ヨーロッパ流浪から帰ってきた画家・中島由夫の過激な半生

「中島由夫」という名前は、日本よりもスウェーデンで広く知られているらしい。若き日にはヨーロッパ各国を放浪し、西ヨーロッパで起こった前衛芸術運動「コブラ」のメンバーとも関わった中島。その後、スウェーデンを安住の地と定め、約50年にわたり彼の地で活動を行った。彼の独創的な作品は北欧の人々の心を惹きつけ、スウェーデンでは「中島由夫美術館」が2003年に設立されている。

そして5年前より、再び日本で活動を行っている中島は今年で73歳。しかしアトリエにお邪魔したわれわれを迎えてくれた彼は、その年齢を感じさせないほどのエネルギーを爆発させ、立て板に水の如く上機嫌で喋りまくる。さらに、今日のために引き剥がしたというカーテンをキャンバスに見立て、ライブペインティングまで披露してくれるというサービス精神(!)。これまで、少なくないアーティストたちに取材をしてきたが、こんなにもエネルギーに満ち溢れている人ははじめてだ。いったい、中島由夫とは何者なのだろうか? パワフルで、濃厚で、過激な彼の半生を語ってもらった。

画家になろうと思って東京にやってきたんです。

―先程は、突然のライブペインティングをありがとうございました。中島さんの経歴は波瀾万丈すぎてどこから伺えばいいのやら……といった感じですが(笑)、まず中学卒業後、故郷の埼玉県から上京を果たしていますね。

中島:画家になろうと思って東京にやってきたんです。小学生のときに教科書でゴッホの作品を見て衝撃を受け、絵描きになろうと決意しました。集団就職で上京し、仕事をしながら夜間学校に通い、絵を描き続けたんです。それでようやく武蔵野美術大学に入学したのですが、当時は安保闘争が激しい時代。美術大学では、みんな絵を描かずに政治運動ばかりしていました。それが嫌で大学を辞めてしまったんです。

中島由夫
中島由夫

―そこから画家への夢はどうやって実現したのですか?

中島:芸術活動を続ける中で、さまざまなアーティストと出会うことができました。ダダカン(糸井貫二 / 前衛パフォーマンスアーティスト)や、松澤宥(日本のコンセプチュアルアートの先駆者)といった、今では伝説的な人たちですね。当時から路上パフォーマンスを行っていたのですが、そのときに出会ったのが、当時の日本のアートシーンを研究していたオランダ人のダニエル・ヴァン・ゴールデンという人物。彼からヨーロッパのアートシーンの状況を教えられ、いてもたってもいられず日本を飛び出したんです。

―中島さんは1964年、24歳のときに日本を脱出し、オランダに向けて旅を開始されています。ただ、気軽に海外旅行に行ける現代とは異なり、当時は海外に出ることさえ難しかった時代ですよね。

中島:パスポートを作るだけでも一苦労だし、国外に持ち出せるお金も決められていました。数年間、どうやったらヨーロッパで暮らせるのかを必死で考えていましたね。ダニエルに頼んで紹介状を書いてもらい、留学生としてなんとか香港までのチケットを買うことができました。ただ、いざ香港に着いても、その先へどうやって行けばいいのか分からない。それで「絵を描きたい」「ヨーロッパに行きたい」と言っていたら、密輸船の手配師がいて、船に乗せてもらうことができました。その船はベトナムに行くんですが、港に着くと警察に包囲されていた……。慌てて水の中に飛び込んだんですが、ボコボコに殴られましたよ(笑)。

中島由夫

―なかなかスムーズにヨーロッパまで行き着きませんが……。

中島:それからは、ヒッチハイクをしながら中央アジア、中近東を経て、およそ半年かけてヨーロッパに入ります。イタリアでは、詐欺にあって一文無しになったり、泳いでいたら洋服を全部盗まれたり散々な目にもあいました。仕方なく酒場でうずくまっていたら、酔っぱらいにおしっこを引っ掛けられたこともあります。いろいろな経験を積みましたね。

―約50年前に、ヒッチハイクでユーラシア大陸を横断してしまったんですね。ところで、この旅の最中に、絵は描いていたんでしょうか?

