椹木野衣に聞くコロナ禍のアート。立ち戻るべきは孤独の創造性

新型コロナウイルスが人々から奪った、地域を超えた活発な移動や交流、多くの人が身を寄せ合う場のあり方は、近年のアートがその原動力としてきたものでもあった。大規模展覧会、芸術祭、ワークショップ……。そうした活動形態に影が落ちたいま、アートにはどのような変化や想像力が求められているのだろうか? 災害と美術の関係を丹念に紐解いた『震美術論』などの著書がある、美術評論家の椹木野衣さんに話を聞いた。

※本記事は2020年4月27日に実施された取材をもとに制作しています。

(メイン画像:大改修工事を終え3月21日にオープン予定だった京都市京セラ美術館。5月26日に京都府在住の方に限定し、来館前日までの事前予約制をとり開館。6月19日以降は京都府在住の限定も解除予定 / 撮影:来田猛)

遠隔的 / 非接触型のコミュニケーションを、いかにより創造的なものに変えていくか

―新型コロナウイルスの発生以降の経緯をどうご覧になっていましたか?

椹木:中国で未知のウイルスによる急性呼吸器疾患が広がっていると知った際、まず浮かんだのは「これがパンデミックの状態にならなければいい」ということでした。僕らの世代で芸術文化に関わる人間ならば、1980年代以降にエイズ禍をもたらしたHIVウイルスの記憶は鮮烈です。

HIVは感染力も弱く今回のような次元でのパンデミックには至らなかったけれど、当時の文化で影響力のあった人物が数多く亡くなった。そうした事態にならなければいいなと。

椹木野衣
美術批評家。多摩美術大学教授、同芸術人類学研究所所員。著書『日本・現代・美術』、『「爆心地」の芸術』、『反アート入門』、『後美術論』(第25回吉田秀和賞)、『震美術論』(平成28年度芸術選奨文部科学大臣賞)ほか多数。最新刊に『感性は感動しない』。福島の帰還困難区域で開催中の「見に行くことができない展覧会」、『Don’t Follow the Wind』では実行委員も務める。

椹木:しかし、当初はさほど強く危機感を持てていなかったと思います。2月に、関わる帰宅困難区域での展覧会『Don’t Follow The Wind』のため福島を訪れた際、その車中で初めて自分の無症状感染の可能性に思い至り、現地の人に会っていいのかを真剣に悩みました。

結局、感染対策を万全にした上で会ったのですが、その辺りからこの感染症は対人の配慮の点でとても面倒だと実感しました。同時に、不可視のものに対する想像力を必要とする点で、この問題は福島の放射能と同じく、おのずと表現の領域と絡んでくると考え始めました。

―新型コロナの性質は、人やモノが国を超えて活発に行き来するグローバル社会の弱点を見事に突いています。近年の主流なアートシーンも例外ではなく、まさしくそうした社会の構造を土台に展開されてきましたが、大局的にはどんな影響が考えられますか?

椹木:僕自身は、1989年の「ベルリンの壁崩壊」以後を、グローバライゼーションの時代だと位置付けています。それ以降、アートもそのシステムの上で世界的に波及しました。

たとえば、ビエンナーレやトリエンナーレなどの大規模な国際美術展、アートフェア、国内的には芸術祭と呼ばれる催しもその文脈で活性化したものです。これらはグローバル時代のアートのインフラと呼ぶべきもので、美術館以上に重要な役割を果たしてきた。それが大幅に縮減されれば、その上で活動するアートの形態も自然と変わると思います。

1990年代以前のアートには、「アートとは、特権的な才能に恵まれた個人としてのアーティストが、孤独や内省を経て作るもの」という共通認識がありました。しかしグローバリズム以後は、いわばすべての人がアーティストであり、人と人、人とモノをつなげることで、個々人の創造性を引き出してくれる存在がアーティストだと考えられるようになった。そこから、ワークショップやコミュニケーションをベースにしたアートのあり方が主流となり、芸術祭やプロジェクト型の活動の足場となってきました。(参考:『ARTNE』グローバリズムの光と影 アートフェア、国際展… 中止は一時的現象か?

