池松壮亮は映画『白鍵と黒鍵の間に』で何を表現しようとしたか。キーマンでサックス奏者の松丸契と語る

池松壮亮が主人公を1人2役で演じた映画『白鍵と黒鍵の間に』。本作は、ジャズピアニスト・南博による同名の自伝的エッセイに基づいた物語ではあるものの、さまざまなアレンジにより原作から鮮やかな映画的跳躍がなされた。最大のカギとなったのは、監督・脚本の冨永昌敬による大胆なアイデア。

「南さんが銀座で過ごした3年間を、無理やり一晩の話にできないか」——こうして池松壮亮は「南」と「博」というジャズマンを1人2役で演じることとなる。

舞台は、バブルに沸き立つ1988年の銀座。南と博を中心にした人間模様が繰り広げられる。森田剛や仲里依紗、松尾貴史、佐野史郎らの演技も光るなか、特に興味深い存在感を放っているのがサックス奏者・松丸契が演じるK助だ。

CINRAでは本作が描き出そうとしたものに迫るべく、池松壮亮と松丸契の対談を実施。今回が映画初出演となった松丸の演技を、池松はどのように見届けたか。芸術を志す人間として、池松壮亮と松丸契は自身の活動と本作をどのように重ねてとらえているか。ふたりに語りあってもらった。

『白鍵と黒鍵の間に』予告編 / あらすじ:昭和63年の年の瀬。夜の街・銀座では、ジャズピアニスト志望の博(池松壮亮)が場末のキャバレーでピアノを弾いていた。博はふらりと現れたチンピラの「あいつ」(森田剛)にリクエストされて“ゴッドファーザー 愛のテーマ”を演奏するが、その曲が大きな災いを招くとは知る由もなかった。「あの曲」をリクエストしていいのは銀座界隈を牛耳る熊野会長(松尾貴史)だけ、演奏を許されているのも会長お気に入りの敏腕ピアニスト、南(池松壮亮、二役)だけだったのだ。夢を追う博と夢を見失った南。ふたりの運命はもつれ合い、先輩ピアニストの千香子(仲里依紗)、銀座の高級クラブ「スロウリー」のバンマス・三木(高橋和也)、アメリカから来た歌手のリサ(クリスタル・ケイ)らを巻き込みながら、時空が交錯するミステリアスな一夜を彩っていく

1人2役でジャズマンを演じた先で、池松壮亮は何を表現しようとしたのか

―映画、すごくおもしろかったです。何より池松さんが1人2役で「南」と「博」を演じ分けられていることが、この作品をユニークなものにしていると感じました。

池松:驚くべきアイデアですよね。初めて読んだとき、とても興奮しました。過去と現在と未来を一夜に共存させています。非常に映画的な表現でありながら、大胆でチャレンジングな構成だと思います。そのことによってどういった効果が生まれ、何を浮かび上がらせることができるのかが重要だったと思います。

ージャズピアニストの役を演じるにあたって、どういう準備をされましたか?

池松:何よりピアノに慣れることでした。準備期間が半年間とれたので、時間が許す限りピアノと向かい合いました。技術の向上はもちろん、ピアノの前に座ること、鍵盤に触れること、鳴らした音を聴くこと、そこにいる人の風情のようなものが少しでも馴染んでくることを目指しました。

『白鍵と黒鍵の間に』より、“ゴッドファーザー 愛のテーマ”の演奏シーン

ージャズ自体に馴染みはあったのでしょうか?

池松:聴く専門ですけど、ジャズはもともと好きでした。うちの父親が生粋のジャズマニアで、いろんな曲を聴かされて育ったんですけど、たとえばマイルス・デイヴィス、チャリー・パーカー、ビル・エヴァンス、セロニアス・モンクなど有名なところはわかりますが、詳しくはないです。でもいまだに身体の奥に潜むリズムとしてジャズがあるように思います。聴いていて一番落ち着くのもジャズです。

ー松丸さんは池松さんとジャズの話はされたりしましたか?

