メジャー映画の限界を知り転機をつかんだ入江悠が前川知大と語る

「二十一世紀初頭――ウイルスにより人類の大半が死滅。生き残った人類は二つに分かれて暮らしていた」。入江悠監督の最新作『太陽』は、そんなテロップとともに幕を開ける。ウイルスの感染を克服し、心身ともに進化した引き換えに、太陽の下では生きられない体質になってしまった新人類「ノクス(夜に生きる存在)」。もう一方は、太陽の下で自由に生きられるものの、ノクスに管理されながら、貧困のもとで生きる旧人類「キュリオ(骨董的存在)」だ。

2011年、「劇団イキウメ」によって初上演された舞台を映画化した本作。神木隆之介と門脇麦という若手実力派俳優を主演に擁するこの映画は、入江監督が「ずっと作りたかった」という初の本格的なSF作品でもある。SF作品がもたらす、思索的な醍醐味とは? 映画と演劇を横断する作品作りの意義とは? 入江悠と劇団イキウメの主宰・前川知大、気鋭のクリエイター同士ならではの刺激的な会話が繰り広げられた。

メジャー映画を撮ってみて良かったのは、日本映画でできることの限界がなんとなく肌感覚でわかったこと。(入江)

―まずは本作の経緯から教えてもらえますか?

入江:今から3、4年前、『SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』の公開が終わったぐらいの頃、次は何をやろうか漠然と考えていたんです。そんなとき、映画のプロデューサーから「劇団イキウメの『太陽』という芝居が面白いんだけど、これを映画化できないか?」という話をいただいて。戯曲も公演のDVDも「うわっ、面白い!」と思って、そこから映画用の脚本を開発し始めました。

―入江監督は、この戯曲のどんなところに惹かれたのでしょう?

入江:『ターミネーター』とか『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が全盛だった頃のハリウッド映画を見て育ったので、もともとSFが好きだったんです。あとは、『マッドマックス』みたいに、世紀末感のある近未来SF映画とか。いつかそういう映画を撮ってみたいと思っていたんですけど、同じことを日本映画でやるのは難しいだろうなって悶々としてたときにこの原作に出会って、「こういう話なら、実現できるかも」って思ったんですよね。

前川:はじめに入江監督にお会いしたときも、「日本映画にはあんまりSFがないけれど、これならできるんじゃないか」と言ってくださったんですよ。実は演劇でSFをやろうとすると、ちょっとネタものになりやすいところがあって、僕が演劇を始めた頃は、シリアスなSFの芝居があまりなかったんです。だからこそ、僕はSFの芝居をやりたかったのですが、入江さんが映画界に抱いてる思いと自分が演劇界に感じてることが近いような気がしたんですよね。

―たしかに日本映画の環境で、ハリウッドのようなスケールのSF作品を撮るのは、なかなか難しいところがありますよね。

入江:ただ、この映画って、最初に脚本を書き始めてから実際に撮影するまで、2年ぐらいかかっていて。そこで意外と良かったのは、その間に『日々ロック』と『ジョーカー・ゲーム』というメジャーの映画をやれたことなんですよね。メジャーの映画は、日本映画のなかで予算があるとされているんですけど、そこでできることとできないことが自分のなかで相対化できて、メジャーに対してぼんやりと抱いていた夢みたいなものがクリアになったんです。

入江悠
入江悠

―というと?

入江:端的に言ってしまえば、日本映画でできることの限界がなんとなく肌感覚でわかった。だから、この『太陽』を映画化する際に、過剰な期待をせず、できるだけロケーションやセットを限定していく方向にシフトしていきました。そういうふうに考えられるようになったのは、この映画にとって、すごく大きいことでしたね。

前川:それって、ちょっと演劇的ですよね? 演劇も物理的な制約が多い分、そのなかでどうするかってことをすごく考えるので。

入江:そうですね。だから多分、あのときにメジャー映画をやらずに『サイタマノラッパー』のテンションのままで映画を作り続けたら、僕は日本映画というものに過剰な期待を持って、『ガタカ』(1997年のアメリカ映画。遺伝子操作に寄って「適正者」と「非適正者」に分けられた近未来の社会を描いたSF作品)みたいなことをやろうとして、挫折したかもしれない。この作品の場合、映画にしようとしてから、もう一度演劇の良さを再発見するような手順を踏んで、また新しい映画の作り方に挑戦できたような手応えがありますね。

久しぶりに「あ、これ、何かモノを作っているな」っていう実感がありました。(入江)

―前川さんは、実際に映画を見ていかがでしたか?

