら、作詞・作曲・編曲、そして録音、ミックスまでを君島自身が手がけたセルフプロデュース作品。この作品で君島が描いたのは、「光」である。しかし、この「光」は、人を前向きに突き動かすような光ではない。むしろここで描かれているのは、「悲しみ」の輪郭を照らし出すような光。誰しもがそれぞれ固有の「生」のなかに持つ悲劇に、そっと寄り添うような光だ。君島の繊細な眼差しと指先は、見事にその光を捉え、奏で、編み、音楽として、この世界に定着させている。

このインタビューが、君島にとっての初の単独取材となった。どうか、この才能に出会って、その音楽が照らすあなただけの悲しみと、語り合ってほしい。

「映像と音楽は、取り込む器官が違うだけで、同じものなのではないか?」という感覚が僕にはあって。

—君島さんは、これまでほかのアーティストへの楽曲提供やサポートギタリストとしての活動をされてきた方ですが、こうしてソロ名義での作品を世に出すというのは、ご自身としても待ち望んだ瞬間、という感じなのでしょうか?

君島:ずっと自分の作品を作りたいとは思っていたし、デモ音源を作って、弾き語りのライブをするときに売ったりはしていたんです。でも、基本的にはサポートワークやギタリストとして現場に入ることが多かったので、自分の作品を作り込むことになかなか時間を使えなくて。

そうしていくうちに、自分が参加している作品はどんどんと増えていきつつも、「自分の音楽」と言えるものは残るんだろうか? と思ったんです。それまでの自分の活動のなかには、「これが自分の音楽です」と自信を持って言えるものがないんじゃないか? と思った瞬間があって。

君島大空

—自分の音楽、ですか。

君島:それは「メッセージ性があるもの」ということでもなくて……。とにかく「自分」で満ち溢れているもの、というか。僕はこれまで、シンガーソングライターの方や、「歌」を重点に置いている方のサポートでギターを弾くことが多かったんです。

でも、僕は自分で「歌を作りたい」と強く思ったことはないし、いまでも、自分が歌を歌う人間だとは思っていません。いい歌うたいが周りにたくさんいるので、できるならば、あまり歌いたくないなって思うくらいで(苦笑)。シンガーソングライターコンプレックスみたいなものが、自分のなかにはあるような気がします。

—それは一体、どのような感覚なのでしょうか?

君島:「歌」と「音楽」は違うものだっていう意識が、煩わしくも自分のなかにずっとあるんです。強迫観念みたいなものなのかもしれないですが。もちろん、歌は大好きなんですけど、僕は、なんというか「歌だけ」の表現はやりたくないというか……。歌と音楽は違うものだからこそ、その両者が見たことのない場所で溶けあっているようなものが作れたらいいなっていう気持ちが、ずっと胸にあって。この作品は、そういう気持ちを持ってできたもの、という感じです。

「コントラルト」は女声の最低音域を意味する

—たしかに、この作品から聴こえてくる「歌」のあり様はとても特殊な感じがします。歌を録音するにあたって、どんなことを意識したんですか?

君島:今回に限らず、自分で歌うときに意識していることは、「性」の匂いをなるべく消すっていうことです。僕は、「性」の匂いのするものが、あまり好きではなくて。「男性性や女性性の強いものを、音楽に持ちだしてくれるな」って、どこかで強く思っている。

だから、「どっちなんだろう?」って思われるような、男か女かわからない声、というのは意識しています。どうしても男っぽくなってしまうから、地声では歌いたくないんですよね。自分で自分の存在を消したい。自分と声の距離を離したい。その意識は、弾き語りのときも、録音のときもあります。

—なるほど。ただ、「性」や「自分」というものとの距離を離しながらも、今作は決して無機質な作品ではないですよね。1音1音の響きにおいても、その重なりにおいても、非常に有機的な感触があります。すごく大きな質問になってしまいますが、君島さんは音楽によってなにを捉えようとしているのでしょうか?

