なぜギリシャの鬼才監督は『哀れなるものたち』を映画化した?奇書と称される原作小説との比較から探る

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映画『哀れなるものたち』は、『第80回ヴェネツィア国際映画祭』金獅子賞(最高賞)に輝くなど高い評価を得ている話題作だ。2024年3月に発表される米『アカデミー賞』でも複数部門のノミネートが期待されている。

『クルエラ』(2021年)のエマ・ストーン、『アベンジャーズ』シリーズのマーク・ラファロ、名優ウィレム・デフォーら豪華キャストを率いたのは、ギリシャ出身の鬼才監督ヨルゴス・ランティモス。『女王陛下のお気に入り』(2018年)や『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』(2017年)などを手がけ、ダークで難解な作風と強烈な作家性、そして作品の確かな完成度で、目利きの批評家や観客から熱狂的な支持を受けている。

本作はランティモスにとって初めての「原作つき作品」となった。スコットランドの奇才、アラスター・グレイが1992年に発表した原作小説は、奇妙かつ複雑な構成と文脈がうねうねと絡まった「奇書」。クセのある物語にこだわってきた映画界でも指折りのストーリーテラーは、なぜこの奇書に心惹かれたのか。これまでに彼が描いてきた物語の数々は、本作にどうつながっているのか? 絡まりに絡まった構造と文脈を紐解きながら、作品の真髄に迫ってみたい。

※本記事には映画『哀れなるものたち』本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承ください。

『哀れなるものたち』予告映像。物語の主人公は、橋の上から身を投げて自死した女性。彼女は天才外科医の手により、身ごもっていた胎児の脳を移植されて再びこの世に蘇る――。

「規範」と「支配」を軽やかにすり抜ける。監督がベラを通じて描いた社会構造

「身体は大人、頭脳は子ども」。主人公の女性・ベラをそのように表現すれば、DCコミックスのスーパーヒーロー映画『シャザム!』シリーズ(2019年~)を思い出す映画ファンも少なくないかもしれない。しかし、「頭脳は子ども」という境遇に置かれる人物のセクシュアリティやパーソナリティによって、その運命はこんなにも変わるのかと驚かされる。それほど、ベラの物語はシャザムとは毛色が異なるのだ。

舞台は19世紀のロンドン。外科医ゴッドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)の手で蘇生したベラ(エマ・ストーン)は、成人女性の肉体に新生児の頭脳と精神を宿している。その回復と成長を記録するマックス・マッキャンドレス(ラミー・ユセフ)は、ベラに恋をし、やがて結婚することになった。しかし、ベラは弁護士のダンカン・ウェダバーン(マーク・ラファロ)に出会うや、彼との駆け落ちを宣言。ゴッドウィンやマックスを振り切って家を飛び出し、そこで世界の広さを知る。

とことんポジティブで、パワフルなフェミニズム映画である。なにしろベラが対峙するのは、自分を所有しようとする「男たちの世界」なのだ。ゴッドウィンは人間や動物の命を実験対象とする神のような人物で、娘と同様のベラには強い愛情と執着心を抱く。婚約者のマックスも、駆け落ち相手のダンカンも、身投げ以前の夫であるアルフィー・ブレシントン(クリストファー・アボット)も、ベラの身体を、心を、所在を手に入れたがっている。

もっとも、ベラの武器は「世界を知らないこと」。男性中心社会の規範から本質的に自由な彼女は、彼らのあいだを軽やかに駆け抜け、すり抜けていく。ゴッドウィンが支配する屋敷を去り、マックスに帰りを待たせながら、ダンカンとのセックスにふける。

最初は食欲と性欲、睡眠欲だけに正直だが、やがて学ぶことを楽しみ、自らのセクシュアリティを深く理解していく。政治や宗教、経済に触れ、この世界をよりよくしたいと願う。彼女は自らを所有しようとするものと格闘しながら、アイデンティティをかたちづくり、また更新してゆくのである。

