沖縄陶芸の新星・今村能章がねらう、世界への挑戦

沖縄には古くから「やちむん」と呼ばれる伝統的な焼き物文化がある。今もその手法を活かし、登り窯で焼かれたあたたかな風合いのお皿や茶碗が多く作られ、伝統工芸として広く発達してきた。やちむんは工房や窯元によって特徴があれば、若手の作家たちの新しい感性も加わり、現在、沖縄の器が持っている個性は本当に様々だ。

しかし今回登場する「今村能章」の作品は、そんな沖縄の多彩な陶芸家たちの中にあって、まったく異質な存在と言える。形、質感、手触り、模様、色彩、そのどれもが何とも違っており、それは「沖縄の陶芸家」という括りをはねつける圧倒的なオリジナリティなのだ。

今村は兵庫県出身。18歳の時、進学のため初めて沖縄の地を踏んだ。大学院も含めて8年間、陶芸を学び、研究・実験を繰り返し、創作を続けてきたのは、沖縄が持つ不思議な力に惹かれたからに他ならないことを彼は自覚している。

沖縄の土も使わない。登り窯でも焼かない。どの工房にもギャラリーにも属していない。それでも「沖縄でやる意味」が自分にはあると信じている。その作品の奥の奥に、今村能章が沖縄でつくり続ける意味が宿っている。

※本記事は『HereNow』にて過去に掲載された記事です。

“見たことないものを見てみたい”

—今村さんは沖縄県立芸術大学の陶芸科で、沖縄の伝統的な陶芸(やちむん)についてしっかりと学んだそうですね。

今村:がっつり教わりました。最初の1年は絵画も彫刻も陶芸も全部やるんですが、2年からはひたすらやちむんについて学ぶんです。だけど陶芸をやりたくて沖縄に来たわけではなかったので、それが苦痛で。

—でもそもそもなぜ沖縄の芸大に? ご出身は兵庫ですよね。

今村:昔から美術だけは得意だったので、美術系の大学に行こうと決めたんです。だから大阪芸大、金沢美大、そして沖縄県芸の3つ願書出したのですが、そのうちの最初の試験が沖縄で、それが受かったから、他は受けずに沖縄に決めて。

—初めて沖縄に来た時の印象はいかがでしたか?

今村:当時「ちゅらさん」という朝ドラをやっていたので、沖縄にはそのイメージを持っていました。“島人(しまんちゅ)”みんな友達で、海と赤瓦しかない場所と思っていたら、ちょうど那覇市内にゆいレール(沖縄のモノレール)が出来る時期で、那覇はものすごく都会だし、思っていたイメージと全然違っていて、それが結構ショックでした。でもとりあえず4年間は沖縄でやってみようと。

—と言いながら、今村さんは大学院まで合わせると8年間在学したとのことですが、陶芸を学んでいくうちに、そこに面白さを見い出したのでしょうか。

今村:最初の2年は普通に陶器のお茶碗やお皿をつくったりでしたが、3年生の授業の時に初めて何でもつくってもいいという授業があったんです。お茶碗をずっとつくらされていた反動で、その時、僕はオブジェをつくろうと思って、陶器の粘土を延ばしただけの棒を立てて窯の中で焼いたんです。そしたら熱でグニャグニャになって焼き上がってきた。いままでは完成を想像してお茶碗を目指してつくっていくやり方だったのが、それを見た時、陶芸の魅力というのは、もしかしたら「焼く」ということなんじゃないかと思いはじめたんです。

—出来上がりを目指すのではなく、その過程の「焼く」という行為に興味を感じたと。

今村:同じ時期、別の授業で釉薬(陶器の表面に塗る薬品)の授業がありました。陶器の母体に0.何ミリかの薄い釉薬をかけるといろんな色や光沢が生まれるんですが、その授業に、僕はそこにもどうしても違和感を感じずにはいられなかった。そもそも「母体ありきの釉薬」という考え方は違うんじゃないかと思ったんです。それで、釉薬だけで作品をつくれないだろうか、と、その実験をはじめました。

—釉薬だけ焼いて、それは形になるのですか?

