『哀れなるものたち』が描く「無垢」な女性の知的探究と性的探究、世界改革のために思考し続けること

『女王陛下のお気に入り』のヨルゴス・ランティモス監督とエマ・ストーンが再びタッグを組み、グラスゴーの作家アラスター・グレイによる小説を映画化した『哀れなるものたち』。自ら命を絶つも、天才外科医の手で生まれたての女性として蘇生したベラの成長物語というファンタジー作品ながら、彼女の探究の旅は現実と地続きだ。広い世界を知り、自らの知的欲求やセクシュアリティを追究していく彼女の姿が、現代の観客に手渡すものとは。映画文筆家の児玉美月がレビューする。

※本記事には映画『哀れなるものたち』本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承ください。

『哀れなるものたち』と『バービー』の共鳴

2023年、グレタ・ガーウィグによる『バービー』が世界興行収入10億ドルを超え、単独女性監督作品として史上初となる記録を樹立した。ヨルゴス・ランティモスによる新作『哀れなるものたち』は、ルックや設定、時代や国などあらゆる要素が違うにもかかわらず多くを共有するフェミニズム映画として類縁関係を結ぶ。

『バービー』でマーゴット・ロビー演じるファッションドールであるバービーは、完璧に思えた毎日に亀裂が生じはじめたことを機に、「バービーランド」から現実界へと旅立つ。人間社会でバービーは性差別や家父長制と初めて遭遇し、ケンによって男性中心社会へと変えられてしまったバービーランドを取り戻すために戦い、そして「人間」になってゆく。

『哀れなるものたち』では、身体が20代の女性でありながら精神は赤ん坊のベラ(エマ・ストーン)が囲繞(いにょう)されていた屋敷から外の世界を渇望し、放蕩者の弁護士ダンカン(マーク・ラファロ)とヨーロッパ大陸横断の旅へ乗り出す。ベラはその旅の途中、階層差や貧困をはじめ社会の知られざる真実を目の当たりにし、変革を願いながら徐々に「大人」へと成長してゆく。

ハイヒールが合うよう、つま先立ちで上品に歩いていたバービーと、糸で操られたマリオネットのようにぎこちなく歩いていたベラはともに、自らの足で人生を闊歩するようになる。世界の不完全さに気づいたとき、彼女たちはようやく本当の「生」を生きはじめる。『哀れなるものたち』の物語は女性版『フランケンシュタイン』とも称されるが、その作者メアリー・シェリーの母は『女性の権利の擁護』を著したメアリ・ウルストンクラフトであり、そこにはフェミニズムの創始者たる遺伝子が流れている。

「普通」を揺さぶる不条理主義の映画作家、ヨルゴス・ランティモス

鳥の半身と豚の半身が縫合された奇妙な動物が動き回り、切断された馬の首が接合された蒸気駆動の馬車が走り抜ける、ヴィクトリア朝のスチームパンク的世界が広がる『哀れなるものたち』は、ベラと天才外科医のゴッドウィン(ウィレム・デフォー)、彼の教え子であるマックス(ラミー・ユセフ)の三人がいる屋敷の場面から開始される。

理知的な成熟した男たちと知性に欠けた未熟な女という露悪的なまでに性差別的な図式そのものがあえて映画の序盤に配されることによって巧妙なギミックと化し、わたしたち観客をより遠くへといざなってゆく。

ベラはかつて橋から飛び降り自殺し、ゴッドウィンはその腹が宿していた胎児の脳を彼女に移植した。モノクロで撮影され、魚眼レンズによって四辺が黒く塗りつぶされたような開巻の場面は、閉ざされた領域を覗き見し、脳を移植された実験体なるベラを顕微鏡で観察しているかのような心象をもたらす。

終始鳴り響く不協和音は、脳と身体が完全に同期していないちぐはぐさを一層助長させるだろう。過保護なゴッドウィンによって屋敷内がそのすべてだったベラの世界が拡大するにつれ、モノクロだった画は目を見開くかのごとく鮮やかな色彩で染め上げられてゆく。

