仏の新鋭が描く「匂い」とクィアなラブストーリー。『ファイブ・デビルズ』監督が語る、映画の自由と役割

特定の匂いを嗅いで、過去の記憶や感情が即座に蘇ることを「プルースト効果」(20世紀フランスの作家マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』に由来)と呼ぶ。『パリ13区』(2021年)の共同脚本家として知られる1989年生まれのレア・ミシウスの長編第二作『ファイブ・デビルズ』は、この現象に幻想的な視点を導入し、不思議な嗅覚を持つ少女のタイムトラベルを描く。

フランスの山間に位置する小さな村では珍しいバイレイシャルの娘ヴィッキー(サリー・ドラメ)は、水泳インストラクターの母ジョアンヌ(『アデル、ブルーは熱い色』のアデル・エグザルコプロス)と消防士の父ジミー(ムスタファ・ムベング)と暮らしていたが、そこに長年消息を絶っていた父の妹ジュリア(スワラ・エマティ)が帰還したことで、彼らの秘密に触れることになる。

匂いを媒介にして、少女は幽霊のように、現在と過去の時間帯を旅する。彼女は、自分が生まれる前の両親たちの関係、そして異性愛規範の社会のなかで放棄された欲望を垣間見る。「お母さんは、私のこと生まれる前から好き?」──実存的な疑問を抱いたヴィッキーの時間と空間の制約を超えた冒険は、先験的に自身の起源を探る物語である。

『シャイニング』(1980年)のような空撮から始まり、『ツイン・ピークス』(1990年)の赤い部屋やドワーフなど、さまざまなジャンル映画のイメージを再活用しながら、ジャンルを流動するレア・ミシウスに話を聞いた。

目に見えない感覚をどう映すか、「匂い」を観客にどう感じさせるか

─前作『アヴァ』(2017年)では、網膜色素変性症で視力を失いつつある13歳の少女を描きました。そこで「アヴァ」は「欲する」という意味だと説明されますが、今回、視覚の次になぜ嗅覚に関心を持ちましたか。目に見えない感覚や欲望をどのように映し出そうとしたか教えてください。

ミシウス:「アヴァ」は、「私が欲求する」という意味ですが、それは、「生命 / 生きる」ということを欲求するという意味でもあります。

私は映画を撮るときにいつも身体的な方法でアプローチすることに関心があります。身体性を見せたり、あるいは人間の感覚を見せたりする映画を撮ることが好きなのです。私なりの世界の見方なのかもしれませんが、フィジカルなものや感覚的なものを取り上げることは、私にとって人生や、生きていることを撮影することだからです。

ミシウス:ただ、前作と本作の異なる点は、『アヴァ』の場合は、視覚なので、扱っているものが非常に映画的な感覚でした。映画表象によって、見えるか見えないかを描くことができる。一方、『ファイブ・デビルズ』の場合は、嗅覚という目に見えない感覚のため、映画的ではない。しかしむしろ、今回、私が興味を持っていたのは、目に見えないものをどう撮るか、どうやって見えない嗅覚というものを観客に感じさせるかということでした。

例えば、ジョアンヌの皮膚の色が螺鈿(らでん)の真珠貝も羨むようなピンク色であることを示す場面など、視覚的なものから少しずつ匂いと記憶に関連性を持たせることで、目に見えないものがイメージになっていくという風に発想しました。それは、記憶のイメージ、夢のイメージです。そのように観客の無意識へ働きかけ、映像の背後に隠れたイメージを喚起させることが、私のクリエイティブ面でのプロセスでした。少し精神分析的ですが、映画館から出るときに、観客は実際には見ていないけれど、頭のなかで無意識にイメージを開花させていく。そのようなことができたらいいなと思っていました。

『ファイブ・デビルズ』予告編

映画とは、現実よりも自由であるための手段

─『アヴァ』は青春コメディーから犯罪映画へとジャンルが移行していきますが、本作もゴーストやタイムトラベルなどが入り混じっています。さまざまなジャンルミックスが見られますが、そのなかで子どもの視点を採用することで自然主義を超越することに挑戦しているのでしょうか。

ミシウス:その通りです。子どもの視点を採ることによって、とても自由に描くことができる部分があると思います。もちろん大人の視点でも同じぐらい自由に描きたいとも思っています。私はいつも作品をどういう風なフォルムにするかということに関心があります。私にとって、映画とは、現実よりも自由であるための手段だからです。