今村:ならないんですよ。ならないからこそ、それをどうやって形にしようかと考える。それでまず粘土で箱をつくって、その中に調合した釉薬の粉を詰め込んで、箱の下に穴を空けておくんです。それを窯の中で焼くと、溶けた釉薬がその穴から溶けて流れ出てくるんです。

—流れ出るマグマを固めたような感じになるんですね。

今村:そうなんです。一時期はそんな変わったオブジェばかりを作っていたました。というのも、釉薬だけで作品をつくったら「地球のどこかで起きた現象を、俺がつくり出しているんじゃないか?」という不思議な感慨があって。それで陶芸というより、熱を扱うことや、地球のいろんな原料を世界中から取り寄せて自分で調合したりすることがすごく楽しくなったんです。結果、ひたすらそればかりやってて、気づいたら8年間大学にいた感じです。

—自然現象的なものをつくり出すことに面白みを感じた、と。

今村:いまはネットで世界の何でも見ることができるけど、子どもの頃から、つちのことかネッシーとか未確認生物が好きで、誰も見たことないものを見たいという欲求が強くあったんです。その流れだと思うんですよね。自分の手でつくりたいというのは。

“自分ではあまり陶芸をやってる感覚はないんです”

—同じ陶芸科の友人も含め、周りには多くの陶芸作家がいるかと思いますが、そこからの影響は受けなかったのですか?

今村:僕が大学生の頃、大嶺實清さん(沖縄の陶芸界の第一人者)が芸大の学長だったんです。それもあって芸大出身の人たちは、作家になる前に大嶺工房に入って作家になるという流れがあり、先輩や同じ学年の友達も入ったりしていました。そうやって沖縄の文化や伝統を受け継いでいくこと、そこから新しい作品をつくり出す人たちへのリスペクトは強く持っているんです。だけど、僕は、純度の高い自分でいたいという気持ちの方が大きかったんだと思います。

—純度の高い自分というと?

今村:あまり人の影響を受けたくないと思っていたんです。工房に入ってしまうと少なからず影響は受けるだろうし、その工房のカラーが染みついてしまうんじゃないかなというのがあって。だからできるだけ自分の素の状態から出て来たものだけでやっていきたいという想いが強かった。当時、いろんな人の作品展にも足を運んでいたのですが、陶芸の展示会には興味がなくて、ファッションの展示会とか、博物館とか、そういうところばかり行ってたんです。

—陶芸の中にいながらも、別ジャンルとの結びつきの中から作品をつくっていきたかった、と。

今村:そうだと思います。だから自分では「陶芸家」と言いたくないんですよ。人がそう呼ぶのはいいんですが、自分からは陶芸家とは言わないようにしています。手段は陶芸なんですけど、自分ではあまり陶芸をやっている感覚はないんです。

“全部ふっきれて、沖縄の強みが自分の中ではっきりとしてきた”

—沖縄の風土や自然は作品に影響していますか?

今村:それはすごく影響しています。僕みたいなタイプの陶芸は、「沖縄でやる意味あるの?」ってよく言われるんですよ。「沖縄でやるんだったら、やちむん的なことをやって、登り釜で焚いてなんぼじゃない?」ということを言われて悩んだ時期もありました。それに僕はいろんな場所の土や石を使うので、原料一個買うだけでも何千円と送料もかかるし、そういう意味でも沖縄という場所はむしろ圧倒的に不利。

—なるほど。

今村:やっぱり沖縄の土を使った方がいいんじゃないかとか、いろいろ悩んでいた時期に、ヨーロッパに行く機会があったんです。それがきっかけなんですが、外から見れば、沖縄も東京も北海道も日本という同じ括りだし、もっと言えば、沖縄も台湾も中国もアジアだということに、ふと気づいたんです。

—俯瞰した目線で沖縄を見た、と。

今村:世界中にはいろんな原料があるんだし、いろんな現象が起こっているんだから、自分は沖縄の空気感は活用するけれど、いろんな可能性を引っ張って来てそれで自分のものをつくればいいんだという気持ちになって。そのときはじめて沖縄にいるから沖縄の物を使うとか、沖縄にいるから自分の踏みしめている大地の土を使うっていう感覚にやっと縛られなくなったんです。

—作品への向かい方も変わっていきましたか?