君島:このEPのタイトルの通り、「反射光」というか。「映像と音楽は、取り込む器官が違うだけで、同じものなのではないか?」という感覚が僕にはあって。それは些細な景色でもいいんです。

たとえば、初恋の人の横顔を横目でかすめた瞬間とか。その一瞬を、音楽によって引き延ばしたい。引き延ばして、瞼の裏に立ち現すことができないだろうか? っていうのが、自分のなかのテーマとしてあります。音楽による可視化。それが、自分のやりたいことです。

君島:『午後の反射光』の「午後」というのも、「いま」ではない、過去に起きた一瞬なんです。でも、それを切り取りたかった。この作品で描かれているものは、僕の、すごく個人的な思い出でしかないんです。

すごく悲しい思い出なんですけど、美しい思い出でもあって。本当に悲しかったときに、光を冷たく感じたこととか、すごく嬉しいときに温かく感じた光とか……そういうものって、誰しものなかにあるような気がするんですよね。その一瞬と、どうにかダブったら嬉しいなっていう気持ちがあります。

「違和感」って、実は、すごく親密なものなのではないか? と思っています。

—「音楽による可視化」というテーマを得るに至ったきっかけは、どのようなものだったのでしょう?

君島:アンドレイ・タルコフスキーというロシアの映画監督がいるんですが、その方の『鏡』(1975年)という作品がありまして。それが、私小説的というか、自伝映画みたいなものなんですけど、ひたすら眠気しか覚えないような淡々とした映像が続くんです。しかも、その当時のロシアの歴史的な背景も相まって、一度見ただけでは到底理解できないような映画なんですけど、とにかく映像が綺麗なんですよね。

アンドレイ・タルコフスキー『鏡』本編映像

君島:その映画のなかで、タルコフスキーのお父さん(詩人のアルセニー・タルコフスキー)による詩の朗読が流れて、草原の映像がダラーっと続いていく場面があって。その映像がすごく、僕が音楽に求める景色にダブるような気がして「これを音楽でやりたいな」って思ったんですよね。あともうひとつは、今回、“遠視のコントラルト”のミュージックビデオを撮っていただいた、松永つぐみさんの存在はとても大きくて。

—松永つぐみさんは、今日、この記事の写真も撮影してくださっていますね。

君島:つぐみさんからは、マン・レイ(アメリカ合衆国の画家、彫刻家、写真家)のようなシュルレアリスム以降の実験映像を教えていただいたりして。そこから、僕もシュルレアリスムにハマって、アンドレ・ブルトン(フランスの詩人、文学者)や瀧口修造(近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家)の本を買って読んだりするようになったんです。

—シュルレアリスムとの出会いは大きかったですか?

君島:大きかったですね。そもそも、大学に行こうと思っていたんですけど、高校3年生の終わり頃に、少しずつサポートでギターを弾くお仕事をいただくようになって。それでバタバタしていたら、いつの間にか桜が咲きはじめていました(笑)。

—ははは(笑)。

君島:そこで、「まぁ、大学はいつでも行けるしな!」と思って、高校を卒業してからはずっとサポートの活動をしていたんですけど、その頃に、つぐみさんに出会って。他にも、仕事場で映画好きのおじさんと出会って、その人からブルトンの本やヤン・シュヴァンクマイエル(チェコのアニメーション作家・映像作家)を勧められて、そこから傾倒していった感じがあります。

「ここまで自由でいいんだ」とか、「一見理解不明なものにここまでエネルギーを注げる人たちが、こんなに早い時代からいたんだ」っていう気づきは、勇気にもなりましたし、いまでも自分のエネルギーになっている気がします。

—君島さんのホームページには、「collage」というページがあって、そこにコラージュ作品が掲載されていますよね。君島さんの音楽には、コラージュ的な要素も強くあると思うのですが。

君島:そうですね。コラージュに関しては、岡上淑子さんという、日本人のコラージュ作家の方の作品を19歳くらいの頃に見て。「これがやりたい!」と思って、そのときに作ったコラージュを、デモCDのジャケットにしたことがあります。

岡上淑子さんからは、とても影響を受けていると思いますね。すべての作品が淡々としているんです。飾っていなくて、でも違和感がすごい。音楽でも、こういうことがやりたいなって思います。いまは、海外でもInstagramとかでコラージュが盛んなんですよね。

—君島さんがシュルレアリスムやコラージュ作品に惹かれるのは、なぜなのでしょう。いまおっしゃっていただいた「違和感」に惹かれるんですかね?

