なぜ自死した?美人作家ネリー・アルカンの苦悩に湯山玲子が迫る

マドンナ、レディー・ガガ、ビョーク。世界に対して強烈なアゲインストを持つ「女」たちは、常に時代の最前線で戦い、多くの賞賛と批判を一身に受け続けてきた。その強く輝かしいリストに新たに名前を連ねる人がいる。カナダ出身の小説家、ネリー・アルカンだ。

ごく普通の家庭に育ち、大学に通いながら高級娼婦として働いた彼女は、自身の半生を圧倒的に凶暴な筆力で表現し、またたく間にベストセラー作家として活躍するようになった。だが、彼女は4作目の出版を前にして自死を選ぶ。

わずか36年のネリー・アルカンの人生には多くの謎がある。その深層に迫ろうというのが、「ディスカバー・ネリー・アルカン」プロジェクトだ。処女作『ピュタン』の再出版、彼女の人生に迫った映画『ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で』公開に続き、11月4日から松雪泰子らが出演する舞台『この熱き私の激情~それは誰も触れることができないほど激しく燃える。あるいは、失われた七つの歌』も上演される。

そんなジャンルの異なる3つの作品について、今回話を聞いたのは、著述家・ディレクターとして活躍する湯山玲子。男、仕事、趣味、セックスなど、さまざまな角度から現代女性の生きる道を指し示すエバンジェリストは、ネリー・アルカンになにを見出すか?

「こじらせ女子」って、自分の頭のなかの男性性と、身体の女性性が一致しないから、いろんな面でこじらせちゃう。

―ネリー・アルカンという人物の印象はいかがでしたか?

湯山:彼女はカナダ・ケベック生まれの中産階級出身でしょう? 両親の不仲が原因になって大学生で娼婦をはじめたということだけれど、お父さんとお母さんがうまくいってないなんて、日本ですらごく当たり前のことだし、けっこう普通の子なんですよ。日本でいうと、大学生でAV女優デビューなんて、いまやザラだし。でも、それこそがネリー・アルカンを解くキーになる。

小説を読んでも「こんな変わった人生を経験したのか!」というルポルタージュ的な驚きはない。ひたすら自分の内面の吐露に終始している。まあ、私小説というものは、そういうものなんですが、彼女の鈍痛のような筆の展開は、妙に強度と重力があるんですよ。

湯山玲子
湯山玲子

―小説は極端に言うと、女や両親への恨み節日記みたいなものですけど、本当に読ませますよね。タイトルの『ピュタン(Putin)』には「くそったれ!」という意味があるそうですが、世界への恨みや嘆きに満ちている。

湯山:ネリー・アルカンにとって父親の存在がとてつもなく大きかったというのがよくわかる。娘と母の関係は文学でもマンガでもよく題材になるけれど、父との関係は珍しいですね。ひたすら娘のことを心配する過保護な父が結果として抑圧的な存在として何度も立ち上がってくる。心配といったけれども、そのなかに性的なニュアンスをネリー・アルカンの方は勝手に取り込んでしまっているようなフシもあって、それって父と娘の永遠の問題だったりもするんですよ。

小説『ピュタン-偽りのセックスにまみれながら真の愛を求め続けた彼女の告白-』
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―すごく敬虔なキリスト教徒だったそうですが、一人暮らしをはじめたアルカンの部屋のあちらこちらに十字架を飾るようなお父さんだったようですね。それはそれで怖いものがありますが。

湯山:小説から連想したのはトルストイの『クロイツェル・ソナタ』。汽車の旅で偶然出会った乗客が、正しい夫婦関係について語りあう一種の対話篇なんだけど、性にまつわる男の葛藤満載。「もうセックスなんて無くしてしまえ」などという過剰な主張が印象的な中編小説なんです。

「そもそもなんで性愛や性欲が存在するのか?」っていう疑問から「完全に男女差をなくしてしまえ!」というような過激なフェミニズムにも行き着くような発想を孕んでいて、ネリー・アルカンの小説もそれに近いところまでいってる印象がある。彼女は自分のなかの性を持て余した結果、こじらせまくってるわけじゃない?

