藤田貴大×川上未映子の叫び「まだ全然言い足りてない」

2012年、三連作『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』で『岸田國士戯曲賞』を受賞した演劇作家・藤田貴大。彼が主宰を務める劇団・マームとジプシーは、音楽家の大谷能生や演出家の飴屋法水、漫画家の今日マチ子らと共作を発表し、2013年には『cocoon』を上演し多くの注目を集めた。昨年は海外公演も成功させた彼らが、初めての全国ツアーをスタートさせる。そこでタッグを組んだのは、詩人にして小説家の川上未映子だ。

二つの才能による共作が最初に実現したのは、2013年9月の『初秋のサプライズ──ユリイカ×川上未映子×マームとジプシー』。川上の過去作である『冬の扉』『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』、さらに公演のために、震災をテーマにした『まえのひ』が書き下ろされ、3篇がリーディング公演という形で上演された。川上が『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』(以下、『先端で~』)を書き上げたのは、彼女が29歳になる年齢だったが、その処女作を「精神的な遺書」と表現するほどの覚悟で書き上げたという。一方、今年29歳になる藤田貴大は「ツアーをすることでボロボロに傷つくかもしれない」と語りながら、マームとジプシーとしては初めての本格的な全国ツアーに出向く。そんな二人の作家の覚悟に共通するのは、ちっぽけな私たちが世界の大きさに抗おうとする、痛烈な「叫び」だった。

未映子さんの作品には、「女性だから女性を描いている」以外のことが書き込まれていて、ものすごく新しいものだと思った。(藤田)

―対談するのは今日が初めてということなので、まずはお二人の出会いからうかがえますか?

藤田:20歳ぐらいのときに、初めて未映子さんの『先端で~』を読んで、ものすごくハマったのを覚えてます。もう、読んだ途端に泣けてしまったんですよね。

川上:うふふ、泣けるなんて珍しいな。

藤田:その頃にはもう作劇を始めていたんですけど、当時は女性作家に対してちょっと抵抗感があったんです。というのも、僕は女性をモチーフにして舞台を作りたかったんだけど、当時は「女性を描くなら女性作家」という風潮があって、女性作家に対してナーバスになってたんですよね。でも、未映子さんの作品には、「女性だから女性を描いている」以外のことが書き込まれていたから、抵抗がなかったし、ものすごく新しいものだと思ったんです。

左から:川上未映子、藤田貴大
左から:川上未映子、藤田貴大

―未映子さんが最初にマームとジプシー(以下、マーム)の舞台をご覧になったのはいつ頃ですか?

川上:いっとき、小劇場で上演されているお芝居をよく観ていた時期があるんですけど、この数年は観る機会が減ってしまって。そんなときに『ユリイカ』編集長の山本充さんから「どんなに忙しかろうとも、これだけは観に行ったほうがいい」と電話がかかってきて。彼がそんなことを言うのは珍しいんですけど、それがマームとジプシーの『ハロースクール、バイバイ』(2010年)という作品だったんです。

―中学校の女子バレーボール部の最後の試合をモチーフにした舞台ですね。

川上:なんの前情報も持たずに観に行ったんですけど、非常に衝撃を受けて。すごく感動しましたね。公演後に受付にいらっしゃった制作の──今思うとそれは林さんなんですけど、彼女が主宰だと思って挨拶したら、隣にいた塗り絵から出てきたような男の子を紹介されて、「藤田です」って。「男性が作ってたんだ」と驚きました。てっきり女性が作ったものだと思い込んでいたんですけど、その驚きというのが、私がマームについて考えるときの大事な部分でもあって。それからは、公演があれば時間の許す限り観に行ってます。

『先端~』を書いたときの感覚が、マームがもたらしてくれる「エモーショナルな感動」と一緒になって再び現れて、その光景を見るのはとても不思議な感覚でした。(川上)

―お二人の共作が最初に上演されたのは、2013年9月に行われた『初秋のサプライズ──ユリイカ×川上未映子×マームとジプシー』でのことでした。未映子さんのテキストが舞台として上演されるのはそのときが初めてで、未映子さんの日記には、「どんな具合になるのか、まったくわからなかった」と書かれています。

