音楽イベント『WWW & WWW X Anniversaries カネコアヤノ+本村拓磨 × maya ongaku』が10月30日に渋谷のWWW Xで開催される。
同イベントは、初共演となるカネコアヤノ+本村拓磨とmaya ongakuのツーマンライブ。公演にあたって評論家、音楽ディレクターの柴崎祐二による紹介文、音楽家、映像作家のbananaが手がけたメインビジュアルが公開された。
チケットの抽選先行受付は9月6日まで。一般販売は9月12日10:00からスタートする。
都市の「繭」に響きわたる、外部―風景―今のアレゴリー
今や特段に言及する必要もないほどに工事中の風景それ自体が日常となってしまった感もあるが、渋谷という街の景観は、この10年ほどの間にきわめて大きく変わった。消滅する風物と、新たに林立する商業ビル。消される痕跡と、毎日のように引き直される道筋。長らく続けられてきた都市の開発は、それ自体のゴールが無限の彼方へと先送りされるように、今も絶え間ないスクラップ&ビルドを続けている。かつて地理学者のデヴィッド・ハーヴェイはこう述べた。資本主義というシステムは、過剰蓄積の危機を回避するために、建造環境の破壊と創造を繰り返さねばならない――。なるほど、渋谷という街の終わらない変化には、システムそれ自体が要請する自己律動と、だぶついた資金と記号の群れが再編成される様相そのものが映し出されているのだと言える。
景観の変化は、当然ながらサウンドスケープの破壊/創造とも一体となっている。私は、この街を訪れるたびに、その音風景の多様さと過剰さに驚かされるが、その一方で、だからこそ一瞬訪れる静寂に意識を捉えられることにもなる。重機が唸り、コンクリートが砕け、人いきれの群れが巨大なパルスとなる。嬌声とクラクション。ポップ音楽の洪水。そして、前触れもなく訪れる一瞬の――それが短ければ短いほどに鋭く感得される――静寂。街全体を大きな反響板として音が音に応え、静寂が口をすぼめて音を吸い取り、一瞬の後には新たな音が静寂を埋め尽くしていく。
私はいつも、そのようなサウンドスケープをくぐり抜けながら、センター街の奥へと身を沈め、WWW/WWW Xという音の繭へと還っていく。だとすればそこは、(よくあるクリシェのように)「都会のオアシス」なのか。――否、その中にこだまする音もまた、都市のサウンドスケープとは無関係ではいられない――というよりもむしろ、そのような音風景を、優れた音の審神者(さにわ)たちが、様々な仕方で「再演」する場であるほかないだろう。それがどんなに美的で、ステージという区画された場で上演される「パフォーマンス」であったとしても。反転してみれば、全く同じ理由でそれらの「音楽」は、外界のサウンドスケープのアレゴリーたらざるを得ないのである。
カネコアヤノ+本村拓磨とmaya ongakuの二組が相まみえる今回の企画は、まさしくそのような「パフォーマー」同士の邂逅の場として、多くの都市音楽生活者たちによってぜひとも目撃されるべき一夜だといえるだろう。
kenekoayano名義によるバンド編成など、昨今急速にその表現のチャンネルを増殖させつつあるカネコアヤノが、ゆうらん船、Hedigan’s、NOT WONK等での活動で知られる盟友にして鬼才ベーシストの本村拓磨と組んだ前者は、これまでにごく限られた数しかライブを行っていないため、実際のところ、多くの観客にとっては未知数の存在といえるかもしれない(正直に述べれば、私自身にとってもそうだ)。しかし、本年の「森、道、市場」でのパフォーマンスの評判や、同じく今年3月にリリースされた同編成でのシングル「できるだけ/友達がいる」を耳にすれば、カネコ・本村両人にとってそれが明らかに新機軸を画する重要なプロジェクトであることがわかる。ベース+ギターという単純な加算の図式をはるかに超え、シンセサイザーやリズムマシンなどの鋭角的(かつ肉体的)な電子音と渾然一体となったそのサウンドは、まさにあのWWW Xの定評あるサウンドシステムによって一層大きな迫力とともに響きわたることだろう。
片やmaya ongakuは、国内外のツアーでの好評はもちろん、先日のFUJI ROCKでも素晴らしいパフォーマンスを行ったばかりなので、そのライブの魅力は折り紙付きだといえる。ここ数年は、シンセサイザーを用いてダンスミュージック的な律動へと接近するなど、ライブパフォーマーとして新たな境地を開拓し続けてきた彼らだが、一方で、「沈黙」をテーマの一つとする最新のアルバム『Nothing Space Music』では、生演奏の有機的なグルーヴ感覚をより研ぎ澄ませたサウンドをものにするなど、ここへ来てモードの変化を印象づけている。そうした変化を経て、WWW Xにおいてどのようなパフォーマンスを行ってくれるのか、今から期待が膨らむ。
上の諸作を耳にしてもらえれば分かる通り、両者のサウンド上の美学は、必ずしも大きく重なり合っているとは言えない。しかし、それでもなお重要な共通点があるのも確かだ。ひとつには、電子音と生楽器のサウンドを、リアルタイムの演奏操作を介しながら不可分な存在として重層的に生成・変化させていくという手法上の重なりがある。そしてまた、そのような機械的な律動を実装しつつも、あくまで「歌もの」としての外殻を取り払おうとはせず、むしろ、「反・歌もの」的な内圧の上昇によってかえって「声」の存在を前景化させるような、一種の転倒的な構造がある。更には、両者ともに、ごく一般的な意味での「ポップソング」という形式(例えば「A-B-サビ」的な構造)に対する基礎的な信頼を内在しながらも、より拡散的≒「脱ポップソング」的でモーダルな構造の中に浮かび上がるハーモニーを、ある種の再帰的な仕方で生成しようとする傾向が聞き取れる。その聞き心地は、どこか間歇的でありながらも、一方で、そこで鳴らされている音自体を反響板としながら、自らを取り囲むサウンドスケープを表象するかのような開放感に溢れている。わかりやすい表現でいえば、スケールが大きく、開かれているのだ。
テクノロジーと身体の輻湊を介して表象されるリズムの反復・輻湊。間歇的に現れては消えるハーモニーと静寂。それでもなおせり出てくる圧倒的な「人間」の息吹。明滅する今昔のポップミュージックの記号。つまり、少なくとも私にとって、両者の演奏は、私自身を包囲する渋谷という都市の稀有なサウンドスケープ体験――それは当然ながらただ「心地良い」だけではない――を、きわめて鋭敏な抽象化を経た形で、なおかつ大胆な仕方で表象しているように聴こえるのである。それはまさに、渋谷の中心に位置する「繭」の中で鳴らされることによって、すぐれてクリティカルな効果と美学的な共鳴を生む、語本来の意味を湛えた「ライブミュージック」といえるのではないか。私たちは、そのような「生きた音楽」を味わうために、何度でも「繭」へと還っていく。外部―風景―今と、私の身体を響き合わせるために。それが私たちにとって果たして「健全」なことなのかどうかは決してわからないが、少なくとも、そうしないではいられないのだ。
評論家/音楽ディレクター 柴崎祐二
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