ネリー・アルカン ©Ulf Andersen / Getty Images
ネリー・アルカン ©Ulf Andersen / Getty Images

―ネリー・アルカン=こじらせ女子だと。

湯山:極論すればね。「こじらせ女子」って、自分の女である肉体を自分の人生の「乗り物」として乗りこなせない人たちなんですよ。例えば趣味が格闘技観戦だったり、仕事中は完全に男の論理で思考し決断している、という「男女平等」な日常があるわけだけど、一方でその枠からはみ出してしまう自らの女性の肉体に辟易して、こじらせに至る。

ネリー・アルカンの場合は、それが外見の美醜への強迫として現れていて、とにかく若さを失うことへの恐怖に取り憑かれている。実はここにシビアな現実が透けて見えて、「男は若くて綺麗な女には、絶対に勃つが、歳を取った女にはそれは無理」ということですよね。

現実はそうでも無いこともあるんですが、この現実はあまりにも強固。女の内面の充実や尊敬で「男は勃たない」という事実は女性すべてを恐怖に陥れる、と。

ネリー・アルカンは、女なら誰にでもある実存的な恐怖の深淵をえぐるように描ける、稀有な才能の持ち主。

―映画には、まさにそういった要素がありますね。ネリー・アルカンは「運命の男」に出会って多幸感を得るけれど、他の若い女の存在を極端に忌避する。

湯山:女にとって「老いる恐怖」っていうのは切実なんです。美魔女みたいに若作りをしたり、整形手術するって選択肢もあるけれど、男はその痕跡を目ざとく発見するじゃない? そして人工的な美を死ぬほど嫌う。そういう実存的な恐怖は女なら誰にでもあるもので、ネリー・アルカンはその深淵をえぐるように描いた。表現の才能というよりも鈍痛のような展開でね。

湯山玲子

―では、湯山さんもネリー・アルカンには共感できるところがあったのでしょうか?

湯山:私はリア充だからさ(笑)。交友関係とか化粧やファッションとかを駆使してなんとかその地獄を切り抜けてきたんだけれど、彼女はそうした社会的なスキルとセンスが子供のときから決定的に欠けているんだよね。コミュニケーションがちょっとトンチンカンで上手く社会に所属できない。だからこそ、これだけの熱量の小説を書けたわけだけれども。

映画のなかで、2作目の小説のカバーから販促用の帯を外そうとするシーンがあるよね。帯には女性の半裸の写真がデザインされている。自分が本当に伝えたいことを書いたのに、大衆が望み、評価するのは、けっきょく私の顔とか身体なのか……っていう二重三重の失望が感じられるシーン。

映画『ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で』場面写真 ©FILM NELLY INC. 2016
映画『ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で』場面写真 ©FILM NELLY INC. 2016

湯山:あの気持ちはとてもわかる。岡崎京子も『ヘルタースケルター』で<何故神は まず若さと美しさを最初に与え そしてそれを奪うのでしょう?>って書いてるよね。まあ、その問題は人間が生きている限り、ずっと続いていく。

若い女の美って圧倒的なんですよ。その万能感を知ってしまった女は、その後に必ず地獄が来る。

―小説、映画を通してみて、湯山さんはネリー・アルカンをどのように分析しますか?

湯山:「まれびと(稀人)」ですね。生まれも育ちも特殊ではないけれど、最初から他人との共感が持てない人、美人なのにコミュ障。徹底的に社会と繋がるセンスが悪い。だから書くしかなかったんだと思う。

映画の冒頭で、少女時代のネリー・アルカンがなにかの発表会で歌うシーンがあったけれど、懸命に歌えば歌うほどみんなが凍りついていく。それで母親からジェスチャーで「ちょっと抑えなさい」って指示されて渋々従うんだけれど、やっぱりどうしても外に自分を打ち出すときに、ヘンになっちゃう人なんですよ。

白い羊の群れのなかの「ブラックシープ(黒い羊)」。小説ほどの攻撃性は映画には見られないけれど、あのシーンは素晴らしいよね。外見は綺麗なのに、ああいう変なメロディーでしか歌えない女がネリー・アルカンなんですよ。

―アーティストやクリエイターに多いタイプという気がします。どこか挙動不審さがあるというか。

湯山:だから、彼らは社会と繋がる芸を磨いて、代替えしているんです。さっきの若い女黄金期の話に付け加えると、成長して綺麗になった途端、みんながワッと寄ってくるけれど、これまでの落差から生じた「いったい私はなんなの?」という疑問を払拭しきれずに、結果、挙動不審になってしまう。一方で、自分が唯一評価されたもの=美に対する執着も激しくなっていく。これ、芸能界の女性にいっぱいいそうですよね。

映画『ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で』場面写真 ©FILM NELLY INC. 2016
映画『ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で』場面写真 ©FILM NELLY INC. 2016

―他者との共感が「美」によって結ばれたが故に、そこに過度に依存してしまう?