川上:あるとき「詩を使いたいんです」という思いがけないご依頼をいただいたんですけど、最初の依頼は舞台化ではなく、リーディングということだったんですね。詩のリーディングというのはだいたい形が決まっているから、美術を凝ったり音楽を足したり演出をしたとしても、これまで観てきた形態以上のイメージが見えなくて。だいたい私のテキストってリーディングに堪えうるテキストでもないし、テキストが持っている音としても、まったく向いているとも思えませんでした。

―もともと未映子さんは、歌手として歌詞を書かれていましたが、詩のテキストは、まったく別の感覚で書いていると。

川上:小説や詩のテキストの音については、視覚を通して頭の中だけで鳴る音だけをイメージして書いているので、発語されたときの音のことはそもそも考えていないんです。そんなに重要視していない。だから、よく「声に出して読みたくなる」と言ってくださるんですけど、よくわからなかったんですね。とくに大阪弁で書かれたものなんて、ぜんぜん読みたくないというか(笑)。あれは徹底して「書き言葉」としての大阪弁を書いているので。

藤田:僕としては、『先端で~』を読んだとき、一撃で「このテキストはこう鳴らしたい」というのが浮かびました。だから、今回も特別な仕事をしたとは思ってないんです。これまで積み重ねてきたもの……例えば青柳いづみという女優や、音のことなど、いろいろな素材が僕の手もとに揃ってきたタイミングで、形になったというか。

川上:上演前に稽古を観に行った『ユリイカ』の山本さんから、「すごくよい作品になりそうだ」と聞いて、とてもうれしかったんだけれど、まったく想像できなかった。や、藤田くんだからいい舞台にはなるのだろうと信頼はしているんだけれど、なにしろ朗読とすごくかけ離れたテキストだと思っているから、どきどきして。

左から:川上未映子、藤田貴大

―実際はいかがでしたか?

川上:私は普段、小説を読んだり舞台を観たときに「これは自分のために書かれた作品だ」という感想を言ってしまうことに、ちょっと抵抗があるんですね。そう言いたくなる気持ちはわかるんだけれど、そういう諸手を挙げての共感はときに危険だし、ナルシスティックだし、それはどう考えても私のために書かれたものではないから。でも、『先端で~』は、人にむかってこんなふうに何か書くのは最初で最後になるかもしれないと思って書いたテキストであって、やっぱり想いが強いものなんです。だから一度だけお許しをいただきたいんですけど……『先端で~』のテキストを青柳さんが小さい椅子に立って絶叫している姿を観たときに、土砂降りみたいに涙が出てきて、「ああ、ここで今起きていることをすごくわかるのは私と山本さんだな、これは私と山本さんへの贈り物だな」って思ってしまったんですね。最初、山本さんがこの詩を読んで、彼が受け止めてくれたっていうのがあったので。すごく不思議な体験でした。

―未映子さんは、『先端で~』を書かれた当時29歳で、「精神的な遺書のつもりで書いた」とおっしゃっていましたよね。現在の藤田さんや青柳さんとほぼ同じ年齢です。

川上:そうですね。「もうこれで終わりだよな」って思っていて、でも同時にものすごく何かが渦巻いてもいて。当時のそういう感覚が、マームがもたらしてくれる「エモーショナルな感動」と一緒になって再び現れてそれを観る、というのはとても不思議な感覚でした。ヴォネガットじゃないけれど、「天にいる誰かさんからの贈り物」のような体験でしたね。

未映子さんの作品からは、「この人はこれでも言い足りてない」という感じがするし、僕らも全然言い足りてない。(藤田)

―二人の共作、『初秋のサプライズ──ユリイカ×川上未映子×マームとジプシー』が最初に上演されたのは、今日マチ子さん原作の『cocoon』を上演してからわずか半月後の公演でしたよね。そして『cocoon』に主演した青柳いづみさんによる一人芝居でした。

藤田:そうですね。あのときはすごく疲れてたし、青柳さんのことがすごく嫌いになってた時期だったんですよね……。

川上:(同席している青柳さんと藤田さんを見比べながら)そういうときって、女優と演出家ってどういう関係になってくるの?