前川:原作者として「これじゃない」っていうのが全然なかったので、そこがすごいなって思ったし、率直に嬉しかったですね。実は僕が最初に書いた脚本では、登場人物たちがどんな家に住んでいて、どんな服を着てて……みたいなことは、ほとんど描写してないんです。舞台の美術もちょっと座れるベンチと鉄柱みたいなものがあるぐらいで、ものすごく抽象化していましたし。

『太陽』 ©2015「太陽」製作委員会
『太陽』 ©2015「太陽」製作委員会

―そうだったんですか。

前川:芝居というのは、俳優なり劇場なり、そのときどきの条件のなかで作っていくものですし、台詞や美術を糸口に、お客さんの頭のなかでディテールを想像してもらう表現形式でもあるので。ただ、僕のなかでこれが正解っていう漠然としたイメージはあるので、監督が実際に撮った映像を見るまで、不安なところもあったんですけど。

―お互いのイメージの擦り合わせみたいなことを、実際にされたのですか?

入江:細かいビジュアルというよりは、この物語の主軸である「ノクス」と「キュリオ」について相当話しました。神木(隆之介)くんや門脇(麦)さんが演じる旧人類の「キュリオ」のほうは、わりとすぐにイメージできたんですよ。僕らには、昭和期や戦前の記憶や記録があるから、「キュリオ」の生活の貧しさは、イメージできるんです。ただ、古川(雄輝)くんらが演じる「ノクス」という未来の人間については、参照するものがないんですよね。

『太陽』 ©2015「太陽」製作委員会
『太陽』 ©2015「太陽」製作委員会

前川:そもそも、人間以上の存在という設定なので、僕ら人間にはなかなか理解できない(笑)。ただ、「ノクス」というのは現在の僕たちの理想の反映だし、やろうと思ってもできないことをクリアしている存在なんですよね。そこから逆算して、今、僕らの前に、文明的、社会的にどんな壁があって、どうしてそれを超えられないのかを考えていった。「ノクス」について、監督と2時間ずっと話し続けたりもしましたよね(笑)。

入江:ずーっと話していましたね(笑)。でも、そうやって考える作業が、僕は非常に楽しかったというか、久しぶりに「あ、これ、何かモノを作っているな」っていう実感がありました。

前川:僕はこの戯曲の作者ですが、書いた時点では全てを理解しているわけではないんですよ。でも映画を作るうえで、入江監督といろいろ話し合ったり、自分で小説版を書くなかで、改めて理解を深めていきました。普段自分の作品を、ここまで耕すことってなかなかないですよ。

前川知大
前川知大

―一度作り終えた作品を映画化する作業のなかで、新しい発見があったりも?

前川:はい。この『太陽』という話は、もともとヴァンパイアものとしてスタートしたところがあって、やればやるほど「ノクス」という存在が、「死者」に近づいていく感じがあるんですよね。で、今回発見したのは、映画のなかで「キュリオ」の村と「ノクス」の町のあいだに川が流れていて、大きな橋が架かっていて。その川から湯気がバーッと立ち上るシーンを思い出しながら、これはそれこそ「三途の川」なんじゃないかと思ったんですよね。

―彼岸と此岸を分ける「三途の川」ですか?

前川:そうそう。彼岸と此岸の感じがすごく出ていて、そうするとますます「ノクス」の本質が、歳をとらないことも含めて、ある種「冥界」のイメージとも繋がるのかなって。

入江:なるほど。そう考えると、黒沢清監督の『岸辺の旅』とかにも、ちょっと近づいていきますよね。死者と生者が普通に一緒に生活できてしまう社会のあり方というか……。「ノクス」という存在を突き詰めると、まだまだ面白いことが浮かびそうだな。

あのクライマックスシーンの長回しは、映画ならではの演出ですよね。(前川)

―そもそもSFというもの自体が、ある特殊な状況を設定して、そのとき人間はどうなるか? という思考実験をおこなう表現形式でもありますもんね。ところで、前川さんの脚本には細かい演出が書かれていなかったということですが、ロケハン含め、映画のルックはどのように決めていったのですか?

入江:今回、近藤龍人さんという同世代では最高峰の撮影監督にお願いして。ずっと一緒に仕事をしたかったんですけど、なぜかというと、近藤さんは自然を撮るのがすごくうまいんですよね。僕らは撮影中に、どうしても俳優さんの顔を中心に見てしまうけど、近藤さんの撮影って、「その環境のなかにいる人」を、ちゃんと捉えてくれるんです。どの映画を見ても、それがすごく際立っている。

『太陽』 ©2015「太陽」製作委員会
『太陽』 ©2015「太陽」製作委員会

―たしかに、最近の多くの話題作が、近藤さんの撮影によるものですよね。

入江:『そこのみにて光輝く』(2014年)もそうでしたし、『桐島、部活やめるってよ』(2012年)でも学校という状況にいる人をちゃんと撮っている。近藤さんだったら、「キュリオ地区」というもののなかにいる人たちを、きっちり捉えてくれるんじゃないかと思ったんですよね。

―さらに撮り方についてもう一つお聞きしたいのですが、重要なシーンで長回しを使っているのにはどんな狙いがあったのでしょう?

