平野啓一郎と観る西洋絵画。「よくわからない」も楽しみ方の一つ

ニューヨークならMoMA(ニューヨーク近代美術館)やメトロポリタン美術館。東京なら東京国立近代美術館や東京国立博物館。ある都市のアイデンティティを代表するものとして美術館や博物館は欠かせない。では英国・ロンドンの場合は? それはもちろんロンドン・ナショナル・ギャラリーだ。1824年に創設された同館は、他国の多くのナショナルミュージアムと異なり、王室の収集を母体とせず、富裕層の市民によるコレクションの寄贈や寄付で誕生した異色の歴史を持つ。そんな同館は、英国だけでなく、ヨーロッパ全域のあらゆる時代の絵画を網羅した西洋美術史の一大アーカイブと言えるだろう。

新型コロナウイルスの影響で当初の予定より遅れたが、6月18日より日時指定制を導入し開幕した(6月18日~21日は前売券・招待券限定で入場できた)『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』には、同館のコレクション61作品が並ぶ。フェルメール、レンブラント、ゴッホ……。アートヒストリーを語るうえで欠かすことのできない巨匠の名作が大挙して来日する同展を、公式オープンに先駆けて観る機会を得た。鑑賞のお相手は、19世紀フランスの画家ウジェーヌ・ドラクロワが登場する小説を発表したこともある作家の平野啓一郎さん。文学とアートはもちろん、音楽、ファッションにも造詣の深い平野さん流の「アートを深く楽しむ方法」を聞いた。

平野啓一郎と鑑賞する、贅沢な『ロンドン・なナショナル・ギャラリー展』

平野:ロンドンに旅するときは、ロンドン・ナショナル・ギャラリーにもよく足を運びます。本当に大きな美術館ですから、何度通っても飽きることがない。今回は、そのコレクションをさらにじっくり観られるというので、とても楽しみにしていました。

そう語る平野さんとともに、東京展会場である上野の国立西洋美術館の静かな館内を歩む取材陣一同。そして辿りついたのが、最初のセクションである「イタリア・ルネサンス絵画の収集」だ。英国の美術館なのになぜイタリア絵画? と思うかもしれないが、西洋のアートや文化にとって、ローマ帝国が生まれたイタリアは、絶対に外すことのできない重要な土地。ここでは15~16世紀に描かれた名品が並んでいる。

平野:最初はパオロ・ウッチェロの『聖ゲオルギウスと竜』(1470年頃)から始まるんですね。初期ルネッサンスの画家にとって遠近法は必須の技術・知識でしたが、ウッチェロはまさに遠近法の体現者と言えます。ルーヴルにある有名な『サン・ロマーノの戦い』だと、情報量が多すぎて、どこがどう遠近法なのかわからない人にとっては、シンプルなこの作品は、その工夫が理解しやすいのではないでしょうか。騎士がまたがっている白馬は、ゆるいパースをつけて描かれていますが、遠近法というより、「遠近感」といった感じですかね。

平野啓一郎(ひらの けいいちろう)
1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。美術、音楽にも造詣が深く、日本経済新聞の「アートレビュー」欄を担当(2009年~2016年)するなど、幅広いジャンルで批評を執筆。2014年には、国立西洋美術館のゲスト・キュレーターとして「非日常からの呼び声 平野啓一郎が選ぶ西洋美術の名品」展を開催した。
パオロ・ウッチェロ 《聖ゲオルギウスと竜》 1470年頃 油彩・カンヴァス 55.6 x 74.2 cm © The National Gallery, London. Bought with a special grant and contributions from the Phillot and Temple-West Funds, 1959

―次のカルロ・クリヴェッリも一点透視図法で描かれた遠近感が特徴的ですね。

平野:そうですね。そして、この鮮やかな色彩とそれによって表現される光のまばゆさ! ドラクロワやモネが暮らしたフランスの空は少し暗くて、より北方のドイツはさらにです。それらの国の画家たちは、どうすれば自分たちの画面に光の明るさをもたらせるか苦心しました。

ところがイタリアに行くと、空は明るく、ゴシック建築も色とりどりでそれをそのまま描いただけで鮮やかな絵になってしまう。ゲーテやニーチェがイタリアに行って「俺たちはなんて暗い人間なんだ……」と落ち込みますが(笑)、それは人間性ではなく、そもそもの光の強さによるものなだと思うんです。

