沖縄に生きる女性たちの肖像 第4回:与世山澄子

60、70歳を過ぎてもなおイキイキと輝く沖縄女性を紹介する本連載。4回目にご登場いただくのは、ジャズシンガーの与世山澄子(よせやますみこ)さん。高校生でプロデビュー後、人間国宝から三島由紀夫賞作家など、名だたる著名人が絶賛し、60歳を過ぎてテレビ番組「情熱大陸」にも出演。76歳の今もなお、迫力のある歌声で人々を魅了する伝説の歌姫に会いに行きました。

※本記事は『HereNow』にて過去に掲載された記事です。

幸せになる方法?好きなことをすればいいじゃない。

那覇市安里。夜になると人通りの少ない道に『インタリュード』の看板がそっと灯る。人ひとりが通れるほどの小さな階段。初めて来た人は「こんなところに本当に伝説の歌姫の店があるのか?」と驚くだろう。けれど、ここを上った先にあるのが、ジャズシンガー与世山澄子さんの店だ。

人間国宝の柳家小三治さんは、澄子さんのアルバム『INTERLUDE』のライナーノーツにこう書いた。

「左手の突き当たりにアップライトのピアノ。細長い印象のお店は決して広いとはいえない。ピアノの前のほの暗いシートに連れと4人で腰をおろす。「何を差し上げますか?」声をかけてくれたお手伝いのおばさんが、与世山澄子そのひとであった。ね。そういうひとなの。巡回のピアニストが来て、私たち4人のために歌ってくれた与世山澄子。思い出すと涙が出る」

たとえ音楽やジャズに詳しくなくとも、澄子さんの歌を聴くと言葉を失う。「聴く」ではなく「体験」と表現した方が近いだろう。迫力のある声量がビンビンと身体に伝わり、切なく優美なジャズのリズムが大きな揺らぎとなって包んでくれる。沖縄とアメリカの狭間を生きてきた与世山澄子だからこその世界観に、あっという間に惹き込まれる。

プロとはやるべき努力をし続ける人。

1940年、小浜島生まれ。戦争中は中国で過ごし、終戦後那覇に帰ってきた。初めてのクラブデビューはわずか小学6年生だった。通っていた音楽教室の先生がアメリカ軍基地内で演奏をしていて、それについていったのが初めてのステージ。片言の英語で歌ったのはアメリカのポピュラーソング“テネシーワルツ”。ジャズバンドの生演奏、お客さんの大歓声。歌うことが何よりも大好きだった少女はその華やかな空間の虜となり、以後、一層練習に励み、16歳で米軍基地内でクラブシンガーとして歌うようになった。

「1960年代なんて娯楽がまだ何もない時代でした。当時、米軍の各部隊にクラブがあってね、週末になると、アメリカ人の家族がオシャレをして出かけてきて、生演奏を聴きながら食事を楽しむというのが習慣でした。今はレストランのBGMは録音された曲ですから、思えば昔のほうが贅沢でしたね」

もちろん、本物のジャズを知るアメリカ人のお客さんの目は厳しかった。少しでもよくないと思われればブーイング。喜んでもらうために、英語の発音、発声、音感、澄子さんは練習に明け暮れ、懸命にレパートリーを増やした。学校に通いながら、ステージに立つのは週6日。どれほど大変だっただろうかと尋ねると、澄子さんは迷いなくこう答えた。

「つらいなんて思ったことはありません。プロとして努力し続けました」

いつしか澄子さんは沖縄随一の歌姫と称されるようになり、沖縄の米軍基地へ慰問に訪れたアメリカのスーパースターらと何度も共演を果たした。

家庭がどうのなんて言っていたら何もできない。

28歳で結婚し、長男を出産。産後3ヶ月でステージに戻った。夫の両親と同居して、家族で協力しながら子育て。家事や育児、沖縄ならではの行事ごとなど、女性が自分のやりたいことを諦めざるを得ない理由はたくさんあるが、澄子さんは「家族がどうのなんて言っていたら、何もできない」と臆さずに言う。疲れたら家事はうまく手を抜いて、家族と仕事のバランスは、その度ごとに調整してきた。

転機になったのは1972年。沖縄の本土復帰を期に、ドルが円になり世界は一変した。沖縄の米軍にフルバンドを雇うお金はなくなり、ミュージシャンたちは仕事が激減。職場を失った澄子さんは、サックス奏者の夫と共に『ミュージックラウンジ インタリュード』を開店した。以来、44年間、店で歌いながら、全国各地でライブを開催していった。