清津峡渓谷トンネルTunnel of Light(2018年) ©Osamu Nakamura / 『「大地の芸術祭」の里 越後妻有2019春』

椹木:コロナ禍は、観光や市民の学びと密接に結びついたそうしたタイプのアートの可能性を、すべて「リスク」に反転させました。たとえば芸術祭では、国内外から大量の表現者や作品、観客、ボランティアが集まり、現地の高齢者を含む市民と交流します。

また、そこで重要な役割を果たすのが祭りや食といった要素です。これらは、感染リスク以外の何者でもない。コロナ禍がいつまで続くかはわかりませんが、少し待てば同じような形態でふたたびこうした催しができるかと言えば、それは楽観でしょう。いまは主に美術館などの閉鎖が注目を集めていますが、長期的にはこちらの影響の方が深刻かもしれません。

―延期になった東京オリンピックが象徴的ですが、新たな感染症の発生で催しが「飛ぶ」リスクを知ったいま、大規模イベントの企画者には不安がつきまといますね。

椹木:それぞれに初めてアートコレクティブを芸術監督に迎えた今年開催予定の『ヨコハマトリエンナーレ2020』や2022年の『ドクメンタ』(ドイツで5年に1度開催される国際美術展)が控えたこの数年は、本来ならば、先ほどの「すべての人がアーティストだ」式のアートのひとつの節目となるはずの年でした。しかし、これらの催しも、当初のコンセプトのまま開催することは難しいでしょう。

そうしたなかで、僕は最近、「リモート・アート」や「引きこもり芸術」という言葉を試行的に使用しています(参考:『ARTNE』リモート・アート 日本の在宅芸術の原点? NTTの電話網仮想館)。現在は、単に対面型の代替物と捉えられている遠隔的 / 非接触型のコミュニケーションを、いかにより創造的なものに変えていくのか。それと、この30年ほどに育んできた対面のコミュニケーションを軸とするアートのノウハウを、どんな風に矛盾なくすり合わせていくのかが、今後の大きなトライアルになると思います。

当初の予定から2週間遅らせて7月17日からの開幕が発表された『ヨコハマトリエンナーレ2020』アーティスティック・ディレクターを務める、ラクス・メディア・コレクティヴ / 撮影:田中雄一郎 写真提供:横浜トリエンナーレ組織委員会

爆発的に広がったコミュニカティブなアートの行き過ぎを制御する知恵が求められる時代になってきたのではないか。

―歴史的には、疫病はアートにどんな影響を与えてきたのでしょうか?

椹木:一般には、先ほどのエイズのアートに対する影響が有名ですが、僕はいま、1918年にパンデミックとなったスペイン風邪と、ダダ、シュルレアリスム、アブストラクトアートといった同時期に生まれた前衛美術の関係に注目しています。これらの動向は、従来の美術史では第一次世界大戦との関係で語られてきました。

しかし、ことコロナ禍を受けて考えてみると、場合によってはスペイン風邪の影響の方が大きかったのではないか。スペイン風邪の死者は、五千万人以上と言われます。若者の感染者が多いことも特徴で、西洋の美術界ではグスタフ・クリムトやエゴン・シーレ、詩人で評論家のギヨーム・アポリネールらも亡くなりました。

当時の芸術家たちの身になれば、戦場に行かずとも「次は自分」と考えておかしくない。これは、芸術家の内面にかなりの影響を与えたはずです。(参考:『ARTNE』無主物の世界観 人類的規模で失われていた スペイン風邪の集合的記憶

先の3つの美術動向は、価値破壊的なダダ、夢や無意識に向かうシュルレアリスム、外界の光景を超えた視覚を生み出すアブストラクトアートなど、自己の外より内に創造性の源泉を求める点で、一種の「引きこもり芸術」と言える性質を持っています。それが、スペイン風邪の感染を回避しようとする心性に起因した可能性は十分あると思います。(参考:『ARTNE』脆弱な表現の自由 積極的な籠城のための 新しい価値観の萌芽へ

―しかし、感染症とアートの関係をめぐる研究はそれほど多いとは言えません。

椹木:そこには、既存の学問の棲み分けがあるでしょう。僕は東日本大震災以降、日本列島の災害と美術の関係に着目し、『震美術論』という本を書きましたが、過去、災害史と美術史を絡める美術批評はほぼありませんでした。

椹木:しかし実際は、大地震が続いた江戸の安政期に狩野派の前衛的な傾向が生まれたり、18世紀のリスボン地震が神への疑いを生じさせて近代美術を準備するなど、大規模な災害で人の内面が大きく変容し、芸術に影響を与えることがあり得ます。疫病との間にも、盲点となっている関係性があるかもしれない。

1348年に始まり、ヨーロッパの人口の3分の1以上を奪ったとされるペストも、社会的な影響のわりにこれを直接の主題にした同時期の作品はあまり知られていません。ただ、地方の礼拝堂の隠れた部屋などにはかなりあります。

推測ですが、あまりに不吉で公に開陳できなかったのではないか。理不尽な死への慰霊や、愛する存在に近づけない悔しさから止むに止まれず生まれたそうした表現は、既存の学問や現代のアートが見落としがちな芸術の根源性を感じさせます。いま、あらためてそれらを掘り起こす作業が大事になると思います。