入江:この物語って、ある状況で右往左往している人たちの話じゃないですか。だから、あんまり顔に寄るんじゃないだろうなとは思っていて。今回は主人公の鉄彦(神木隆之介)と結(門脇麦)が、おのおのの環境のなかで、いつのまにか変化していく様子をワンカットで見せることができないかなっていうのがあったんですよね。最後のクライマックスにしてもそうですけど、部屋に入ってきたときと出ていくときで、人生が変わってしまうという状況を時間的な継続のなかで見せたかった。

『太陽』 ©2015「太陽」製作委員会
『太陽』 ©2015「太陽」製作委員会

―そうやって状況そのものを見せる感じも、ある意味演劇的なのかなって思いましたが。

入江:いや、お芝居はむしろ、クロースアップがあるんじゃないですか?

前川:ありますね。視線の誘導というか、そのための演出というか、今ここを見てくださいっていう誘導は、すごくするので。

入江:それって、演出できるものなんですか?

前川:別にスポットライトで抜かなくても(笑)、俳優の動きとか位置取りとかで、ある程度できますね。だからむしろ、入江さんが『太陽』でやってる長回しというのは、ここを見ろと主張するのではなく、覚めた視点で事実を映し続けるというような、無慈悲さを感じました。あのクライマックスシーンを演劇でやったら、結構なスペクタクルになるし、そこに自然とお客さんの気持ちが入っていくんですよね。だけど、映画の場合だと、見てる側としてはもうどうしようもできない感じというか、ものすごい無力感に襲われる。その違いが面白かったです。

左:入江悠

入江:わかります。映画は演劇より、もう一個遠くのイメージなんですよね。

前川:そう、遠いんです。演劇だと、そこに居合わせる「体験」になるんですけど、それとはまたちょっと違う。

入江:あのクライマックスシーンも、近藤さんの力が相当大きいと思います。運命の歯車が動き出したら、もう周りが何を言っても止まらない感じが、より強くなっているというか。そこは僕もまだ不思議なんですけど、カメラを通すとなぜかそういう感じになるんですよね。

面白いと思って作っているのに、なぜ面白いのかはよくわからない。その感覚って、実は『SR サイタマノラッパー』以来なんです。(入江)

前川:はじめに監督が言った、日本映画でできることとできないこと――それはネガティブな意味ではなく、自分たちができることをちゃんとやって、その結果全然見たことがないものが作れるってことだと思うんですね。「キュリオ」が暮らす村の風景にしても、今の日本ではない別のどこかであるような。もちろん、どこで撮ったかは知っているんですけど(笑)、まるで違った世界のように見えるじゃないですか。

『太陽』 ©2015「太陽」製作委員会
『太陽』 ©2015「太陽」製作委員会

―確かに、日本のどこかのようでいて、どこでもない風景になっていますよね。

前川:あとはやっぱり、自然描写ですよね。僕、監督に言われて「なるほど」って思ったんですけど、「キュリオ」の村には、まったく音楽が流れていないんですよね。だけど、自然の音は溢れている。それは演劇にはまったくない要素だったので、ちょっと驚きました。

前川知大

入江:そもそも『太陽』っていうタイトルが、強烈なものとしてあるじゃないですか。『太陽』と言っているからには、何とかして太陽を表現しなきゃいけないと考えていたんですけど、やっぱり太陽っていうのは、カメラを向けても、なかなか映らないわけです。

前川:それ、面白いですね(笑)。太陽は撮ろうとしても撮れないっていう。

入江:そうなんです(笑)。だから、自然のなかにあるススキのざわめきや鳥の声、そういう自然音によって、頭上にある太陽を感じせることを意識して。神木くんとか門脇さんの顔に泥がついているのも、そういう演出の一つなんですよね。太陽の力によって、泥がだんだん乾いていく過程を見せられたらいいなっていう。

『太陽』 ©2015「太陽」製作委員会
『太陽』 ©2015「太陽」製作委員会

―なるほど。あと本作を見ていて思ったのは、非常にSF的な作品でありながら、難解さみたいなものがほとんどないということでした。

入江:そうですね。でも、それって前川さんがやられている一連の舞台もそうですよね。もちろん、現象的なところである種の飛躍はありますけど、決して難解ではないという。それって何かやっぱり、ご自分でラインを決めているんですか? これ以上いくとヤバくなるみたいな。