松丸:さっきしました(笑)。じつは、僕が出ているシーンは2日間で撮ったんですよ。だから撮影以外の時間がほとんどなくて、あまり話す機会なかったんですよね。

ー本作は南博さんの自伝的エッセイの映画化ですが、南さんにはお会いしましたか?

池松:撮影前にはありませんでしたが、撮影中に何度かお会いする機会がありました。宅見先生(佐野史郎)が演奏するピアノの手元を撮るシーンのときに弾いてくれたり、何度か見学に来てくださったり。原作や写真から受ける南さんの印象に影響を受けました。でもそれ以上のことはあえてしないということを今回は選びました。

―なぜそうしたのでしょうか?

池松:今作は南博さんご自身の体験を基にしたエッセイをお借りしているんですが、そこから映画としての意味を広げて、よくある実在の人物の体験記のような映画ではなく、「まだ何者でもない、名もなきピアニスト」を描いた映画を冨永さんも僕も目指していました。

ーつまり南博さんの存在を具体的に表現するよりも、あえて抽象化するようなアプローチをとることで、「実在の人物の自伝的な作品」以上の映画にしたかった。

池松:そうですね。

ーそれもあってか、夜な夜なキャバレーで演奏しながら葛藤する南にしても、知らないことばかりだけど体当たりで音楽にぶつかっていく博にしても、芸術を志す人間の業というか、人間そのものが映し出されていますよね。

池松:それは南さんの原作の持つ広がりとおもしろさ、それから冨永さんのキャッチするセンスによるところが大きいんですが、時代が大きく変わる前夜のあの頃の青春期を描きながら、時代を超越し、一人の人物の体験も超越して、人生そのものの甘美さ、滑稽さ、優雅さ、豊かさを、この音楽映画によって浮かび上がらせ、誰もが人生を感じるような映画を目指したいと思っていました。

鬼才サックス奏者、松丸契が映画初出演。池松壮亮が賞賛する芝居の裏側

―今回、松丸さんは映画初出演ですよね。演奏シーンがあるのは当然として、主演の池松さんとの絡みも、しっかりしたセリフもあります。出演オファーがあったときどう感じましたか?

松丸:「サックス奏者、演じてくれますか」みたいな感じで監督からオファーいただいたのがライブ直後だったんですよ。そのときは別に何も考えてない状態だったのからとりあえずOKして。その2年後に「撮影はじまります」「11月は押さえておいてください」って連絡があって、セリフがあるとかは何も聞かされてなかったです。

ー冒頭の池松さんとの共演のシーン、すごくいいですよね。

松丸:基本的に僕はそのシーンしかセリフはないんですね。見開き2ページぐらいで少ないんですけど、「役を演じる」ということをやったことなので、事前にめちゃくちゃ叩き込んで、全部覚えて、何度も練習して。

松丸:僕の撮影は11月の最後の日だったんですけど、11月頭からヨーロッパツアーに行っていました。ツアー中もずっと台本2ページを何度も読み返して現場に入ったんですけど、撮影5分前ぐらいに監督が「ちょっとセリフ変えますね」って全然違うセリフでどんどん変えていったんです。それを覚えて5分後に演じなきゃいけない。

すごくプレッシャーだったんですけど、池松さんが演技に集中する姿に助けられたんですよね。集中しているんだけど硬さはまったくなくて、カメラが回ったら演技に入るんだけど限りなく自然体で。その圧倒的なオーラと穏やかさに刺激されて僕もつられたというか、実際に撮るときはそんなに緊張しなかった気がします。

池松:松丸さん、素晴らしかったんです。ずっとチューニングしてる感じというか、そのチューニングの仕方もすごく独特で。イメージしたものを具現化してるんですが、そのイメージのとらえ方自体がおもしろかったです。きっと普段音楽で当たり前にやられていることなんだろうなと思って観察していました。