監督のヨルゴス・ランティモスと、脚本のトニー・マクナマラが明確に描いたのは、男性による抑圧や支配がいかに意識的に、また無意識的になされているかということだ。それらの欲望を、ベラはあざやかに乗り越え、ときには利用してゆく。

そこに浮かび上がるのは、彼女が自分の人生や性を、思想や思考を、一つひとつ自らの手で獲得してゆく物語だ。ときには間違いを犯し、葛藤し、苦しむこともある。しかし、それらはみな探求と選択の自由から切り離せない「痛み」にほかならない。

原作小説との比較から紐解く作劇の背景。古典フェミニズム作品が与えた影響とは

ベラの成長と冒険を描いた本作は、異形のロードムービーであり、また過去のランティモス作品と同じく底意地の悪いブラックコメディだ。同時に、フェミニズム映画であり、エンパワーメント映画でもある。これは明らかなことで、否定の余地はまったくないだろう――しかし、本当に「それだけ」の映画だろうか?

「翻案とは、すなわち原作を解釈することだ」と言われることがしばしばある。映画『哀れなるものたち』は、まさしくこの言葉どおりの作品だ。あえて挑発的な物言いをするならば、本作を「フェミニズム映画」「エンパワーメント映画」としてだけ読むのは、いささかオーソドックスすぎるのかもしれない。

そもそも、ベラと男性中心社会の対立という物語の中核は、原作者のアラスター・グレイが小説にはっきりと書き記したものだ。2011年ごろから本書の映画化を熱望し、グレイ本人にも面会していたランティモスは、完成した映画に関しても「(映画の)本質は小説に含まれるところが大きい」と述べ、原作に忠実な映画化を試みたことを隠していない。

すなわち、フェミニズム映画・エンパワーメント映画としての『哀れなるものたち』は、原作の内容を継承したもので、映画独自のものではないのだ。とはいえ、ランティモスは巧みなやりかたで、その物語を自らのものとして「解釈」してみせている。

では、アラスター・グレイが執筆した『哀れなるものたち』とは、いったいどのような小説であったか。

書物の大部分をなすのは、医学博士アーチボールド・マッキャンドルス(映画のマックスにあたる人物だ)の回顧録という体をとった物語で、映画版のストーリーはこれに基づいている。むろん回顧録であるから、主人公と語り手は著者のアーチボールド自身。しかしこの物語に続いて、ベラがアーチボールドの死後にしたためた書簡が収められており、彼女は「アーチボールドの記述はデタラメばかり」と反論している。さらに「編者」アラスター・グレイの序文と註釈が、両者のテキストを編集的・批評的に位置づける構成だ。著者であるグレイは、この書物のなかではあくまでも編者という設定であり、発見された回顧録と書簡を取りまとめた人物ということになっている。

作品そのものも、「古典ゴシック小説のパロディ」という複雑な文脈をはらんでいる。グレイが大きな影響を受けたのは、1818年にイギリスで出版された小説『フランケンシュタイン』と、その著者メアリー・シェリーだった。

『フランケンシュタイン』は優秀な科学者ヴィクター・フランケンシュタインが人間の死体をつぎはぎして怪物をつくり出す物語。著者のシェリーは、自身の出産で母親を亡くし、小説家である父親から熱心な教育を受けて育ったが、父の友人と駆け落ちしたあと、父とはほとんど絶縁状態となった。

自らを生んだ科学者・フランケンシュタインに怪物が拒絶される物語は、シェリーが疎遠になった父との関係を思いながら執筆したもの。ただし『哀れなるものたち』では、「怪物」ベラが科学者のゴッドウィンをある意味で拒絶するのだが。

登場人物の名前にも、『フランケンシュタイン』とシェリーの要素が散りばめられた。ベラの別名「ヴィクトリア」は、フランケンシュタインの名前である「ヴィクター」の女性形。ゴッドウィン・バクスターの名は、シェリーの父親の姓である「ゴッドウィン」と、彼女が思春期の約1年間を過ごした「バクスター」家から命名された。