藤田:なんだろう……。しゃべらなくなるんですよね。『cocoon』はこれまでで一番賛否両論あった作品で、ものすごく褒められもしたし、ものすごく叩かれもしたんです。そんな時期だったから、もっと過激なことをしなくちゃと思って、僕と青柳さんの中ですごくエスカレートしていった部分があったんです。高いところから飛び降りてもらったり、どんどん青柳さんの体を傷つける方向に向かっていて。

藤田貴大

川上:そういうの、どうやって伝えるの? 「ちょっとここで、ジャンプ的な……」と控えめに言うのか、荒々しく「もう、飛ぶっしょ」と決定事項のように言うのか。

藤田:荒々しく、「飛ぶっしょ」ですね。でも、なかなか言えないんですよ。稽古が進んで、青柳がテキストを反復してる真っ最中に「もう一段上に上がれよ!」みたいに怒鳴っちゃうんです。

川上:おお……。

―その当時、藤田さんと未映子さんの間ではどんなやりとりがあったんですか?

藤田:一度、未映子さんに電話を入れましたよね。「ハイパーな感じでやろうと思ってるんですけど」って。

川上:そう。ますます意味がわからなくなったよ!(笑)

藤田:今回の作品は、読書したときの感覚が、嘘偽りなく舞台に乗っているということが第一関門だったんです。僕は、未映子さんの作品を読むときに、テキストと一緒に音楽を目で追っているような感覚があるから、「この作品は、このトーンやこのバンドの曲が合う」ということが自然と浮かんでくるんですよね。

左から:藤田貴大、川上未映子

―それは、他の人が書いたテキストを読んでいるときにも浮かんでくるものですか?

藤田:いや、他の作家の作品を読んでいるときにはあまり感じないですね。未映子さんの作品は、後半になると感情が洪水状態になって押し寄せてくるんだけど、「この人はこれでも言い足りてない」という感じがする。そこはすごく共感するところで、僕らの舞台も、手持ちの条件の中ではやりきっているんだけど、それでも全然言い足りてないし、やっぱりすべてを語ることはできないという感覚がいつもあって。

―さきほど未映子さんが、観客として作品を受け取るときに、「これは自分のために書かれた作品だ」と思いたくないと話していましたけど、藤田さんは作り手として、観客に全てを伝えることはできないと思っている。その二人の考え方には通ずるものがありますよね。

藤田:マームの作品を上演しても、やっぱり僕にしかわからないことはたくさんあるし、お客さんに見せられるものというのは、実はたった一切れかもしれないじゃないですか? だから、その作品を観たところで作家の全貌はわからないんだけど、僕はその「わからない」ということを気持ちいいと感じられる人間になりたい。未映子さんの書かれているものと、僕がやりたい舞台の温度っていうのは、書かれている内容のすべてが一致するというより、その「言い足りなさの中で、もがいている」というところで一致するんじゃないかと思っているんですよね。

藤田くんは、人生が1回しかなくて、すべてが過ぎ去っていくことが許せないんですよ。私も許せない。(川上)

川上:彼の作品を観ていると、「過去・現在・未来」というものにものすごく拘泥しているんですよね。「時間が過ぎ去っていくことに対してまったく僕は了承しないし、当然だなんて思わない。徹底して抗います」という気持ちをすごく感じます。そこが私と彼に共通するところなのかなと思っているし、彼の作品を観たいのもそのせいだと思う。彼は、人生が1回しかなくて、すべてが過ぎ去っていくことが許せないんですよ。私も許せない。つまり、いつか全員が消えてしまって、この世のすべてが終わってしまうということが本当に理解できない。

藤田:まったく、そうですね。

川上:マームの舞台のいくつもある特徴のひとつには、「日常の反復性」と、私たちを捉えて、常に/いつか、引きずり込まれてしまう「一回性」のせめぎ合いがありますよね。留めようもなく過ぎ去ってしまう1分1秒をつかまえて、それを最大限に引き伸ばして、そこになにがあるのかを確かめようとしている。だから彼らの作品は「リフレイン」という手法を使って、何回も台詞や情景を繰り返して、その繰り返しの中で出てくる差異を記録して一回性というもの、瞬間性というものに、抗っているように見える。それをまた、文字というかたちではなくて、舞台という一回性を持つかたちでやろうとしているわけですよね。そこに私は感動するし、とても美しいことだと思うし、同時にものすごく悲しいことだとも思う。なぜならやはり、すべては過ぎ去って必ず終わってしまうだろうから。そうした抗いのぜんぶが、誰も免れ得ない「有限を生きる人間の儚さ」みたいな絶対的な矛盾そのものとして響くから、マームの作品を観ると、ゆさぶられるんだと思います。