カルロ・クリヴェッリ『聖エミディウスを伴う受胎告知』を鑑賞中

次なるセクションは「オランダ絵画の黄金時代」。神話や宗教を主題としていた先ほどのルネサンス絵画と違い、こちらは実在の人物の肖像画や、民衆の生活風景などが描かれている。17世紀のオランダ共和国を統治していたのは、王侯貴族やカトリックではなく、新興の商人たちだった。彼らは自らの権勢を示す肖像画や、自分たちが築いた文化風俗を精緻に描かれることを望んだのだ。

その結果、大幅に絵画の需要が増し、17世紀の最初の20年間で画家の数が4倍に増えたというのだから驚かされる。日本でも人気の高いレンブラントやフェルメールは、画家たちの競争が激しい時代にその才能を開花させていったのだ。

平野:『34歳の自画像』(1640年)のレンブラントはよかったですね。自身の若さが画面に充ちていて、くっきりと描かれている。これが晩年になると、社会的な評価の高まりや老境など、様々な要素で、タッチにも深みが看て取れます。あのレンブラントにもこんな時代があったのだ、と気づかせてくれる1枚だと思います。

それから自画像の描き方の面白さにも意識が向かいますね。他人を描く肖像画では、画家たちはダイレクトに対象を見て描いているけれど、自画像は鏡に写った自分を見て描いているわけです。だからこの絵も、画面の外に鏡がどんな具合に設置されているのかを想像すると、アトリエをより具体的にイメージ出来ます。

レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン『34歳の自画像』を鑑賞中

描かれるファッションから、当時の社会状況を絵解いていく

歴史的な背景や当時の文化風俗を参照しながら絵画をレクチャーしていく平野さんに「なるほど!」と、何度もうなずく一同。なんとも贅沢な鑑賞ツアーだ。そして3つめのセクション、「ヴァン・ダイクとイギリス肖像画」へ。17世紀のイギリスで貴族たちから絶大な支持を集めた肖像画家ヴァン・ダイクの『レディ・エリザベス・シンベビーとアンドーヴァー子爵夫人ドロシー』(1635年頃)など、華やかな王侯貴族たちの肖像が並ぶ。

平野:人の顔については写実的に描く以外にはないと思いますから、ここで注目したいのは彼 / 彼女たちのファッションです。例えばトマス・ゲインズバラの『シドンズ夫人』(1785年)などからは、この時期に服のテクスチュア(質感)が豊富になっていた様子がうかがえます。

この時代から19世紀半ばまでは、衣服の表現方法の発達が肖像画を観る大きな楽しみだと思います。19世後半になって印象派が登場するようになると、絵もソフトフォーカスになって写実性を志向する方向から離れていくのでファッションの描き分けも大きな意味を持たなくなっていく。ピカソやマチスの絵もそうでしょう?

トマス・ゲインズバラの『シドンズ夫人』を鑑賞中

―その時代の絵画を思い浮かべながら観ると、トマス・ローレンス『シャーロット王妃』(1789年)のレース地の透け感へのこだわりはすごいですね。

平野:質感だけではなく、服の着心地みたいなものへの意識も社会的に高まっていくんです。都市の隆盛と共に勃興してきたブルジョワジー(中産階級)の台頭が、英国では特にはやくから起こりました。それに対して王侯貴族は経済的に弱体化していくのですが、唯一誇ることのできる文化的優位性を保つために、彼らはファッションなどの美意識を練り上げることに力を注ぎます。そして、ブルジョワジーたちはその美にものすごい憧れを抱くんですね。

トマス・ローレンス『シャーロット王妃』鑑賞中

平野:18世紀後半の英国で流行した「ダンディ」は、まさに貴族のライフスタイルを誇った文化で、その創始者とされるジョージ・ブライアン・ブランメルは、それまでのごてっとした贅沢さから一転、シンプルな美意識を提案した人物。彼はミニマルな衣装にさりげなく贅沢な素材を使ったり、シャンパンでブーツを磨く、といったこだわりの「美意識」を提案し、貴族社会のファッションリーダーになりますが、フランスに伝わったそのモードは、皮肉なことに、むしろブルジョワ社会のなかで圧倒的に支持されていくんです。今でいえばアメリカ出身のファッションデザイナーであるトム・フォード的な趣味と言えるかもしれません。