ギリシャ出身である不条理主義の映画作家ヨルゴス・ランティモスは、かつて配偶者を45日以内に獲得しなければ動物へと姿を変えられてしまうホテルを舞台にした『ロブスター』(2015)で「普通」とされている恋愛や性愛、カップル信仰を脱臼してみせていた。初期作『籠の中の乙女』(2009)では、厳格な父親によって外界から遮断された家に暮らす子どもたちが、世間で身につけさせられるはずの一般的な性や恋愛に関する知識を持ち合わせておらず、したがって彼らの性行為はどこか異質な印象を与える。

これら『ロブスター』や『籠の中の乙女たち』といった過去作のエッセンスが融合された『哀れなるものたち』のベラもまた、肉体は大人ながら社会から断絶されていたために性にまつわる固定観念や先入観が一切なく、人前でも平気で食べ物を膣に挿入し快楽を覚えたり、性的な話を公の場でも厭わなかったりし、「良識ある社会」から教育される羞恥心や節度とは無縁である。

自分の身体は自分のものであるという宣言、そして彼女の「発見」が象徴するもの

終盤、「私は新しい自分とクリトリスを大切にする」とベラが絶叫する。この決死の叫びは、ゴッド(ゴッドウィン)=神と呼ぶ男性たる創造主によって蘇生された被造物であるベラが、自らの身体を自分のものだとする主張であり、そこには彼女を取り巻く哀れなる男たちが独占欲や庇護愛を募らせ、家父長制的な結婚などでそれらを正当化させようとする支配への抵抗が込められている。

そして同時に、「クリトリス」という名辞が指し示すのは性的快楽を手放さないという宣言であり、いま現在もアフリカの国々を中心に行なわれ、ときに少女や女性の基本的権利の侵害ともなりうる「女性器切除」(FGM/C、あるいは「女子割礼」)という現実社会における問題もまたそこに反響してくるかもしれないと考えれば、さらに切実さは増す。ベラも劇中、陰核切除の脅威に晒される描写があるが、これはヴィクトリア朝時代のイギリスで実際に行なわれていた処置であった背景に由来しているだろう。

ベラは挿入による快楽を発明したところから、茂みに埋もれていたクリトリスを発見する。かつて解剖学に関する書物において、クリトリスの存在は排除されていた。クリトリスの隠蔽はしばしば女性のオーガズムの軽視や否定と同時に起こりえるものであり、よってベラの「気づき」は「発見」といって然るべきである。

そしてそれを守るのだと主張するに至るまでの性的探求における一連の過程は、女性の性の悦びが必ずしも男性を必要とせず、女性同士、あるいは相手などいなくとも自らの手ひとつで獲得可能なのだというフェミニズム的思想をなぞりゆく。そうして男性主体の性の在り方から脱却してゆくベラの冒険を描く『哀れなるものたち』には、女性のセクシュアリティについての鮮烈な哲学がある。

ダンカンとともに豪華絢爛なオーシャンライナーで上流階級の生活を送るさなかに、ベラは人々が貧しさに喘ぎながら無惨に死んでゆくアレクサンドリアの地に辿り着く。

残酷な現実に深い衝撃を受けて苦しみ、そこにいる哀れなるものたちに同情し、しかし自分は決して凍え死にはしないあたたかなベッドで眠ることができる、その矛盾に苛まれながらも、とにかく書物を手に取る。男から幾度となく本を取り上げられ、海に投げ捨てられようともめげず、知性を身につけようとする。ベラにとってそれは、世界をよりよくする手立てのひとつにほかならない。

