天然だけじゃない。音楽を心から愛する男 DJ KOOインタビュー

なんとDJ KOOに取材をさせていただけることになった。1990年代より、小室哲哉ファミリーの中枢として活動するTRFのリーダーであり、DJ。最近はその天然キャラがバラエティーテレビ番組でも引っ張りだこ。しかし、そんなDJ KOOがただのタレントではなく、じつは1970年代の日本のディスコ黎明期から現場で活動する叩き上げのDJであったことはご存知だろうか?

ディスコ / クラブシーンのDJブースの中で、またTRFという巨大な音楽プロジェクトの中で、日本の音楽シーン、パーティーシーンの栄枯盛衰を見続けてきたDJ KOO。今回は、スミノフが主催する「オンライン上の渋谷スクランブル交差点」でのバーチャルハロウィンパーティー『MONSTERS' KANPAI PARTY』を盛り上げるオリジナルトラックを制作したということで、実際に彼が体験してきた東京のナイトカルチャーを振り返ってもらいつつ、近年のハロウィンパーティーや夜遊びの魅力についても大いに語っていただいた。

1970年代はいまほど夜遊びの規制が厳しくなかったから、ディスコに通っている学生はたくさんいたんです。

―KOOさんは、1970年代後半のディスコブームの頃にDJをはじめられたそうですが、学生時代は3年間ラグビー部に所属されていますよね。バリバリの体育会系ボーイがディスコに目覚めたきっかけは、なんだったんでしょうか?

KOO:じつは子どもの頃からミュージシャンになりたかったんですよ。何かに夢中になると、どんどん掘り下げていくタイプで、最初は沢田研二さんに憧れて、そこからザ・タイガース、そしてグループサウンズに辿り着くんです。で、その頃のグループサウンズのライブ盤を聴くと、洋楽のカバー曲が必ず1、2曲入っていた。そこで洋楽の存在を知って、The Rolling Stonesにハマっていきました。

―もともと気質がマニアックというか、凝り性なんですね。

KOO:アーティストのルーツを知ることで、よりその音楽が楽しくなるというか、自分の中にも深く入ってくる。ずっとそういう聴き方をしてきましたね。The Rolling Stonesから、もちろんThe Beatlesも聴いて、14歳くらいの頃はPink Floydを聴いていました。ボーカリストよりもギタリストに憧れて、ギターを練習していましたね。

―なぜギタリストに?

KOO:日本のお茶の間では、アイドルのような歌える人にアイコン的な人気が集まるけれど、海外ではジミ・ヘンドリックスやリッチー・ブラックモア(元Deep Purple)、ジミー・ペイジ(Led Zeppelin)のような大物ギタリストが、ボーカリスト以上に存在感を放っていたのがかっこいいと思って。バンドでオーディションやコンテストに出たこともありますよ。

DJ KOO
DJ KOO

―ラグビー部に所属しながら、ギター少年でもあったわけですね。

KOO:そうです。でも卒業するくらいになると、自分の力量ではギターで食べていくのは難しいとわかってきて。

―その頃はまだディスコには興味がなかったんですか?

KOO:1970年代はいまほど夜遊びの規制が厳しくなかったから、ディスコに通っている学生はたくさんいたんです。でも僕は1回も行ったことがなかった。部活がハードだったので(笑)。で、卒業してから晴れてディスコデビューしてみたら、自分が求めていたものを見つけてしまったというか、そのくらいのインパクトがありました。

―14歳でPink Floydを聴いていた早熟なロック少年が、いきなりディスコに足を踏み入れて、すぐに馴染めたんですか?

KOO:当時のディスコはいつ行ってもフロアに人が溢れていて、ブースからたった1人で大勢のお客さんを踊らせるDJという存在に一瞬で惚れ込んでしまったんです。演奏しているわけでもなく、歌っているわけでもなく、寡黙な感じで曲をミックスする姿にビビっときて。

―当時のディスコではどんな音楽がかかっていたんですか?

KOO:ちょうど第1次ディスコブームで、キャンディポップ(日本で爆発的に流行した、女性ボーカルを前面に出したグループのキャッチーなダンスナンバー)や、ソウルシーシーというステップが流行っていて、竹の子族とかもいて、カルチャーが元気でしたよね。当時は「ファンキー」って呼ばれていたんだけど、いわゆるEarth, Wind & FireやKool & the Gangのようなブラックコンテンポラリー(1970年代後半~1980年代のブラックミュージック)だったり、「シュガーヒル・レコード」のようなヒップホップ黎明期のレコードが人気だったと思います。

当時は「ハコトリ」と言って、ディスコのブレーン的なDJがいて、その下に若手DJたちを抱えるという構造になっていたんです。思いっきり縦社会。

―卒業後は、どのようにしてDJの道を歩まれたんですか?