ファッションという切り口だけで、驚くほど豊かな見方が発見できることを学んだ一同。平野さんの言った「絵全体だけでなく部分で楽しむのも鑑賞の醍醐味。それは映画や小説も同様なんですよ」との言葉を噛み締めながら、次に向かった。

スペイン人画家による絵画が、英国でどのように受容されていったのか。「想像力が刺激されます」

4つめのセクションである「グランド・ツアー」とは、富裕な若者たちがヨーロッパを旅して回る18世紀の流行現象で、とくにヨーロッパ文化の原点とも言えるイタリア、ローマ遺跡への憧れは熱狂的だったという。このセクションで主に紹介されているのは、若者たちが故郷に「土産物」として持ち帰ったとされるイタリアの風景画である。

平野:僕らが観光地に行って買うような絵葉書、あるいはスマホで撮ってInstagramにあげるような写真と変わらないところがありますよね。先ほども述べたように、イタリアの気候や光は当時の若者たちにとって鮮烈だったと思います。その感覚を少しでも持ち帰りたいと思って描かれた、目的の明確な絵画と言えますね。

フランチェスコ・グアルディ『ヴェネツィア:サン・マルコ広場』鑑賞中

続く「スペイン絵画の発見」セクションでは、17世紀以降にスペイン人画家によって描かれた絵画が、英国でどのように受容されていったかが紹介されている。エル・グレコやベラスケスなどの名作を、とくに時間をかけて平野さんは鑑賞していた。

平野:見応えがありますね。エル・グレコはキリストを描いた画家、とくに磔刑のイメージが強いですが『神殿から商人を追い払うキリスト』(1600年頃)は、タイトルどおりの光景を描いたものですね。

エル・グレコ(本名ドメニコス・テオトコプーロス)『神殿から商人を追い払うキリスト』鑑賞中

平野:周囲にいる商人たちと違って、中央にいるキリストだけに空から別の光が当たっているように見えるでしょう。このことに絵のなかのほとんどの人は気づかず、鞭を振りかざすキリストの威容に動揺するばかりですが、画面左にいる2人ぐらいは違いに気づいていて、光源の正体を探るかのように上方を見上げている。そういった神的なるものへの関心が、巧みに描かれた絵だと思います。エル・グレコの作品を観ると、上方が気になってくるのですが、当時起きたプロテスタントに対抗するカトリックの宗教改革の時代的雰囲気もこのようなものだったのかもしれません。

このような時代の雰囲気をとらえようとする意識は、ディエゴ・ベラスケスの『マルタとマリアの家のキリスト』(1618年頃)にも感じます。

ディエゴ・ベラスケスの『マルタとマリアの家のキリスト』鑑賞中

―不思議な絵ですよね。17世紀のスペインで流行した台所や市場のモチーフに、不公平に対して抱く不満の感情をたしなめるキリストという宗教的なモチーフを掛け合わせています。

平野:聖書のなかの世界と現実の世界の両義性をちょっとアイロニカルに描いた、巧みな作品ですよね。奥では有名なマルタとマリアのエピソードが展開しているけれど、その議論にも参加できず料理をする女性が暗示するものは何か?

その横の魚の描写も面白いです。西洋美術において、魚はキリストを表す重要な象徴ですが、この絵ではその記号性を逸脱するくらいにリアルに描いている。そのどちらに絵のなかの人物、あるいはベラスケスの意識は寄っているのだろう……と、戸惑わせるようなところがあります。想像力が刺激されます。

絵解きを求めてくるような絵を観た後は、「風景画とピクチャレスク」のセクションへ。ここで平野さんが注目したのは、ジョン・コンスタブルの『コルオートン・ホールのレノルズ記念碑』(1833-36年)。

ジョン・コンスタブルの『コルオートン・ホールのレノルズ記念碑』鑑賞中

平野:異色の風景画です。コンスタブルというと、草原の穏やかで広がりのあるイメージを僕は持ちますが、この絵には他とは違う、相当な力が込められて感じます。風景画ではあるけれど、左右の木立はゴシック建築の壁面のように高くそびえていて、その奥に祭壇に相当する記念碑がある。こういった画題を描いてきた先達の画家たちを意識しながら、自分自身もその絵画史に位置付けられているのだ、という自負みたいなものを感じます。ここまで観てきた多くの絵同様に、ある種の神々しさを感じますが、神話や宗教とは違うところにコンスタブルは「神々しさ」を見出している気がします。