ミシウス:自然主義的な映画をつくることにはあまり関心がありません。せっかく映画なんだから、現実をそのまま映し出すだけでは少しつまらない。現実ではないものを観客に見せることができるところに私は映画の面白さを感じています。

たとえ家族や社会的な主題について語りたい場合でも、自然主義の束縛を取り払い、より自由に新しいフォルムをつくり出していきたい。新しいフォルムというのは、何も新しいビジョンを提案したいということではなく、そういうものに触れたときに感じる観客の喜びを生み出していきたいのです。

私にとって映画は快楽でなければならず、自由であればあるほど、より多くのことを行なうことができます。本作は、何か私にとって実験的なところがあります。もちろんすべてを実験的にやっているわけでも、映画の再発明を始めるつもりでもありません。映画には一世紀以上の歴史があるので、そのなかで生まれたジャンル映画のコードを活用しながらも、既存の形式にとらわれず、何か違う新しいものを提示できないか試みたいと思っています。

娘が母の過去を探るタイムトラベル作品の同時代性。それは「流行」ではない

─タイムトラベルを使って娘が母の過去を探求するアイデアは、偶然にも『パリ13区』で共同脚本を担ったセリーヌ・シアマの『秘密の森の、その向こう』(2021年)と通じるようで興味深く思います。ピクサーの『私ときどきレッサーパンダ』(2022年)など世界的に似た主題の作品が現れていますが、女性作家によるこのような同時代性をどのように感じますか(※)。

※参考記事:『燃ゆる女の肖像』セリーヌ・シアマが新作を語る。娘と母の不思議な物語、愛する人の「不在」について (記事を読む

ミシウス:最近はテレビシリーズでもよくタイムトラベルが扱われていますよね。映画では古典的なジャンルのひとつですが、私の場合は、精神分析的な観点からアプローチしました。

じつは、まだ『秘密の森の、その向こう』を観ていないのですが、同じ主題で、関連性があるとは聞いていました。私たちは同時期に脚本を書いていたので、彼女は私の脚本を以前から知っていました。作品同士が本当の意味で交差しなくても、観客が2作が対話していると感じることはとても美しいことだと思います。

このように同じ時期の作品のなかでタイムトラベルが扱われているというのは、時代の空気感が感じられて面白いですね。これは「流行」ではありません。私は、流行というものは面白くないと思っています。同じようなテーマが世界中から出てきて、呼応し合い、いまの時代に響くものになっている。それは現代社会の状況や実際の出来事を、作家たちがそれぞれに感じ取っているから起きていることではないかと思います。

『秘密の森の、その向こう』は、レア・ミシウス、ジャック・オディアールとともに『パリ13区』の共同脚本を手がけたセリーヌ・シアマ監督の最新作。8歳の少女が、自分の母と同じ名前を持つ少女と出会う物語

ミシウス:執筆中は考えていませんでしたが、いまやインターネットによって、コミュニケーションが空間的にも時間的にも少し曖昧なものになっているため、タイムトラベルという感覚が出てくるのかもしれないですね。

私たちは、文学、映画、あるいはビデオゲームなど、さまざまなことからつねに影響を受けます。例えば、本作でヴィッキーが思い出のなかに没入して歩き回るのは、もしかしたら人によっては(イングマール・)ベルイマンの映画を思い起こすかもしれませんが、私にとっては、ビデオゲームを想定して描いたものでした。彼女は実体として現在形で過去を生きる、そのように彼女のタイムトラベルを描いたのです。

─『アヴァ』に続いて、母娘の断絶に目を向けていますが、母娘の関係を問い直すことはあなた自身にとってどういった意味を持ちますか。

ミシウス:『アヴァ』と本作の両方で、母娘の断絶を描こうと強く意識していたわけではありませんでした。でも、たしかに両作の母娘の尋常ではない関係性は、合わせ鏡になっているかもしれません。前作では、娘が母親を拒否して距離を取ろうとする一方で、逆に本作では娘が狂おしいほど母親を愛している。そのように鏡像関係になっています。