―「引きこもり芸術」で言えば、多くの人との交流や交渉、社会への説明責任が求められる近年のアートシーンには、コミュニケーション能力に長けた作家が活躍しやすい面があったと思います。今回、そうしたアーティスト像にも変化があるかもしれません。

椹木:コロナ禍以前から、「孤独」のテーマを扱う作家は出てきていました。今回のパンデミックは、情報の氾濫による「インフォデミック」とも言われますが、たとえば布施琳太郎さんという若い作家は、情報過多な現代に一番欠けているのは孤独であり、その担保こそが芸術にとって重要だと主張してきた。それは先見先駆的でしたし、彼はコロナ以後、閲覧者が一人ずつしか入れないオンライン展覧会「隔離式濃厚接触室」を企画しました。

椹木:こうした動きに対して、「反動的だ」との声もあるかもしれません。しかし、そうではないと思います。むしろ、日本では平成年間とほぼ重なるこの30年間、爆発的に、一方的に広がったコミュニカティブなアートが、大きな視座ではどこかでちょっと行き過ぎだったとも言えると思う。その行き過ぎを制御する知恵が求められる時代になってきたのではないか。

実際、この数年、人類は世界中を下駄履き感覚で移動するようになっていた。便利でもあるけれど、「このままでいいのか」という不安は、少なくない人にあったはずです。交通ではなく孤独や孤立のなかで生まれる創造性は当然あって、とくに文学では創作の最大の動機になってきた。そういうものがもう一度美術でも取り戻される必要があると思うし、それが次の可能性を開いていく上でのひとつの立脚点になるのかなと思っています。

美術作品の体験の核心は、たとえば絵画との1対1、時間無制限の対話から深められるもの。

―2月末以降、ギャラリーも含む大小の美術施設が次々に閉じました。ただ、当初、厚生労働省の専門家会議で、美術鑑賞は「感染のリスクが低い活動」とされていたことを考えると、一律の閉鎖は正しかったのか疑問も残ります。椹木さんはどう考えていますか?

椹木:展示空間の閉鎖で言えば、昨年の『あいちトリエンナーレ2019』の一部展示の中止騒動でも観客の安全性が問題になりました。もちろん、あの件と今回では背景も社会的インパクトの大きさも異なりますが、前者の閉鎖には賛否あったのが、今回は、本来受けられたはずの知的享受をめぐる議論や反発がほとんど無かったことは気になっています。

椹木:たしかに近年の大規模なブロックバスター展(メディアと美術館の共催で開催される展覧会のうち、とくに規模が大きく動員が大量に見込まれるもの)では、入場前も会場でも人が密集することが常態になっていた。そうした催しは閉じるべきでしょうが、大抵の展覧会の会場では、観客の姿はまばらです。

そもそも美術館空間は文化財保護の観点から、雑菌対策や空調は気をつけられているし、対面で話すことも良いこととされない。そう考えれば、自粛要請をぜひする以前に、一律に閉める前に個々の催しの事情を勘案して、開けられるところは限定的に開けるとか、もう少し丁寧な対応はあり得たと思います。

臨時休館中の金沢21世紀美術館の様子。1か月半の改修工事を終えて2020年2月に再オープンしていたが、緊急事態宣言を受け4月14日より休館。6月27日より改めて再開する / 提供:金沢21世紀美術館

―5月以降、美術館には再開の動きが生まれそうですが(本取材は4月27日に実施)、実際、いまの状況が数年続くとすれば、その間、施設を閉じ続けるのは現実的とは言えません。いっぽう、現場の方たちからは身の危険や物資不足など悲痛な声も聞こえ、難しい問題だと感じます。

椹木:社会の前提が変わらない限り、今後の世界はコロナ禍以後も、新たな感染症によるパンデミックが断続的に継続する時代になると思っています。あらためて考えると、現在のような規模でのパンデミックに至らなかったものも含めると、感染症の流行は2000年代だけでも数年ごとに起きている。これは明らかに、グローバリズムのシステムの上で起きていることです。

その視野に立てば、時代に合わせた運営のあり方を探っていく必要がある。すでに実践している館もありますが、マスク着用や入口での消毒を義務付けたり、事前予約制や入場制限を試したり、感染リスクをできるだけ下げる取り組みをした上で、開けられる施設は順次開けていく。ゼロリスクを目指すと、永遠に開けられないでしょう。

こうした取り組みは、感染リスクを下げるだけでなく、見方を変えれば、美術鑑賞の本来の姿を再考する機会にもなるはずです。近年は、僕も美術館で密集状態に遭遇することが多くなっていました。その前提には、来場者や収益など「数」を求められる現代の美術館の厳しい状況がありますが、やはり、まともな鑑賞になっていなかったと思う。