近代が近づいてくると、人々は宗教的な規範や信仰の精神から離れて、自己の確立に意識を向けていきます。例えばドラクロワが書いた日記を読むと、ルーベンスやティツィアーノ、ミケランジェロといった実在の画家たちに対してほとんど崇拝と言っていいぐらいの尊敬の気持ちを持っています。「自分も彼らのようになりたい!」という。それと同様のテンションをコンスタブルもこの作品に向けたのではないでしょうか?

「最近気になっているのは、メガネの発達が人の視覚に与えた影響です」

15世紀のイタリア絵画から始まり、次第に現代へと接近してきた『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』。最後のセクションは、ゴッホの『ひまわり』(1888年)を中心に構成された「イギリスにおけるフランス近代美術受容」だ。

平野:なんだかんだ言って、僕たちも近代人ですからね。ヨーロッパの歴史や宗教観を前提とするそれまでの絵画と比べて、セザンヌやゴッホの感覚的な世界認識は共感しやすいものではないでしょうか。

音楽でもバッハなんかはちょっと遠い時代に感じますけど、ロマン派以降のショパンやシューマンは人間の孤独の機微、人間関係のなかに生じる個人的な喜びを主題としていたりするから、理解できる。しかし、作品の「見応え」みたいなものが明確ではないから、鑑賞する一人ひとりがその人なりの興味を見出さなければいけなくなるのが、近代以降の芸術の難しいところでもあると思っています。

―だとすると、平野さんなりの近代絵画の見方はどのようなものでしょうか?

平野:最近気になっているのは、「メガネ」の発達が人の視覚に与えた影響です。僕の視力はずっと1.5だったんですけど、最近ちょっと老眼が入ってきはじめて、ぼやっと見える世界というのを経験するようになってきたんです(苦笑)。

ツル付きの眼鏡が広まったのは19世紀以降のようで、写真技術も登場しますから、いろんなものをくっきり観察できる時代だったと思うんです。街の明かりにしても街灯が普及していきますしね。ところが絵画においては印象派がそうであるように、特に19世紀後半以降は、むしろソフトフォーカスの世界を描くようになる。逆に、オランダ絵画のセクションにあったウィレム・クラースゾーン・ヘーダの『ロブスターのある静物』(1650-59年)なんてハイパーリアリズムそのもので、なぜ17世紀にこんな風に描けたのか不思議です。

ウィレム・クラースゾーン・ヘ―ダ 《ロブスターのある静物》 1650-59年 油彩・カンヴァス 114 x 103 cm © The National Gallery, London. Presented by Frederick John Nettlefold, 1947

平野:こういった時代の文化状況と相反するような絵画表現への疑問は、近代を考えるなかで生じたものですね。もちろん、写実性で勝負しようとしても写真にはかなわないから、印象派のような光を色彩としてとらえる画家が現れたのだとは思うんですけどね。

―「色彩」への関心は、ゴッホの『ひまわり』も顕著ですね。

平野:今回の展示では実作のほかに、6点のゴッホが描いた『ひまわり』が参考資料として紹介されていますが、どれも花びんの乗った台とその後ろの壁で背景が2色に分割されていますよね。これはおそらく偶然ではなくて、ゴッホが耳を切り落とした後を描いた有名な自画像でも、目の高さのあたりでオレンジ色とそれよりも明るい色の2色で背景を分割しています。つまり、これがゴッホ流の技術なんです。

ゴッホの『ひまわり』鑑賞中

平野:たしかに、そのおかげで手前にあるひまわりの花瓶を平面的に描いても、曲線だけで立体感が表れてくる。その他にも、さーっと塗ってある背景に対して、手前のひまわりはゴツゴツと厚塗りしている。このやり方は、ちょっと子供が思いつきそうな発想ですよ。でも、美術史的には新しかったし、何より効果的。美術館でマチエールを体験すると、そういったゴッホ独自のリアリティの追求を感じられますね。

「自分にとってよくわからない画家、ある意味では天敵みたいな画家を何人か見つけておくと楽しいですよ」

以上が、この『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』の全セクション。最後に、あらためて平野さんの感想を聞いてみた。