今村:だいぶ変わりましたね。つくっているものは大きくは変わってないんですが、つくるときの姿勢とか気持ちからまったく変わりました。今は起きている間はずっと陶芸したいという気持ちですし、それも、素直にいま自分が沖縄にいることも受け入れられるようになったことが大きいと思います。沖縄を出たいという気持ちもなくなったし。

—それまでは環境を変えたいという気持ちもあったんですね。

今村:たとえば岐阜県の多治見や信楽などに行くと、陶芸をやる者にとってものすごく環境が整っているんですよ。ギャラリーも多いし、つくればつくるだけ注目する人もいる。作品のレベルも高く、それぞれに侘び寂びや味があって、そういう環境にもまれて闘いたいという気持ちがあったんです。だけどそれが全部ふっきれて、沖縄の強みが自分の中ではっきりとしてきた。単純なことですけど、すぐそこで美味しい人参や野菜が手に入るし、ちょっと行けば海がある。そして外国人も多いから和洋折衷な雰囲気になる。一見すると僕の作品は沖縄っぽくないかもしれないけれど、自分の中では沖縄から感じているものが作品の中にすごく影響しているとはっきり言えるようになったんです。

—確かに沖縄は、目に見えないものの多くが暮らしのすぐそばにある場所です。

今村:そうなんですよね。沖縄にある霊的な文化や見えないものに対する敬意、そういうことをちゃんと落とし込めているかが大切だというふうに思えてきました。

夢は陶器でパリコレに

—作品を作る上でのテーマやコンセプトのようなものはありますか?

今村:あります。テーマは昔からずっと変わっていなくて、それは「いつの時代かどこの国か判別できないものをつくりたい」ということなんです。

—今村さんは自身のアトリエを「studioooparts」と名付けていらっしゃいますが、「ooparts(オーパーツ)」とは、考古学上、その成立や製造法が不明だったり、当時の文明の加工技術や知見では製造が不可能と考えられているものですよね。つまり、このアトリエは、そういうものをつくり出す場所、ということでしょうか?

今村:オーパーツは日本語では「場違いな工芸品」と訳されているんですが、いま、僕は陶という手段で、様々な粘土や地球がくれた鉱物から、練金術のごとく、現代のオーパーツをつくっていきたいという想いがあるんです。そういう意味でも沖縄という場所にいて感じ取り受け取るものは多いと思います。僕は実家がキリスト教で、幽霊とかそういうのはいないと育てられて来たんですよ。だけど沖縄に来たらその真逆で、見えないものがたくさん感じられるし、そのギャップに衝撃を受けて、それが沖縄の魅力だと思えた。ここで制作していくことで、目に見えない不思議な魅力や怖さ、そういうところを作品に落とし込むということをしているんだと思います。

—最近では、東京や京都などでの作品展を積極的に行っていらっしゃいますが、沖縄で陶芸をやる意味を自分の中に見い出しながらも、作品は沖縄を越えて外へと飛び出している印象です。これから目指しているところはどういうところなのでしょうか

今村:陶器でパリコレに出てみたいという夢があるんです。これは昔から言っていて、みんなにバカにされたり、面白いと言われたりと反応は様々なんですが、僕はランウェイを歩いているモデルさんがワイングラスを持って歩いてもいいじゃないかと思ってる。そういう気持ちから千鳥柄のワイングラスをつくっていて、そういうところに陶芸を食い込ませていきたいという淡い夢は持ち続けています。パリコレはひとつの例としても、そんなふうに何かを突き詰めて表現している他ジャンルの人たちともっとセッションしてみたいという気持ちは強いです。そのためにも、自分もひたすらレベルを上げることに専念したいと思っています。

—沖縄でこれからもつくり続ける、ということですね。

今村:そうですね。いまは永住してもいいとさえ思っています。沖縄にいながら、世界に勝負をかけられる、ということがわかったので。

プロフィール
今村能章

1984年兵庫県出まれ。18歳の時に純度の高い自然や、民族的な文化に惹かれ沖縄へ移住。沖縄県立芸大の大学院 (陶芸科)を卒業後、2013年にアトリエ「studioooparts」を構え、創作活動を本格的にスタートさせる。 oopartsとは、out-of-place-artifacts の頭文字からなる造語で、日本語では「場違いな工芸品」と呼ばれ、科学では説明のつかない不思議な人工物を指す。幼いころからオーパーツや超常現象など説明のつかない存在に強く惹かれ、いつしか自分でつくりたいと思うようになっていた。現在は、沖縄のみならず、東京、関西などでも作品展やグループ展に参加し、着実にその名前を広めている。



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