ちなみに『哀れなるものたち』原作でベラの書簡が言及している(すなわち著者のグレイ自身が種明かしをしている)ように、回顧録のパートは『フランケンシュタイン』のみならず、エドガー・アラン・ポーやジェイムズ・ホッグ、ブラム・ストーカーなどの作品も参照・引用したものだ。グレイは意図的に、この物語をゴシック小説として紡ぎ出したのである。

そして『フランケンシュタイン』が、のちにフェミニズム小説やフェミニズム批評における重要な作品として位置づけられたことも忘れてはならない。グレイがゴシック小説の形式でフェミニズムの物語を描いたことは、この作品単独ではなく、下敷きとなった『フランケンシュタイン』と深いつながりを持つと考えるべきだろう。単純に物語のパロディを試みたのではなく、テーマ性や文体も含めて、シェリーと同じことをやろうとしたのだと。

ランティモスは「力」を描く監督。作劇、過去作との共通項から探る

映画の話題に戻ることにしよう。かくも複雑怪奇で、どうやって映像化するのかまるで想像できないような小説を映画化するために、ランティモスとマクナマラはどんなアプローチをとったのか。

2人が採用したのは、原作に見られる「アーチボールドとベラ、どちらの言い分が正しいのか?」というミステリーを一切排除する方法だった。

原作の大部分を占める語り手・アーチボールド(映画でいうマックス)による回顧録ではなく、ベラの視点から編み直した。本作をまぎれもない「ベラの物語」にすることで、彼らは原作に対する1つの解釈を提示したのである。これはベラの旅路を描いた物語なのだ、と。

むろんランティモスは、ゴシック小説のパロディという原作の性質も無視していない。撮影監督のロビー・ライアンによれば、ランティモスらがもっとも参考にしたのはフランシス・フォード・コッポラ監督の『ドラキュラ』(1992年)だった。ブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』が原作に影響を与えたように、ランティモスもまた映画における「ゴシック」のありようを踏襲しようとしたのだ。

また、劇中で描かれるスチームパンク調の街並み、色彩豊かな美術や衣装、ゴッドウィンが時折吐き出す「泡」などの誇張表現も物語の虚構性を高め、これがフィクションであること、原作の回顧録と同じ「語り」の1つにすぎないことを強調する。

興味深いのは、ランティモスがこの原作をここまでストレートな物語に仕立てたことだ。映画化を最初に構想した当時、彼の作風は、『籠の中の乙女』(2009年)や『アルプス』(2011年)にも見られるように劇中での説明を極限まで削ぎ落とすものだった。自ら脚本を執筆し、独特の語り口を重んじるスタイルは、英語作品に進出したあとの『ロブスター』(2015年)や『聖なる鹿殺し』にも色濃く残っている。

難解かつ露悪的なストーリーテリングは、ランティモスが高く評価された理由のひとつだ。しかし、同時に「自分らしい語り口に耽溺するきらいがある」という批判を招く原因でもあった。

ひとつ確かなことがある。もしもランティモスが『哀れなるものたち』の映画化をもっと早く実現させていたら、それは本作のような物語にはならなかったはずなのだ。では、なぜ彼は『哀れなるものたち』の映画化を長らく望みつづけていたのか。

触れておきたいのは、ヨルゴス・ランティモスという映画監督が、つねに「力」なるものを描きつづけてきた作家であることだ。

そのフィルモグラフィで、本作に最も近い映画は『籠の中の乙女』だろう。この作品では、一家の長である父親が、2人の娘と1人の息子を自宅の敷地に閉じ込め、外界と一切接触させずに育てている。ただでさえおぞましい構図だが、とりわけ父が妻と娘たちに向ける暴力性は目を覆いたくなるほどだ。