平野:見応えありましたね。やはり、ナショナル・ギャラリーはヨーロッパ各地で発展した絵画の良品を選んで集めてきた感じがあります。そのおかげで広く「絵ってなんだろう?」という本質的な疑問に触れることもできる。

『葬送』(2002年)という小説で、ずいぶんドラクロワについて調べたのですが、この展覧会にも『ノリ・メ・タンゲレ』(1514年頃)が出品されているティツィアーノをすごく尊敬しているんです。何を描かせても絵になる、と。でも、ティツィアーノの絵って渋好みで、日本ではほとんど研究書のないドラクロワ以上に、なかなか難しい画家だと僕は思うんです。大好きなドラクロワが心酔した画家ですから、僕もいつか痺れるような感動を覚えてみたい……と思って見ているんですが、その時々ですね。

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ノリ・メ・タンゲレ』鑑賞中

―平野さんにとって、「わからなさ」が残る画家なんですね。

平野:ルーブルのモナリザの裏に展示されてる『キリストの埋葬』とか、本当にすごいですが。でも、この「わからないなぁ……」っていうのがヨーロッパ絵画を見る面白さでもある。「風景画とピクチャレスク」のセクションで『泉で足を洗う男のいる風景』(1648年頃)が紹介されていたプッサンも、自分的にわからない画家の一人。ある時代のフランス画壇の王様的存在で、フランスではヴェルサイユ宮殿とか、いろんな場所に大きな絵画が遺されていますが、何度見てもわからないし、今回もわかりませんでしたね(笑)。

ニコラ・プッサン『泉で足を洗う男のいる風景』鑑賞中

平野:でも、以前、美術史家の林道郎さんが「私も長年わからずにいたんですが、あるときわかるようになったんですよ。そこからはプッサンが好きになりました」とおっしゃっていて、羨ましかったんです。そんな「わかった!」の瞬間が訪れることを願いながら、何度もプッサンの前に立つんですよね。今日こそは感動するかな、と(笑)。

―その大きなクエスチョンがあることが、アートに触れる楽しさでもありますよね。

平野:そうなんです。自分にとってよくわからない画家、ある意味では天敵みたいな画家を何人か見つけておくと楽しいですよ。プッサンやゴーガンの作品は、僕にはよくわからないけど、美術館で遭遇すると、「来たな!」と思いますね(笑)。そうすると、苦手な絵を観ることも楽しくなってくるんです。

イベント情報
『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』

東京会場

会場:東京都 国立西洋美術館
会期:2020年6月18日(木)~10月18日(日)
開館時間:9:30~17:30
毎週金・土曜日:9:30~21:00
※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日、9月23日
※7月13日、7月27日、8月10日、9月21日は開館

※会場内の混雑緩和のため、これから本展入場券を購入されるお客様には、事前に来場日時を指定した入場券をご購入いただきます。
今後販売する本展の入場券はスマチケ、読売新聞オンラインチケットストア、イープラスとファミリーマート店頭Fami ポートのみの販売となり、国立西洋美術館での販売はありませんので、ご注意ください。
すでに前売券や招待券などをお持ちのお客様、無料入場のお客様につきましては「前売券・招待券用日時指定券」を購入のうえ指定時間内にご入場いただくか、当日先着順でのご案内(会場混雑時は、入場整理券を配布します)となります。ただし、当日の入場人数の上限に達した場合はご入場いただけませんので、予めご了承ください。

大阪会場

会場:大阪府 中之島 国立国際美術館
会期:2020年11月3日(火・祝)~2021年1月31日(日)

プロフィール
平野啓一郎 (ひらの けいいちろう)

1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。美術、音楽にも造詣が深く、日本経済新聞の「アートレビュー」欄を担当(2009年~2016年)するなど、幅広いジャンルで批評を執筆。2014年には、国立西洋美術館のゲスト・キュレーターとして「非日常からの呼び声 平野啓一郎が選ぶ西洋美術の名品」展を開催した。著書に、小説『葬送』『滴り落ちる時計たちの波紋』『決壊』『ドーン』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』『マチネの終わりに』『ある男』等、エッセイ・対談集に『私とは何か「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』等がある。2019年に映画化された『マチネの終わりに』は、現在、累計58万部超のロングセラーとなっている。



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