湯山:若い女の美って圧倒的なんですよ。金も男も権力もすべてを手中にできるから、女としては本当に最高なんだよね! 古今東西、その万能感を知ってしまった女は、その後に必ず地獄が来る。そういう意味では、逆にブスの方がいいんだよ。ブスはそういう一時の夢を見ないだけに、戦略的になる。

湯山玲子

自我って、他人との関係で作っていくものだけど、いまの若い子たちは、そのチャンスが奪われている。

―そういう目線で映画『ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で』を見ると、たしかに小説の凶暴さが削ぎ落とされた反面、いまの女性のリアルと結びついた内容になっていると思います。

TwitterやInstagramが普及して自分を発信する手段を得たがために、自己顕示欲と承認欲求にかつてないほど苛まれるようになった。一方で、それに好奇の目線を向ける他者も可視化されるようになって、需要と供給のサイクルがますます加速して、混沌としていく。

湯山:完全なる「見た目社会」になったいま、自己プロデュースがうまくないブスは生きていけないってことですよ。そこから逃れるために、もはや自分を透明化して、アイドルとか2.5次元とか、2次元的なファンタジーのファンとして生きていくという手段を選ぶ人もいる。

いずれにしても、本当の自分以外に別の自分を何人も設定して使い分けないと生きていけない。もう、一億総タレント化時代ですね。

映画『ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で』場面写真 ©FILM NELLY INC. 2016
映画『ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で』場面写真 ©FILM NELLY INC. 2016

―そういった困難な時代のなかで、若い人たちはどう生きるべきでしょうか? 逃れ方を発明するのか、あるいはガチで戦うのか。

湯山:難しいよね。いちばん避けたいのは、人に合わせるために設定したタレント的人格こそ本当の自分なのだと錯覚すること。あくまでもタレント的人格を演じていて、心のなかでは「ケッ!」と舌を出してるようなしたたかさがあればいいのだけど、そこまでの強さがある若者がいるかどうか。その、「ケッ!」を発する内面を豊かに形成するためには、本音でぶつかり合う人間関係の格闘と経験が必須なんだけれど、それをできる人も限られてきていますしね。

湯山玲子

―本音でぶつかり合う人間関係というのは、友人と家族のどちらのイメージですか?

湯山:家族の比重が大きいと思う。世間はソト、家族はウチ。なので、ウチでは基本みんな感情を出し、それに反応し、許し合う関係があるべきなのに、家族関係も温度が低く干渉し合わないソト、みたいになってしまっている。実家は父親(作曲家の湯山昭)がものすごく感情の激しい人だったんですよ。とにかく音楽がすべてで、完全なる個人主義者で支配的。なのでこっちも負けないぐらいの感情のパワーをぶつけなきゃいけなかったんですよ。

―毎日が格闘だったんですね。

湯山:面倒くさい家庭でしたね。そこで、友だちの家に遊びに行ったりすると、うちのような家族関係が普通ではないってことが身にしみてわかったから、内と外の境界、その輪郭をはっきり感じることができた。

いまの若い子たちって、軸足を持って外部を意識してやりとりするっていう感覚が希薄だよね。先ほどからいっている「ケッ!」と発することができる自分の根拠がない。だからSNSで感じる同調圧力や肯定感に簡単にやられちゃう。自我って、他人との関係で作っていくものだけど、そのチャンスが奪われているのが現代だと思います。

女にとって、セックスを通して満たされる圧倒的な自己肯定感と依存性は、もはやドラッグに近い。

―ネリー・アルカンの家庭や友人関係はどうだったかというと、父親は出張がちで家に寄り付かず、母親は結婚と出産をきっかけに社会と切断したという家庭環境で育っています。だからアルカンは、恋人や友人ともなかなか打ち解けることができず、外との関係性を作れずに断ち切ってしまう人だったようです。

湯山:いや、そんな家庭は日本でもザラですよ。しかし、ネリーは美とセックスに執着してしまう。女性にとっていろんな意味で取扱注意なのはセックス。若い女はそれだけで男性を欲情させることができる。

頭がよくなくても、仕事ができなくても、性格に問題があっても、男が欲情のスイッチを簡単に入れてくれて、自分に向かってエネルギーのすべてを放出してくれる。セックスを通して満たされる圧倒的な自己肯定感と依存性は、もはやドラッグに近いところがある。ネリー・アルカンが娼婦になったのも、そういうこと。

湯山玲子

映画『ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で』場面写真
映画『ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で』場面写真

