「フジワラノリ化」論 第20回 島田紳助 紳助依存から脱・紳助へ 其の五 島田紳助を忘れる方法

其の五 島田紳助を忘れる方法

原子炉内の燃料棒、あれは男性の象徴、つまり男根なのだとする原稿を見かけて思わず納得した。男性社会の強欲、権威主義の果て、個々人を置き去りにした組織論が育んだ「なあなあ」が、原発の量産を生んだ。ならば、その原発の炉心にある燃料棒は、その欲望の象徴=男性器だというのだ。早速議論をスライドさせれば、島田紳助は、芸能界における燃料棒のような存在だった。本人は、あちこちに向かう強靭な攻撃性を持つ「弾痕」のつもりだったかもしれないが、これまでの議論で散々書いてみたように、その殆どは我欲の散布であった。つまり、「弾痕」ではなく、「男根」だった。原発と社会、島田紳助と芸能界の構図はここでも似ている。

島田紳助は女性蔑視発言を繰り返して来た。石原慎太郎と同様に、男性は女性の上にいるものという、一向に改訂されない古びた脳内から定期的に放たれてくる愚言を並べても不愉快にさせるだけなので控えるが、読者のために1つ出しておく。彼は言う、「女性は産卵せなあかん」。これだけで十分だろう。不妊に悩む女性は50万人とされる。出産を産卵と愚訳し、女性は産んでナンボとする、あらまあ石原慎太郎の「ババア発言」と酷似する発言である。結婚していない女性を見つけて「産業廃棄物」と言ってのける燃料棒を「毒舌だから」と見過ごすことはなかなかできない。島田紳助を懸命に肯定するときに「彼の毒舌には愛情がこもっている」とする見方がある。ここでもまた「原発は確かに危ないけれど地方を助けているんだしさ」に近しい根本的な間違いが潜んでいる。彼の毒舌には必ず権力が付随する。毒舌とは本来、下から上に突き上げるものだ。今後の有吉弘行がどうなるかは分からないが、この数年の有吉の毒舌は、下から上に向かうからウケたのである。上が下に放つ毒舌は一風変わった味わいのある毒素でなければウケはしない。上は下に何を言っても許されるわけではないが、かといって、その限界を超えてモノを言う島田紳助が毒舌かとなればそうは思えない。突っ込むのと、踏みにじるのは、圧倒的に違う。出産を産卵と呼ぶことを、踏みにじる、と言うのだ。

野田首相が、民主党代表選挙の折、相田みつをの詩「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」から、自らはどじょうである、派手さはなくとも泥臭い堅実な政治を心がける志を詩に託してみせた。「こだまでしょうか? いいえ、枝野です」で失った信頼を取り戻す最後のチャンスとなった交代後の指針を、相田みつをの低い視線に代弁させたのだった。権力をふりかざさない、人が人としてあることだけが幸せ、それだけでいいとする、あっ、現在お遍路廻り再開中の菅直人・前首相が就任時に言っていた「最小不幸社会を目指す」と何ら変わりがない……というのはさておき、島田紳助も、野田首相と同様に相田みつをの詩を大切にしている。『ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する』(幻冬舎新書)の中にこう書く。(相田みつをさんは)「この世に生きていることが、すでに幸せなのだという真理を、みんなに伝えた人だ。その相田さんが、お金のことを詩にしている。<人生お金がすべてじゃないけれど、あれば便利、ないと不便。便利なほうがいいなぁ>(中略)相田さんみたいなひとでもお金が欲しかったんや」。贅沢など求めない相田さんであっても何だかんだでお金が必要だったのだから、お金は絶対に必要なんだ。なんかこう色々大切なことを取りこぼしている読解に違いないが、島田紳助のビジネス哲学の中で、そそくさと揉み消されるのだった。この『ご飯を大盛りに〜』を要約すると、お金は裏切らない、を言いたいが為の本だ。この本を読んでいて、執拗に繰り返される「お金は裏切らない」って何なんだろうと考え込んでしまう。普段、生活を慎ましく過ごしていれば、そこまで何かに裏切られることなんて起き得ない。人にも金にもカラスにも電信柱にも裏切られずにいる。人が礼をしたら礼を返せば、「もうお前だけが頼りさ」と札束を数えることにはならないだろう。