藤田:確かに、「納得がいかない」という思いは常にあります。特に、時間や記憶というものに対しては本当に納得がいってなくて、その納得のいかなさが僕の劇で「反復」の演出をさせているんだと思うんですよね。

左から:川上未映子、藤田貴大

男の人が女の人を描くとき、だいたいよく似た気持ち悪さがあるけれど、藤田くんがそれを免れているのは「性のない者たちの蠢き」を描いているからだと思います。(川上)

川上:対談の冒頭で、藤田くんが「女性作家が女性を描くことに抵抗があったけど、私のテキストには抵抗がなかった」と言ったでしょう? その感触はけっこう腑に落ちるところがあって。藤田くんも女の子のことをたくさん描いていて、生理や喪失ということを扱っていたりするんだけれども、それはきっと、表現の志向として、「未性」、つまりまだ性のないものを希求する気持ちが強いからじゃないかと思うんだけれど。

藤田:そうかもしれない……。

川上:さしたるわけも了解もないまま、私たちは男性や女性として生きているんだけれども、記憶や時間や数ということ自体を考えるとき、性というのは関係がないものともいえるでしょう? 生物学的な性、そしてジェンダーといったいくつかの性を抱えた女の子のいくつかの層を藤田くんは描いているけど、じつは私たちが「未性」として存在していた可能性を探っているんじゃないかな。彼はやっぱり、男が男であること、女が女であることにも納得していないんですよ。彼は女の人をモチーフにしているけど、それは別に女の人のことを書いているわけじゃない感じがするんです。

藤田:僕が最初に未映子さんのテキストに感じたことと同じですね。

川上:彼が書いているのは、男であるとか女であるとか以前の「さけび」だと思うんです。否定でも肯定でもない、さけびみたいなもの。もちろん男や女が背負っているさけびというのもあるんだけど、それ以前のさけびというか……つまり存在してしまったことに対するさけびや、時間に対するさけびというものがあるわけですよね。彼は女の子を舞台の上でいっぱい動かすことによって、「性的存在」から性をはがした「存在者」としての可能性を常に提示してる気がする。男の人が女の人を描くとだいたいよく似た気持ち悪さというのがあるんだけれど、藤田くんがそれを免れているのは、「未性」を志向していることが大きいんじゃないかな。もちろん、観る人によっては「藤田くんの作品だってマチズモじゃん」とか「性の漂白自体がファンタジーじゃん」って言うかもしれない。でも、「時間や存在そのもの」を希求する姿勢っていうのは、少なくとも性に割り振られたイメージをそのまま引き受けて、感情や欲望や関係をそのまま都合よく展開する男性にありがちなファンタジーではない。藤田くんはまったくそうではないと思う。藤田くんが探っているのは、性のない者たちの蠢きなんですよね。

藤田:そう言い当てられたことは初めてだから、そのことは持ち帰って考えたいんですけど……まったくその通りだと思いますね。

『まえのひ』のテキストを未映子さんからもらって、これは東京だけでやってちゃダメだなと思いました。東京の人が「まえのひ」と聞いて想像しうることと、いわきの人が「まえのひ」聞いて想像しうることは違うだろうし。(藤田)

―いよいよ全国ツアーが始まるわけですが、前回は『初秋のサプライズ』というタイトルでの公演だったのに対して、今回のツアーには『まえのひ』という作品のタイトルを冠したものになっています。この『まえのひ』についても詳しくうかがいたいと思うのですが、あの作品はどういう経緯で書かれたものなんですか?

川上:去年の春、マームの『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて』という作品を観に行った後、焼き肉を食べながら打ち合わせしたんですよね。

藤田:そうそう。そのとき、未映子さんが「3月10日」ってことをめちゃくちゃ言ってたんですよ。最初は、僕の劇の感想かな? と思ったんだけど、どうやらそうではなくて、完璧に自分の創作に入っている感じで。何度も言ってましたよね(笑)。

川上:その焼き肉屋に行くまでの道で、お芝居の感想は山本さんに散々話しちゃってたから、お店に入ったときには、『まえのひ』の構想の話になってたんですよね。さっきも話したように、私にとってのマームのポイントは「反復性と一回性」であって、今そのことを考えるとき、震災は避けてとおることはできないという感じがありました。

―そこからどうやって発展させていったのですか?

