いま、私たちは『ハリー・ポッター』をどう読むべきなのか――。
1997年にイギリスで第1巻が発売され、世界的な人気作品となった『ハリー・ポッター』シリーズ。
同シリーズのスピンオフである映画『ファンタスティック・ビースト』シリーズが制作されたり、舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』が上演されたりするなど、2011年のシリーズ完結から約14年が経過した現在に至るまで、長く愛され続けている。
しかし、作者のJ・K・ローリングは、2021年頃からXなどでトランスジェンダーの人々への差別的な発言を続けている。トランス女性を女性として認めることに異をとなえる団体「For Women Scotland」への寄付、自身でも基金「The J.K. Rowling Women’s Fund」を立ち上げるなど、トランス排除を支援している。
このことを、『ハリー・ポッター』ファンはどのように受け止めるべきなのだろうか?
ジェンダーやセクシュアリティに関する論考、エッセイを数々執筆しており、著書『クィアのカナダ旅行記』でも知られる水上文が、幼い頃からファンだという『ハリー・ポッター』についての想いを綴る。
あなたの人生に大きな影響を及ぼした本をあげるなら、何になるだろう?
わたしはある時期まで、迷いなく『ハリー・ポッター』シリーズだ、と答えていた。なぜならそれは、幼い頃から愛してやまない物語だったから。6歳だったわたしは、物語の中の世界が現実だと信じ込んでいて、11歳になったら自分にもホグワーツから手紙が来るかもしれないと、期待に胸を膨らませながら成長したから。
けれども、ある時期からそれを口に出すことにためらいが生じるようになった。というのも、『ハリー・ポッター』シリーズの作者J・K・ローリング(本名ジョアン・ローリング)が、トランスジェンダー差別的な見解を示すようになったからである。
トランスジェンダーの人々を抑圧する動きはこの数年悪化の一途をたどっていて、作者の表明する見解もまた、わたしの身近にいる大切な人たちの状況を、現に悪化させるものにほかならない。こうした状況で作者の見解を切り離して物語に触れることは、もう不可能なように思えた。
それにしても、ヒトラーやスターリンにヒントを得たという悪役との闘いが描かれ、過去にはマイノリティの読者を救ってきた 『ハリー・ポッター』シリーズの作者が、なぜこれほどまでに論争的な人物になってしまったのだろう?
同世代の多くの人たちがそうであるように、わたしもまた、『ハリー・ポッター』シリーズによって「差別」を学んだ部分があると思う。だからここではあらためて物語に立ち返り、差別とは何か、それはどのように描かれていたか、考えてみたい。
物語が描いた差別と、「良きマイノリティ」であるドビーとハグリッド
まず、この物語は、魔法使いの物語だけど、マグル――魔法使いではない人間――もまた登場する。そして物語は、マグルへの蔑視、マグル生まれの魔法使いへの蔑視を、はっきり問題にしていた。
ヴォルデモートをはじめとする闇の魔術の陣営は、純血主義を掲げ、マグルやマグル生まれを迫害していた。それは作者自身がナチスドイツを例に出していたように、現実の差別を彷彿とさせるものである。闇の魔術に立ち向かう主人公を描き、差別への対抗を物語の主要な要素として位置付けていたのだ。
そもそも差別とは、なんだろう? 時に誤解されているけれど、差別は侮辱や侮蔑とは異なる。社会構造や制度設計によって、誰かが不利益を被ったり、排除されたりするものを「差別」という。そして差別は、人間関係に深く影響を及ぼすものでもあるのだ。
この意味で、たとえば、ドビーなどの屋敷しもべ妖精(※)の描かれかたは象徴的である。物語には、魔法界が当たり前のように屋敷しもべ妖精を見下し、奴隷労働を押し付けていることに驚き、かれらを解放するべく働きかけるハーマイオニー、そして彼女を煙たがる魔法使い――そこには魔法界で生まれ育ち、その「常識」を当然のように受け入れるロンも含まれる――や当の屋敷しもべ妖精たちが描かれていた。
※屋敷しもべ妖精:魔法使いの家に仕えて働く小さな魔法生物。主人の命令に逆らえず家から離れることもできないが、主人から衣類を渡されるとその家から解放されるという仕組みがある。
要するに物語は、差別がいかに「普通の人」のなかにも、あるいは差別される側にも浸透しているかを正確に描いている。私たちも現実において、このことをよく知っている。結局、女性がみんなフェミニストなわけではなく、フェミニズムに反発を示す女性もまた多くいるのは事実なのだ。
ただ、屋敷しもべ妖精のドビーは一貫してハリーに忠実で、彼らを助けるために自らの命すら落とす。このことから、いわゆるマジョリティに都合の良いマイノリティ――マジョリティを敵視せず、感謝し、忠実に尽くしさえする――ばかりが主人公側、良い側として描かれていたのではないか、という疑問は湧くかもしれない。
