コラム

荘子itが執筆 『スパイの妻』の「軽さ」が持つ倫理的な意味とは

荘子itが執筆 『スパイの妻』の「軽さ」が持つ倫理的な意味とは

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荘子it
インタビュー・編集:久野剛士(CINRA.NET編集部)

濱口竜介・野原位・黒沢清が脚本、黒沢清が監督した『スパイの妻』。『第77回ヴェネツィア国際映画祭』で「銀獅子賞」(監督賞)を受賞した本作を、ラップグループDos Monosのトラックメイカー / ラッパーの荘子itが論じる。気鋭のラッパーは、本作をどう見たのか。また、本テキストを受けて行なった、彼のインタビューも掲載する。

現代を生きる私たちの自画像として描かれた「妻」

「夫」が「亡命だ」と囁くとき、それが、例えば現代日本を舞台にしたラブロマンスで発せられる「駆け落ち」という言葉とは比べようもなく甘美な響きであるかのように、窓からの照明とレンズフレアが、「妻」のクロースアップを包み込み、映画のような夢見心地にさせ、これに素直にうっとりしていいのかと、「居心地の悪さ」を感じさせる『スパイの妻』の舞台設定は、1940年、太平洋戦争前夜の神戸である。

最初の企画段階では、神戸をテーマにした映画という、「場所」の指定のみをプロデューサーから与えられていた脚本担当の濱口竜介・野原位コンビが、この「時代」を選んだ真の経緯を筆者が知る由はない。しかし「黒沢さん(=監督の黒沢清)に興味を持ってもらわないと始まらない」と濱口がインタビュー(注1)で語るように、以前、黒沢が着手してけっきょく頓挫した『一九〇五』(2013年製作 / 公開予定だった歴史モノの映画企画)を意識してというのが発端だったようだ。師を意識する濱口と、気づかぬうちに忖度されている黒沢という、世代を代表する二人の天才映画監督の間の、師弟関係を象徴する微笑ましいエピソードである。と同時に、この世のありとあらゆる創作物がそうであるように、その存在の根拠が、究極的には恣意的で無根拠な「軽い」思いつきであることが示されてもいる。とはいえ、それでも観客は、作品の設定や細部からなにかを読み取ろうとすることになる。これまた微笑ましくも、どこか「居心地の悪さ」を感じさせる作り手と観客との非対称性である。

あらすじ:1940年。満州で偶然、恐ろしい国家機密を知ってしまった優作(高橋一生)は、正義のため、事の顛末を世に知らしめようとする。聡子(蒼井優)は反逆者と疑われる夫を信じ、スパイの妻と罵られようとも、その身が破滅することも厭わず、ただ愛する夫とともに生きることを心に誓う。太平洋戦争開戦間近の日本で、夫婦の運命は時代の荒波に飲まれていく……。<br>『スパイの妻』<劇場版>ポスタービジュアル ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I
あらすじ:1940年。満州で偶然、恐ろしい国家機密を知ってしまった優作(高橋一生)は、正義のため、事の顛末を世に知らしめようとする。聡子(蒼井優)は反逆者と疑われる夫を信じ、スパイの妻と罵られようとも、その身が破滅することも厭わず、ただ愛する夫とともに生きることを心に誓う。太平洋戦争開戦間近の日本で、夫婦の運命は時代の荒波に飲まれていく……。
『スパイの妻』<劇場版>ポスタービジュアル(サイトで見る) ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

戦後民主主義をぬるま湯とも思わずに、もはや自明のものとする日常の中で生を繋ぐ現代の我々が、戦時中の動乱期を描くフィクションにおいて、「夫」の立場ではなく、残された「妻」、時代ゆえにジェンダーの非対称性もことさら大きく、はっきりと上下関係の劣位で庇護される立場に身を重ねることによって、我々はその自己像をありありと浮かび上がらせてきた。それを確認するためには、近年の作品ではひとまず片渕須直監督 / こうの史代原作『この世界の片隅に』(2016年)を思い浮かべてみればよいだろう。『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』として昨年にアップデート版も公開され、その疑いようのない完成度と説得性で我々を「感動」のどん底に落とし込んだ同作は、現代日本の日常的感性で受容されうる最高級の「感動作」の好例だろう。同作に対して行われてきた数少ない批判の軸は、「あまりにも我々の現状を肯定し慰めることに奉仕しすぎている」ということくらいだ。むしろ、それゆえにこそ、その筋から批判しようと試みても、それを心の底から自信を持って実行できる立場にいる者は我々の中にはほとんどいないということが問題であった。