ただ、映画作家として、ステレオタイプを踏襲して映画に登場させたいと思っている人はあまりいないと思います。今回の場合、子どもの視点から描いたところは母と娘の描き方では少し珍しいのかなと思います。私にとって自伝的なものではありませんが、子どもの頃を思い出すことが重要でした。子どもが母の記憶のなかに入るけれど、その記憶のなかをその子は現在形で生きている。母娘の関係性を描きながら、記憶としてではなく、現在の子ども時代が語られる。ヴィッキーとジョアンヌの関係は、明らかに非日常的であると同時に、誰もがそこに自分を認識できるような、特殊でありながら普遍性を感じられるものにしたいと思っていました。

レア・ミシウスの監督第1作『アヴァ』

社会で不可視化されている人々を画面に登場させることには、政治的な意味合いがある

─『アヴァ』ではロマへの人種差別を盛り込んでいましたが、『ファイブ・デビルズ』ではさらに田舎町での人種差別やホモフォビアに焦点を当てています。こういった陰湿な差別を取り除かずにあえて画面に映し出すことにどのような意義を持っていましたか。母娘が鳥を庭に埋めるところを窓から見ているジュリアのショットは、同じく現代社会への視点をホラーに織り込んだジョーダン・ピール『アス』(2019年)のようです。

ミシウス:たしかに私にとって、そうすることは重要でした。差別され不可視化されている人々を映画のなかで画面に登場させることは、本当に政治的な意味合いがあります。やはり映画のなかには、現実で可視化されない事実があると思います。

今回は、フランスの普通の家族を見せていますが、私にとってそれは主題ではありませんでした。田舎に暮らす異人種カップルの家族は実際にフランスに存在するものですが、この家族を主役にして、田舎社会において混血であることや同性愛を理想化して描くつもりはまったくなかったのです。

ミシウス:私は、映画で人種差別やホモフォビアを直接的に描くことは得策ではないと考えています。直接的に描くと観客はすぐに反応して、これはカリカチュアで誇張されている、映画だから信じる必要はないと考えてしまう傾向にあると思う。それがたとえ実際に現実で起こっていることだとしても。

なので、そのような事柄を映画の空気感のなかで陰ながら感じさせることによって、より観客が自分のなかで消化して反応するようになるということを求めていました。子どもたちはヴィッキーのことを「トイレブラシ」とからかいますが、それは彼女が黒人と白人のミックスだからではなく、彼女の髪型がそう見えたからそのように冷やかします。村人がジュリアが帰ってきたことをよく思わないのもまた、彼女が同性愛者だからではなく、彼女が放火をしたためです。

そのように前面に押し出すのではなく、物語のなかで少し感じさせることによって、観客が能動的に作品に参加し、私たちが生きている世界のことを読み取ってくれること──物事は変わらなければならない、こんなことがまだ存在するなんてあり得ないと思ってくれることを願っています。

─先日、ジャック・オディアールやセリーヌ・シアマにインタビューした際、『パリ13区』のレズビアニズムを深く掘り下げたのはセリーヌ・シアマだったと聞きました。しかし『ファイブ・デビルズ』も『パリ13区』と呼応しているかのようでした。両作はあなたのなかで関連していますか。なぜクィアなラブストーリーに惹かれたのか教えてください(※)。

※参考記事:変化する時代の「親密さ」とセックスをめぐる物語。映画『パリ13区』監督が語る、愛と性のあり方(記事を読む

ミシウス:その2作に関係性はありません。男女のラブストーリーがある映画がすべてつながっていると言えるわけではないように、女性同士のラブストーリーを描いているからと言って、関連性があると考える必要はありません。

たしかにセリーヌ・シアマの成功があったからレズビアンの題材が注目を集めましたが、私にもレズビアンの物語を語ることができる。女性同士の恋愛というのはとてもユニバーサルなものです。何ら決めつけることなく、普通のラブストーリーを見せたいと考えていました。

フランスでは、より多くの女性を映画界に迎え入れようとする変化がある

─『ファイブ・デビルズ』も『パリ13区』も最後に気を失った女性が愛する女性の呼びかけから意識を取り戻してキスを交わします。クローズアップで女性同士の愛を捉えて終わりますが、ある種のハッピーエンドを提示することも重要でしたか。