―そういうことですよね……。

湯山:でも、男は女の身体が劣化すると勃たなくなる。本当に残酷な話だよね。でも娼婦であれば、常にはじめての男と最初のセックスが楽しめる。しかも、お金までもらえるんだから。

―桐野夏生の『グロテスク』が題材にしてますけど、日本だと1997年に起きた東電OL殺人事件を思い出します。真相はわかっていませんが、東京電力に初の女性総合職として入社した女性が、渋谷円山町付近で売春婦をしていて、他殺死体で発見された事件。

湯山:たしかにネリー・アルカンの人生は東電OLに似ている。彼女も、社会や男性原理が支配する一流企業のなかで、「変な歌」を歌ってしまうブラックシープだったんだと思う。うまく踊れないし歌えない綺麗な女はどうやって生きたらいいでしょう? それは、女にとって永遠のテーマなのかもしれない。

重要なのは、女の物語なのに、日本と違って出産の要素がまったく出てこないこと。

―「ディスカバー・ネリー・アルカン」プロジェクトのラストを飾るのが、天王洲銀河劇場で上演される舞台作品『この熱き私の激情~それは誰も触れることができないほど激しく燃える。あるいは、失われた七つの歌』です。ネリー・アルカンの遺した複数の著作からテキストを引用して、7人の女優それぞれがネリー・アルカンの精神を演じるというものです。

湯山:カナダ・モントリオール公演(2013年)の映像を見せてもらいましたけど、超かっこよかった。10の小部屋が彼女の精神的風景を反映させてるって趣向ですよね。松雪泰子、小島聖って配役も絶妙だと思います。

舞台『この熱き私の激情』でネリー・アルカンを演じる6名の女優たち。左上から初音映莉子、松雪泰子、小島聖、宮本裕子、芦那すみれ、霧矢大夢
舞台『この熱き私の激情』でネリー・アルカンを演じる6名の女優たち。左上から初音映莉子、松雪泰子、小島聖、宮本裕子、芦那すみれ、霧矢大夢

舞台『この熱き私の激情』舞台イメージ。10の小部屋がステージ上に並ぶ
舞台『この熱き私の激情』舞台イメージ。10の小部屋がステージ上に並ぶ

―演出のマリー・ブラッサールは、昨年中谷美紀さん主演で再演した『猟銃』のカナダ版で主役だった演出家・女優です。2013年のモントリオール初演では、7人のキャストとネリー・アルカンについてのディスカッションを重ねて、それぞれの女性に合った配役、舞台を作り上げたと聞いています。

湯山:ここで重要なのは、女の物語なのに出産にまつわることが出てこないことだよね。日本でこういった系統の作品をやると、必ず「産む性としての女」の葛藤が出てくる。

結婚できない女、モテない女、それら全部が出産と、出産に紐づいた家族制度の維持のリフレクションとして言及されてばかりいる。現実的には「自分が子供を産むなんて信じられない!」ってセンスも色濃く存在しているのにね。

湯山玲子

―湯山さんは子供が欲しいと思ったことはないですか?

湯山:あんまり無いんですよ。正直言って。1990年台後半にはじまった海外ドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』でも、一番人気のサマンサ・ジョーンズが、完全な「Birth Control(妊娠調節)」系の女でしたよね。

そのあとにはじまった『Lの世界』はレズビアンの物語で、カッブルの子供作りに誰の精子をもらうか、などという話が具体的に展開していた。もはや試験管ベイビーや代理出産が普通になって、むしろ「どんな優秀な男の精子を使おうか?」って値踏みする時代に入っているということですよ。子供作りと育成、それらと伝統的な家族の枠組みがもはや一致しなくていい選択が出て来ている。

正直、日本はいま、めちゃくちゃ遅れている。養子縁組の制度とか、シングルマザーに対する支援をもうちょっと優遇してくれれば、少子化問題なんて一気に解決しますよ! 多産系の女だったら、5人は子供を産める。それで国も豊かになるんだったら、いいじゃない?