そもそも美術作品の体験の核心は、たとえば絵画との1対1、時間無制限の対話から深められるものであって、人に囲まれ、斜めから絵を一目見て満足するといったものではなかったはずです。

僕の書斎には立石大河亞(タイガー立石)さんの小さな絵が飾ってありますが、日によって印象がまるで違います。でも、美術館で多くの人に囲まれて見たら、それはただカタログ的に映っていたかもしれない。その意味では、近年の美術館のあり方こそが仮設的な美術体験だったと言えるのではないか。そういう部分から問い直さないといけないと思います。

いつも書斎に飾っているという立石大河亞の作品を見せてくれた

―コロナ禍を、内的体験としてのアートのありようを考える機会にする、と。

椹木:現在は、補償の問題や緊急事態宣言の解除の時期など、社会的な課題が中心に議論されています。もちろん、そうした外的な条件も大事ですが、「家にいることが人類への貢献だ」と言われるなかで、文化や娯楽の場がなくなってしまった。

美術鑑賞も音楽ライブも映画も演劇もない。スポーツも居酒屋もない。恋愛の仕方も変わってくるでしょう。どんな人にもそれぞれに生活の「よすが」となるものがあったのに、それが絶たれて、日々の鬱憤を晴らすこともできない。精神的な危機だと思います。

東京都現代美術館は、6月2日に一部開館、6月9日より全館開館している / Photo:Kenta Hasegawa

椹木:この状況が2年、3年と続いたらどうか。人間は機械でもロボットでもないので、耐えられないでしょう。僕はこの間、遠からず、コロナ禍から派生した極めて深刻な内面の危機が広範囲で起きるのではないかと思えてならないんです。

その内面の危機はすでに始まっていると思う。芸術はそうしたなかで、「ケア」と言うか「キュア」と言うか、人の心を救うための働きをなしていかないといけないのではないか。「不要不急」と言われ、真っ先に梯子を外されたわけですが、短期的にはともかく、中長期的には極めて重要になると思います。

―ただ労働し、食って寝るだけでは、人の心は折れてしまう。

椹木:そう思います。文化芸術は不要不急で、徐々に日常が回復したら取り戻そうというのではなくて、社会に必要不可欠のものだと考えるべきです。「アーティストは生命維持に必要不可欠な存在」としたドイツ政府の発言などを聞くと、ヨーロッパにはそうした考えがあるようですが、日本においても、これを機会に社会における文化芸術の位置づけを変えていかなければ、そもそも、いまのこの閉鎖的な状況を乗り越えられないでしょう。

現在のような限定的な条件であらためて見る芸術の輝きというか、啓発性や重みは、きっとこれまでより遥かに突き刺さるものがあると思います。世界史は苦難や危機の歴史ですが、そのなかでも過酷な現実に向き合う作品を作ったり、あるいはそれと距離を持ち、穏やかな作品を孤独のうちに作り続けていた作家がいた。その意味は、いまだからこそ浮かび上がるものがあるはずです。

―先ほども挙がったペスト禍は、人類に新たな内面を用意し、引いてはルネサンスの遠因になったとも言われます。今回も、そうした新たな精神の萌芽があるかもしれません。

椹木:そのくらい大きな変化を求められていると思います。一度こうしたことが起きた後で、また以前のような常態には戻れないと思う。医療の限界もはっきりわかりました。システムが戻らなければ、人の心も元には戻らないと思います。

音楽フェスや芸術祭など、人が集まる場には一抹の不安がよぎる世界になった。しかし、アートはもともとそうした多くの人が集まり、お祭り的に騒ぐものとは別の場所で育まれてきた文化だった。ならば、それを無理に取り戻す必要もないし、本来のあるべき姿を取り戻すべきでしょう。そんな新しい鑑賞を作ることが、芸術には求められていると考えています。

プロフィール
椹木野衣 (さわらぎ のい)

美術批評家。多摩美術大学教授、同芸術人類学研究所所員。秩父に生まれ、京都の同志社で哲学を専攻。のち東京に移り1991年に最初の評論集『シミュレーショニズム』を刊行、批評活動を始める。著書『日本・現代・美術』、『「爆心地」の芸術』、『反アート入門』、『後美術論』(第25回吉田秀和賞)、『震美術論』(平成28年度芸術選奨文部科学大臣賞)ほか多数。最新刊に『感性は感動しない』。福島の帰還困難区域で開催中の「見に行くことができない展覧会」、『Don’t Follow the Wind』では実行委員も務める。



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