中島:絵を描いて売ってもいましたし、日本の歌を歌ったりしていました。人前でパフォーマンスをすることが好きだったからね。それで日銭を稼いでいたんです。

オノ・ヨーコやジョン・ケージのパフォーマンスを観たけど、おしゃれでインテリぶったものにしか見えなかった。自分ならもっと面白いパフォーマンスができるという意気込みで、必死で身体を張っていました。

―旅の目的地は、オランダのロッテルダムでしたね。

中島:ダニエルはロッテルダム芸術アカデミーの教授だったんです。はじめはインチキだろうと思っていたんですが、ロッテルダムに着くと本当に教授として在籍していたので驚きました。彼は「コブラ」のメンバーとも関わりがあり、具体美術(1950年代に日本で起こった前衛芸術運動)のことを研究するために日本に住んでいたんです。ただ、いざロッテルダムに着いたものの、美術学校はすぐに辞めてしまいました。いろんな国を旅をしてしまうと、一箇所にとどまって絵を描いていることがつまらなくなってしまったんです。それで、またフランスやベルギー、イギリス、ドイツなどヨーロッパ各国を転々としていました。

中島由夫

―ヨーロッパ各地を放浪しながら、たびたび国外退去処分にもなっていますね。

中島:ベルギーでは、無許可でパフォーマンスを行っていたことから国外退去処分を受けました。オランダでは、パフォーマンスをしていたところ、政治運動に巻き込まれ、危険なアナーキストとみなされたことによって国外退去に。僕自身は政治活動をするつもりはなかったんですが、当時は全身を血だらけにするようなパフォーマンスを行っていたので、そういう人々と一緒にされてしまったんです。

―血だらけ……ですか。

中島:日本にいたときから、オノ・ヨーコやジョン・ケージの前衛的なパフォーマンスを観ていたんだけど、どうもつまらない(笑)。自分自身も若かったから、彼らの表現がおしゃれでインテリぶったパフォーマンスにしか見えなかったんです。自分ならもっと面白いパフォーマンスができるという意気込みで必死で身体を張っていました。当時こそ国外退去となりましたが、僕が行ったパフォーマンスは、今ではオランダの美術館資料に記録されています。

中島由夫

―他の国々ではどのような扱いを受けていたのでしょうか?

中島:パリは唯一パフォーマンスを歓迎してくれた街でした。フランス人は、変なものを観るとすぐにお金をくれるんです。他の国よりもチップをたくさんもらい、生活はしやすかったですね。ただ、美術学校の聴講生にもなったんですが、みんな女の子と遊んでばかり。誰も真面目に絵を描いていなかったので、この国では芸術ができないと絶望したんです。それで当時、現代美術シーンの中心地として台頭していたアメリカに行こうと考えて、船代を稼ぐために仕事をはじめました。けれども、スウェーデンに滞在中、妻の妊娠などの理由によってアメリカ行きは中止せざるを得なくなってしまった。そのため、スウェーデンを拠点にして活動をはじめたんです。1966年ですね。

―やっとスウェーデンにたどり着きました(笑)。ところで中島さんといえば、ヨーロッパの前衛芸術運動「コブラ」のメンバーとも関わりがあったそうですね。コブラ運動は、教科書的な解釈では「アフリカンやネイティブアメリカンなどの文化に影響を受けた、一切の制約を認めない芸術運動」と言われています。実際、中島さんはコブラ運動をどのように考えていたのでしょうか?

中島:コブラの創始者であるアスガー・ヨルンと出会ったのは1964年、ちょうどオランダに着いたときでした。コブラ運動の特徴は、頭ではなく身体で芸術を作ること。ある意味、子どもの無邪気さのようなものですね。当時僕は、芸術はインテリのものではないんだと強い反感を持っていたんです。

中島由夫

―その後、スウェーデンを活動拠点に定め、約50年間も作家活動を続けてきた中島さんの目から見て、日本とヨーロッパではアートを取り巻く状況はどのように異なっているのでしょうか?

中島:日本では、新しいアートの流行を無視することが難しいですよね。たとえば、日本で「パフォーマンスをやりたい」って言うと、返ってくる反応は「古い」というもの。パフォーマンスは1950年代~60年代で終わったものだと解釈されているんです。しかし、ヨーロッパではそのような周囲の流行を気にせず、自分のやりたいことをやっていても面白いものであれば周囲は認めてくれるんです。また、芸術に対する市民の考え方も異なっていますね。ヨーロッパではどこの家でも絵をたくさん持っています。特にスウェーデンでは、税金の一部を美術品の購入にあてて学校や病院に飾っています。それだけでも、日本の環境とは大きく異なりますよね。

できあがった作品が「いい作品」かどうかを評価する前に、作品に自分の心をぶつけたい。芸術とは、本来自分の精神をぶつける場所であり、だからこそ美しいものなんです。

―この2月に中島さんは、JR中央線高円寺駅~国分寺駅区間をメインに展開しているアートプロジェクト『TERATOTERA』が開催するイベント『Civic Pride わたしたちのマチ・わたしたちのアート』の一環として、JR三鷹駅北口交番横でライブペインティングを実施します。これは、いったいどのような内容になるのでしょうか?