ミシウス:ハッピーエンドを提示する終わり方をすることは、私にとって重要なことでした。私は、楽観主義者なのです。もちろん観客の心情を決めつけることはできませんが、観客が映画館から出たときに、落ち込まないで、希望を抱いてほしいという思いが強くありました。

映画を通して、ヴィッキーは成長します。最初は母親に対して狂おしいほどの愛、独占欲の強い愛を抱いていますが、最後に彼女は自分でへその緒を切ることができるのだと学んでいきます。母親は自分以外の他の人を愛しているかもしれない、でもだからと言って自分を愛していないことを意味するわけではない。他の人も愛せるのだと理解したことで、ヴィッキーは少し自分を解放することができました。

本作では最初は誰もが不幸でカオスの状態で始まりますが、ごちゃごちゃだったカードをもう一度混ぜ合わせて、ちゃんと元に戻し、あるべき人のところにカードを渡す。そのように再編成されることで、整然性が最後に生まれてハッピーエンドとなるのです。ただ、みんながみんな幸せになったわけではありません。ジミーは少し不幸なままですが、しかし、彼は愛は所有することではなく、人を自由にするべきものなのだとおそらく感じているのだと思います。

─近年、フランスの女性作家による女性を主体的に描いた映画やクィア映画がますます活発化しているように感じます。特に女性の身体やセクシュアリティーの自由で大胆な扱いが印象的ですが、どのような社会的・文化的背景があると思われますか。

ミシウス:私はいい意味での変化が起きていると思います。まだ始まったばかりですが、フランスでは、より多くの女性を映画界に迎え入れようとしています。女性監督が女性を画一的な存在ではなく、もっと複雑なキャラクターとして見せようとする傾向は、現在のフランス社会の時勢を反映していると思います。男性たちだけに女性を描かせないというような気風が生まれています。さまざまな女性がいると示すことは、より広い意味での多様性を映画で見せる動きになるのではないかと感じています。

いつも一定のものばかりを表象するのではなく、映画のなかで不可視化されてきたすべての人々を登場させることが、新しい表象の仕方をつくることになる。しかもそれが現実の自分たちが生きている社会に近いということを若い観客たちが観ることが大事だと考えています。

なぜなら、映画を観るということは、その人の観ている精神に影響を及ぼすものだからです。日本ではどうかわかりませんが、フランスでは極右が台頭し、憎しみを掻き立てるような言動を取っています。映画は、ほかの人々がちゃんと存在していること、支配的な考え方だけではないことを示す必要、多様性を見せる役割があるのです。

作品情報
『ファイブ・デビルズ』

2022年11月18日(金)からヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、アップリンク吉祥寺ほか全国公開

監督:レア・ミシウス
脚本:レア・ミシウス、ポール・ギローム
出演:
アデル・エグザルコプロス
サリー・ドラメ
スワラ・エマティ
ムスタファ・ムベング
ダフネ・パタキア
パトリック・ブシテー
配給:ロングライド
プロフィール
レア・ミシウス
レア・ミシウス

1989年4⽉4⽇、フランス、ボルドー出⾝。13歳までをメドック地⽅で、⾼校卒業まではインド洋のレユニオン島で過ごす。パリに戻り、ソルボンヌ⼤学で学んだ後、フランスの映画学校ラ・フェミスに⼊学。映画技術を学びながら、脚本家、監督としての才能を発揮する。最初の短編『Cadavre exquis』(2013年 / 未)は、クレルモン=フェラン国際短編映画祭でSACD賞を受賞。続く2本の短編、『Les oiseaux-tonnerre』(2014年 / 未)と、『パリ13区』(2021年)の撮影監督も⼿掛けたポール・ギロームとの共同監督作『L'île jaune』(2016年 / 未)は、多くの映画祭で上映され、賞も獲得した。初の⻑編映画となる『アヴァ』(2017年)はカンヌ国際映画祭カメラ・ドールを含む4部⾨にノミネート。2021年、カンヌ国際映画祭正式出品されたジャック・オディアール監督とセリーヌ・シアマと共同脚本を務めた『パリ13区』が話題となったほか、アルノー・デプレシャン監督『イスマエルの亡霊たち』(2017年)、クレール・ドゥニ監督『STARS AT NOON』(2022年 / 未)でも脚本に参加するなど、現在、フランスで個性的な若⼿映画作家として最も注⽬を浴びる⼀⼈である。



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