舞台『この熱き私の激情』でネリー・アルカンを演じる松雪泰子
舞台『この熱き私の激情』でネリー・アルカンを演じる松雪泰子

多面性、分裂性によって女たちは共感できる。男たちは、そういった側面が女のなかにあることを知るべき。

―既存の家族のあり方が崩壊することに恐れを抱き抵抗しているのが、いまの日本やアメリカ政府ですよね。

湯山:家族の形態を緩やかにして、「多様性を認める」と、そのぐらい振り切った政策を出してくれたらいいのにな、と思いますよ。子供が欲しいという女性はいっぱいいる。もし、結婚制度なしで産んでもいいという空気が世間にできて、かつ、シングルマザーの補助が潤沢だったら、子作りに踏み切った女性はいっぱいいたでしょうね。それを最後の人口が多い世代である団塊ジュニアが20代の時にやっていたら、確実に少子化の歯止めになっていたはず。

―最後に『ディスカバー・ネリー・アルカン』の3つの作品、またはネリー・アルカンという人物から学べることはどんなことでしょうか?

湯山:演劇では7つの人格に分割して表現されているけれど、ネリー・アルカンはそれらを器用に使い分けて、自分を築き上げる能力というものには恵まれなかった。「若くて、そこそこの美人、セックス好き」、そこからもたらされる充実感は罠である、というところですかね。

湯山玲子

―だとすると、ある種の反面教師的として見るべきですか?

湯山:それは違う。演劇も映画も、彼女が遺したいくつかの小説をコラージュしたものだけれど、それをひとつの全体として理解するから無理が生じるんですよ。

むしろその多面性、分裂性によって女たちは共感できるんだから。そして男たちは、そういった側面が女のなかにあることを知るべきだと思う。「ディスカバー・ネリー・アルカン」の3作品は、女にだけ向けられた言葉じゃないってことですね。

イベント情報
PARCO Production
『この熱き私の激情~それは誰も触れることができないほど激しく燃える。あるいは、失われた七つの歌』

原作:ネリー・アルカン
翻案・演出:マリー・ブラッサール
音楽:アレクサンダー・マクスウィーン
振付:アンヌ・テリオール、奥野美和
出演:
松雪泰子
小島聖
初音映莉子
宮本裕子
芦那すみれ
奥野美和
霧矢大夢

東京公演
2017年11月4日(土)~11月19日(日)
会場:東京都 天王洲 銀河劇場

広島公演
2017年11月23日(木・祝)
会場:広島県 JMSアステールプラザ 大ホール

福岡公演
2017年11月25日、11月26日(日)
会場:福岡県 北九州芸術劇場 中劇場

京都公演
2017年12月5日(火)、12月6日(水)
会場:京都府 ロームシアター京都 サウスホール

愛知公演
2017年12月9日(土)、12月10日(日)
会場:愛知県 豊橋 穂の国とよはし芸術劇場PLAT 主ホール

書籍情報
『ピュタン-偽りのセックスにまみれながら真の愛を求め続けた彼女の告白-』

2017年9月30日(土)発売
著者:ネリー・アルカン
翻訳:松本百合子
価格:756円(税込)
発行:パルコ

イベント情報
『ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で』

YEBISU GARDEN CINEMAで公開中。10月28日よりシネ・リーブル梅田ほかにて全国順次公開
監督・脚本:アンヌ・エモン
出演:
ミレーヌ・マッケイ
ミカエル・グアン
ミリア・コル
ベイユ=ゴーブロー
上映時間:99分
配給:パルコ

プロフィール
ネリー・アルカン
ネリー・アルカン

1973年生まれの女性作家。本名イザベル・フォルティエは2001年、小説『ピュタン(原題:Putain)』で作家デビュー。フランスのSeuil出版社(Editions du Seuil という歴史のある有名な出版社)に原稿を送ったところ、2週間で出版が決まり、処女作『Putain』が出版され、一躍有名作家の仲間入りを果たした。その後、2004年に『Folle(「狂った女性」という意味)』と2007年に『A ciel ouvert(「野外」という意味)』の2冊を出版している。2009年9月24日に自宅アパートにて自殺。その数日後に『Paradis, clef en main(「天国、鍵を掴んで」の意味)』が店頭に並び、2年後に『Burqa de chair(「肉のブルカ」という意味)』が出版され、そのなかに未発表の作品『La robe(「ドレス」という意味)』と『La honte(「恥)という意味)』が世に出る。

湯山玲子 (ゆやま れいこ)

1960年生まれ、東京都出身。著述家。文化全般を独特の筆致で横断するテキストにファンが多く、全世代の女性誌やネットマガジンにコラムを連載、寄稿している。著作は『四十路越え!』『ビッチの触り方』『快楽上等 3.11以降を生きる』(上野千鶴子との対談本)『文化系女子の生き方 ポスト恋愛時宣言』『男をこじらせる前に 男がリアルにツラい時代の処方箋』等々。クラシック音楽を爆音で聴くイベント『爆クラ』と美人寿司主宰。

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