『哀れなるものたち』では、ゴッドウィンがベラを家の外に出すまいとする様子がこれに通じるが、ベラはあっさりと家を出てゆく。ただし問題は、家の外にも男性の権力と支配がはびこっていることなのだ。

『籠の中の乙女』につづく『アルプス』は、この世を去った者の遺族を相手に、死者の代役を務める人々の物語。遺族たちは代役に対し、死者そっくりに演じることを厳しく求め、ときには性的関係さえ要求する。『ロブスター』で描かれたのは、45日以内に配偶者が見つからなければ動物にされるという恐ろしい管理社会と、そこに蔓延する暴力だ。『聖なる鹿殺し』では裕福な一家に理不尽な運命が降りかかるが、中心には抑圧的な父親がいた。そして『女王陛下のお気に入り』では、女王からの愛をめぐって2人の女性が争う。しかし、実際に彼女たちが奪い合っているのは愛情ではなく権力そのものだ。

ラストシーンに表れたランティモスの意思表示。「自由の力はときに恐ろしいもの」

こうして整理してみれば、ランティモスが小説『哀れなるものたち』に惹かれた理由は一目瞭然だろう。グレイが描いたのは、ベラという「何も力をもたなかった」女性が、男性中心社会の「力」に抗いながら、やがて自分の「力」を手に入れてゆく物語なのだ。

そこには、ランティモスの作品に繰り返し登場してきた、性交(自慰)や人物の裸体、動物虐待、身体障がいといったモチーフ――そこでは人物の力関係が直接的・比喩的に表現されてきた――を織り込む余地も十分にあった。彼はもともと、きわめて自分らしいやりかたを保ったまま、この原作の本質を映画に落とし込める素質の持ち主だったのだ。

しかし、あえて繰り返すが、「翻案とは解釈すること」である。ランティモスは――これこそが原作と決定的に異なるところだが――「力」に対する慎重な姿勢を最後まで崩さないのだ。思うままに力を振るっている男たちは、果たして幸せそうに見えるだろうか。ベラが自らの力を男たちに向けたあと、その先には何が待っているのか? ラストに用意された展開は、原作から突如大きく逸脱し、ランティモスの「力」に対する意思表示となっている。そのときに登場してくるのが、やはり先述したような「おなじみのモチーフ」であることもまた必然だろう。

おそらくランティモスは、主人公であるベラのことも、彼女を抑圧する男たちのことも、等しく突き放し、同時に等しく肩入れしているのではないか。愛情と執着にとらわれながらもベラの自由を理解しようとするゴッドウィン、自分が取り残された事実を戸惑いながら受け入れるマックス、怒りと寂しさを思いのままにぶちまけるダンカン、悲しみを暴力でしか表現できないアルフィー。現実的には抑圧的で恐ろしい存在ながら、情けなく、己の欲望と男らしさの前に膝をつく彼らはみな「哀れなるものたち」である(原作を読むと、彼ら自身の描き方と、彼らに対するベラの目線が大きく異なることにも驚かされる)。

そして「哀れなるものたち」に対し、当人の意志とは関係なく、容赦なく降り注ぐのが「力」だ。それは男性の権力だけでなく、ベラが手に入れた「力」でさえ同じなのである。映画はどこか爽やかな後味を残して幕を閉じるが、それでも「暴力的な人間がいなくなって、暴力的な何かしらから解放されてよかったね」という物語にすべてを回収しないのがランティモスの視点であり、また原作の解釈にほかならない。

とあるインタビューで、ランティモスはこう口にした。「彼女(ベラ)には自由の力がある。それはときに恐ろしいものなのです」と。

作品情報
『哀れなるものたち』

2024年1月26日(金)から全国ロードショー

監督:ヨルゴス・ランティモス
原作:『哀れなるものたち』(早川書房刊)
出演:
エマ・ストーン
マーク・ラファロ
ウィレム・デフォー
ラミー・ユセフ
ほか
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン


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