演出でいろいろ言われたことを受け止めながら、自分のセンスや感覚で役をとらえてお芝居をしていたんだと思うんです。そこに職業俳優にはできないものが確かにあったと思います。人は最終的に人間性に感動するものだと思うんですね。普段共演する方々と比べてという話をするつもりはないんですが、テクニックどうこうではない表現者としての人間性を松丸さんからたくさん感じて刺激をもらいました。

池松:松丸さんが持っている独特のピュアさ、淀みのなさ、魂の清らかさ、僕が少ない時間ながらに共に過ごして感じたそういったものが、存在そのものとともにスクリーンに映る。それに職業俳優は全然叶わない、なんてことが往々にしてあるんです。

サックスを吹いたときのあまりの説得力はもちろん、「これは何やってても成立するな」と感じました。でも映画の撮影は大変なこともあるので、「もう映画に出るのは嫌だ」と思われたり、映画を嫌いにならないでほしいなと思っていました。

松丸:(笑)。むしろ撮影をきっかけに、映画をしっかり見るようになりました。それこそ『ちょっと思い出しただけ』(2022年、監督は松居大悟)とか、『劇場版 MOZU』(2015年、監督は羽住英一郎)とかそれ以外も池松さんの作品を撮影前後にたくさん見ています。

池松:いま『劇場版 MOZU』を見る人、松丸さんくらいですよ(笑)。10年くらい前の作品ですから。

松丸:僕、そのとき日本にいなかったんで、日本の映画を全然知らないんですよ(笑)。僕はパプアニューギニア育ちで、そのときに池松さんのデビュー作『ラスト サムライ』(2003年、監督はエドワード・ズウィック)とかを見たりはしているんですけど、ちゃんと映画を見ることをしてこなかった。でも周りのミュージシャンには映画好きの人が結構いて。

ーそれこそ近年よく共演されている石橋英子さんやジム・オルークさんはかなりの映画好きとして知られていますし、映画音楽も多数手がけていますよね。

松丸:そうですね。ジムさんのスタジオには床から天井までいろんな映画のポスターで埋め尽くされているんですけど、それくらい映画好きな人たちなので一緒に飲むと必ず映画の話になります。

監督からオファーを受けたのは2年前で、石橋さんやジムさんたちと一緒に演奏するようになったのはちょうどその時期くらいなんです。いろいろ波長があったんだろうなと思います。今作を撮影する前も、『よだかの片想い』(2021年、監督は安川有果、音楽はAMIKO)とか『土を喰らう十二ヵ月』(2022年、監督は中江裕司、音楽は大友良英)とか、映画の劇伴でサックスを吹く機会もあって。それを経てのまさかの映画出演、みたいな(笑)。

松丸契演じるK助が、スクリーン上で特別な存在感を放っている理由

―本作について博とK助、南とK助の関係からお話を伺いたいです。

池松:とにかく僕はふたりの関係がすごく好きです。先日、冨永さんはこの映画について、「友達映画としての側面がある」とおっしゃっていました。

この映画では、南と博という人の人生をたくさんの人が通過していきます。K助もそのひとりなんですが、K助はどこか、この映画における間のような、南と博の人生の間のような、物語におけるターニングポイントで決まって主人公の側に現れます。この映画を主人公のイマジンも含めた青春の回顧録ととらえると、K助に関しては、どこか主人公の願望が生み出した存在、「天使」のような側面があるように思います。

どこまでが現実で、どこまで空想かもわからない世界で、ふたりが佇んでいたり、一緒に空を見上げていたり、ゴミやガラクタが捨てられた外灯の下で、言葉も交わさずセンションをしたり。ふたりのシーンがすごく好きなんです。

物語の中盤、K助と出会った南が調律の狂ったピアノでセッションするシーンより

池松:終盤、大団円のなかで飛び入りしてサックスを入れてくれるのもそうですね。この映画において特別な役割を、見事に、その存在丸ごとでやってくれていました。この映画で素晴らしい出会いをもらえたことにとても感謝しています。