本を奪われてもすかさず手渡してくれる同志の女の存在もある。この現実を生きるわたしたちもまた、虐殺をはじめ世界で起きているあらゆる出来事に日々打ちひしがれ、己の無力を自覚しながらそれでもいまここでできることを模索し、知識を得ようともがく。ベラはダンカンの大金をアレクサンドリアの人々に捧げるため、船の乗務員に預ける。その大金が実際にアレクサンドリアの人々に渡ったのかは定かではなく、彼らのその後も描かれることはない。

学び思考し続け、倒れてもまた立ち上がる。ベラの高潔な世界改革の精神性

家に囲われていたベラはそこを抜け出して広大な海を旅する船に乗り込んだが、いずれにせよ経済的自立を伴わずに男性の財産に依存している限り、それは家父長制で鍛造(たんぞう)された別種の檻でしかない。つまりベラは二度、幽閉の事態から脱する。

ベラにとって、性的自由と経済的自由はきわめて密接に結びつく。ダンカンと別れ、パリの娼館でセックスワーカーとして働き出したベラは、男が女を選ぶのではなく、女が男を選ぶべきなのではないかとそのシステムの抜本改革を提言する。しかしそれも、娼館を牛耳るスワイニー(キャスリン・ハンター)から経営が立ちいかなくなると説得されてしまう。

世界の綻びに逢着するたび沈黙のままではいられないベラを客観視しながら、わたしたちは一時的な金銭的援助が富の不均衡を根本からは解決しないことも、膠着したシステムが個人の力だけでは変えがたいことも心奥で了解している。ベラの世界変革という大義は、そうして半径5メートルの範囲における挫折を繰り返す。

けれども、それでも真に世界を変えたいと願っているその心を、果たして誰が笑い飛ばせるだろう。世界を動かしてきたのは、我こそ世の真理を見抜く思慮深い人間であると高みに身を置きたがる冷笑主義者ではなく、身の丈を知らされながら志を何度挫かれようと泥臭く這いつくばる理想主義者のほうではないか。

映画の終奏まで、ベラは本を決して手放さない。女たちは本を手放さない。女たちは知性を手放さない。女たちは人間であることを手放さない。

過去半世紀、女たちの生のありようは、そもそも男だけが「人間」なのではなく、女もまた「人間」なのだというパラダイムシフトとともに変容してきた。映画では、今度は男性が動物の一部を移植されて非人間的な存在へと変身を遂げる。

この最後の場面は、最初の場面のジェンダーが反転され、さらに戯画化を施された性差別的な図式の陰画たりうる。『哀れなるものたち』は、まずもって女がいかに人間として扱われていないかを語り、そしてその意趣返しとして今度は男が非人間的な存在へと転化される。周囲の男たちはベラの無垢さ、拙い話し方を愛でるが、ベラには当然ながらひとりの大人の人間として生きてゆく尊厳がある。

『哀れなるものたち』はこのプロローグとエピローグのあわいで、わたしたちを思いがけない壮大な旅へと連れてゆく。世界の変革を本気で望み、掲げること。その夢の遠さにもめげず、本に手を伸ばし知恵を身につける努力を惜しまないこと。挫折と失敗の痛みを享受しながら、それでも思考しつづけること。学ぶこと、知ることは、あらゆる行動への導火線となりうる。

〈悪〉は正しい情報を知られてしまうのをつねに嫌う。わたしたちは正しく知ること、ただそれだけで〈悪〉を脅かす存在にもなれる。己の無力さに倒れたとしても、また立ち上がればいい。ベラの高潔な精神性をひとたび手渡されたなら、わたしたちもまた賢明な傍観者ではなく哀れなる革命家として、この世界の航海をつづけなければならない。

『哀れなるものたち』予告編

作品情報
『哀れなるものたち』

2024年1月26日(金)から全国ロードショー
監督:ヨルゴス・ランティモス
原作:『哀れなるものたち』(早川書房刊)
出演:
エマ・ストーン
マーク・ラファロ
ウィレム・デフォー
ラミー・ユセフ
ほか
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン


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