あるいは、ハグリッドもそうかもしれない。巨人と魔法使いのミックスである彼は、そのことによって魔法使いから差別される存在であり、無実の罪を負わされてホグワーツを追放されるという憂き目にもあっている。けれども彼は、魔法界の権力者であるダンブルドアに感謝し続け、忠実であり続けた。ダーズリー家で虐げられていたハリーを救い出した人物でもある彼は、物語の当初から一貫して、自分を排除し、追いやったマジョリティである魔法使いの、常なる味方だったのだ。
ドビーとハグリッドには、立場としても人格としても共通点がある。どちらも愛情深く、純朴に過ぎるほど純朴な存在として描かれている、ということ。言い換えれば、マジョリティを脅かさず、恨みも復讐心も持たず、ただ純粋に敬愛するばかりであるマイノリティこそが、「良きマイノリティ」として登場するのだ。
ロンの父の好奇心から見る、マイノリティを「珍しいもの」とする差別
ドビーやハグリッドだけではなく、「良きマジョリティ」の描かれかたにも見えにくい差別が潜んでいるかもしれない。
たとえば純血の魔法使いでありながら、純血主義に毅然と反対し、マグルの文化に深い関心を示すロンの父、アーサー・ウィーズリー。彼は魔法省に勤務し、マグルを保護する制度設計の推進者でもある。
ただ、彼が「良い人」であることは確かだとしても、ハリーのようにマグルの家庭で育った人、ハーマイオニーのようにマグル生まれの人に対して示す彼の好奇心は、周縁化されている文化へのエキゾチックな視線を物語るもののように思える。
マイノリティは、すでにこの社会の一部であるにもかかわらず、しばしば「珍しい」存在として質問を投げかけられ続けることがままある。わかりやすい攻撃だけが差別ではなく、主流社会とは異なる存在として好奇の視線にさらされ、「学ぶ」教材として扱われ続けることもまた、差別の一部なのである。
物語は、アーサーのマグルに対する関心をやや滑稽なものとして描いており、全面的に彼の態度を肯定しているわけではないかもしれない。それでも、アーサーのような「良いマジョリティ」が当事者からの反発も招かず存在しているとき、物語における「差別」の描きかたは十分ではなかったかもしれない。それは人種的マジョリティが受け入れやすい、都合の良い差別の描きかただったのではないか、という疑いが残る。
「母親に愛されなかった子には悲惨な運命が待つ」という決定論的な母性主義
愛情深く純朴なマイノリティは、ある意味で子どものようでもある。
誤った綴りのバースデーケーキをプレゼントするハグリッドにしても、ハリーにどこまでも忠実だったドビーにしても、まるで子どものように無垢だった――ただ愛されない子ども、反抗的な子どもとして見えかねない人には、物語は冷淡だったかもしれない。
というのも、ハリーが恐るべき死の呪文を生き延びることができたのは、彼が母親リリーに愛され、その身を挺して彼をかばったからだった。母親の子への愛は、死の呪文を打ち破る。妻子を守ろうとした父ジェームズの愛ではない。母親こそが最も強力な呪いをのけるに足る愛を持っており、母親に愛された子は生き残ってヒーローになるのだ。
一方で、この物語において母親からの愛を得られなかった人には、悲惨な運命が待っていた。ヴォルデモートの母は、虐待されて育ち、家庭内暴力から解放され恋に落ちるも、男に捨てられ、悲嘆の中で亡くなった人物だった。そして母の愛情を得られないまま育ったトム・マールヴォロ・リドルは、魔法界最大の闇の魔法使いヴォルデモート卿として君臨し、ハリーに倒されることになる。マグルの父を持ち、自身もマグル生まれである彼は、だからこそ幼少期の不幸をマグル / マグル生まれに見出し、恐ろしい悪役となったのだった。
主人公であるハリーと、その最大の敵であるヴォルデモートの対比が物語るのは、母親の愛を何より重視する世界観である。母親に愛されるか否かによって、運命が決定づけられるのである。
たとえば純血の古い名家に生まれながらその価値観に反発し、家系図から抹消されたシリウス・ブラックもまた、母の愛を得られなかった人だった。
彼は友人に裏切られ、親友を喪い、罪を着せられて13年監獄アズカバンに服役し、脱獄してもわずか2年足らずで命を落とすことになる。彼は家族の純血主義に反発していたが、最終的には自らがもつ屋敷しもべ妖精への差別意識を克服できず、実家の屋敷しもべ妖精クリーチャーとも深く対立していた。その関係の悪さからクリーチャーは敵側に情報を漏らしてしまい、それが結果的に彼の死につながったのだ。
屋敷しもべ妖精が担う家事労働への視点にしても、学年トップをひた走る優秀なハーマイオニーにしても、母の愛が呪いを打ち破るものであるところにしても、物語は歴史的にしばしば軽んじられてきた女性の労働、女性の能力、女性の愛を重んじているという意味で、フェミニズム的にも思える。
けれども、「母子」に注目することで見えてくるものは、フェミニズムというよりむしろ、決定論的で残酷な母性主義ではないだろうか?母性主義は「母たる女性」を重視する点で、フェミニズム的ではある。ただ、歴史的には母性主義フェミニズムは、しばしば女性の生殖能力を強調し、産まない女性に対して抑圧的だった。さらに、「優れた」子どもを産むからこそ女性には価値があるといった、優生思想と接近していく側面があったのだ。