前川:あります、あります(笑)。これ以上やったら、絶対お客さん、置いていくなっていうラインが。昔は、「うすうす気づいてはいたが、面白がっているのは俺だけだ」みたいなことが、やっぱりあって。若いときは「それがいいんだよ」みたいな感じがあったけど、それは違うなってだんだん思うようになって。わかりにくいところは、ちゃんと伝わるようにしないとダメというか、伝わってないことの不毛さって、やっぱりあると思うんですよね。

左から:入江悠、前川知大

―結果的に、冒頭で入江監督が言ったように、これまでの日本映画であまりなかったような、シリアスなSF作品でありながらも、伝わるものになっていますよね。

入江:そうですね。日本映画ではあまり見ないタイプの映画になったのは間違いないと思います。あと、この映画が自分にとって、すごく大事な作品になったと思うのは、『太陽』っていう原作の何を自分が面白いと思っているのか、いまだに言語化できないところなんですよね。つまり、それだけ深くて普遍的なことが詰まっていて、作ったあとも多分いろんなお客さんからの反応や感想を聞いて、自分が発見することもあるんだろうなっていう。そういう意味で、すごく開かれた作品だと思うんです。「あ、そういう見方もできるのか」とか「こういうことを考えたのか」っていうのを、これから僕が受け取っていって、それによって自分のなかで少しずつ完成していくというか。そういう感覚って、実は『SR サイタマノラッパー』以来なんですよね。

―ほほう。

入江:面白いと思って作っているのは間違いないんだけど、なぜ面白いと思っているのかは、よくわからない。あとは、お客さんに任せてしまえっていう(笑)。その感覚って、ホント10年ぶりぐらいだったんですよね。だから、この映画は、僕にとっても、何か転機となるような作品になったんじゃないかと思います。

作品情報
『太陽』

2016年4月23日(土)から角川シネマほか全国公開
監督:入江悠
脚本:入江悠、前川知大
原作:前川知大『太陽』
出演:
神木隆之介
門脇麦
古川雄輝
綾田俊樹
水田航生
高橋和也
森口瑤子
村上淳
中村優子
鶴見辰吾
古舘寛治
配給:KADOKAWA

プロフィール
入江悠
入江悠 (いりえ ゆう)

1979年生まれ。神奈川県出身、埼玉育ち。日本大学藝術学部映画学科在学中から映画祭で注目を集める。短編映画がゆうばり国際ファンタスティック映画祭オフシアター・コンペティション部門に2年連続入選し、2006年に初の長編映画『JAPONICA VIRUS』が全国劇場公開。埼玉でくすぶるヒップホップグループの青春をリアルに描いた『SR サイタマノラッパー』は、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2009オフシアター・コンペティション部門グランプリをはじめ数多くの賞を受賞。その後、『SR サイタマノラッパー』は続編が2作制作された。2010年に第50回日本映画監督協会新人賞を受賞。2011年には『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』で高崎映画祭若手監督グランプリを受賞。オリジナル作品から大作まで手掛ける、日本映画界に欠かせない若手監督の一人。

前川知大 (まえかわ ともひろ)

劇作家・演出家。1974年生まれ。2003年に結成した、劇団イキウメを拠点に、脚本と演出を手がける。イキウメは、「日常に潜んでいる不思議なこと、その理屈や答えを舞台ででっち上げてみよう」、という会。SFやホラー、オカルトなど、市民生活の裏側にある異界を、超常的な世界観で描く演劇作品を作っている。読売演劇大賞、芸術選奨新人賞、紀伊國屋演劇賞など国内の演劇賞を多数受賞している。映画の脚本を手がけるのは今回が初。舞台「太陽」の脚本は第63回読売文学賞 戯曲・シナリオ賞を受賞。脚本とは別に小説「太陽」を執筆、2016年2月KADOKAWA刊。

フィードバック 0

新たな発見や感動を得ることはできましたか?

  • HOME
  • Movie/Drama
  • メジャー映画の限界を知り転機をつかんだ入江悠が前川知大と語る

Special Feature

Habitable World──これからの「文化的な生活」

気候変動や環境破壊の進行によって、人間の暮らしや生態系が脅威に晒されているなか、これからの「文化的な生活」のあり方とはどういうものなのだろうか?
すでに行動している人々に学びながら、これからの暮らしを考える。

記事一覧へ

JOB

これからの企業を彩る9つのバッヂ認証システム

グリーンカンパニー

グリーンカンパニーについて
グリーンカンパニーについて