中島:先日、会場の下見に行ったんですが、駅前にあるとても人の通行量の多い空き地にパネルを張ってもらって、2日間かけて絵を描くということは決まっています。

―今回は美術館ではなく、一般の市民が通るような場所でのライブペインティングになりますね。間近で創作の現場を見る市民に、どのように参加してほしいですか?

中島:たとえば街を歩く人が、僕の描いた絵の上にさらに絵を描いたり、色を塗ったりしてくれたらおもしろいですね。僕の絵が嫌いだったら壊してくれても構わないし、意見がかみ合わなければ取っ組み合いの喧嘩をしてもいい。できあがった作品が「いい作品」かどうかを評価する前に、作品に自分の心をぶつけたい。芸術とは、本来自分の精神をぶつける場所であり、だからこそ美しいものなんです。

中島由夫

中島由夫

―中島さんは10代の頃から、さまざまな場所でパフォーマンスを行ってきました。絵を描くだけに飽きたらず、自らの身体をぶつけてパフォーマンスを行うことは、「自分の精神をぶつける」ということと深い関係がありそうですね。

中島:パフォーマンスには、いいも悪いもありません。大切なのはいかに自分をさらけ出せるか、自分の精神をどこまで相手と共鳴させられるか。自分の中にあるどうしようもないエネルギーをぶつけてわめきたてるんです。コブラの精神というのはまさにそういうものでした。そもそも、僕が中学を出て上京した頃に抱いていた夢は、いい美術学校に入り、公募展に入選して美術団体の会員になるというものでした。今考えれば、それはなんてつまらなく、くだらない目標だったんだろうと思います。芸術とは、もっとドロドロとしたすごいものなのではないでしょうか。

―現在、中島さんは73歳です。今後どのように自分の活動を行っていくのでしょうか?

中島:スウェーデンでは、僕のスタイルは認められて、評価されましたが、それ以上のものを描いてみたいですね。そのため5年ほど前から再び拠点を日本に移して活動を行っています。日本では普通の暮らしをしてみようと思い、アルバイトを見つけて1年間通ったりもしています。

中島由夫

―え? アルバイトですか?

中島:810円の時給で、釣り堀の掃除を行っていました。もちろんそれはお金のためではありません。50年以上毎日絵を描いてきたから、普通の人間としての生活をしてみたかったんです。1964年に日本を出ていろんな国を見て周りましたが、現在は、もう一度やり直しの時期に来ているのではないかと思っています。自分の原点に立ち戻り、日本でもう一度画家になりたいと思っているんです。

イベント情報
『Civic Pride わたしたちのマチ・わたしたちのアート』

2014年2月22日(土)、2月23日(日)12:00~18:00
会場:東京都 JR三鷹駅北口周辺施設、空店舗など8か所
参加アーティスト:
中島由夫
山本高之
飯川雄大
山本篤
永畑智大
福永信
料金:無料
主催:東京都、東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)、一般社団法人Ongoing

プロフィール
中島由夫 (なかじま よしお)

1940年、埼玉生まれ。1960年代にハプニング集団「アンビート」で数々のパフォーマンスを実施。1964年に渡欧後は、オランダ、ベルギー、フランスなどを放浪し、アスガー・ヨルンを中心に活動したコブラ芸術運動とも関わった他、スウェーデンを拠点に約50年、第一線で作家活動を行なう。2008年から日本での活動を開始。パブリックコレクションは北欧を中心にアントワープ美術館、ストックホルム近代美術館など多数。主な受賞歴は、『スウェーデン政府文化アカデミー賞』(1978年)など。



フィードバック 3

新たな発見や感動を得ることはできましたか?

  • HOME
  • Art,Design
  • ヨーロッパ流浪から帰ってきた画家・中島由夫の過激な半生

Special Feature

メタ・サピエンス──デジタルとリアルが溶け合う世界を探究する

デジタルとリアルが融合する世界。世界はどう変化し、人々はどう進化するのだろうか?私たちはその進化した存在を「メタ・サピエンス」と名づけ、「Humanity - 人類の進化」「Life - 生活・文化の進化」「Society - 社会基盤の進化」の3つの視点からメタ・サピエンスの行動原理を探究していく。

詳しくみる

JOB

これからの企業を彩る9つのバッヂ認証システム

グリーンカンパニー

グリーンカンパニーについて
グリーンカンパニーについて