松丸:こちらこそです。

ーK助は映画のなかでひとりだけ違う時間軸を生きているかのような、不思議な浮遊感がありますよね。

松丸:そうですね。撮っているときはどんな感じで映るのか全然わからなかったんですけど、試写で見たとき、「K助は、じつは存在してないんじゃないか」と思いました。そのあとの打ち上げでも話したんですけど、完全に空想上の人物なんじゃないかって。

―何がそう感じさせるんですかね。

松丸:僕が撮影期間の最後の2日間しか参加できなかったってことが、この感覚を際立たせているような気がします。僕が出演するシーンすべてをこの2日間のあいだに撮る必要があったので、演出として後半はほかのキャラクターと交わる場面が必然的に少なくなりました。

池松さんがおっしゃった大団円のシーンも、K助が1人だけ2階部分からサックスを演奏していたり、サックスの音は聞こえるのにK助の姿が映ってないカットもある。それによってさらにK助の存在感が不思議なものになっているんじゃないかなと思います。

南が所属する銀座の高級クラブ「スロウリー」での演奏シーン。K助もサックスで飛び入り参加する

即興、セッションと百戦錬磨の松丸契が驚いた「映画の現場」ならではの要求

ー「映画音楽」的なサックスの演奏、「現場で鳴っている音」を演出的に機能させているシーンがあったと思います。たとえば熊野会長(松尾貴史)がやられるシーンは特に印象的です。

松丸:あれは現場で吹きました。

ー演奏に関してどんな指示がありましたか?

松丸:僕はもうちょっとディレクションが本当はほしかったんですけど、「変な感じに思いっきり吹いてくれ」っていう抽象的な感じの指示で(笑)。「僕のことを信頼しすぎじゃないのか」と思いつつ、シーンに合わせるよう意識しながら思いっきり吹きました。

池松:冨永さんからの大きな信頼のもと、「出演兼映画音楽」のような役割を担ってくださっていました。松丸さんが即興でやってくれる音楽があまりにも素晴らしくて毎シーン胸が高鳴っていました。この映画のムードやトーンを決めてくれたようにも思います。でも映画って何度も同じお芝居を繰り返さなければいけないので、普段ジャズをやられている松丸さんには大変だったと思います。さっきと同じ演奏ができませんと困ってる松丸さんを何度も見ました。

松丸:会長がやられるシーンはまさにそうでした。スタッフさんの携帯をモニターにして映像を見ながら、Bluetoothのイヤホンでセリフを聞きながら、2分弱ぐらい場で吹くっていう。

松丸:ふたつのアングルから撮っているんですけど、「じゃあこっちから撮ります」って言われて、「え?」って(笑)。直前に吹いたやつをその場で聴き返して、運指を合わせて、もうひとつのアングルから撮った即興で演奏したものを再現しなきゃいけなかったんですよ。

撮影はサクサク進める必要があるので、運指を確認するために5分だけいただきましたが、本当に短かい時間だったので演奏に関してはそこが一番難しかったです。「即興演奏を再現する」ってことは音楽の現場でも稀にありますけど、その場ですぐに再現するのは初めてでした。

池松:松丸さんを2日間で濃厚なものに巻き込んでしまった感覚です。今回友人役として心を通わせて一緒にお芝居をしてみて、役のその奥にある「松丸契」という人の本質にとても興味が湧きました。

松丸:池松さんにそう言っていただけるなんて恐縮です。ありがとうございます。

芝居と音楽、芸術を志す人間として、自らを重ねて映画『白鍵と黒鍵の間に』を語る

ー物語の舞台となっているのは1988年で、その時点でジャズはヒップホップのサンプリングソースとなっていたり、ジャイルス・ピーターソンらDJによるアシッドジャズという新しいムーブメントが盛り上がっていくのもおおよそこの時期です。そういうようにジャズは当時いわゆる全盛期だったわけではなく、変化の渦中にあるのだけれど、南と博は一生懸命に自分の信じるジャズに向かっていこうとしていますよね。その姿勢はより普遍的だなと思うんです。