茨木のり子の詩に「自分の感受性くらい」という詩がある。こう終わる。「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」。とても好きな言葉だ。札束と組織図しか目に入らない面々にいつだって差し出したくなる言葉だ。金と権力は、持つものではなく、保つものだ。だから必死になる。守り抜くために人の心を乱し、跳ね返るように自分の心が乱れる。アメリカのプリンストン大学の教授が、「年収7万5000ドルを超えると、必ずしも収入が多いことで幸福度が増したり、悲しみやストレスが和らぐとは限らない」という研究結果を発表している。幸福度と年収は比例するどころかむしろ反比例だ。それはおそらく「保つ」ことが生きる上でのあらゆる所作の目的や制約になるからだろう。島田紳助の芸能界での佇まいも、つまるところ、そういう「保つ」ことに主軸があり、周囲も「保たせる」ことが、彼を心地よくさせる方法だと知っていたから生じたのだ。ここに彼のバラエティのヌルさは集約される。これは何度も指摘した通りだが、ずっと長いことビジネスをやってきた島田が、最終的に「お金は裏切らない」に行き着くのはあまりにもつまらないし、自分についてこない面々やそもそも権限を持たない面々をこき下ろすのに見つけるたび、「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という言葉を進呈させてあげたくなるのだった。

「フジワラノリ化」論 第20回 島田紳助

島田紳助は、自らの作詞により、吉本興業社歌を作った。タイトルは「我が敵は我にあり」だ。歌詞の中に毎度お馴染みヤンキー哲学が顔を出す。「お前達じゃ無理だと 言った奴等を思い出せ いつかひざまずかすまで 戦いつづけてゆく」。ポカンと開いた口が塞がらない。暴走族雑誌の見出し記事のような歌詞だ。最終目標が、成り上がることではない。ひざまずかせることなのだ。ひざまずかせた相手を見下ろしながら、オレが上だと罵ることなのだ。これを、とてもじゃないが、「毒舌が過ぎることもあるけど人情派」と片付けることはできない。

引退した島田紳助が必要とされない構図は、あっという間に仕上がるだろう。10月1日に行なわれた「オールスター感謝祭」では、島田紳助の代わりを、今田耕司、田村淳、東野幸治がリレーする形で行なわれた。ここでも、社歌を共にする面々に継いだのは何ともつまらないけれど、島田紳助がいなくても何の問題もないのであった。島田紳助がブラウン管から消えて一ヵ月以上が経過する。引退会見当初は過剰に反応していたワイドショーも、すぐさま、議題にあげることをしなくなった。島田紳助がいないことに馴染むのは、そんなに困難ではなかったんだなあと、誰しもが自分の胸に手を当てて確認している。

「日経エンタテインメント!」の「嫌いな芸人」ランキング、島田紳助の引退発覚前の初夏に発表された最新ランキングで、9年連続1位だった江頭2:50を遂に上回って1位となったのが島田紳助だった。島田紳助はこれまでこのランキングで、「嫌いな芸人」にランクインされながらも、「好きな芸人」としても5位以内に入ってきた。つまり、彼を嫌いな人もいるけれど、好きな人も沢山いる、それが島田紳助だった。ところが、「嫌いな芸人」1位になった今回は、「好きな芸人」ランキングでは16位にランクインするに留まっている。大幅な下落だ。この1年、彼の仕事っぷりには何の変化も無い。毎度のことながら、管理しやすい作物を自分の畑で耕し愛でていただけだ。お笑いブームの波が去って、番組が次々と終わり、結局残ったお笑い番組に、いつもの島田紳助がまだいた、ここへの嫌悪感があったのだろうか。つまり、再びやって来た閉塞性を、その毒舌と自己保身のコラボレーションにいよいよ見つけたのだろう。アルコールでも原発でも島田紳助でも、依存していたことに大々的に気付くと、あれ、これってそんなに必要だったっけと大きな疑問符が、単純な形状で登場する。立ち止まれば容易に気付けたことも、動く歩道のように後戻りできない道の合間にいると、気付けない。島田紳助をから脱する、とは動く歩道から解放される、ということだ。

しかし、気をつけなければいけない。原発と同様に、じゃあどうするの、と問われた時に、回答を出せなければいけない。紳助からの脱却を容易に済ませたテレビに課せられる課題はそこだ。島田紳助のリプレイをやれば、島田紳助のほうが良かった、になるに決まっている。テレビというメディア自体が根から疑われている論調の中で(そういえば佐々木俊尚は2009年に『2011年新聞・テレビ消滅』という本を出したけど、今年まだ消滅しないはずですが、どうするんでしょう。独り言。)、島田紳助以前・以降の変革が具体的に問われていく。島田紳助から後継へと伝播されるヤンキー体質・体育会系気質を、視聴者が敏感に感知して、嫌がらなければいけない。「原発はそうはいっても必要だから」という論調の過ちに気付けたベクトルと同様に、「芸能界は体育会系の社会だから」という前提に頷いてはいけない。2011年に消滅したのは、新聞でもテレビでもなくって、島田紳助だ。彼が立ち去った更地に、血族だけが集まるのは避けたい。権力でも金でもない「自然エネルギー」が結集し、そこで笑いが量産されることを願ってやまない。そうすれば僕たちは簡単に島田紳助を忘れられるだろう。



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