元世界チャンピオン鬼塚勝也が語る半生。最大の転機に下した決断

世界の頂点を掴んだ伝説的なボクサーの、意外な方向転換

自分がいま、100%の力で打ちこんでいるものがあるとする。音楽でもいいし、スポーツでもいい。自分にはこれしかないと、命を賭して、すべてを注ぎ込むようなもの。

それが、ある日を境に180度異なるものに方向を変え、それに全力を傾けていく――そんな人生を想像してみてほしい。しかも、その「2度の生」が、共に輝いているような人生を。

100%の力で人生を突き進んでいればいるほど、ほかの生き方は想像しにくいはずだ。でも、実際ここに、そんな人生をひた走っている人物がいる。世界の頂点を掴んだ伝説的なボクサーにして、その後、絵画の世界に飛び込んだ。その男の名は、鬼塚勝也。

ボクサー時代の鬼塚勝也
自作の絵画とともに写る鬼塚勝也

WEB番組『のんある屋台』は、サントリースピリッツから発売されているノンアルチューハイ「のんある気分」を片手に、屋台を舞台にして、ゲストが自らの人生を熱く語る番組だ。

このたび番組に招かれた鬼塚は、かつて世界チャンピオンとして君臨したボクサー時代から、一転して絵の世界に没頭するようになった現在までを、ジョッキを傾けながら「のんでる気分」で情熱的に語っている。

WEB番組『のんある屋台』でのひとコマ

にぎやかな声が漏れ聞こえてくるその屋台の暖簾(のれん)をくぐり、私たちも鬼塚の隣席に座って、耳を傾けてみよう。彼の「戦い続ける」人生から感じることは、きっと多いはずだ。

虚弱体質だった鬼塚。衝撃的だったボクシングとの出会い

「小さい時から喘息を持っていたりとか、コンプレックスがすごいあった。変わりたくて、強くなりたくて」――福岡に住んでいた中学2年時、初めてボクシングジムを訪れた日のことを、屋台に座る鬼塚は語りはじめる。緊張でドキドキして、ジムの扉の前で20~30分もウロウロしていた、初々しいあの頃。

鬼塚勝也(おにづか かつや)
1970年、福岡県北九州市に生まれ。WBA世界スーパーフライ級王者となり5度の防衛に成功。「SPANKY(スパンキー)K」という愛称でファンから慕われつつも、1994年、網膜剥離により引退

ジムの会長に「お前、ボクシングやりたいんか?」と聞かれ、「はい、やりたいです」と鬼塚は即答。「サンドバッグでも打ってみるか?」といわれ、グローブを渡される。

「そのサンドバッグ打ちというのは、ボクサーになるための試験」のようなものだと感じ、「もう人生が決まってしまうような気持ち」だった鬼塚少年は、3分間、ふらふらになりながら、ひたすらにサンドバッグを打ち続ける。

ボクサー時代の鬼塚勝也
ボクサー時代の鬼塚勝也

バンテージも巻かず、グローブの中の手は皮が剥けて血だらけ。しかしその「頭が真っ白になる」3分間で、鬼塚の人生は決まった。

その後、鬼塚はWBA世界スーパーフライ級チャンピオンとして、1990年代前半に一世を風靡。わずか6年の現役生活、24歳で引退した彼は、「SPANKY K」という愛称と共に、いまもなおボクシング界の伝説的な人物として知られている。

ボクサー時代の鬼塚勝也

稀代のボクサーを魅了した、絵を描くという行為

圧倒的な強さの一方で、いま屋台に座る彼がそうであるように、彼はとことんファッショナブルなボクサーとして知られていた。自らデザインしたスタイリッシュなシューズやガウンに、端正な顔立ち。ファンは新時代のボクサーとして、鬼塚に熱狂した。

シューズやガウンも自らデザイン。背中には愛称「SPANKY K」の文字も伺える

だからこそ、突然の引退も衝撃的だった。「ボクシングしか知らなかったし、ほかの道なんか考えたこともない」天性のボクサーだった鬼塚をどんな試練が襲ったのか。転機を語る彼の表情は、ぜひ動画で確認してほしい。