また他方、「被害者としての映画は作れない」「まさに自分たちこそ加害者であったという映画しか作れない」(『スパイの妻』の劇場公開に際して行われた対談より(注2))という黒沢の発言と、その発言を意識して脚本を書いた濱口を、直ちにリベラルな感性から手放しに擁護する必要もないだろう。そのような認識は、もとよりこの世界のどんな事象も被害 / 加害のような二項対立で峻別できるわけがないという絶対的な真理からすれば相対的なものだ。とはいえ、そうした、「マクロで抽象的な真理が、結局のところ、戦争責任やジェンダー、人種差別等々、それぞれの当事者間にあるミクロで具体的な場面では、都合のいいように解釈され利用されてしまう」という世俗的問題(=「戦争中は誰もが苦しかった」、「男も差別されている」、「All Lives Matter」等々)にこそ意識的であろうとする、最低限の「道徳的」な態度として彼らの真意を汲むべきだ。

「ありのまま受動的であれ」「元来全ては同一である」という高尚な思想が至上のものとされ、だがその実、人間は文字通り完全に受動的になどいられるはずもなく、相対的に大なり小なり、能動的に受動的であったり、受動的に能動的であったりしながら、物事にも区別をつけ続けているのが世の常だ。荘子の「無為自然」や「万物斉同」の思想が、いかにお手軽にその場限りの気休めとして、物質的には豊かだが、精神的にストレスフルな日常の中で生を繋ぐ現代の我々への処方箋として消費されているかを見れば明らかである。それで筆者は荘子にitをつけて、「so shit=そんなものはマジでクソである」と名乗り続けている。荘子の認識から出発しつつも、絶えず具体的な問題に向き合い続けなければいけないからだ。

蒼井優(右)に演出する黒沢清監督(左)/『スパイの妻<劇場版>』 ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I
蒼井優(右)に演出する黒沢清監督(左)/『スパイの妻<劇場版>』 ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

ともかくそんな背景もあり、『スパイの妻』における「スパイ」という設定には、「妻」という隠喩にしか見出しえない我々の自己像を、無垢な被害者としてのみならず、加害者として捉えうる可能性が込められている。ここでさらに注意すべきなのは、『スパイの妻』というタイトルにあと一字残された、「の」という連体修飾格の格助詞の機能が、権利的には、ふつうに連想され易い「スパイ(の夫と婚姻関係にある)妻」ばかりでなく、「スパイ(そのものである)妻」をも意味しうるということだ。劇中後半のシーンで、「ぼくはスパイじゃない。ぼくは自分の意志で行動してる。スパイとは全く違うものだ」と主張する夫に対して、「どちらでも結構。わたしにとって、あなたはあなたです。あなたがスパイなら、わたしはスパイの妻になります」と妻が言う。作劇上は何気なく聞き流しそうな発言だが、ここで妻は、受動的にではなく能動的に、自分たちを「スパイの夫婦」、そして自らを「スパイの妻」と認めたがって暴走し始めている。ここで、「いや、だからスパイじゃないって言ってるだろ」と夫が言うことはない。なぜなら、作劇上の焦点は夫や妻がスパイか否かという次元にはなく、「妻」がそうであるように、「スパイ」もまた、映画的な記号として提示されるものに過ぎないからだ。

他でもない自分自身で、「スパイの妻」と名指すそのときの妻の顔は誇らしげだ。それもそのはず、劇中前半では、夫や夫の協力者から、安穏と暮らす無垢な妻として、秘密を共有されず、夫が祖国に反旗を翻すきっかけになる「国家機密」を見たときも、「君はなにも見ていない」と言われる始末だった。その妻にとって、秘密を共有し、スパイとなって亡命するという想像は、まるで映画のようにロマンチックで胸ときめくことであった。前述の「国家機密」も、現実の光景を見た夫と違い、それをフィルムで見た妻は、「安穏とした暮らしを謳歌する妻」からは一段階覚醒したとはいえ、未だ日常性の延長で生を繋いでおり、どこかで映画のようにしか戦時下の過酷な現実に向き合えない。まだこの時点では、「すごい映画を観て開眼した気になっている」レベルの状態である。そしてそれゆえに、スリルやロマンスを無責任に欲する我々の隠喩であり続けている。

聡子役を演じた蒼井優 / 『スパイの妻<劇場版>』 ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I
聡子役を演じた蒼井優 / 『スパイの妻<劇場版>』 ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I
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作品情報

『スパイの妻<劇場版>』
『スパイの妻<劇場版>』

2020年10月16日(金)から全国で公開

監督:黒沢清
脚本:濱口竜介、野原位、黒沢清
音楽:長岡亮介
出演:
蒼井優
高橋一生
坂東龍汰
恒松祐里
みのすけ
玄理
東出昌大
笹野高史
上映時間:115分
配給:ビターズ・エンド

プロフィール

荘子it
荘子it(そうしっと)

トラックメイカー、ラッパー。TaiTan(Rapper)、没(Rapper,Sampler)からなる、3人組ヒップホップユニットDos Monosのメンバー。荘子itの手がける、フリージャズやプログレのエッセンスを現代の感覚で盛り込んだビートの数々と、3MCのズレを強調したグルーヴで、東京の音楽シーンのオルタナティブを担う。2020年8月に2ndアルバム『Dos Siki』をリリースした。

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