君島:「違和感」って、実は、すごく親密なものなのではないか? と思っています。岡上淑子さんのコラージュ作品や、シュルレアリスムの詩は、「個」の暗い部分に、すごく親密に入ってくるような感じが僕にはしたんです。

人には言えないこととか、「本当は、これぐらい歪なんだよ」っていうこと……そういう自分の暗がりみたいなところに、スッと入ってきてくれる。でも、その「暗がり」って、そんなに淀んでいるものではなくて。すごく透きとおっているもののような気がする。僕は、本当に悲しかったことって、透明なものだと思っているので。

「ひとり」という小さな六畳の部屋みたいなところから、ありえない広がりや景色を見せる。そこに、すごくロマンを感じる。

—君島さんは音楽を作るうえで、「個」というものに強く執着している感じがありますよね。

君島:宅録でやってきたっていうことが、そこにつながっている気がするんですけど、音楽に関しても、他のことに関しても、ひとりでやっている人が僕はすごく好きなんです。専門的な知識はなくても、ひとりでミックスまでやった人の音源には、一般的には汚いと言われる質感であっても、そこに途轍もなく「血」を感じることができんですよね。

僕にとって「ひとり」ということは、自分が音楽を作る意味合いとして、すごく大きいと思います。「ひとり」という小さな六畳の部屋みたいなところから、ありえない広がりや景色を見せてくれるっていうところに、すごくロマンを感じる。

—オフィシャルサイトのバイオグラフィーには「bedroommusician」とも書かれていて。「ギタリスト」や「シンガーソングライター」というだけでなく、わざわざこうした書き方をするところにも、非常にこだわりを感じました。

君島:そうですね。“遠視のコントラルト”のミュージックビデオが出てから、若干、バンドだと思われているフシがあるんですけど、「ひとりだよ」っていうことは言っておきたいです(笑)。

—ははは(笑)。

君島:あと、僕の同世代やちょっと上のミュージシャンは、宅録であったりローファイな環境で作った音源でSoundCloudを盛んに更新している人が多くて、そういうシーンが今また確実に動き出していて楽しいんです。僕もその端くれだと思うので。結果としてこの『午後の反射光』も、高解像度でローがめっちゃ効いたスピーカーとかで「うぉぉ!」ってなるような音楽ではないと思います(笑)。でも、夜、家に帰って、ひとりの部屋などでイヤホンやヘッドホンで聴いてくれたらいいなと。ひとりのなかに、この作品が落ちていったらいいなと思う。

ギリギリ、音楽。でも、ポエジーに溢れているものを作りたいなって思う。

—「言葉」に関してのお話も聞かせてください。以前、CINRA.NETに掲載された崎山蒼志さんのインタビューで、「君島大空さんから吉増剛造さんの詩集をもらった」とおっしゃられていたのを読んで、詩にもかなり造詣が深い方なのかなと思っていたのですが(参考記事:崎山蒼志が戸惑い混じりに語る、『日村がゆく』以降の喧騒の日々)。

君島:図書館が好きで、地元の図書館で、いろんな現代詩の詩集を片っ端から読んでいた時期がありました。そもそも、高1くらいの頃は「小説家になりたい」と思っていたんですよ。それで、ずっとショートショートみたいなものや、詩も書いたりしていました。

—そうなんですね。

君島:吉増さんは、すごく好きな詩人ですね。最初は、「吉増剛造って、すごい名前だな」と単純な理由で詩集を借りたんですけど(笑)、原稿用紙に絵を描くように詩を書いている作風を見て、自分のなかのなにかが破壊されたというか……。「これは詩なのか? じゃあ、詩とはなんなのか?」っていうくらいの衝撃を受けたんですよね。それから、吉増さんの詩は熱心に読むようになりました。あと、僕の地元は青梅市という場所なんですけど、吉増さんは、そこからちょっと行った福生の人だというので、親近感も湧いて。

—吉増さんの、多くの人が想像するであろう「詩」の形式を大きくはみ出していく表現方法に惹かれるのも、これまで語っていただいた、君島さんの歌や音楽に対する感性に通じているような気がします。