1984年には伝説のジャズシンガー、ビリー・ホリデイの伴奏者でもあり、世界的なジャズピアニストのマル・ウォルドロンとCD「With Mal」と「Duo」を発表。2005年、約20年ぶりの新作「インタリュード」は、南博(p)、カ川大樹(b)、 菊地成孔(sax)、パードン木村(produce) 、ZAK(engineer)といった豪華メンバーでつくられた。その後、テレビ番組「情熱大陸」や映画「恋しくて」にも出演。名実ともに、日本屈指の実力派ジャズヴォーカリストとして知られるようになった。

ジャズをこよなく愛する澄子さん。店のバーカウンターには数えきれないほどのレコードが並ぶ。おすすめの曲を聞いたら、「ありすぎて答えられないわ。そんなの好きなものを聞けばいいじゃない」と言いながら、1枚のレコードをかけてくれた。曲はフランクシナトラの“マイ・ウェイ”。人生の終焉を迎える男が、誇りを持って自分の道を歩いてきたと語りかける歌詞に、澄子さんの人生が重ねて見えた。

「Keep singing」自分の道を進め。

夜22時を過ぎて、ピアノの伴奏が始まると、澄子さんは深紅のフリルのついたドレスに着替えて登場した。唇には真っ赤なルージュ。年を感じさせない色気とオーラが辺りに漂う。マイクの脇に何冊も置かれた分厚いファイルの中から一枚の楽譜を取り出し、ピアニストに手渡す。それがインタリュードの幕開きのサイン。

澄子さんが真っすぐに前を向いて歌い始めた。何者にも屈しないような鋭い目力で、激しく腕を降りながら。ポップな曲調のときは目も身体も揺らして。バラードでは少女のような優しい目に。コロコロと変わる表情はまるで人生の一幕のようだ。ステージの終盤になり、お気に入りの一曲フランクシナトラの“That’s Life”が始まった。イントロでシャンソン風に歌詞の意味を日本語で歌うのが澄子さん流。ここで現実から曲の持つイメージの世界へと惹き込まれていく。

♪人生とは、4月になれば幸せの絶頂にのり、
 そのうち、5月になれば失意の底に落とされる。
 でもそのうち人生のリズムは変わって行く。
 6月にはまた幸せの絶頂に酔う。
 私は人生の導くままに生きていく。
 だって、この世界はくるくるまわっているんですもの。
 That’s life♪

「コピーライターの神様」とも言われる仲畑貴志さんは、澄子さんの歌を「生き方以上の歌はない」と表現した。東京やアメリカへ進出しないかという誘いもあったが、沖縄で歌い続ける道を選んだ。歌を通じて「愛と平和を伝えたい」と話す澄子さん。沖縄戦が残した大きな傷跡、戦後なお続く基地問題、それでも強くたくましく生きる人々。彼女の歌には、この地が内包する喜びも悲しみも、強さも弱さも、彼女が生きた沖縄の全てが、鏡となって映し出されているような気がしてならない。だからこそ、私たちはその歌声に包まれると、心が震えるのだと思う。

先述のマル・ウォルドロンと共演した時、澄子さんは一枚のメモをもらった。そこに書かれていた言葉は、「Keep Singing」。76歳になった今も、この言葉を胸に歌い続ける。「私は自分が大好きな歌を歌い続けた。歌での出会いが私の財産だ」と、伝説の歌姫は誇らしげに答えた。

私は、この連載でいつも聞いてきた「女性が幸せになるためには?」という質問を、今回は聞かなかった。澄子さんの人生がその答えを体現しているように思えたからだ。もし聞いていたら、きっとこんな風に応えてくれたにちがいない。

「幸せになる方法? そんなの好きなことをすればいいじゃない。それくらい自分で考えなさい」

プロフィール
かいはたみち

「沖縄の編集工房アコウクロウの空」代表。編集者・ライター。東京での出版社勤務後、雑誌『沖縄スタイル』、地元紙『沖縄タイムス』を経て現職。著書に『ていねいに旅する沖縄の島時間』(アノニマスタジオ)など。

垂見おじぃ健吾 (たるみ・おじぃ・けんご)

沖縄在住、南方写真師。文芸春秋写真部を経てフリーランスになる。JTA機内誌『Coralway』の写真を担当。 共著本に『タルケンおじぃの沖縄島案内』文・おおいしれいこ(文芸春秋社刊)、『みんなの美ら海水族館』文・かいはたみち (マガジンハウス刊)、『沖縄の世界遺産』文・高良倉吉(JTBパブリッシング刊)など。

インタリュードミュージックラウンジ
住所 : 沖縄県那覇市安里48
営業時間 : 19:00~24:00
定休日 : 火曜日、その他不定休あり
※ライブは水、金、土 22:00~、チャージ2000円
電話番号 : 098-866-6773


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