KOO:専門学校に入学したのですが、明確な夢やビジョンがあったわけではなく、ほとんど行っていませんでした。その学生パーティーで見よう見まねでDJっぽいことをやったのが一番最初。いざやってみたら、そこそこできそうなんて思い上がってしまって(笑)。で、ディスコにお願いして、見習いからはじめたのがきっかけです。当時は東京中のいろんな場所にディスコがあって、六本木のスクエアビルは、ほぼ全フロアがディスコだったし、新宿コマ劇場の向かいのビルも、ボーリング場以外のフロアはすべてディスコだったし、上野や蒲田にもたくさんあった。

―1970年後半の空前のディスコブームを直撃したんですね。

KOO:そうですね。まるで毎日が給料日後の週末のように、夜の街が盛り上がっていました。毎日朝まで営業するディスコがほとんどだったので、DJも16時から22時までの早番、22時以降の遅番と分かれていてね。20時頃にはフロアがお客さんでいっぱいになるから、そこで最初のチークタイムがあったり。

DJ KOO

―KOOさんは、六本木や新宿でキャリアをスタートさせたんですか?

KOO:いや、最初は上野でした。ディスコというよりパブみたいなところで、「星降る街角」という変わった名前のバンドが演奏していて、その前後にDJが回すという感じのお店。そこで一人でやれるようになったのがキャリアの原点です。当時のDJのシステムは「ハコトリ」と言って、ディスコのブレーン的なDJがいて、その下に若手DJたちを抱えるという構造になっていたんです。で、たくさんの「ハコ」を持っているDJに権力があった。新宿や六本木のDJになると、お店の看板であり集客力も持っていたから、その権力はかなりのものだったと思います。思いっきり縦社会。

―その縦社会のヒエラルキーを登っていくわけですね。

KOO:はい。見習いから入って、ウェイターをやりながら現場でいろいろな曲を聴いたり、営業の後に残って練習したり、DJとしてやるべきことを覚え、一人前になっていく。いまクラブでそんなことやったら、みんなすぐ辞めちゃいますよね(笑)。でも僕は運が良かったと思います。たまたま六本木のスクエアビルでDJをやっていた方が上野に来て、とても可愛がっていただいたんです。その方に当時、新宿で一番流行っていたサーファーディスコのオーディションを紹介してもらって。それがきっかけでようやく新宿で回せるようになりました。

―上野から新宿に辿り着くまで、どのくらいの期間を要したんですか?

KOO:1年弱くらいですね。

―めちゃめちゃ早いじゃないですか(笑)。

KOO:そこはラグビーで鍛えた体力と、縦社会へのサバイブ能力が染みついていたせいかもしれません(笑)。先輩には絶対服従でありながら、ちゃんと自分も上がっていくみたいな。

―ラグビーとDJがこんなところで結び付くなんて(笑)。

KOO:ディスコにハマり出してから、ロックはほとんど聴かなくなってしまいました。自分の中で大きな変化があったんでしょうね。同じ音楽なんですけど、もう昔のように興奮しなくなってしまった。だから当時、The Rolling Stonesが“Miss You”というディスコアプローチの曲をリリースしたときは、猛烈な嫌悪感を覚えましたね(笑)。逆にディスコでかかるレコードは必死で覚えなくちゃいけなかったけど、面白くてしょうがなかった。音の聴き方も変わりました。曲のイントロ、サビ、エンディングの構造がどうなっているのか? とか、DJ的な視点で聴くように。本当に膨大な数のレコードを聴いたと思います。そうやって、レコードの盤面に針をちょんちょんと落とすだけで、それがどういう曲なのか、使えるのか使えないのか判断するという技術が身についていくわけです。

六本木と新宿のDJの間にはライバル関係があって、「繋ぎの六本木」「喋りの新宿」と言われていたくらいスタイルが異なっていた。

―いまのDJ機器はBPMを自動でカウントし、曲のツナギまで自動でやってくれますよね。自分でBPMを合わせられるDJは少なくなったように思います。KOOさんのようにアナログレコード時代にテクニックを磨かれた方からすると、この状況って甘く見えたりしますか?

KOO:……正直、見えますね(笑)。当時はそれぞれのお店にどんなレコードがあるのかも覚えなくてはいけなかったんです。つまりDJはお店にあるレコードだけを使って、フロアを盛り上げることもできなければいけない。覚えなきゃいけないことがいっぱいありました。

―当時のKOOさんのDJスタイルはどんな感じだったんですか?