君島:吉増さんは、もはや「言葉」の人ではないような気もします。「ギリギリ、詩」みたいなものだと思うんですよ。この間も個展に行ったんですけど、大きな紙に米粒みたいな大きさの文字で、全部カタカナで詩を書いて、それを上から赤いペンキで塗りたくっていて……もはや読めないんです。

『火ノ刺繍』という作品だったんですけど、それにもすごく感動しました。それは、もはや「言葉」から溢れ出した表現で、「ここまでやる人が、日本にいるんだ」と思って。僕も、そんな「ギリギリ、音楽」みたいなものをやりたいなって思うんですよね。ギリギリ、音楽。でも、ポエジーに溢れているものを作りたいなって思う。

音楽のなかでも、言葉だけが、音には持ちえない支配力を持っている気がする。

—歌詞のような、音楽のなかの言葉に対しては、どのように向き合っているのでしょうか?

君島:歌詞は、組み立てられた文章というより、自動記述的に書いている感じですね。さっき言った、シュルレアリスムの運動のなかの詩人や、そこに付随する人たちの詩を自分なりに解釈して、作詞に反映している部分もあると思います。……でも基本的には、音楽のなかの言葉には、苦手意識があって。

—なぜですか?

君島:音楽のなかでも、言葉だけが、音には持ちえない支配力を持っている気がするんです。僕は、その支配力が大好きでもあるんですけど、恐ろしくもあって。言葉は「呪い」にもなってしまうものだと思うので。

だから僕は、なにを言っているかわからないけど、語感が気持ちいいとか、耳障りがいいとか……そういうものをいいなと思う。「空が青い」という景色を見せたいのならば、空が青く見えるような音を鳴らす。見せたい景色を、言葉だけでは見せることができない景色を、音で補完していく……そういうことがしたいので。歌詞も、そういう意識を持ちながら書いていますね。

—君島さんは、映像が表現しうるものや、言葉や詩が表現しうるものをすごく深いところまで見つめているし、そういった音楽以外の表現が持ちうる力も、すごく敏感に感じ取っていらっしゃいますよね。それらを知ったうえで、なぜ、音楽による表現を自分は選んでいるのだと思いますか?

君島:たとえば映像って、「切り取られたもの」というか、違う時間軸のものだと思うんです。いま流れている時間とは、違う時間軸のものが急に入ってくる……それが、「映像を見る」という行為だと思うんですけど、僕はたぶん、耳もそれで満たしたいんですよね。

君島:僕が音楽を聴いて、そういうことを感じた瞬間があったんです。光が見えた瞬間、というか。僕がギターをはじめたきっかけは父親なんですけど、父は、トム・ウェイツと吉田拓郎と忌野清志郎と加川良しか聴かない、みたいな人で(笑)。

—それは極端な(笑)。

君島:そうなんです(笑)。そんな親父が聴いていたトム・ウェイツの、1stアルバム『Closing Time』(1973年)の1曲目に“Ol' '55”という曲があるんですけど、その曲のピアノの1音目を聴いた瞬間に、朝の光がスッと射すイメージが飛び込んできたんですよね。

トム・ウェイツ“Ol' '55”を聴く(Apple Musicはこちら

君島:歌詞の和訳をあとで読んだら、実際に「朝の6時に車に乗って~」みたいなことを歌っている曲で。「音楽って、こういうことが起きるんだ!」って、そのとき思ったんです。狙わずとも、そういう奇跡的な瞬間が生み出されてしまう、生み出すことができる。そういう瞬間を信じています。

僕は、ただ美しいだけのものは作りたいと思わない。

—これまでのお話のなかにも「光」という言葉が出てきましたけど、やはり「光」というモチーフは、君島さんにとって重要なものですか?

君島:そうですね。耳から光が入ってくるような作品にしたくて。ただ、このEPで描かれる「光」というのは、あまり前向きな意味での「光」ではないんです。言い方は悪いかもしれないですけど、音楽のなかでありふれた光のあり様って、あるじゃないですか。

—たとえば、大勢の人のうえに降り注ぐ「希望の光」みたいな?