リングの外で、「第二の生」をどう生きるのか……。番組ホストの千原ジュニアや大島優子が、自身の引退後のプランも明かしたように、そうした転機をどう生きるのかは、屋台で隣り合う者にとってはもちろん、誰でも興味をひかれるポイントだ。

鬼塚はどうだったのか。彼は知人がいたロスへ飛び、まったく異なる刺激と「気づき」を得るべく、幼稚園でバイトをするようになる。

世界チャンピオンから一転、幼稚園で働く

そこで子供たちと絵を描いた体験が、鬼塚を次の道へと導いた。「子供たちって絵を学んだこともないのに、バンバン何も考えずに描いていくじゃないですか」と彼がいうように、感性の赴くままに絵を描くという行為は、稀代のボクサーを魅了したのだった。そう、まるで「頭が真っ白」になりながら、サンドバッグを叩いたあの日のように――。

世界チャンピオンから一転、幼稚園で働く

いまでは鬼塚は、全国各地で自身の作品が展示されるアーティストとして活躍している。画家として本格的にデビューしてから8年間、絵を描かない日はないという。

引退後も「戦い続けている」という、その真意は?

ひとつ、動画の中で興味深いポイントがある。出演者の大島は、鬼塚がデビューした1988年に生まれた。トークの冒頭、30年間ずっと現役なのかと思ったという大島のほほえましい勘違いを訂正しながら、鬼塚は「戦いはしてますけどね」と、笑いつつポツリとつぶやいている。

つまり、ボクシングのリングの上でも、絵筆をとる現在でも、ずっと戦っているんだ――と鬼塚はいっているのだ。

自作の絵画とともに写る鬼塚勝也

どういうことなのだろうか。今回、鬼塚は改めてコメントを寄せてくれた。

鬼塚:決して満たされてリングを降りたわけではないので、いまだに、戦ってきたそのエネルギーは自分の中に渦巻いています。それをいま、アートにぶつけています。

毎日何時間と決めているわけではないですが、ジムに行く以外のほとんどは、アートのことを考えています。ルールも設けず、捉われないようにしながら、それでも「どんなに疲れていても寝る寸前の落ちる間際にドローイングすること」は決めて描いていますね。

作品として今後、世界に残っていくことに意識を持ってやっています。「自分を生ききること」。それこそが「戦い」の定義だと思っています。

相手に叩き込んだ拳に、絵筆を握る。180度方向の異なる人生でも、戦い続けるということ。そんな生き方が気になる人は、ぜひ鬼塚本人の言葉を動画で味わってみてほしい。

自作の絵画とともに写る鬼塚勝也
動画情報
WEB番組『のんある屋台』

人気YouTuber カジサックさん、ボクシング元世界王者 鬼塚勝也さん、天才編集者 箕輪厚介さんにマサイ族まで!? 千原ジュニアさん、千原せいじさん、大島優子さんが旬なゲストと「のんでる気分」で盛り上がる! サントリー「のんある気分」オリジナルWEB番組『のんある屋台』

プロフィール
鬼塚勝也 (おにづか かつや)

1970年、福岡県北九州市に生まれる。10才の時に「世界一強い男」を目指し、ボクシングの世界チャンピオンを夢見るようになる。14才でボクシングジムに通うようになり、翌年には全国大会出場。高校在籍中、東京でプロテストに合格し九州から東京へ上京。20才で10RTKO勝ちで全日本チャンピオンとなる。月間MVP選手受賞。その後、WBA世界スーパーフライ級王者となり5度の防衛に成功。「SPANKY(スパンキー)K」という愛称でファンから慕われつつも、1994年、網膜剥離により引退。 その後、ロサンジェルスにて保父として幼稚園で働き、子どもとの触れあいから新たな人生の素晴らしさを再確認する。日本に帰国後は、人と共に成長できる空間をという想いから、福岡市に「SPANKY・K SACRED BOXING HALL」を開設。会長として指導にあたっている。現在、ボクシングというひとつの枠にとらわれずファッションデザインなど幅広く活動中。



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