池松:劇中でもジャズをやって、「いつの時代の音楽やってんだ」というふうに怒られるシーンが出てきます。ジャズをやりたいけどやらせてもらえないピアニストの物語でもあるんですよね。

ーそうやって南と博の芸術を志す姿勢、美しいものを求めるまっすぐさに、おふたりは役者として、音楽家として共感するところもありますか?

池松:当然ながらあります。映画だっていつ化石のようなメディアになってしまうかわかりません。「映画俳優」という言葉もこの国では死語になりつつあります。これは極論ですが、誰も映画を観なくなっても自分は映画に夢を求め続けるのか、もっと極端なことを言うと、誰もいない無人島のような場所に行っても、映画を追い求めることができるのか、よく考えます。

今作は夢と現実の狭間に揺れながらも、生きている限り美しいものを生み出したいと彷徨い続けるピアニストのおとぎ話のような映画ですが、そのことの葛藤や奮闘を描いたもの、さらには夢にたどり着いたり、美しいものを生み出すまでの波乱万丈サクセスストーリーもののような映画では決してなく、そこに音楽があったこと、音楽で、そのままならない人生の隙間を埋めていたこと。

それそのものが人生であり、そのことをノンシャラントに祝福してくれるような映画だととらえています。——引いては映画があること。そのことをこの作品を通じて見せられるんじゃないかと思っていました。この映画ではそこを目指したいと思っていました。

松丸:この映画は40年近く前の時代を舞台にした話なので、「ジャズ」という言葉自体の意味も現在とはまったく異なるものだと思うんですね。でも南が留学を前にした音楽に対する思いは、いまの時代を生きる僕にとっても共感できるものかもしれない。

これは僕の感想ですけど、この作品は「ジャズ映画」ではないと思うんです。ジャズにフォーカスしているようでしていない。「ジャズって素晴らしいんだよ」ってメッセージがあるわけでもないし、ストーリー的にも「ジャズマンに俺はなる」みたいな熱血映画でもない。池松さんもおっしゃるように、そこにすごく惹かれる要素があるかと思います。

ー1982年、22歳の南さんは今作同様キャバレーでアルバイトをしていた時期に『ブレードランナー』(1982年、監督はリドリー・スコット)を観て、ヴァンゲリスが手がけた映画音楽に感動したときのことをこう記しています。

人間は音楽によってこれだけの影響力、美感を人に与えることができるという事実を再度まざまざと感じたのです
- 森本恭正×南博『音楽の黙示録: クラシックとジャズの対話』(2021年、アルテスパブリッシング)より

―南さんが記しているように、お芝居も、音楽も、美しいものを求める活動だと思いますし、そのことはこの映画でも表現されていると感じます。この点について、おふたりの活動の重なる部分からお話いただきたいです。

松丸:自分の音楽活動は、はたから見ていてわかりやすいものではない気はしているんですね。特定のジャンルがあったり、ひとつのバンドだけでやってたりすると説明しやすくて自分も楽なんですけど、自分がいいと思うものはある種すごく限られていて、言語化するのがすごく難しいからこそ苦戦する。

生活や人間関係や仕事上のしがらみなどいろいろなものが音楽活動において影響しあっていて、でもだからといってコアな部分を妥協してしまうと「美しいもの」は見ることができないんですよね。そういう意味で、この映画における南と博にとっての「ジャズ」のように、いろいろな困難や矛盾に直面しながらも、大切なものを軸に悪戦苦闘する姿は自分自身にも重ねられると思います。

あの時代でいうと、留学を目指すよりもクラブでずっと演奏し続けるほうが儲かったはずで。にもかかわらず、新しい景色を見るために留学する道を選ぶ。そこにはすごく大事なものがあるんじゃないかと思います。

ei Matsumaru『The Moon, Its Recollections Abstracted』(2022年)を聴く(Apple Musicはこちら

松丸:いまの時代は多数決で物事が決まったり、SNSで目立つものが強かったりしますよね。音楽も人気商売的な価値観でつくられたものがすごく多い状態だと思うんですけど、それでは絶対に体験できない表現方法が存在すると思っています。そういう意味で、この映画のつくられ方も、内容もすごく共感します。共感というか、すごく励まされる気がしました。

ー池松さんはいかがでしょうか?