君島:そう。でも、僕が描きたい光は、そういうものではなくて。それとは逆の、インナースペースで繰り広げられている光の乱反射のようなものを、僕は描きたい。そういう意味での光のほうが、僕にはリアリティーがあるんですよね。

そこに光がある。光っている。その光は、本来、見たくなかった光なのかもしれない。でも、光は光として「それ」を映してしまうから、僕は「それ」をはっきりと見てしまう……。そういうものを描きたいなと思う。

—人は光がなければものを見ることができないのと同じように、君島さんが音楽によって作る光で照らされるものがあるということですよね。

君島:この作品を作りながら、実態がないものを、実態がないもので描こうとするのって、面白いと同時に、難しいことだなって、改めて実感していて。

—ええ。

君島:世界は「反射」で成り立っているような気がするんです。でも、僕は日々過ごしていて、人との関係も含めて、「自分以外のすべては幻なんじゃないか?」って、感覚に襲われることがあって。世界は、煙のように実体のないもので満ちているっていう感覚がある。それらを映し出している光っていうのは、なんて頼りないんだろうって不安になるんです。そして、そんな不安定な光は、自分のインナースペースにも存在している気がする。

でも、誰しもがそんなグチャグチャした光を持っているような気がするんですよね。その光は、決して美しいものではないけど、僕は、ただ美しいだけのものは作りたいと思わないので。このEPの曲も、たとえミックスが歪でも、僕が本当に「光」だと思えるものを作りたかったんです。自分のなかの「光」の本当の意味合いを、あぶり出したかったんだと思います。

—君島さんの音楽から、歌詞の一節を抜き出して語ることはそれほど意味を持たないかもしれませんが、“遠視のコントラルト”の<僕の所為で笑ってよ!乱射した言葉は空虚を舞う / 誰の所為にしたい? 優しく君は笑った?>というラインは、いまおっしゃっていただいた君島さんにとっての「光」のあり様、「反射」の関係性を見事に表しているように感じられました。

君島:あぁ、その部分の歌詞に触れていただけるのはすごく嬉しいです。この曲では、感情の反射のようなものを描けたんじゃないかと思っています。「僕の所為で」って言っているわりには、「笑ってよ」って押しつけている。この言い方って、すごく無責任なんですよね。

でも、それはひとりのなかで起こっている出来事で。この歌の主人公は、「君」という対象に触れたり、話しかけたりしていないと思うんです。離れた場所から、陽だまりのなかで揺れている自分の大切な人を見ている。その瞬間を、ずっと、いろんな角度から見ていられるように、化石のようにしてしまいたいと思ったんです。

君島大空『午後の反射光』を聴く(Apple Musicはこちら

リリース情報
『午後の反射光』(CD)

2019年3月13日(水)発売
価格:1,620円(税込)
APLS-1903

1. interlope
2. 瓶底の夏
3. 遠視のコントラルト
4. 叙景#1
5. 午後の反射光
6. 夜を抜けて

イベント情報
『君島大空 1stEP発売記念夜会「午後の反射光」』

2019年4月19日(金)
会場:東京都 下北沢THREE

メンバー:
君島大空(Vo,Gt)
西田修大(Gt)
新井和輝(Ba)
石若駿(Dr)
タグチハナ(Cho)

DJ:石原純平
ゲスト:宗藤竜太

『Eggs×CINRA presents exPoP!!!!! volume119』

2019年3月28日(木)
会場:東京都 渋谷 TSUTAYA O-nest

出演:
君島大空
and more!!!!!
料金:無料(2ドリンク別)

プロフィール
君島大空 (きみしま おおぞら)

1995年生まれ日本の音楽家。高井息吹と眠る星座のギタリスト。2014年からギタリストとして活動を始める。同年からSoundCloudに自身で作詞/作曲/編曲/演奏/歌唱をし多重録音で制作した音源の公開を始める。ギタリストとしてタグチハナ、konore、坂口喜咲、婦人倶楽部、Orangeade、などのアーティストのライブや録音に参加する一方、2017年には霞翔太監督作品「離れても離れてもまだ眠ることを知らない」の劇中音楽を担当。アイドルグループsora tob sakanaへの楽曲提供など様々な分野で活動中。



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