KOO:僕が回していた新宿の「B&B」というサーファーディスコは、当時のブラックコンテンポラリーの中でも、重いビートの曲を中心にかけるというこだわりがありました。六本木と新宿の間にはDJの派閥というか、ライバル関係があって、「繋ぎの六本木」と「喋りの新宿」と言われていたくらいスタイルが異なっていたんです。僕は新宿系のDJとして喋りもガンガンやっていましたが、六本木の音楽だけで勝負するクールなスタイルにも負けたくなかったので、あまりミーハーな選曲になりすぎないように気をつけていましたね。「B&B」は人気のあるお店だったので、そのあたりはあまり媚びずにやらせてもらっていました。

―当時のイベントの雰囲気やお客さんはどんな感じでしたか?

KOO:一言で言うと、とにかく女性が綺麗な時代(笑)。ダブル浅野(女優の浅野温子と浅野ゆう子を指す愛称)じゃないけれど、ストレートのワンレングスカットが流行りはじめた頃で、ヘアスタイルもメイクもファッションもそれまでと何かが違って、新しい感じがありました。そんなスタイルをまとって、みんなディスコに集まっていたんです。

クラブとディスコの違いの1つは、お客さんに属性があること。そこに合わせたミックスを提供していくというのは、ディスコ時代とは明らかに違う感覚でしたね。

―1970年代から盛り上がったディスコブームも、1980年代以降、徐々に収束に向かっていき、その後はユーロビートやジュリアナブームなどもありながら、ディスコからクラブの時代へと移っていったと思います。もちろんバブル経済期の終焉とも重なっていたと思うのですが、その様子を現場からどのように眺めていらっしゃいましたか?

KOO:1982年に、新宿のディスコに遊びに来ていた女性が殺害されるというショッキングな事件があって。もちろんディスコ内で起きた事件ではないのだけど、それをきっかけに取り締まりが厳しくなり、世間のディスコへの熱は徐々に冷めていったように思います。それまでは暗黙の了解というか、グレーな部分で営業をしていたディスコが急に厳しく取り締まられるようになったんです。朝早くから昼まで営業するとか、いろんな試行錯誤があったけど、その流れには勝てなかった。しかし1990年代以降、ディスコとは異なる新しいクラブカルチャーが生まれていくわけです。大箱のディスコとは違い、中・小規模のお店が中心で、音楽のジャンルも細分化されて多種多様。場所も六本木や新宿というよりは、青山だったり、代官山だったり、渋谷だったり、大規模な歓楽街から少し離れた場所にできはじめましたよね。

スミノフアイス・ハロウィン限定デザインボトルに付属する『MONSTERS' KANPAI PARTY』オリジナル仮装マスク(全12種類)
スミノフアイス・ハロウィン限定デザインボトルに付属する『MONSTERS' KANPAI PARTY』オリジナル仮装マスク(全12種類)

―新たにハウスやテクノといったクラブミュージックが台頭してくる中で、KOOさんのプレイスタイルに変化はありましたか?

KOO:刺激的な音楽は次々と出てくるから、常に新しいものを取り込みながらやってきました。例えば1980年代後半は、ハイエナジーと呼ばれるユーロビートのルーツになるような音楽だったり。いろいろ迷いはありましたけど、徐々に四つ打ちの曲もミックスするようになっていきました。クラブとディスコの違いの1つは、お客さんに属性があること。例えばヒップホップのパーティーであれば、ヒップホップが好きなお客さんが来るし、テクノやハウスのパーティーも基本的にはその音楽が好きなお客さんが集まってくる。そこに合わせたミックスを提供していくというのは、ディスコ時代とは明らかに違う感覚でしたね。

―KOOさんは、dj hondaを含んだメンバーとリミックスユニット「The JG's」を1986年に結成し、数々のアーティストのリミックスやリエディット、そしてTRFなどの音楽制作にも長年にわたり携わっています。

KOO:dj hondaくんは渋谷のスターウッズという老舗のディスコにいて、使いやすいアレンジのDJ用音源を一緒に作ろうって意気投合したんです。当時はレコード会社の洋楽宣伝部から、プロモーションのためにクラブやディスコでかけられるアレンジが欲しいという需要もありました。いま振り返ると、日本ではじめてDJ的な感覚がレコードのプロモーションに導入された時期だったのかもしれません。

DJ KOO

―最近のDJでは、どんな音楽をかけられているんですか?