川上:震災が起きてから2年間、災害に限らず、すべての日が「前の日」であることにあらためて気づきました。頭ではわかっていたことなのに、わかっていなかった。震災が起きて実感のレベルで理解できたというか。前の日だ、前の日だ、と考えていると、そういえば大島弓子の『バナナブレッドのプディング』の最初のページで、主人公の衣良が言ってたことを思いだして。「きょうはあしたの前日だから……(中略)だからこわくてしかたないんですわ」と。その言葉の意味が私なりによくわかったんです。震災後を生きながら、つぎにまたやってくる震災前を生きている事実。「3月10日について書きたいんだよね」とずっと言っていて。だから、第1稿はもっと生々しいものを書いていて、「震災」という言葉も使っていたんです。

藤田:そうですね。第1稿では、震災のことや地面が揺れるということが直接的に書かれていて、すごく驚いたんです。というのは、僕の舞台であれば、「震災」という言葉を直接的に言っちゃったりするんだけど、未映子さんのテキストというのは、そのものズバリは言わずに、その周りのことをぐるぐるぐる語っていって、後になって「ああ、これは地震のことだったのか」とわかるものだと思っていたんですよね。だけど、ここまで直接的な言葉が使われているからには、たぶんなにか覚悟があるはずだと思って。

川上:そう、それをやってもいいんじゃないかと思っていたんだけれども……やっぱりテキストの構造上、無理があって。まずリアリズムに寄せたほうがいいのか、寓話性を高めたほうがいいのかは本当に悩みどころでした。第1稿を上げた後で「なにかがすごく違う」と思って、藤田くんに「ちょっと待っててくれ」と連絡をして、その日のうちに書き直して第2稿を送りました。

藤田:ほんとに、夕方には書き上がってきて。第2稿はすごくミニマムになっていて、繰り返しのリズムもすごくよかったし、音にしやすいなと思いましたね。

川上:舞台のために書き下ろすというのは『まえのひ』が初めての経験だったので、すごく難しくて。たとえば、テキストを丹念に読んでいけば、どれがなんの暗喩で、なにとなにが繋がっているのかわかるようになっていても、お芝居だと、そこには青柳さんの身体もあるし、観客が受け取る情報量が多いから、テキストの細かいところがよくも悪くも見えなくなると思うんですね。

左から:藤田貴大、川上未映子

―最終的には、直接的震災を語る言葉は出てきませんよね。

川上:『まえのひ』というテキストのあらすじを説明すると、主人公はもうすぐ死んでしまうであろう──つまり「まえのひ」を生きているおばあちゃんと二人でいて、そんなおばあちゃんの肌をずっと見つめていると視点がミクロになっていって、そこが土地のようになってくるんですね。その土地に彼女が降り立ってみると、瓦礫だらけで、あちこちに掘り起こした跡があって、誰かが誰かを呼び続けている携帯電話が鳴っていて、さっきまで誰かがいたような気配がある。ここでまたおばあちゃんと一緒の空間にすうっと戻っていくんですけど、おばあちゃんの身体と被災地、その両方にあまねく存在している「まえのひ性」といったものや、その「まえのひ性」から逃れるために主人公がとる行動とか。そういうことが、どれだけ伝わるんだろう? っていうのは今でも思うんだけれども、どれくらい伝わってるんだろう?

藤田:どうだろう、伝わってないのかもしれない。

川上:わからないんだよね。ただ、「今日はまえのひ、なのかもしれない」という強い意味が真ん中にあるので、「自分たちが明日、こんなふうにいなくなってしまうことを知らなかったように」ということだけでも、観た人の中に言葉として残れば、『まえのひ』は成立するんじゃないかって気持ちもあります。

藤田:そうですね。演劇というのは、公演期間中はその場所から動けないわけですよ。その場所でやるということを踏まえて僕はテキストを書いているんだけど、未映子さんはもっといろいろな土地のいろいろな人の部屋に潜り込むことができる媒体でやっていると思っていて。そういう意味では、僕よりもすごく大きなところで「場所」というものを捉えている気がするんですよね。そうしたときに、抽象度の高くなった第2稿をもらった時点で、これは東京だけでやってちゃダメだなと思いました。

―と言うと?