そのことを思い起こせば、物語が孕むかもしれない母性主義にも警戒は必要だろう。とりわけ女性が子どもを産み育て母になることが、多数派の性のありかたそのものであることを考えると、『ハリー・ポッター』は性的マイノリティにいかなる態度を示すか、不安になりもするのではないだろうか。
ダンブルドアのゲイ設定は画期的。しかし、ルーピンのセクシュアリティはどう描かれたか
でも『ハリー・ポッター』にはゲイの主要人物も登場したのだから、性的マイノリティに差別的だったとは言えないはずだ――、そう考える人もいるかもしれない。
もちろん、2007年に作者が主要人物のひとり、ダンブルドアをゲイだと明言したことは、児童書に性的マイノリティの表象をもたらしたという点で、紛れもなく画期的だった。
たとえ物語の中で、ゲイだと明言されていたわけではなかったとしても。その後の映画『ファンタスティック・ビースト』での彼の恋愛が、十分には描かれていなかったとしても。同性への思慕をきっかけに闇の魔術に関心を持ち、妹を死に至らしめ、独身を貫き、最終的に自ら図った死を迎えたダンブルドアの物語が、いわゆる「同性愛は悲劇をもたらす」「孤独に死ぬゲイ」というステレオタイプをなぞっていると解釈し得るとしても。
ゲイを思い起こさせたのは、ダンブルドアよりもむしろ狼人間であり先生でもあったルーピンのほうだったという見方もある。演じた俳優も「ゲイだと思って演じていた」と語っていたのだ。というのも、狼人間であった彼は、自分自身に対する恥や自己嫌悪をかつて抱えており、それが明らかになれば差別され就学や就労に支障が出るために、真実をひた隠しにしていた。そんな彼の姿は、当事者がしばしば内面化する同性愛嫌悪、あるいは自分のセクシュアリティを隠すことを強いられる状況をまさしく連想させたのだ。
けれども物語では、ルーピンには女性と交際し子どもを持つという結末が用意されており、したがって作者がゲイ表象について、実際のところどれほど理解していたか、疑問の余地が相当ある。
それでもなお、無いよりはマシだったと言うことはできる。別の言い方をすれば、無いよりはマシだったが、同性愛表象の歴史や実際の同性愛者の現実をふまえれば、『ハリー・ポッター』が素晴らしく先進的だったとは言えないのだ。
J・K・ローリングが見事に描き出していた、差別をもたらす「恐怖」
あらためて立ち返れば、物語は「差別」を十分に描いていたとは言い切れない部分がある――ただ同時に、私は物語が、作者自身も自覚していないかもしれないある真実を、たしかに掴んでいたようにも思うのだ。
というのも、ヴォルデモートがマグルやマグル生まれを憎み迫害したとき、彼は彼自身のなかにある苦難と恐怖を他者に投影していた。このことは、ヴォルデモートの過去を語ることで、物語のなかで明確に示されていた。
彼は、マグルの父に捨てられた母の不幸による幼少期の苦難から、マグルを憎んでいた。そして自分自身もマグル生まれでありながら、マグル生まれを憎んでいた。ある意味でそれは、自分自身をめぐる恐怖である。とりわけ彼の恐怖は記憶やトラウマに根差しているために、いっそう対処は困難だっただろう――だからといって彼の行為が正当化されるわけではないが。
自分のなかにあるものを切り離したいと望むとき、人は他者にそれを投影し、恐れ、憎むことで自身から切り離そうと試みる。ヴォルデモートは、恐怖に圧倒されるあまり、マグルやマグル生まれには様々な人がいて、彼とは異なる人格、人生、経験を持っているという事実が見えなくなってしまった。恐怖こそ、彼を史上最大の闇の魔法使い、物語の最大の悪役にしたのである。実際、こうしたトラウマの投影から生じる恐怖と差別のメカニズムは、現在のトランス差別を考えるうえでも重要だ。
ジョアン・ローリング、彼女はまったく見事に、恐怖と差別のメカニズムを描き出していたのだ。
それでは、こうした闇の魔術を打ち破るのはいったいなんだっただろう? どんな魔法が最も強力な闇の魔術――アバダケダブラ――を打ち破り、どんな魔法が増幅し続ける恐怖と憎しみに打ち勝ち、どんな魔法が戦いを終わらせただろう?
私はもう、ホグワーツからの入学許可を待ちわびていた子どもではない――だけど今もなお、物語が語った最も古い魔法の力を信じてもいる。どれほど暗雲が立ち込めようともつねに希望はあるはずだと、ジョアン・ローリング、あなたの物語が教えてくれたから。
- プロフィール
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- 水上文 (みずかみ あや)
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日本の文芸評論家。文芸批評や書評や映画評のほか、ジェンダーやセクシュアリティに関するエッセイを執筆している。フェミニズム雑誌『エトセトラ』のvol.13『特集:クィア・女性・コミュニティ』で編集を務めたほか、2025年には著書『クイアのカナダ旅』を出版した。
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