KOO:ほとんどEDMですね。ずっと世界的に大流行していますけど、僕にはEDMがすべての音楽を変えてしまった、非常に大きなパラダイムシフトだった気がするんです。リミッターを超えても止まらない、その先の音楽というか。これまで限界とされていたものを超えた音圧や迫力、テンションの爆発があって、EDM以前と以後では音楽が全然違う。ZEDDという世界的なDJがいるんですが、彼はまだ25歳くらいなんです。キャリアの最初からEDMを知っている世代が、今後どういうものを作っていくのか、とても興味があります。

―ちなみにKOOさんは、スミノフが主催する「オンライン上の渋谷スクランブル交差点」でのバーチャルハロウィンパーティー『MONSTERS' KANPAI PARTY』でも、EDMの新曲を提供されていらっしゃいますね。

KOO:どんな人でも瞬間的にノれるように、EDMで3曲作りました。新しい若い世代の人にも気に入ってもらえたら嬉しいです。

―ハロウィンといえば、少し前までは日本でもそれほど馴染みのないイベントでしたが、ディスコやクラブシーンにおいては、わりと早い時期からハロウィンパーティーが定着していて、年間のビッグイベントの1つとしてあったように思います。

KOO:じつは1990年代くらいまでは「ハロウィン」と銘打ったイベントをやっても、全然人が入らなかったんです。まだどうやって楽しめばいいのか定着していなかったんでしょうね。でも、2000年代くらいから急に盛り上がりはじめました。ディスコやクラブって非日常空間でもあるけれど、仮装することでより非日常的な感覚になるし、振り切って遊ぶきっかけにもなる。あと、ふだんあまりクラブに来ないような人たちが足を運ぶきっかけを作ったと思います。そういう意味では、昔のディスコに近い感じもあって、多種多様な人たちが集まってくれるのは嬉しいです。

―1990年代以降、ジャンルごとに属性化されていったクラブのお客さんが、ハロウィンという大きな流れをきっかけに、一般の人も含めて混ざり合っているというのは面白いですね。読者の中には、もしかしたらまだハロウィンパーティーに足を運んだことがない人もいるかもしれません。そんな方々に何かメッセージをお願いいたします。

KOO:最近のハロウィンパーティーって、本当にびっくりするぐらい仮装のクオリティーが高いんですよ。もちろん音楽やパーティー自体も楽しいのですが、仮装に注目してもらいたいですね。そしてできれば自分も仮装するともっと楽しい。昔は仮装して街を歩いていたらアブナい人だと思われたけど、いまはそういう感じがまったくないですからね。

―KOOさんも仮装されたりするんですか?

KOO:いや、僕が仮装すると誰だかわからなくなっちゃうから(笑)。僕は最高の音楽を準備して待っているので、思い切って仮装して『MONSTERS' KANPAI PARTY』に遊びに来てください。

イベント情報
スミノフ『MONSTERS' KANPAI PARTY』

2015年9月28日(月)12:00~
料金:無料
動作環境:iPhone6(iOS8.3)、iPhone6 PLUS(iOS8.4.1)、GALAXY S5 SCL23(Android4.4)、Xperia Z1f SO-02E(Android4.4.4)※機種、ブラウザアプリによっては、ご利用できない場合もございます。あらかじめご了承ください。

プロフィール
DJ KOO (でぃーじぇー こー)

12歳のとき、ブリテイッシュロックに影響を受けギターを手にする。高校時代にダンスミュージックと出会い、その後先輩DJに誘われ新宿のDisco「カンタベリーハウス」「B&B」でDJを務めることに。コンピューター&MIDIシステムによる全く新しい音楽作りが話題となり、1986年、dj hondaとRemixチーム“THE JG's”を結成し、数多くのリミックスプロデュースを手掛ける。その活動は一気に拡大し、国内最強Remix集団として今では伝説となっている。現在はダンスボーカルユニット「TRF」のDJ&リーダーとしてサウンドワークに携わり、クラブでのDJプレイにおいても精力的な活動を展開している。また、個性的なキャラクターが受け、テレビバラエティー番組でも活躍中。



フィードバック 2

新たな発見や感動を得ることはできましたか?

  • HOME
  • Music
  • 天然だけじゃない。音楽を心から愛する男 DJ KOOインタビュー

Special Feature

Crossing??

CINRAメディア20周年を節目に考える、カルチャーシーンの「これまで」と「これから」。過去と未来の「交差点」、そしてカルチャーとソーシャルの「交差点」に立ち、これまでの20年を振り返りながら、未来をよりよくしていくために何ができるのか?

詳しくみる

JOB

これからの企業を彩る9つのバッヂ認証システム

グリーンカンパニー

グリーンカンパニーについて
グリーンカンパニーについて