藤田:東京の人が「まえのひ」と聞いて想像しうることと、いわきの人が「まえのひ」と聞いて想像しうることは違うだろうし、沖縄ではまた全然違った響きをするのかもしれない。だから僕は、『まえのひ』ということを各地でやるべきだと思っているんです。こんなに早くツアーに出ることができるとは思ってなかったですけどね。

―今、まさに『まえのひ』の全国ツアーが始まりつつあるところですが、今回の共作というのは、お二人の中でどんな経験になっていますか?

川上:今回の舞台は藤田くんがやってきたことの延長線上にあって、私はテキストを預けて、あとは客席から観るという贅沢な経験をするわけですけど、私が朗読やリーディングというものに対して自然と設けていた限界を取り払ってもらえた気持ちがあります。1人の人間がテキストを読むことで、これだけのことができるんだと思えたし、さっき藤田くんが言っていた「場所」ということに対して、私としても蒙を啓かれた気持ちになりました。それは大きな事件で、こうして違うパースペクティブと混じることによっていろんなものが見えるんだなということを改めて思いましたね。ずっと同じことをやっていると、角度をつけるというよりも、ひとつのことに強度をつけていく方向に向かっていってしまうでしょう?

藤田:そうですね。僕としても、未映子さんとの共作というのは初めてのことばかりなんですよ。マームの作品では、僕が文字を書いて演出をするということでやってきたんですけど、僕がまったく文字を書かずに演出ということだけをやるというのは今回が初めてだし、それをやるのは未映子さんのテキストじゃなきゃ嫌だったんですよね。僕が書くテキストでは、自分の故郷のことや、あるいは行ったことのある街のことを扱うんだけど、そうすると自分の中で完結してしまうところがあって。でも、未映子さんの作品を読んでいると、僕が全然知らない街のことやシチュエーションのことも出てくるわけですよね。それを舞台にするときに、いろんなことを試してみたくもなるし、いい意味でいたずらになれるんです。全国をまわりながら、どんなふうに『まえのひ』が変化していくのか楽しみですね。

イベント情報
川上未映子×マームとジプシー
『まえのひ』全国ツアー

テキスト:川上未映子『まえのひ』『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』『冬の扉』『戦争花嫁』『治療、家の名はコスモス』『少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ』
※各地の会場に合わせながら、セットリストを変更予定。

演出:藤田貴大
出演:青柳いづみ
音:zAk

長野公演
2014年4月15日(火)19:00~
会場:長野県 松本 まつもと市民芸術館小ホール
料金:前売・当日2,500円

京都公演
2014年4月18日(金)~4月20日(日)全5公演
会場:京都府 元立誠小学校 音楽室
料金:前売・当日3,000円

大阪公演
2014年4月22日(火)~4月23日(水)全2公演
会場:大阪府 難波 味園ユニバース
料金:前売・当日3,000円(ドリンク別)

熊本公演
2014年4月25日(金)~4月26日(土)全3公演
会場:熊本県 早川倉庫
料金:前売・当日2,500円

沖縄公演
2014年4月29日(火・祝)全2公演
会場:沖縄県 那覇 桜坂劇場
料金:前売・当日2,500円(ドリンク別)

東京公演
2014年5月2日(金)~5月4日(日)全5公演
会場:東京都 新宿 風林会館5Fニュージャパン
料金:前売3,000円 当日3,500円

プロフィール
藤田貴大(ふじた たかひろ)

{北海道出身。劇作家・演出家。マームとジプシー主宰。2011年6月~8月にかけて発表した三連作「かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。」で『第56回岸田國士戯曲賞』を26歳で受賞。今までに様々なジャンルの作家と共作を発表。2013年「てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。」で初の海外公演を成功させる。2013年8月漫画家・今日マチ子原作「cocoon」を舞台化。<

川上未映子(かわかみ みえこ)

大阪府生まれ。2007年、『わたくし率 イン 歯—、または世界』で第一回坪内逍遥賞新人賞を受賞。2008年『乳と卵』で芥川賞、2009年詩集『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』で中原中也賞を受賞。ほかに小説『ヘヴン』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、紫式部文学賞、詩集『水瓶』で第43回高見順賞を受賞。『愛の夢とか』で谷崎潤一郎賞を受賞。

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