池松:日々、これまで映画の力をまざまざと体感し、その力を信じてきました。ほかのどのメディアにもできない人間の真の姿、美しさを映すことができるのが映画だと信じてきた。でも、コロナ禍でこの国の映画のあり方、映画の価値そのものが議論され、「不要不急」と言われ、物語や表現の価値が低いことを直視させられたんです。

映画館から観客の足が離れ、誰もが大きなダメージを受けた。特にメジャー映画ではない、インディペンデントな作品や文化が過渡期を迎え、独立系のミニシアターがどんどん潰れていきました(※)。

南と博という人の人生に音楽があったように、この映画に誰かの人生のほんの隙間を埋められるような力があるかもしれない——「音楽があるから、大丈夫」「映画があるから大丈夫」そう思ってもらえるような作品になることを願いながら、僕はこの映画に取り組んでいました。

※関連記事①:「ミニシアター・エイド基金」深田晃司、濱口竜介らが記者会見(記事を読む) / 関連記事②:ミニシアターで働く人の危機で、濱口竜介が考えた「責任」(記事を読む

作品情報
『白鍵と黒鍵の間に』
2023年10月6日(金)テアトル新宿ほか全国公開
監督:冨永昌敬
脚本:冨永昌敬、高橋知由
音楽:魚返明未
原作:南博『白鍵と黒鍵の間に』(小学館文庫刊)

出演:
池松壮亮
仲里依紗
森田剛
クリスタル・ケイ
松丸契
川瀬陽太
杉山ひこひこ
中山来未
福津健創
日高ボブ美
佐野史郎
洞口依子
松尾貴史
高橋和也
プロフィール
池松壮亮 (いけまつ そうすけ)

1990年7月9日生まれ、福岡県出身。『ラスト サムライ』(2003年)で映画デビュー。2014年に出演した『紙の月』、『愛の渦』、『ぼくたちの家族』、『海を感じる時』で『第38回日本アカデミー賞』新人俳優賞、『第57回ブルーリボン賞』助演男優賞を受賞。2017年に『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』などで『第9回TAMA映画賞』最優秀男優賞、『第39回ヨコハマ映画祭』主演男優賞を受賞。2018年に『斬、』で『第33回高崎映画祭』最優秀男優賞を受賞。2019年に『宮本から君へ』で『第93回キネマ旬報ベスト・テン』主演男優賞、『第32回日刊スポーツ映画大賞』主演男優賞、『第41回ヨコハマ映画祭』主演男優賞などを受賞した。近年の主な映画出演作に『アジアの天使』(2021年)、『ちょっと思い出しただけ』(2022年)、『シン・仮面ライダー』(2023年)、『せかいのおきく』(2023年)などがある。待機作として『愛にイナズマ』が2023年10月27日に公開を控えている。

松丸契 (まつまる けい)

サックス奏者・作曲家。1995年生まれ、パプアニューギニア出身。村でほぼ独学で楽器を習得し、米音大卒業後、2018年より東京近辺を中心に活動中。石若駿、石橋英子、岡田拓郎、浦上想起、Dos Monos、ジム・オルーク、山本達久、大友良英など日本の音楽シーンを代表する様々な音楽家とメンバーやサポートとして頻繁に共演・共作している。2022年に最新作『The Moon, Its Recollections Abstracted』をリリースし、多方面で高く評価された。



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